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BUGTI

小牧長久手、関ヶ原の合戦に巻き込まれた城 (2019/01/12 訪問)

いくたびかの戦乱により廃城となり、今や場所もはっきりしていない。小牧・長久手や関ヶ原といった大きな戦いで攻められた城だが、今は静かな住宅地となり、お城地蔵が街を見守っていました。

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BUGTI

旗本徳山氏の陣屋跡 (2019/01/12 訪問)

旗本の陣屋跡でこれだけの公園として残ったことがうれしい。位置は違うが門を復元したり、建物配置を示したりしてあるので、歴史価値を感じることができます。

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BUGTI

いまだに発見がある信長の城 (2019/01/12 訪問)

久しぶりに登城しました。ロープウェイで登れるのでお手軽です。樹木が切り払われて、石垣が良く見えるようになっている今がお勧めです。麓の信長館も含め、まだまだ発掘や整備が進められているので、これからも楽しみです。

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チェブ

戦国バーベキュー? (2019/01/19 訪問)

午後2時頃から「津久井城」城攻めを開始しました。
秀吉さんの北条家征伐の時、本多 忠勝公達に攻められ落城です。
現在、津久井城=城山は県立公園になっています。
津久井湖観光センターに車を止めて出陣できます。
ただ、ガーデンテラスがありバーベキューもできるみたいなので、駐車場は季節により混むかもしれませんね。
下から津久井城の山を見れば、かなり登るのは分かっていました。
私にとっては険しい城攻めでした。
荒川登山道からひたすら飯綱曲輪までは横道もなく遺構も分かりません。途中、宝ヶ池があります。この辺りから曲輪等々が確認できます。
戻って来て公園マップを見つけました。
観光センターから私が通った荒川登山道は「ちょっと険しいコース」でした。「らくらくコース」の登り口もあります。
さっき、ぴぽぽさんの投稿にお城Expoとありました。我が家にもパンフレットありました!下調べしてから城攻めしたら、もっと楽しめたのに!
ぴぽぽさん、同じ日に「津久井城」攻めしていたんですね!私は男坂方面、くさり場で白旗をあげて行けませんでしたよー。

ちなみに観光センターの看板に戦国バーベキューとありました。
戦国バーベキュー?
どんなバーベキューでしょうか?

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夏の雪だるま

境目の城 (2017/10/01 訪問)

福島県須賀川市の長沼城です。南北朝時代長沼氏が築城したと伝えられます。戦国時代須賀川二階堂氏の支城として城代須賀氏が置かれていましたが、1566年会津蘆名氏の侵攻を受け、長沼城は蘆名氏に奪われ、二階堂氏は蘆名氏に降伏、長男盛隆を人質に差し出したとされ、長沼城は蘆名氏家臣新国貞道が入城。その後も長沼城は、境目の城としてたびたび伊達・佐竹氏などの攻撃を受けています。1589年蘆名氏が伊達政宗に敗れ滅亡した後、新国氏は伊達氏に仕えています。その後1590年豊臣秀吉の命により奥州に国替となった蒲生氏郷の支配下に移り、蒲生郷安が入城。この時、奥州仕置きのため奥州入りした豊臣秀吉が長沼城に宿営しています。1598年会津が上杉景勝の領地となると、信濃国の長沼城より島津忠直が入城。1600年関ヶ原の戦いでは長沼城が会津と白河を結ぶ白河城後方の重要な位置にあったことから上杉氏による改修が行われたとされます。関ヶ原の戦いの後1601年蒲生秀行の領地となり、蒲生郷治、玉井数馬介が城主となるも、1615年一国一城令により廃城となっています。城は、会津と福島中通を結ぶ交通の要衝にあり、長沼町の長沼小学校北側の南北二つの丘陵を利用し、頂上に本丸、西側の一段低い場所に二の丸、本丸と二の丸を取り囲む帯曲輪の東西に、一段低い三の丸が配置され、東西300m南北200mの規模とされ、ほとんどが土塁で作られていますが、本丸北西に石垣上に三重の櫓が建てられていたとされます。遺構としては、本丸跡の稲荷神社社殿裏手に石垣の一部や土塁などが残ります。現在、城跡は本丸跡、東三の丸跡が公園となり、長沼小学校北側に駐車場があり、城説明板のところに案内図などが入った箱があります。

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夏の雪だるま

女城主の城 (2017/10/01 訪問)

福島県須賀川市の須賀川城です。1399年鎌倉公方足利満兼が奥羽支配のため遣わした足利満貞の配下であった二階堂行続が築城したとされます。戦国時代に入ると二階堂氏は会津蘆名氏と戦うも圧力に屈し長男盛隆を人質に差し出し、のちに蘆名氏当主が亡くなると盛隆が蘆名氏当主となっています。1581年城主の二階堂盛義が死去すると、盛義未亡人で伊達政宗叔母の大乗院が城主となり、城代須田盛秀が実務を代行。1589年蘆名氏が伊達政宗に摺上原の戦いで敗れ滅亡すると、二階堂家では、佐竹氏との同盟を進める城代須田盛秀と伊達氏との連携を主張する保土原行藤が対立する中、伊達氏が降伏を迫ったことに家臣・領民が怒り松明をともして集まり抗戦の意思を示したため城主大乗院は伊達氏への降伏を拒否。 1589年政宗が須賀川城西方の山王山城に万余の軍勢を率い対陣すると、城内の守谷氏が伊達政宗に内応、城へ火を放ったため須賀川・佐竹氏の兵2600の守る須賀川城は落城。その後、戦で亡くなった人々の霊を弔うため日本三大火祭りの一つ「須賀川松明あかし」が行われるようになったと伝えられます。城主の大乗院は佐竹家へ落ち延び、伊達政宗の一族石川昭光が入城。 しかし、1590年豊臣秀吉の奥州仕置によって会津とともに須賀川近辺は蒲生氏郷領となり、その後、1598年上杉領、1601年蒲生領、1627年加藤領となった後、廃城となっています。城は、釈迦堂川の氾濫原を見下ろす約20mの台地上に中央に本丸、東に二の丸、北に三の丸があり、これらの周囲を水濠が囲み、南の大手に家臣居住区、西には長禄寺や諏訪明神などの寺社を配置、北は職人や奉公人の町並、南東には守備のため有力武将の館を配置したとされます。現在城跡は、須賀川市役所北側に位置し、市街化のため遺構はほとんど残っておらず、本丸跡に二階堂神社、神炊館神社に外濠跡、長松院に土塁と空堀跡が僅かに残る程度です。市立博物館に城関係の展示がされています。

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夏の雪だるま

戊辰戦争炎上城 (2016/08/20 訪問)

福島県棚倉町の棚倉城です。豊臣秀吉から鎮西一の剛勇と評された初代藩主立花宗茂氏に替わり1622年5万石で入封した丹羽長重がこの地にあった山城の赤館に入城したもの、不便なため、幕府に新城を築くことを願い出て、1625年築城をはじめ1627年棚倉城を完成させています。城は久慈川左岸に築かれ本丸の周囲に二の丸、その北側に三の丸を配し、それぞれを水堀で囲んだ平城で、東西300m南北400mの規模とされます。丹羽氏は1627年白河に転封となり、その後も藩主が次々と替わり、1866年阿部氏が最後の藩主となり幕末を迎えています。戊辰戦争では奥羽列藩同盟に加担し、1868年6月24日各地へ出兵し手薄となった棚倉城へ新政府軍の板垣退助率いる880名が攻撃を行い1日で炎上落城しています。城は現在本丸が亀ケ城公園として土塁や水堀が残り、二の丸、三の丸は市街地化され遺構は残っていません。亀ケ城の由来は濠に大亀が棲み姿を見せると藩主が転封になるという言い伝えによります。城の北1kmには六代藩主太田氏が創建した長久寺に寄進し移築された丹羽氏築城時の城門が残っています。また、城近くに川越市の時の鐘を模した時の鐘ポケットパークが建てられ、歴代領主の説明板があります。

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夏の雪だるま

震災復興城 (2015/11/01 訪問)

みちのくの玄関口にあたる福島県白河市の百名城の一つ小峰城です。奥州藤原氏を滅ぼした源頼朝が、この地を結城氏に与え1340年城を築いたと言われています。以来戦国期までこの地方を領していましたが、豊臣秀吉により領地没収、蒲生、上杉などの領地となったあと、1627年丹羽氏が10万石でこの地に封じられ、本丸、二の丸、三の丸を配した城に大々的に改修、城下町も整備したとされます。その後、丹羽氏は二本松に移され、譜代大名が相次いで当地に封じられています。1867年最後の領主の阿部氏が棚倉へ移封されたのちは、幕領となり、城は二本松藩丹羽氏の管理となっています。戊辰戦争では、奥羽列藩同盟軍2500名が守備する小峰城を新政府軍700名が攻撃、新政府軍は兵力は劣るものの圧倒的な火力と巧みな戦術により5時間余りの激闘の末落城させています。城は石垣などを残すだけでしたが、平成3年に本丸の三重櫓が、平成6年に前御門が史料に基づいて復元されています。平成23年に発生した東日本大震災により石垣が崩壊、本丸への立ち入り禁止となり、修復工事が行われ平成27年春から入城可能となりましたが、完全修復は数年かかる予定です。
小峰城は、阿武隈川と谷津田川に挟まれた小峰ケ丘の丘陵に築かれ、本丸、帯曲輪、竹の丸、二の丸、三の丸を配し、二の丸まで全域にわたって石垣で形成される東北地方では珍しい総石垣造りの城で、盛岡城、若松城と共に東北三名城の一つに数えられています。

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しろえ

【冬とお城】駅前の城跡 (2019/01/04 訪問)

本日2城め。

JR松任駅からすぐ近くで、本丸跡が公園として、二の丸跡は文化会館、三の丸跡は願念寺になっている。
そして城の東西南北の隅と、大手門跡にそれぞれ石碑が建っているそうです。

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夏の雪だるま

戊辰戦争激戦の城 (2015/11/01 訪問)

福島県会津若松市の百名城の一つ若松城(鶴ケ城)です。若松城は、会津若松市街地南側にあり湯川右岸台地西端に本丸、東側に二の丸、三の丸、台地下に北出丸、西出丸を配し東西1.8㎞南北1.3㎞の規模を有していました。明治7年に天守閣を始めすべての建物が取り壊されましたが、昭和41年に現在の天守閣を再建、また黒鉄門なども復元され、鶴ケ城公園として整備されています。会津を領した佐原氏が、故郷の相模国三浦郡芦名に因み芦名氏を称し、この地に1384年7代直盛のとき築城し黒川城と称したのが始まりです。1589年伊達政宗に摺上原の合戦で芦名氏は敗れ、伊達政宗の城となりますが、小田原北条氏を平定した豊臣秀吉が、政宗から会津を召し上げ蒲生氏郷に与え、1592年蒲生氏が近世城郭に改造、名も蒲生氏の出身地にある「若松の杜」に由来する若松城と命名。1593年7層の天守閣が完成、鶴ケ城に改名したと言われています。氏郷の子秀行の時、御家騒動のため転封になると、上杉景勝が120万石で会津に入国。しかし、1600年関ヶ原の戦いで徳川家康に敵対したため米沢に移されます。その後蒲生氏秀行、そして加藤嘉明が入城。加藤氏は7層だった天守を5層に改築。その加藤氏も改易となり、1643年保科正之が23万石で会津に入っています。正之は二代将軍秀忠の四男で保科家の養子となっていたもので、三代正容のとき松平氏を称しています。幕末、会津藩松平氏は京都守護職となり新撰組を配下に討幕派の薩長浪士を取り締まったことから、明治維新で新政府から征討対象とされたため、会津藩は、国境の会津へ入る母成峠・中山峠・勢至堂峠・日光口の内、主要街道であった中山峠に主力を置き守備。しかし新政府軍は手薄な母成峠を主力部隊で攻めわずか一日で峠を突破、会津藩は予備隊の少年兵である白虎隊まで前線に投入しましたが戦線を突破され、新政府軍に会津若松城下への突入をゆるし城下は炎上。これを見た白虎隊生き残りは落城したと思い飯盛山で自刃したと言われています。会津藩は3万の新政府軍に囲まれ若松城に前線から撤退した藩兵3千と婦女子2千で1ケ月籠城したものの、力尽き降伏開城しています。

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夏の雪だるま

市街地の城 (2016/08/19 訪問)

福島県いわき市の磐城平城です。いわき市はフラガールでも有名ですが、震災により多くの建物が被害を受けたほか、原発事故発生により一時市民の半分が避難したとされますが、放射能の影響が低いことが分かり原発周辺の避難民などが定住し現在は復興し人口が増えたと言われます。1602年徳川重臣鳥居氏がこの地に10万石で入封し前領主岩城氏の大舘城に入城しましたが、1603年新城の築城を開始、十数年の年月をかけ1614年完成させ磐城平城と命名してます。北側の沢を堀にするため丹後という老人を人柱とし完成させたため、この堀を丹後沢と呼ぶようになったと言われます。1622年鳥居氏が山形20万石へ転封すると内藤氏が7万石で入封、1747年には井上氏6万石、1756年安藤氏が5万石で入封し明治維新を迎えています。戊辰戦争では東北諸藩と奥羽列藩同盟に参加、7月13日に新政府軍の攻撃を受けその日のうちに敗れ、城は炎上しています。城は、いわき駅北側の物見岡と呼ばれる丘陵に本丸を中心に北東に二の丸、北西に三の丸、西側に大手曲輪、大手外曲輪、杉平曲輪を配し周囲を水堀が囲み東西500m南北800mの規模とされます。現在城跡は、市街地に呑み込まれ本丸を含め私有地となっており遺構はほとんど消滅、本丸北側に一部石垣と堀が残るのみです。本丸は私有地のため普段は開放していませんが、月に数日はイベントで中に入ることができるようです。城周辺に駐車場はありませんので、いわき駅駐車場へ駐車し駅の南北通路で駅北側へ渡ると、正面に見える丘が磐城平城址です。

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夏の雪だるま

相馬野馬追 (2016/08/19 訪問)

福島県相馬市の相馬野馬追でも有名な中村城です。中村の地は800年頃坂上田村麻呂が菅原実敬に館を築かせたのが始まりとされます。のちに1300年代から1543年まで中村氏の館が置かれますが、1563年相馬氏が支配下におさめ中村館に城代をおいたとされます。江戸時代に入り1611年中村館に新城を築き、それまでの小高城から移り相馬氏6万石の居城として明治維新まで続いています。城は宇多川左岸の丘陵に本丸を中心に二の丸、三の丸、岡田館など複数の郭を配し、周囲に水堀を廻らし東西600m南北650mの規模とされます。当初は本丸西南隅に天守閣がありましたが、1670年落雷により炎上。時の藩主は領民に負担をかけないため再建をゆるさず、その後も相馬藩はその方針を堅持し明治を迎えています。戊辰戦争では大藩である仙台藩に従い奥羽列藩同盟に参加したものの本意では無く、駐留していた仙台藩兵の撤退にあわせ政府軍に降伏、城下は戦火から免れましたが、城内の建物は新政府軍により取り壊され、唯一大手一の門が遺構として残っています。

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夏の雪だるま

愛姫生誕の城 (2016/08/19 訪問)

福島県三春町の三春城です。この地方を領した田村氏が郡山の守山城から1504三春に本拠を移し築城したとされます。田村氏の領地がある仙道地方は、会津芦名氏や米沢伊達氏、常陸佐竹氏など周辺大名の争奪の場となり、力の劣る田村氏はそれら大名と婚姻関係を結ぶなどして領地を守っています。1568年の芦名氏侵攻に対しては伊達氏と結び対抗、1573年の佐竹氏侵攻に対しては芦名氏と結び撃退。しかし、芦名氏と佐竹氏が同盟を結び周辺豪族の二本松氏などもこれに従い、田村氏と婚姻関係のあった相馬氏も、敵対関係にあった伊達政宗へ田村氏が娘を嫁がせ同盟を結んだことから、佐竹氏と連合を結び、伊達・田村氏とその他大名連合の戦いは1585年人取橋で勃発、兵力で劣る伊達・田村氏が劣勢を跳ね返し勝利しています。1586年田村氏当主清顕が死去、男子がなかったため田村氏家臣団は伊達派と相馬派に分裂。相馬氏は三春城へ入城しようとしますが、伊達派が阻止。その後、伊達政宗が三春城へ入城し相馬派を一掃、清顕の甥の宗顕を城主にしています。しかし、小田原征伐へ田村氏は参陣しなかったため改易となり、その後領主が数々替わり1645年秋田氏(戦国時代に秋田県中央部から県北を領した安東氏)が5万5千石で入封し明治維新まで続いています。戊辰戦争では秋田藩は奥羽列藩同盟に近隣諸藩と加盟しますが新政府軍の奥羽攻撃が始まるといち早く新政府軍に降伏、城下が焦土となることを救っています。城は三春町の中心部の標高407mの大志多山に築かれた山城で本丸、二の丸、三の丸を配し、麓に家臣屋敷が配置され、城には天守の代わりに三層三階櫓があったとされます。現在城跡は三春小学校裏手に城山公園として整備され桜の名所となっています。

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夏の雪だるま

二本松少年隊戦いの城 (2015/11/01 訪問)

福島県二本松市の百名城の一つ二本松城です。二本松城は市街地の北、標高345mの山頂に築かれた本丸と山麓に城主の石垣造りの城館を置き、中腹には家臣の屋敷を配した戦国期の城郭に近い城造りとなっています。いつも山麓には霧がたなびくため霧ケ城とも呼ばれていました。山頂へ登ると本丸も立派な石垣造りとなっており、感動ものです。二本松城は1441年にこの地を領した畠山氏により築城されたと言われています。戦国期二本松領は、伊達・芦名の2大勢力の間にあり、当初は芦名氏に従っていましたが、伊達氏の南下が激しくなると伊達氏に従っています。伊達政宗が伊達氏当主になると、二本松領に近い小浜城大内定綱が伊達氏に従うふりをしながら離反。このため、伊達政宗は大内討伐の軍を起こし、これに対して畠山氏当主義継は芦名氏と共に大内氏に味方。しかし、小浜城は落城し二本松城に伊達軍が迫ったため1585年畠山氏は伊達氏に降伏することになりました。伊達側からの降伏の条件は、領地を大幅に没収という過酷な処分であったため、義継は降伏を許してくれたお礼と称し伊達政宗の父輝宗に参上し、突然輝宗を人質にとり逃走。これを知った政宗は逃走を阻止するため父と義継達に向かって鉄砲を撃たせたため、義継と共に父輝宗も亡くなっています。この時政宗19歳。政宗はすぐに二本松城攻めを開始しますが、佐竹氏の援軍もあり二本松城は伊達軍を撃退。しかし、翌年には城内から内通者が出て二本松城は落城してしまいす。その後、二本松城は伊達領となりますが、豊臣秀吉により蒲生領、上杉領とされ、その後、徳川時代には藩主が変遷したのち、1643年丹羽氏が城主となり明治維新まで続いています。明治維新の戊辰戦争では奥羽列藩同盟に参加しますが、白河へ多数の藩兵が出兵した隙をつかれ、新政府軍に手薄になった二本松城を攻められ、1日で落城しています。この際、兵力を補うために動員された二本松少年隊が奮戦したと伝えられています。麓の三の丸駐車場から山頂の本丸まで徒歩で登りましたが、本丸近くまで車でも登れます。

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夏の雪だるま

伊達成実の城 (2016/08/19 訪問)

福島県福島市の大森城です。いつ頃築城されたか定かではありませんが、1548年伊達第14代稙宗の三男実元が大森城主となり、1568年嫡子成実が生まれています。のちに武の成実と呼ばれた伊達政宗の片腕となる武将です。大森城は仙道・相馬地方への侵攻の拠点として重要視され伊達軍がここから出陣しています。大森城主となった成実は仙道攻略の功績により二本松城主となり、大森城には1586年片倉景綱が置かれています。智の景綱と呼ばれた成実と並び伊達家双璧です。その後伊達氏の会津攻略により南陸奥は伊達氏の領国となりますが、豊臣秀吉の奥州仕置により会津は蒲生氏の領地となり1591年大森城には蒲生氏家臣の木村氏が入城しています。1593年木村氏は杉目城へ居城を移し大森城は廃城となりました。1598年上杉氏が会津を領すると大森城に家臣栗田氏を城代として入れています。しかし1600年関ヶ原の戦いでは栗田氏は徳川氏に内応したため上杉氏に討たれ、代わって芋川氏が城代となっています。1664年上杉藩主綱勝が急死、跡継ぎ問題から上杉藩は領地半減となり大森地方は幕府領となったため廃城となっています。城はJR福島駅から南西4kmに位置し、米沢街道と会津街道が分岐する交通の要衝である標高147mの独立丘陵に築かれた山城で、本丸、北側に二の丸、南側に出丸を配し東西150m南北350mの南北に細長い城となっています。城は現在大森城山公園となり遺構はほとんど残っておらず本丸南側の空堀が残るのみで、本丸跡に城址碑、二の丸跡北端に模擬櫓があり、内部に城鳥瞰図と城説明板があります。

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夏の雪だるま

相馬氏の城 (2016/08/19 訪問)

福島県南相馬市の相馬野馬追の祭礼三妙見社の一つ小高神社がある小高城です。南相馬市の小高地区は2016年7月に避難解除になったばかりで、大型スーパーは閉鎖されており、複数の場所で道路沿いの除染作業で片側通行となっていました。住民の方々の苦労が慮られます。奥州征伐の功によりこの地方を与えられた相馬氏は、1323年内陸の太田城に入りましたが、1326年小高城を築き居城としました。南北朝時代には北朝方についたため奥州軍を率いた南朝方の北畠氏に攻められ、小高城は落城。しかし、一族の奮戦で奪還しています。戦国時代に入ると相馬氏は勢力を拡大し北方の伊達氏と合戦を繰り返し、伊達氏の金山城や丸森城を攻略。しかし、1583年から伊達氏の反攻により金山城・丸森城を奪還され、次第に小高城へ迫ります。このため相馬氏は城を枕に討死を覚悟しますが、1590年小田原北条氏を降伏させた豊臣秀吉が停戦を命令、滅亡を免れています。その後、徳川幕府より本領安堵された相馬氏は1611年中村城を築き、移ったため廃城となっています。城は小高川の左岸丘陵に築かれた平山城で、本丸、馬場郭、北二の丸、南二の丸からなり東西200m南北120m程の小規模な造りとなっています。現在城は、本丸跡に小高妙見社があり小高神社となっています。

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夏の雪だるま

南会津の城 (2016/06/19 訪問)

福島県南会津町の鴫山城です。源頼朝の奥州攻めの功によりこの地を与えられた長沼氏が1399年頃築いたとされます。長沼氏は南の宇都宮氏と勢力争いをするとともに、北の会津芦名氏とも衝突を繰り返しますが、1566年の芦名氏との合戦に敗れて以降は芦名氏に従っています。会津芦名氏最後の当主義広の時、長沼氏は伊達氏から養子を迎えようとしたため、伊達氏と敵対していた芦名氏は鴫山城を大軍で襲い養子縁組をあきらめさせたとされます。これに反発した長沼氏は1589年芦名氏と伊達氏の摺上原の合戦には参陣はしたものの合戦が始まる前に引き上げ、合戦に勝った伊達氏に服属の使者を送り本領安堵されています。その後、長沼氏は伊達氏に抵抗する久川城河原田氏と交戦し、1590年長沼氏当主盛秀は討死してます。その後、鴫山城は会津を領した蒲生・上杉氏などの家臣が城主となりますが、加藤氏が会津の領主になると1627年廃城となっています。そして1643年この地は幕府領となり現在の役場に陣屋が置かれこの地を支配したとされます。城は会津から関東へ抜ける日光街道の交通の要衝標高750mの愛宕山山頂から北斜面に築かれた山城で、山頂の詰の城と中腹の内城、大手門前の根小屋と呼ばれる家臣屋敷からなり東西300m南北700mと言われます。大手門部分は蒲生氏時代に石垣で造られ、現在石垣が復元整備されています。城は旧南会津郡役所からも登れますが、大手門に続く大鳥居前にも駐車スペースがあり、今回はそちらから大手門を通り詰の城の愛宕神社へ登り、東尾根の二重土塁を下り、横へ歩き上・下千畳から反対側の西外壁塁へ回り、大手門へ戻るコースで所要時間50分でした。

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夏の雪だるま

蘆名氏の要害城 (2017/04/30 訪問)

続百名城に選定された福島県会津美里町の向羽黒山城です。1561年葦名全盛時代を築いた盛氏により8年の歳月をかけ築かれたとされます。盛氏は会津北部の領内をまとめ上げると、周辺を戦いにより新潟東部から会津地方全域、福島中通り地方を勢力下に置き中興の祖と呼ばれます。城ができると盛氏は家督を唯一の男子盛興へ譲り向羽黒城へ隠居。しかし1574年盛興は世継ぎを残さず病死、二階堂氏からの人質であった盛隆を養子としますが、家臣に惨殺され、跡継ぎに問題を抱える中盛氏は1580年60歳で没します。その後、常陸佐竹義重の子義広を当主に迎えるものの、1589年伊達政宗の侵攻を受け摺上原の合戦に敗れ会津支配に終止符が打たれます。城は黒川(会津若松)城から南西6㎞の標高408mの山頂に一曲輪を置き、周辺に二曲輪、三曲輪の他複数の曲輪を配し、東西1.4㎞南北1.5㎞の東北随一の規模とされます。城は西の越後方面や南の下野方面からの攻撃から守るための戦略上の詰めの城とされ、山城の周辺に城下町が置かれたとされます。葦名氏が去ったあとも、伊達・蒲生・上杉氏が改修を繰り返し会津地方を守る重要な城として整備されたと言われます。しかし、1601年関ヶ原の戦い後、廃城となっています。城麓の会津美里町インフォメーションセンターに無料パンフレットが置いてあります。

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夏の雪だるま

蘆名氏滅亡の発端の城 (2016/07/16 訪問)

福島県猪苗代町の猪苗代城です。いつ頃築城されたかは定かではありませんが、芦名氏一族がこの地を与えられ猪苗代氏を称し、この城を築いたとされます。猪苗代氏は宗家芦名氏とたびたび争い、やがて芦名氏に従ったものの、伊達氏の勢力が強くなると伊達氏に帰順。これを怒った芦名義広は1589年1万6千の兵を率い猪苗代城へ迫り、これを聞き伊達政宗も2万三千の兵を率いて、両軍は摺上原で激突。当初西風により風下の伊達軍は苦戦していましたが、東風に変わると形勢は逆転。芦名方は総崩れとなり、芦名義広は黒川城へ撤退。伊達軍が迫るや佐竹氏を頼って落ち延びたとされます。伊達氏が会津を離れると猪苗代氏も従い、会津を領した蒲生氏が猪苗代城を近世城郭に改修したとされます。その後、領主は次々と替わり1643年会津に保科氏が入封すると城代が置かれ、若松城が鶴ケ城と呼ばれたことから亀ケ城と呼ばれたとされます。戊辰戦争では新政府軍が国境を突破すると時の城代高橋氏は城を焼き払い若松城へ撤退。これにより廃城となっています。現在は亀ケ城公園として整備され、石垣や土塁などが残り往時を偲ばせます。城は猪苗代湖北岸の磐梯山麓の半独立丘陵に築かれた平山城で頂部に本丸、二の丸、周囲に帯郭を配し土塁で囲まれ東西200m南北250mの規模となっており、大手口は石垣で固められた桝形虎口となっています。猪苗代城から北西に続く丘陵には猪苗代氏の隠居城と言われる鶴峰城があり、近世城郭へ改修されなかったため中世城郭の面影が残っています。

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しろえ

【冬とお城】木曾義仲が居城したと伝えられている城 (2019/01/19 訪問)

本日3城め。
頂上までの直進コース(約300m)が約10分ということで、こちらを登ることにしました。
石川の冬にしては珍しく風の無い穏やかな晴れの日。
ただ、地面は前日までの雨で濡れているところもあり、所々滑りやすく気をつけて歩いた。
ちなみに周回コースは1Kmあります。

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