ふくしまじょう

福島城

新潟県上越市


旧国名 : 越後

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城址碑
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しんちゃん

今も昔もせわしなく。本丸はどうなったかな。 (2021/05/01 訪問)

福島城は上杉景勝会津移封後にこの地に入った堀秀治によって築かれたとされています。上越市立古城小学校のあたりが本丸と見られ、石碑と案内板がありました。古城図を参考にすれば周囲に堀が配され、その周囲を二の丸が囲み家臣の屋敷があったようです。さらにその周囲を堀が囲い、三の丸と見られる広大な空間にも家臣の屋敷が配されていたようです。いつの時代の物かは不明ですが三の丸の南西にあたる場所が陣屋跡になっています。かつては西を関川が流れ、南を堀、東を保倉川が流れ城の守りとしていたようです。堀氏が改易された後、徳川家康の六男、松平忠輝が入りますが忠輝が高田城を築いて移ると廃城となったようです。かつて城の東側を流れていた保倉川は今では城跡の南側を流れていて、古城小学校も2022年3月で閉校になったようです。すぐ近くに資料館もあったのですが、今ではどうなってしまったやら。時代の流れを感じます。

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古城小学校 (2023/11/02 訪問)

 堀氏によって築かれた城ですが、堀氏の改易に伴い短命に終わっています。後にここを治めた松平忠輝は高田城を築き福島城は廃城となります。毎年、梅雨の時期に関川・保倉川が氾濫して水害を被ったからともされています。別の理由として海岸横にあり波の音がうるさくて寝られないからと伝わっています。
古城小学校(廃校となっています)付近にあったとされますが、遺構はありません。城址碑と説明板がありました。

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AJ

そこに愛はあったのか (2021/09/30 訪問)

一気に春日山城を攻めたい気持ちを堪えて途中下車。直江津。ご存知のとおり、越後の地は200年間上杉家のものでした。住民の殿様への愛着も相当で、その推しぶりは、逆説的ですが、秀吉が上杉景勝を会津に移した後に造られた城の縄張にも滲み出ているのだから興味深いものがあります。

後任として春日山に入った秀吉の功臣堀氏は1607年、日本海を背負った平野部に福島城(福嶋の表記も)を築きます。鉄砲使用で山城の機能が失われたことに加え、時代はすでにポスト関ヶ原。戦乱の世でなければ、山に拠り続ける必要もなく、国政の中心としての適地に大規模な平城をつくるのはある種の流行でした。ところがこの福島城、海だけでなく川も巧みに利用したガチの水城。天然の要害という点では山城となんら変わりありません。一体何をそんなに警戒したのでしょうか。

堀家の越後支配は難渋したようです。住民からすれば、上杉以外の藩主は全てよそ者。要は気に入らないのです。ことあるごとに一揆が起き、城下町経営どころか、領民との交流もままならないーー。わずかな遺構や縄張図からはそんな地域の歴史が読み解けます。結局、7年で廃城となりました。一方、旧領復帰を目論む上杉が裏から一揆をそそのかしたという疑惑が晴れません。謙信公以来の「義」とは相容れない気もしますが、これも直江兼続の地元「愛」だと言われれば、まあそうなのかもしれません。
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余談ですが堀氏はその後、お家騒動で領地召上げ。同家を断絶しようと考えていた家康にとっては渡りに船で、これを機に自身の六男、「鬼っ子」松平忠輝(伊達政宗の娘婿)を投入。越後を一族で固め、加賀の前田、出羽の上杉を牽制するという北陸方面の警戒態勢が一応の完成をみますが、後にこの選択が家康の“終活”にノイズをもたらすことになります。その話は別の機会に。

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橋吉

古城小学校 (2021/10/24 訪問)

現在、福島城跡には上越市立古城小学校が建っています。
所在地:新潟県上越市港町2丁目16-1
実は、前日、高田城三階櫓での解説を聞いて知ったのですが・・・。

城址の小学校名が「古城小学校」なんていい響きですね。

ところが、2022年4月に直江津小に編入統合されるそうです。
なんでも、児童数が少ないからだそうですが、上越市内で直江津港近くですが、そんなことあるのですね。

この学校、校門はありますが、門扉はありません。
そこで、日曜日の早朝と言うこともあり、ちょっくら足を踏み入れさせていただきました。

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城郭情報

分類・構造 平城
築城主 堀秀治
築城年 慶長12年(1607)
主な城主 堀氏、松平氏
廃城年 慶長19年(1614)
遺構 石垣
再建造物 石碑、説明板
住所 新潟県上越市港町2