詳細は不明ながら、南北朝初期に南朝方の重臣・北畠顕能により築かれたとされ、以降、多気北畠氏代々の本拠として繁栄しました。
戦国末期、織田信長の侵攻を受け、信長の子・信雄を養子とすることで和睦するも、北畠一族は三瀬御所で信雄に謀殺されて滅亡、北畠氏城館(霧山城)も廃城となったようです。
北畠神社の境内付近が居館跡で、発掘調査により中世居館では最古とされる石垣や礎石建物跡が発見されましたが、埋め戻されているため説明版でその様子を覗うことができるのみです。居館南部には往時の庭園が現存しています。庭園は紅葉の名所として知られ、この時季に訪れた目的のひとつでもありましたが、見ごろには少し遅かったようで、ほとんど散ってしまっていました。残念…。
庭園の裏側に回って坂道を登って行くと、詰城の帯曲輪に至ります。帯曲輪からは城下が一望でき、北東部の土壇北側には竪堀が見られます。帯曲輪の西側には詰城の主郭があり、周囲は高い切岸になっています。詰城から霧山城に向かう尾根筋は堀切と竪堀によって分断されています。
居館跡から八手俣川を渡って東に徒歩5分の六田館(東御所)跡は堀跡が水田として残っています。また、この地には信雄を婿養子として迎えた雪姫の悲劇の伝説が語り継がれており、六田館跡の南側には雪姫桜と雪姫大明神が祀られています。
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