明知陣屋は、一国一城令により明知城が廃城となったのに伴って、2代領主の遠山方景が大手門近くに構えた陣屋で、明知遠山氏が江戸定府になった後も、村上氏を代官として廃藩置県まで存続しました。
大手門跡の両脇に水堀が残るほか、陣屋跡には代官を務めた村上氏の屋敷と土蔵がありますが、住宅地となっているため、通り抜ける程度で散策は(写真撮影も)ちょっと憚られました。また、陣屋北部には馬場跡(現況は畑)が広がっています。
明知陣屋から北に徒歩4分の龍護寺は明知遠山氏の菩提寺で、累代の墓所があります。説明板によれば、方景の孫の分家筋には遠山の金さんで知られる北町奉行(後に大目付、南町奉行も)遠山景元がいたり、11代領主の遠山景高はペリー来航時に浦賀奉行を務めていたり、歴史に名を残すなかなかの名族ですね。
その龍護寺には明智光秀公御霊廟もありますが、光秀は土岐明智氏であるとすると、何故に明知遠山氏の菩提寺に霊廟が? と思いきや、霊廟近くの説明板の系譜によれば、初代領主の遠山利景の父・遠山景行と光秀の叔父・明智光安は同一人物とあり、その説に基づくとこの地が光秀生誕の地であり、若い頃を過ごしたゆかりの地ということになるようです。
実際、周辺にゆかりの地は多く、龍護寺の西隣の八王子神社には、光秀が柿本人麻呂を祀った社と社前に手植えしたと伝わる楓があります。なお、同社の唐門は明知城の城門を移築したものだそうです(写真を撮りそびれました…)。旧三宅家脇からの登城路沿いにある天神神社と学問所は、光秀が京都から学僧を招いて学問に精進したと伝わり、明知城の南東には非業の死を遂げた光秀の母・於牧の方の墓所があり、その名にちなんで樹齢400年超の高野槇と江戸中期建立の石塔が祀られています。
また、来年1月まで大正ロマン館内に大河ドラマ館が開館しており、せっかくなので行ってみましたが……うん、物語が進展すれば展示物もきっと増える…よね? という感じでした。それよりも、大河ドラマ館の隣室で同時期開催の「明智光秀が生きた時代の東美濃戦国史-山城を巡る攻防」と題した特別展(無料)の、武田氏と織田氏の戦いの舞台となった山城の縄張図付きでの紹介と、岐阜県内の明智光秀ゆかりの地の案内のほうが見応えがありました。
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