四国最大の天守のあった、高松城へ行ってきました。
高松城は日本三大海城といわれ、当時、北側は瀬戸内海に面しており、城そのものが軍港としての機能も有していました。
現在では埋め立てられ海岸線は少し離れてしまいましたが、水門によって海とつながっており、堀には海水が引かれています。
城の周囲は中堀、外堀などは埋め立てられ、開発され市街地化していますが、中堀の一部や内堀とその内部の石垣は当時のまま残されており、玉藻公園として市民の憩いの場になっています。
37年前、訪れたときには、天守台には、明治35年に建てられた初代藩主松平頼重を祀った玉藻廟が鎮座していました。
ここ高松城は、天守の古写真が残っており、昭和の時代から我が町にも天守を!と過去2回復元運動もありましたがどれも失敗。
平成8年には高松城跡保存整備基本計画が策定され、平成23年には追加修正されて、往時の海城を再現する計画が少しずつ現在も進行中です。
この基本計画によると、古写真の残っている北西隅に海に面してあった鹿櫓と多聞櫓の復元、現在移築現存している艮櫓の元の位置への再移築。今艮櫓が建っている位置にあった太鼓櫓の復元。戦災焼失した桜御門の復元、大手前地区の中堀の復元などが計画されています。もちろん天守の復元はこの計画のメイン事業です。
平成21年に発足した「高松城の復元を進める市民の会」の積極的な活動により、10万人の署名を添えて文化庁に提出するなど、再度天守再建に向けて動き出しています。
余談ですが、天守などの歴史的建造物の復元には二種類あって、名古屋城天守や高松城天守が目指しているのが復元といわれるものです。これは外観などが古写真などで正確にわかり、内部に関しても図面や写真によって構造が解るものでないと文化庁からの建設許可は出ません。
もうひとつは復元的整備といわれているものがあります。これは外観などが古写真や、絵図である程度わかっているのですが、内部構造などが詳細にわかっていない建造物が対象になっています。しかし、この復元的整備は基準となるものがなく、あやふやなものとなっています。
全国で古写真や絵図の残っている天守や、櫓、門などのほとんどがこれにあたります。
天守でいうと名古屋城▪岡山城▪広島城▪大垣城の4つの天守しか文化庁のいう復元の許可はおりないというのが現状です。
しかし、前述の市民の会の活動がきっかけになって、文化庁ではこの復元的整備の新たな基準を決めようと去年の秋から有識者と共に協議を開始しています。
ここ高松城天守のように天守や櫓、門など復元にあと一歩なんだけど、なかなか復元できないという全国に散らばるお城に、新たな復元的整備の基準が一つの光となることを祈るばかりです。
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