車で訪問しました。みなさんの投稿の通り、駐車場が分かり辛かったです。狭い一本道の先の追手門の横に7~8台分の無料駐車場がありました。
訪問時は天守台がまだ工事中で中に入れませんでしたが、外側から古い野面積みの石垣を見るだけでも十分城を堪能できました。
小一郎こと豊臣秀長の100万石の居城として有名な郡山城ですが、自分の中では関ヶ原の合戦後に、城主・増田長盛の留守中に郡山城を守り通した渡辺勘兵衛了(わたなべかんべえさとる)の『城明け渡し』の舞台の印象が強かったです。
関ヶ原の合戦後、大和国郡山城20万石の大名であった増田長盛は西軍に加担した為、出家して家康に謝罪し、高野山へ蟄居してしまいました。長盛の大坂出陣中に郡山城を任されていたのが渡辺勘兵衛で、郡山城を接収しに来た藤堂高虎と本多正純に「主君・長盛の命でこの城を預かっている。長盛の命でなければ、誰にも城を明け渡すことはできない」と東軍の要求を突っぱねます。結局、高野山の長盛が「開城せよ」との書状を書いてようやく勘兵衛は東軍に郡山城を明け渡しました。
時は戦国、敗軍となれば味方が賊に変わり寝首をかかれるかもしれない時代に、郡山城を守り通し(おそらく城下町の治安も維持)主への忠義も果たした勘兵衛は、後に藤堂高虎に4千石から2万石に加増され召し抱えられました。
このままハッピーエンドで終わらないのが勘兵衛らしいところで、そんな無骨な勘兵衛の生涯が気になる方は池波正太郎先生の『戦国幻想曲』必読です。上司にしても部下にしても苦労しそうな人間ですが、嫌いにはなれない生き様です。
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