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くろもり

勘兵衛の『城明け渡し』 (2015/12/06 訪問)

車で訪問しました。みなさんの投稿の通り、駐車場が分かり辛かったです。狭い一本道の先の追手門の横に7~8台分の無料駐車場がありました。

訪問時は天守台がまだ工事中で中に入れませんでしたが、外側から古い野面積みの石垣を見るだけでも十分城を堪能できました。

小一郎こと豊臣秀長の100万石の居城として有名な郡山城ですが、自分の中では関ヶ原の合戦後に、城主・増田長盛の留守中に郡山城を守り通した渡辺勘兵衛了(わたなべかんべえさとる)の『城明け渡し』の舞台の印象が強かったです。

関ヶ原の合戦後、大和国郡山城20万石の大名であった増田長盛は西軍に加担した為、出家して家康に謝罪し、高野山へ蟄居してしまいました。長盛の大坂出陣中に郡山城を任されていたのが渡辺勘兵衛で、郡山城を接収しに来た藤堂高虎と本多正純に「主君・長盛の命でこの城を預かっている。長盛の命でなければ、誰にも城を明け渡すことはできない」と東軍の要求を突っぱねます。結局、高野山の長盛が「開城せよ」との書状を書いてようやく勘兵衛は東軍に郡山城を明け渡しました。

時は戦国、敗軍となれば味方が賊に変わり寝首をかかれるかもしれない時代に、郡山城を守り通し(おそらく城下町の治安も維持)主への忠義も果たした勘兵衛は、後に藤堂高虎に4千石から2万石に加増され召し抱えられました。

このままハッピーエンドで終わらないのが勘兵衛らしいところで、そんな無骨な勘兵衛の生涯が気になる方は池波正太郎先生の『戦国幻想曲』必読です。上司にしても部下にしても苦労しそうな人間ですが、嫌いにはなれない生き様です。

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平馬

林泉寺 (2019/06/25 訪問)

春日山城の麓に林泉寺があり、駐車場からすぐの惣門は上杉謙信公によって春日山城から移築された唯一の門を見ることができます!
山門には大額が掲げられており、実際の謙信公直筆山門大額は宝物館で見ることができます。
山門の天井に龍の絵もあり見応えがあります。
大額と同じように宝物館に先代の絵が飾られています。
謙信公の御墓もありますので時間に余裕のある方は是非寄っていただきたいです!
ちなみに御朱印は宝物館にて頂くことができます。

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平馬

松代城、真田邸 (2019/06/25 訪問)

本丸太鼓門、太鼓前橋、北不明門、二の丸土塁が復元されているので武田流築城術の一端を垣間見ることができます。
そばには真田邸があり、入館すると無料でガイドが付き丁寧に真田邸の中を説明してくれます。

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ぴーかる

五十公野城(いじみのじょう) (2019/04/29 訪問)

【五十公野城】
<駐車場他>駐車場は見当たりませんでした。東中学校横の登城口が行き止まりになっているので、2・3台停めれる。
<交通手段>車

<感想>GW2泊3日上・越攻城の旅3城目。城びとに参加して初めて「お城をさがす」にて探して行った記念すべき1城目です。旅行の計画段階で探した際にまず、「いじみの」が読めなかった。五十公野氏という方がいらしたのが知らなかった。
 新発田城足軽長屋を見た後17:00時頃だったが、まだ明るかったので、スタンプ押印もないし本城跡までが予定だったので行った。東中学校とデイサービスの施設の側道を奥まで進むと行き止まりになっており登城口がある。比高はあまりないので10分程度ですぐ主郭跡の石碑が見える。伐採が主郭以外されてないので添付写真の土橋と堀切っぽいのが1箇所くらいしか確認できなかった。
 
 五十公野氏は新発田氏の一族で、戦国時代には新発田重家が五十公野治長と称して家を継いでいてその後、新発田重家の妹婿・長沢道如斎が、五十公野信宗と改名して五十公野氏を継いだそうだ。新発田重家が上杉景勝に反逆した際に五十公野氏もこれに従う。1587年に景勝勢に攻められ落城廃城となったらしい。

初日はこれにて終了し、2日目は上野国(群馬県)なので高崎に泊る為に向かう。

<満足度>◆◆◇

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todo94

けの汁発祥の地 (2019/06/29 訪問)

和徳稲荷神社がその故地。大浦為信に攻め込まれた際、和徳城の兵が落城前に食べた、もしくは、大浦為信側の野戦食が、この地域の郷土食・けの汁の起源であるとの説があるそうです。

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チェブ

陣屋と首塚。 (2019/05/25 訪問)

埼玉県の「久喜陣屋」に行きました。
1684年、米津 政武さんが築きました。
1798年、米津 通政さんが出羽へ転封し「久喜陣屋」は廃止されてしまいました。
現在、御陣山公園です。
「久喜陣屋」に関する説明板や石碑はありません。
ぱっと見ると、小山があるので遺構かと思いました。
どうも「久喜陣屋」には関係なさそうです。
小山の下に「首塚」の石碑があります。
小山のてっぺんには御陣山神社があるので「首塚」をお祀りしているのでしょうか?
どんな戦いが、この地であったのか気になります。

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イオ

城の名残は地形のみ (2019/06/24 訪問)

戦国末期、松永久秀と三好三人衆の抗争の場となった城ですが、宅地化により遺構は消滅しており、本丸跡あたりの家原城跡広場に城址碑と説明板があるだけです。

城域の西側を流れる石津川の段丘の先端に築かれ、絵図によれば本丸と西側、南側の二つの曲輪を水堀で囲む構造で、南の曲輪は馬出状になっていて、横矢と考えられる構造もあり、織豊期以前の城としては先進的な縄張り…らしいですが、今となっては、城跡広場の東側の丘陵に本丸跡を感じたり、絵図と現状を照らし合わせるとやはり古城公園は西側の曲輪の堀跡あたりかな、などと地形に城の名残を見ることができるくらいでしょうか。
 

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にこゆう

凄惨な戦となった舞台の城 (2019/06/30 訪問)

兵糧攻めにより落とされた三木城跡へ。


まずは二の丸跡にある
みき歴史資料館(入場料無料)で三木合戦のおさらい。


二の丸跡の脇道から上の丸稲荷神社を通り抜け
隣りにある公園が本丸跡となっております。


本丸跡内は土塀の狭間が復元?されており
城外への抜け道とされる井戸、天守台跡がありました。


天守台跡からは美嚢川と町並みが見渡せます。


その足で
合戦ゆかりのスポットである秀吉の本陣跡へも行ってきました。
このセットで行くのがおすすめです。

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1万石の城 (2019/06/29 訪問)

 赤壁城としても有名な城ですが、この城を1万石で維持するのは大変だったでしょうね。巨岩を巧みに利用した城址で石垣も見ごたえがあります。眼下に広がる木曽川を中心とした景色は何度見ても感激します。観光客も昔より多く、標識などが新しくなっているのは続100名城とされた効果でしょうか。

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あつ

お城も街も歴史が興味深い (2019/06/29 訪問)

ボランティアガイドさんが30分単位でこちらの都合に合わせてお城の説明をしてくれました。私達をご担当いただいたガイドさんはお城のことはもちろん、街の歴史もわかりやすく楽しく説明してくれたのであっという間に時間が経っていました。久保田城訪問が何十倍も有意義になりました! 特に興味深かったのは、廃藩置県まで戦火にやられず、築城主で3代目藩主の佐竹義宣から12代も続いたが、最後の藩主だけが戊辰戦争での実戦経験があったという、血生臭くない歴史がこのお城にあったことです。久保田城内にある銅像はその最後の藩主 佐竹義尭です。近年になって作り直されたためでしょうか、なんとなく今風のハンサムな顔立ちです。秋田市は奈良時代からロシアとの交易があったとの歴史も、秋田美人が多い所以なのかなと想像が掻き立てられました。石垣のない強固な土塁と水堀が珍しい、美しい城跡でした。

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にこゆう

天守はただいま工事中 (2019/06/17 訪問)

名古屋のシンボル名古屋城。
今回はついに公開された「名古屋城本丸御殿」へ行ってきました。
奇跡的にたくさん資料が残っていたからこその完全復元だそうで
実際に見るとそのきらびやかさと荘厳さに圧倒されました。


ガイドさんが付きっきりで、広間ごとの障壁画や襖絵、
装飾品の説明してくれたことでより理解が深まりました。
対面する相手の身分で部屋の豪華さが変化するのも注目です。


何より細部まで作り込まれた装飾品の繊細な造形美は職人の技が光る逸品です。


天守は工事中のため登城できず。


後は石垣を中心に見て回りました。
あちこちで西国大名たちの刻印が見られます。
石垣の刻印を見つけながら歩くのもなかなか面白かったです。

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小城小次郎

吉川元春館

知名度の高い武将の個人名を冠した「伝承的」な館は全国に散らばっているが、ここは正真正銘、吉川元春の館。威圧感満載の一文字石垣を筆頭に、戦国大名の「館」がまるごと残された、貴重な場所でもある。

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カルビン

宝くじ機構ってやはり儲かっているんですね(たぶん) (2019/06/29 訪問)

同じ埼玉県内なのに、種垂城のある鴻巣駅から西袋陣屋のある草加駅まで、えらく時間かかりました。
(上種足バス停→鴻巣駅→大宮駅→春日部駅→草加駅→西袋陣屋まで駅から徒歩)
※草加駅から西袋陣屋付近までのバスもあります(バス停:手代町南)・・・丁度バスが行ってしまった後だったので・・・

西袋陣屋公園は雨の影響で、一面に敷き詰められていた芝生・クローバー等が軒並み水含んでおり、公園内歩いていて靴がずぶ濡れにorz
(住宅地内でも雨上がっていても訪問には適していなかった・・・)

標柱右・柵で囲まれた場所が堀跡というのは見てすぐに解りましたが、他にも公園内に至る所に土盛が・・・でもこれは遺構では無さそうで。。。

ただ、公園の堀の場所の更に右手・どちらかの会社の敷地と思われますが、祠のある謎の土盛というか高台が・・・これ土塁?
それにしてはスクラップ感が満々でしたが(汗)
一応作業中と言う事もあり、遠めに土盛のところだけ撮影させて頂きましたw

他に目ぼしいものは無く、こちらも近くに通りがかった際に立ち寄る程度で良いと思います。


ちなみに史跡巡りをする様になって、頻繁に見かけるようになった宝くじ機構が寄付した施設・建造物・石碑等
ここにも遊具が寄付されておりました。。。宝くじ機構って儲かっているんだな(ほぼ確信)~と思う一幕w

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にのまる

清原氏の存在なくして平泉藤原氏は。 (2019/06/27 訪問)

横手城でパンフレットをいただきました。詳しくて丁寧で親切なパンフレットです。歴史を叩き込むのは私には難作業すぎて出来ていませんが、発掘調査で柵列や掘立柱建物跡のほかに二重堀や土塁など戦国時代の城(館)造りに似た遺構も認められたすごいところ!です。(国史跡)
草が茂っていて今の時期の散策は厳しいとのことでしたが、横手城から徒歩15分くらいだし、はるばる秋田までやって来て一瞥もせずに帰るのは残念すぎるので行ってみました。

大鳥公園の中の小山です。解説板らしきものがすぐ近くに見えたのでせめてそこまで行こうと思ったのですが草丈がそこそこあり、雨も降り出してきて…。
周囲をうろうろし、一歩踏み込んではひっこめを繰り返すこと数度。
このハンパない草叢に身を置けば全身モリゾー(またはキッコロ)状態になることは間違いなく。。。
そんな姿で次の目的地へは向かえないし、熊看板も出ていたので退散しました。

ここのあとに行った「後三年合戦金沢資料館」で伺うと、季節には関係なく草刈り直後だと歩きやすいとのことでした。草刈りは年に何度も行っているそうなので確認してから再訪したいです。
遺構は既に埋められているのに何故にわざわざ再訪したいのかと申しますと「平安の風わたる公園」と沼柵(推定地。沼舘城跡)にも行ってみたくなったから。
「平安の風わたる公園」は横手駅の隣の「後三年(の駅)」すぐ近く。駅名のネーミングセンスがステキすぎ╰(*´︶`*)╯
…ですが最近は後三年の役ではなく後三年合戦と呼ぶそうです。(政府に刃向かったわけではないから。)

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kazu

高田城 (2019/06/22 訪問)

上越市立歴史博物館でスタンプを押しました。

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kazu

鮫ヶ尾城 (2019/06/22 訪問)

斐多歴史の里総合案内所でスタンプを押しました。

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トーダイ

岩剣山が望めます (2013/02/13 訪問)

天正23年(1554)、岩剣合戦と呼ばれた島津氏と蒲生・祁答院方との激しい攻防は、岩剣城の落城によって終止符を打ちます。この合戦で初陣を飾った島津義弘は、岩剣城に在番することになりました。しかし山頂から麓までの道は大変険しく日常生活には不便でしたので、ふもとのこの地へ館を築いたのが平松城の始まりです。(案内板より)

現在城址は姶良市立重富小学校の敷地となり、正門<31.706312,130.604473>前に標柱と案内板があります。周辺の石垣は、江戸時代中期に整備されたものです。

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城好きのメガネ

「池上氏館」 (2019/06/28 訪問)

<オススメ>★★☆☆☆
池上氏館は、鎌倉時代の武士・池上宗仲の館とされる。池上宗仲は、日蓮に深く帰依し、弟の池上宗長とともに池上兄弟と呼ばれた。1282年、日蓮が、身延山から病気療養のため常陸の湯に向かう途中、池上氏館に立ち寄り、入滅したとされている。宗仲は日蓮入滅後、館やその周辺の土地を寺に寄進し寺領とし、池上本門寺の基礎となった。城址としての遺構は残されていないが、池上本門寺五重塔(国指定重要文化財)、池上本門寺宝塔(国指定重要文化財)など見どころは多い。また、前田利家室の層塔(大田区文化財)、池上本門寺の石段(大田区文化財)は、加藤清正の寄進によって造営されたと伝わる。

<アクセス>
東急池上線 池上駅 徒歩15分

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城好きのメガネ

「瀬田城」 (2019/06/28 訪問)

<オススメ>★☆☆☆☆
瀬田城は、後北条氏の長崎伊予守重光の居城とされる。長崎重光は出家後、行善入道と称す。重光没後は、重高・重次が跡を継ぐが小田原征伐の際に廃城となったされる。後北条氏滅亡後も長崎氏は土着し、代々名主をつとめた。現在、遺構は残されていない。

<アクセス>
東急電鉄田園都市線 二子玉川駅 徒歩約15分

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城好きのメガネ

「都指定旧跡 世田谷城」 (2019/06/28 訪問)

<オススメ>★★★★☆
世田谷城は、14世紀後半に吉良治家が居城を構えたことから始まるとされる。吉良氏は清和源氏・足利氏の支族で世田谷吉良氏はその庶流にあたるとされる。吉良氏は後北条氏と婚姻関係を結び、庇護下にあった。その後、吉良氏八代、二百数十年の居城として栄え、「吉良御所」及び「世田谷御所」と呼ばれた。小田原征伐の際に、廃城となったとされる。現在、城址公園として整備されている。世田谷城から徒歩圏内に豪徳寺(国指定史跡 井伊家墓所)や世田谷区立郷土資料館、世田谷代官屋敷も必見である。

<アクセス>
東急世田谷線 宮の坂駅 徒歩5分

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