1578(天正6)年、丹後を制圧した細川幽斎(藤孝)は宮津城に加えて、交通の要所であった田辺(現在の舞鶴)に田辺城を築き、丹後経営の中心としました。
そして隠居後は、子の忠興を入城させました。
現在、本丸部分は舞鶴公園となっております。
建築物は城門と櫓(右)のみで、どちらも復元されたものです。
1600(慶応5)年、関ヶ原の戦いが始まると細川忠興は東軍側として参戦しました。
すると、石田三成は留守を守っていた父幽斎に対して1万5000もの大軍をけしかけます。
細川軍の主力は関ヶ原に行ってしまっており、守る兵は500人足らずしかいません。
幽斎は他の持ち城を焼き払い、田辺城に籠城を決めます。
少ない手勢で良く持ちこたえましたが、圧倒的多数の前に落城は時間の問題でした。
そこで、幽斎は朝廷に使者を送ります。
幽斎は戦国武将一の教養人で、古今伝授を受けていました。
この当時、古今和歌集の解説は、師匠から弟子へ秘伝の形で継承されていました。
幽斎が亡くなるとその伝承者が一人途絶え、資料も灰となりかねないのです。
おどろいた後陽成天皇はすぐに包囲を解くように勅命を下した。
まさに芸は身を助けたのでした。
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