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カルビン

お城の範囲が不明確 (2015/01/02 訪問)

母校が箱根駅伝走っている中、応援もせずに朝からお城巡りに行っていた2015年の新年。。。

JR線水戸線・赤塚駅から歩いて15~20分くらいでたどり着いたのが河和田城。
解説が河和田小学校敷地内にあると伺っていたので、休みの日なら入れるかな?と思っていましたが・・・無情にも門が閉まってまして、近くで見る事は叶わず。
(なんで構内に設置したし?って一人ツッコミ入れてましたw)

遠目には見える場所(正門の奥・正面)にあったので、望遠レンズのカメラなら詳細に写真撮れるかもですが・・・

しかし事お城に関しては、全く持って境界線が解らず・・・本当に至る所に土塁とか堀とか虎口とか、明らかにお城の遺構である場所が沢山あり、それに合わせて標柱等も転々と転在してました。

大きな遺構で言えば、河和田小学校の裏手にある天徳寺に虎口・土塁・堀、小学校校門から道を挟んで反対側にあった大きな堀(この時期でも藪ってましたが)と、そこから南東にある報仏寺に城碑と土塁、更にその先の交差点を北に曲がってちょっと進んだ左側の空き地にも土塁・堀と言いきっても良い形状が見られます。

解説が見られなかった事もあり最初はちょっと残念と思っていた河和田城ですが、周辺回る程に評価上がりまくったお城でした。
一体どこまで城域が続いているのか気になる程広範囲に遺構が見られました。


ここから水戸方面に向かうと見川城があり、県道30号線沿いを走るバスの本数も多かった事から、公共交通機関で訪問されるのでしたら河和田城→見川城→水戸城(→武熊城・吉田城)みたいなルートで進めば登城数増やせるのでご参考まで。

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カズサン

東北道往来でチラ見してた古代城柵 (2017/05/25 訪問)

 一昨年の5月下旬秋田県城廻りを終わって岩手県未踏の城廻りの初めに東北道を何回も往来してる中、盛岡南に気に為ってた古代城柵志波城を初登城、車は専用駐車場に停めガイダンス施設で勉強して探訪、広くて発掘復元整備が大変素晴らしい小雨模様の中でしたが充分に堪能しました。
 特に外郭南門と版築築地塀、櫓群が版築築地塀上に一線となり連なってる姿は壮観です。

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チェブ

天領の里。 (2019/09/22 訪問)

長野県小諸市の「御影陣屋」に行きました。
1699年に設置されましたが、その後、転々として御影に戻ってきました。
幕府直轄領で慶応4年まで治めました。
駐車場もある史跡公園です。
近くの柏木家の敷地内に代官の宿所と陣屋稲荷があります。こちら、勝手に入って良いか分からず見学していません。
御影用水資料館があるので、そちらだけ お邪魔しました。

山々が、とても きれいに見えました。

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いんげん丸虫

石垣 (2019/11/04 訪問)

東北地方では珍しく小さな天守台の四方に石垣が残ってます。それぞれの曲輪は明確な段差で区切られていて進入口に横矢がかかってます。

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todo94

蜷川氏 (2019/11/02 訪問)

最勝寺がその故地になります。寺の横に土塁が残っていました。アニメ「一休さん」に出てくる新右衛門さんの一族・蜷川氏の城館跡だそうです。

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YAICHI

北畠家三御所 (2019/04/14 訪問)

城址碑は、御所跡(現子育支援センター/無断進入禁止)と、天守(てんし)と言われる標高302mの山頂にあります。坂内氏は伊勢国司家三御所(田丸・坂内・大河内)のひとつでしたが、北畠(織田)信雄に田丸城に呼び出され、謀殺され廃城となりました。

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ひろべえ

秋月城址 (2019/11/09 訪問)

奥丸と呼ばれる秋月歴史公園は現段階で残念ながら荒廃しており、再度整備してほしいです。城址の方は墓地となっており,石碑と秋月城主及戦没将士之墓があります。

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YAICHI

斎宮城跡(現竹神社) (2017/07/09 訪問)

現在の竹神社。勢州軍記に「野呂三郎等が徳政一揆を企て城砦を築いて立て籠もったが、国司北畠氏によって鎮圧された」等々と書かれています。しかし近年の発掘調査より城域は斎宮内院の遺跡だと確認されました。石垣が少し残っていますが往時のものかは疑わしいです。線路を隔てた斎宮歴史博物館は見応え充分です。

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YAICHI

川俣の戦いの舞台 (2017/03/16 訪問)

城址は、九十九曲集落の西、蛇行する櫛田川に西、南、北にかこまれた山地頂部にあります。城址は方形に近く、北から西にかけては土塁がめぐります。北側では4m、高さ1.5 mであるが西にかけては巾10mもあります。南側では、堀切が認められ、特に巾広い土塁は2条の堀によって切られています。なお、土塁の内側は、二段になっています。 (「三重の中世城館」参考)

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だめなこ

足助城 (2019/11/09 訪問)

時間がなくてバタバタだったから
色々ゆっくり見れてないし
また行きたい\('ω')/

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チャンミー

この道の先に… (2019/08/03 訪問)

釧路空港からレンタカーで約2時間半🚗。根室駅前の案内所に立ち寄りスタンプをゲット✌️チラシを手に再び現地を目指す。この道を歩いたときのワクワク感は忘れられない。間違いなく今年一番のハイライト⭐️

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だめなこ

妻木城 (2019/11/10 訪問)

お城 この日は4つ行ったのに
名前が違うのか1つ見つからないけど
暗くなりかけてたのに御城印ももらえたしヨカッタ\('ω')/

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だめなこ

素敵すぎる! (2019/10/19 訪問)

また 今度は御城印をもらいに行きます♪

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YAICHI

一之瀬城 東の城跡・西の城跡 (2017/05/17 訪問)

一之瀬城を本拠地とする豪族愛洲氏は、南北朝時代、南朝方を支える勢力として活動していました。
延元二(1337)年、伊勢に下向してきた後醍醐天皇の息子宗良親王を愛洲太郎左衛門らが一之瀬城に迎えています。
このことは、右の和歌の詞書によって知ることができます。
 当時の城は、後世の城のように高い石垣や堀をもつのではなく、この一之瀬城のような山城が一般的でした。
 一之瀬城の東の城跡は、大然の要害という地形を得て築城され、台状曲輪(主郭)を中心に空堀、土塁などをめぐらしています。ここから西に見える山頂(西へ400 メートル)には西の城跡があり、曲輪、堀切などがよく残っています。
 一之瀬城は東西の城が一体となって機能した中世の城でした。           (説明板より抜粋)

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小城小次郎

丸子城

通好みのキレッキレな縄張はまさに比類なき存在。実は見れば見るほどわからないことだらけで、個人的には「自然歩道」は大手道ではないのではないかと考え始めたところ。

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赤い城

蓮福寺の背後に (2019/11/09 訪問)

本納駅から徒歩15分。蓮福寺の墓地の背後が城址になります。
里見氏と北条氏の間で争奪戦もあった城。
脆そうな土壌で切通のようになった先に主郭部があります。
主郭には石碑が立っていました。
痩せ尾根上を削った平場がありますが両脇は崖、落ちたらひと溜まりもありません。
藪の先にも進んでみたいような感じでした。

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だめなこ

明知城\('ω')/ (2019/11/10 訪問)

これ ホントに歩きやすくなってるの?w
ってぐらい険しい山すぎて
お城ってことを忘れてて
写真撮るのも忘れてた(´Д`|||)

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チャンミー

令和1年11月11日 (2019/11/11 訪問)

たまたま1並びの日に訪れることができたので、うれしくって載せてみた✌️

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だめなこ

御城印と五平餅だけ・・・ (2019/11/10 訪問)

夏に行った時はまだ御城印を集めてなかったので
他のお城に行く予定もあったし
今日は御城印をもらって五平餅を買って撤収('ω')

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シロマサ

鹿沢城 現在は本多公園 (2019/10/30 訪問)

傘内氏が築いた篠の丸城があったが、1580年(天正8年)羽柴秀吉に攻め落とされた。
その後、黒田官兵衛が秀吉からこの山崎に領土を与えられた時は、山上の篠の丸城を居城としていたようである。
木下勝俊が1587年(天正15年)に、現在の山崎城がある鹿沢の地に築いた。

江戸幕府になり、山崎藩は1615年(元和元年)鹿沢の山崎城を政庁として、池田輝政の4男輝澄が3万8千石で入封した。
その後、松井氏、池田氏、本多氏と、3度藩主交代を経て明治維新を迎えた。

廃藩置県後は、学校施設などが設置されたが、現在本丸跡は本多公園となり、幕末期の設置とされる紙屋門などが残る。

今回初めて山崎城を訪れたが、本丸跡は本多公園として整備されていて、石垣などは新しく整備されているが、当時偲ぶことができる。
本丸内に移築された山崎歴史民俗資料館(龍野治安裁判所山崎出張所)ある。
また、宍粟市立図書館の2階にある山崎歴史郷土館は、図書館の受付の人に声をかけて見学されてもらった。
そして駐車場は、図書館の南側を利用した。



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