しおぜじょう

塩瀬城

愛知県新城市

別名 : 塩瀬古城
旧国名 : 三河

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城址碑
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しんちゃん

謎の武将・塩瀬氏の城 (2021/01/16 訪問)

塩瀬城は塩瀬氏の城とされています。城郭体系に記載のない城で、他サイトさんを参考にすれば1349年に中国より亡命してきた林さんが日本に帰化して塩瀬氏を名乗り、その長子・塩瀬資時がこの城を築いたとか。地元の方に聞いたら親切に道を教えてくれました。感謝です。
縄張りはよくわかりませんが、城址碑のあるあたりを本丸と考えたほうが良いのでしょうね。周囲は畑地化が進んでいますが眺めは良かったです。

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じゅんじん

畑の中の城址碑 (2021/12/30 訪問)

畑の上に城址碑がありました。道路からも見えます。

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カズサン

段丘の端城ひっそりと石碑のみ (2021/03/04 訪問)

 3月に入り愛知県も緊急事態解除され浜松市と隣接の新城市に登録されて未踏の塩瀬城を姫街道さん投稿に触発され初登城しました。
 移動は車で。 ルートは北遠の山道、大平城を眺め、田沢城麓を通り国道257号線に入り柿本城を眺め長篠城横を通りR257を恵那方向、R257只持信号交差点を県道436号線に入る道なりに約3km程の塩瀬中平地区の塩瀬集会場と消防倉庫到着。
 駐車場は塩瀬集会場、消防倉庫の裏に巴川釣り客用の駐車場利用、詰めれば10台以上は可能。

 小さな案内板が集会場斜め前道沿いに塩瀬城200m程と有り、山手段丘に石垣段が城塁のごとく聳えてる、石垣沿いに側溝が有り細い斜め道を登り数段の元宅地跡、畑、茶畑の細い畦道を登り廃屋の段に登ると左手に石碑が見え若干草刈りされてる平地を奥に進み石碑と対面、遺構は無い杉林に成ってる。
 石碑には塩瀬古城址と刻まれ、裏には由来等が記されてるようですが御影石の黒と文字が汚れて黒く判別できない、歴史が良く分かりません、他に案内解説板も無し。
 城跡は段丘の端に構え前方は巴川がコの字に外濠変わり、奥は山手で守って居り中々良い縄張です、県道436号線は西に作手の古宮城方面に繋がり東はR257で長篠、恵那に繋がり山奥ながら交流は整ってる。

 よく利用してる「城郭放浪記」「古城盛衰記」「余湖図コレクション」「日本城郭全集8愛知県岐阜県編」にも塩瀬城の記載登録も無く、今回は姫街道さんの投稿とネットの愛知の城塩瀬城、新城・勝手に応援隊:「まんじゅう」と新城市塩瀬城の関係 情報を見ますと以下に。
 
 650年前に南宋の林淨因(リンジョウイン)が日本の修行僧と共に日本に入り林氏は肉入りまんじゅうを日本に合うように小豆餡でまんじゅうを提供し評判を得る、応仁の乱の戦乱を避けて親戚関係の豪族・塩瀬家を頼って子孫は三河設楽郡塩瀬村に住み「塩瀬」に改称。
 豪族塩瀬家と改姓塩瀬家の親戚つながりは良く分かりません、再び京都の戻った塩瀬は大繫盛、帝、将軍から栄誉を授かった、江戸、明治と継承し御菓子老舗塩瀬総本家へ、34代店主が石碑の塩瀬古城址を揮毫した川島英子氏(抜粋)

 名物、名店はR257沿いの「鳳城苑」での寒狭川(豊川)の鮎料理、冬はししの牡丹鍋が絶品で有名です、家内と良くR257往来の折りには夏、冬に利用させて頂きました、今回は一人でパスです。

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姫街道

城主塩瀬氏は、中国南宗旧家の林一族 (2020/03/29 訪問)

南北朝時代に亡命してきて、日本に帰化して塩瀬資時と名乗り塩瀬城を築いたとあります。戦国時代には、野田城主菅沼氏に仕えるようになり、廃城して200年の歴史に幕をおろしました。塩瀬公民館に駐車し、向かいの石垣山頂になります。石垣は、最近になって作られたものでしょう。比高は低いですが、集落一帯を見渡すことができ、巴川に周囲を囲われおり、山深い地域の城の雰囲気は味わえます。

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城郭情報

分類・構造 丘城
築城主 塩瀬資時
築城年 建徳元年(1370)
主な城主 塩瀬氏
遺構 消滅
再建造物 石碑(塩瀬古城址)
住所 愛知県新城市塩瀬字中平