【久々利城】
<駐車場他>可児郷土歴史館駐車場
<交通手段>車
<見所>枡形虎口・石垣跡・堀切
<感想>1泊2日東三河・東美濃御城印取得の旅7城目。この城は築城年は定かではないが土岐康貞が築城、土岐三河守悪五郎と称してこの名を世襲する。康貞の子行春が久々利太郎行春と称して久々利氏が始まり200余年続いた。戦国時代には久々利氏は美濃の斉藤氏、信長の美濃攻めの時には武田氏、信長の東美濃攻略時には金山城の森氏の傘下に入り織田家に従属する。本能寺の変のち1583年森長可が久々利城主悪五郎を金山城に招き謀殺、久々利城に夜襲をかけ落城する。森家家臣戸田勘左衛門が城代となって、1600年森家転封となり久々利城は廃城となった。
登城口は県道84号線脇に、登城口にパンフレットが置いてあります。その場所から右手方向に登っていくと城跡、左手を少し入ると石垣跡があります。
城跡虎口前に畝状の土塁が3本あり、進入路を分散させている。当時は食違いになっていたようです。虎口は枡形で、畝状の土塁を含めて三の丸上から狙い打ちできるように横矢になっています。この辺りの防御は堅く森氏時代に改修されたようだ。曲輪は連郭式で山頂部から見張郭→奥の院→北の丸→土橋→本丸→二の丸→三の丸とある。見張郭北側に2重堀切、竪掘り(ちょとわからなかった)がある。連郭の北西部に谷を挟んで平行して細い尾根の武者走りがある。麓からも延びているので、ここから攻めると防備が弱いように感じた。
奥の院が城跡一広い曲輪で曲輪内に転落石が多数落ちている。見張郭との法面が石垣になっていて、そこから落ちたものと思う。城跡内に手書きの案内板(味がある)にも幻の本丸?とあったが、私もここがかつての主郭だったように感じた。
御城印は可児郷土歴史館と併設する袋井コミュニティーセンターにて頒布しています。300円以上の募金をしたら1枚いただけるということになっており、販売はしていませんのでおつりは出ませんので小銭を用意されたほうがよいでしょう。
<満足度>◆◆◆
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