1月以来の大坂の陣史跡めぐり(第8回)は夏の陣の道明寺・誉田の戦いを。
大和方面から迫る幕府軍(水野勝成、伊達政宗ら)を河内平野の入口である国分村で迎撃すべく後藤基次、真田信繁、毛利勝永らが出陣するも、濃霧のため真田ら後続隊の到着が遅れ、幕府軍はすでに国分村に集結していたため、後藤隊は単独で国分村を見下ろす要衝・小松山に布陣し、10倍を超える幕府軍と対峙。奥田忠次を討ち取り、攻め寄せる幕府軍を何度も撃退するなど奮戦しましたが、8時間に及ぶ激闘の末、負傷した後藤基次は吉村武右衛門の介錯により自刃しました。
遅れ到着した薄田兼相、明石全登らは道明寺において幕府軍を迎え撃つも、薄田兼相は勇戦むなしく討死、残りの部隊は誉田村に撤退しました。そこにようやく真田、毛利ら後続隊が到着。戦線を立て直し、誉田八幡宮付近に布陣した真田隊と伊達軍の片倉重綱(重長)隊との間で激戦が繰り広げられました。そして、戦いが膠着状態になったところに八尾・若江での豊臣方の敗報を受け、豊臣軍は真田隊を殿軍として天王寺方面に撤退。真田信繁の「関東勢百万と候え、男はひとりもなく候」はこの時の言葉ですね。
小松山は現在の玉手山あたりとされ、玉手山一号墳の南西麓には石碑や説明板、後円部には奥田忠次の墓地があります。また、玉手山公園の歴史の丘には後藤基次と吉村武右衛門の石碑や説明板があり、その奥には大坂夏の陣両軍戦死者供養塔がある……はずですが、こちらはうっかり見逃してしまいました。
第二の戦場、道明寺は現在の道明寺天満宮のあたり(道明寺は明治の神仏分離令によって西隣に移転)で、近鉄・道明寺駅前には道明寺合戦記念碑と説明板が設けられ、駅から南西に徒歩12分の畑に囲まれた一角には薄田兼相の墓があります。
誉田八幡宮には誉田林古戦場址の石碑と説明板があります。大坂夏の陣だけでなく、南北朝初期には楠木正行と細川兄弟、室町中期には畠山政長と義就、畠山稙長と義英との間で再三戦場となった地のようです。
古戦場の痕跡はないものの、石碑や説明板はあちこちにありますし、何より小松山から河内国分駅越しに大和口を見渡していると、眼下を埋め尽くす幕府軍を前に、後藤又兵衛はどんな思いだったのかな……と往時に思いをはせるひと時でした。
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