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空堀がいいです (2020/02/01 訪問)

 大きくて深い空堀と土塁が見事なのですが、来城したときには、空堀内が竹藪となりつつあり十分に見ることができません。それでも、空堀や切岸の迫力は堪能できました。堀の中を除けば概ね歩きやすい城址です。

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いい空堀ですが (2020/02/01 訪問)

牛久城から徒歩で登城しました。
三郭と四郭の間の空堀はかなり迫力があります。他の空堀もそうですが藪となっていることが残念です。一郭は少し高くなっていて登ろうとしましたが、ここもかなりの藪で断念しました。

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結晶片岩の石垣 (2020/01/31 訪問)

 大福寺の裏より登城しました。10分弱も登れば三の丸の石垣が見えてきます。この石垣がこの城の見所です。関東で少ない石垣というだけでなく、結晶片岩であるということも興味深いところです。和歌山城や徳島城では見ましたが関東ではこの城だけではないでしょうか。城址としては堀切、竪堀、桝形虎口なども見ることもできます。2郭下の腰曲輪から見た切岸もいい感じでした。城址はよく整備されていて比較的歩きやすい城址です。

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滝はどこに (2020/01/31 訪問)

 東所沢駅から徒歩にて登城しました。
街の中にも関わらず空堀、土塁などがよく残され、主郭には城山神社があります。比較的よく整備されています。登城したときには発掘調査が行われていました。ネットなどの情報を見ると城内に滝があって滝の城と呼ばれるようになったと書いてありましたが、どこにあったのでしょうか。

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蕨城址公園 (2020/01/31 訪問)

 蕨城址公園として整備されています。池となっている所が水堀の跡です。一部土塁と思われる遺構がありました。

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カズサン

シンポジウムの前にチョイ寄りビューポイント? (2020/02/01 訪問)

 第三回とよはしシンポジウム「池田輝政の吉田城」と題して豊橋市文化財センター主催で吉田城隣接の豊橋市公会堂で開催され開始前に吉田城の私的ビューポイントを撮って来ました、前回シンポに参加できず資料だけ頂きに文化財センターに寄っての帰りに探訪以来の登城です。
 シンポジウムは城で有名な中井教授、加藤理文理事、播磨教授、萩原さんの講演とトークセクション大変有意義な講演でした。観衆は500名席の公会堂がほぼ満席。

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静勝寺 (2020/01/31 訪問)

赤羽駅より登城しました。静勝寺付近が城址です。遺構はありません。

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勝野武士

【鹿集城】光秀によって落城した丘城。 (2020/01/26 訪問)

鹿集城、と書いて『かたかりじょう』と読みます。所見では読めまい。
兵庫県丹波市市島町、一つ山を越えればすぐ福知山というところにあります。
福知山城からの帰路、そんな所見殺しの城に立ち寄ってみました。

説明板によると、元々の城名は『鹿聚(ろくしゅう)城』と名付けられ、後に『鹿集城』と書くようになったとのこと。

承久三年(1221)源範頼の次男の吉見資重が氷上郡鹿集の庄に地頭として入り、上垣集落に続く小高い丘に築城したと推定されますが、詳細な年代は不明。
戦国時代には居館に防御施設を施すなどして拡張、城塞化したもので、平時の生活の場でもあったようです。
また、鹿集城の下を流れる川を天然の堀として利用したことでしょう。
その他、詳しいことはわかっていないようですが、天正七年(1579)丹波平定を目指す明智光秀の軍勢によって落城したといわれていることから、丹波の有力豪族である赤井氏や波多野氏に属する勢力の城であったことは確かなようです。

現在、城跡には市島中学校が建っており、地形的には何となくお城があったっぽいかなーという感じはありますが、明確な遺構は残っていません。土塁のようなものはあるのですが…。
また、城跡を示す石碑が建っているのですが、これがいけない。思いっきり中学校の敷地内…。
ということで石碑の撮影は諦め、そそくさと退散しました…。
中学校の敷地や立地から察するに、そんなに大きい城ではなく、規模や形式としてはやはり城館に近いのかなーと感じました。

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平塚神社 (2020/01/31 訪問)

 上中里駅の前にある平塚神社が平塚城伝承地です。案内板を捜して境内を徘徊してしまいました。入口の平塚神社の石碑の横にありました。

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金剛寺 (2020/01/31 訪問)

王子駅より徒歩にて登城しました。金剛寺付近が城址です。源頼朝の布陣伝承地の案内板はありますが、滝野川城の案内板はありません。

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光照寺 (2020/01/30 訪問)

光照寺が跡地とのことです。遺構はありません。

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築土八幡神社の横の道にて (2020/01/30 訪問)

遺構はありません。皆さんに倣って「御殿坂」の標柱を撮影しました。

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飯田橋駅から (2020/01/30 訪問)

築土八幡神社が城址です。案内板等はありません。飯田橋駅から登城しました。

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勝野武士

本年初登城は光秀の城から! (2020/01/26 訪問)

今回、突然思い立って行ってみたのは、本年初登城となります福知山城です。
個人的には三度目ぐらいの訪問となります。

今年の大河ドラマの主人公であり、福知山の町の基礎を築いた明智光秀のお城ですからね、幟がいっぱい!流石になかなかの盛況振りです。観光バスも何台か見かけました。何度となく福知山城に来ておりますが、やはり一番賑やかな気がします。
『福知山光秀ミュージアム』が開催されているとのことで、迷わず天守(歴史資料館)とのセット券を購入。
光秀や秀満の書状などが展示されており、また光秀の肖像画の原本も期間限定で公開されるとのことです(普段は複製)。とても見応えがありました。

そしていよいよ天守へ。
現在の経路は当時のものではなく明治になってから。往時の経路は二ノ丸からなのですが、二ノ丸のあった丘陵地は廃城後にそのものが削り取られ、本来の導線が永遠に失われてしまったことは誠に惜しまれます。
本丸の一部も削られたり改変されたりしているようで、当時を偲ぶことができるのは天守台と天守曲輪、そして本丸の一部と伯耆丸のみとなっております。
しかしそんな中でも建造物が現存しています。二ノ丸に通じる正門であった銅門の番所が本丸に移築され現存しています。旧城内で唯一現存する建造物ですので、必見ですね。
その他には、市内に城門も移築されているようです。
また、転用石の多さも見どころの一つで、本丸以内だけで500以上もあったそうです。石材も非常に多彩なように見受けられます。如何に光秀が石材集めに苦労したかがわかりますね。

と、世間は光秀一色で皆様ご存知の通りなので、あえてその流れに逆らって、歴代城主の中でも稲葉淡路守紀通を取り上げてみます。
素行不良で評判もよろしくなかったという彼の治世は24年。元々水害が多く収穫高が上がらなかった福知山において重い年貢を課し、農民に対して「農民のせいで狩りの獲物が穫れない」と理不尽な理由で村民を虐殺したりと、まさに暴君による苛政。福知山における暗黒の時代だったように思います。
そんな彼が「家臣と寒鰤で酒が呑みたいから、寒鰤100本ほど融通してほしい」と隣国の丹後宮津藩の京極高広(この人もアレな殿様でしたが…)に書状を送りました。高広は「幕府への賄賂に利用されてはたまらぬ」と、寒鰤の頭を全て切り落として送りました。
その寒鰤を見た紀通は激怒!寒鰤を踏み潰して捨てた後、「丹後から入ってきた者は皆殺せ!」と命じて実行してしまいます。
驚いた高広は直ちに幕府に報告。さらに他藩からの飛脚を殺してしまったことで事が露見し、幕府は追討令を出して福知山城を包囲する事態に発展しました。
紀通は何を思ったか先祖代々からの甲冑を身につけ天守に立てこもり火縄銃を城下に向けて乱射!最期はそのまま拳銃自殺を遂げたそうです。
いやはや、福知山にとっては本当の黒歴史ですね。

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しーげ

迫力満点 (2020/02/01 訪問)

石積、空堀、堀切、すべて見ごたえ充分です。ただ、2018年の西日本豪雨で通常ルートの橋が無くなっているので注意が必要です。

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勝野武士

【百済寺城】地上の天国、一千坊の跡。 (2019/11/30 訪問)

2019年最後の登城となったのはこちら『百済寺城』です。
滋賀県東近江市、湖東三山の一つである百済寺の境内全域(旧境内含む)を指します。

…いやいや、寺だろ?城じゃあねぇだろ?っていうツッコミもあろうかと思います。確かにその通り。
しかしながら永正十五年(1518)から大永三年(1523)の足掛け5年間かけて、近江南部を支配していた佐々木六角氏が家臣の進藤賢盛に命じて石垣などで大規模に防備を固めたため『百済寺城』と呼ばれるようになったのです。当然、相当数の僧兵もいたことでしょう。よって湖東地域最大の『寺』であり総石垣の『城』でもあったのです。

戦国時代の百済寺の様子ですが、イエズス会の宣教師ルイス・フロイスの日記によると『百済寺と称する大学には、相互に独立した多数の僧院、座敷、池泉と庭園を備えた坊舎1000坊が立ち並び、まさに地上の天国』の様相だったといい、さらに室町時代から僧坊で醸造されていたという清酒『百済寺樽』は当時の都の評判になっていたといいますから、その繁栄振りがよくわかります(この百済寺樽は近年復刻され数量限定で販売されております)。

鎌倉時代から六角氏と縁の深かった百済寺でしたが、永禄十一年(1568)六角義賢の居城である観音寺城を攻略した織田信長より禁制が送られ(半ば一方的に)、そして信長の祈願所となりました。
六角義賢、義治親子が近隣の鯰江城に籠城して徹底抗戦の構えを見せると、信長は自らの祈願所たる百済寺に陣を構えます。
しかしその数日後、百済寺が六角氏の女子供を匿い、なおかつ鯰江城に密かに兵糧を送っていたことが発覚し、信長はついに激怒!
かくして元亀四年(1578)信長は百済寺の焼き討ちを敢行し、必死の抵抗も虚しく全山焼失の憂き目に遭いました。

なお、湖東三山(百済寺、金剛輪寺、西明寺)を含む天台宗の寺院は悉く焼き討ちに遭いました。
焼き討ち後の百済寺の石垣は、安土城を築城する際に持ち去られたそうです。
まさに、信長の百済寺に対する愛憎渦巻くエピソード。

今回の百済寺ですが、湖東三山は紅葉の名所として有名で、ついに念願叶っての訪問となりました。
広大なる境内に累々と連なる僧坊跡の石垣と紅葉のコラボは、美しくもどこか儚さを感じさせます。
そして、本堂の傍らにある『千年菩提樹』は文字通り樹齢千年を超えるといわれますが、信長による焼き討ちで根元を残して焼損。しかし根に熱が入っていなかったために蘇生し、根元から新たな幹を伸ばして現在に至っています。

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むうさん

福知山城 (2020/01/26 訪問)

大河ドラマが始まったので行ってみました。
優雅な雰囲気の天守です。

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むうさん

篠山城 (2020/01/26 訪問)

元々天守の無い城。
石垣がしっかりしてました。

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todo94

荒崎小学校 (2020/01/18 訪問)

南宮大社、真禅院から大垣城に向かう途中に立ち寄りました。遺構は残っていませんが、荒崎小学校の校門脇に立派な城址碑と説明板が立っていました。

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カズサン

弘前城移築前の津軽為信の本城 (2016/10/03 訪問)

 平成28年10月黒石陣屋を終えて弘前城を横目で見ながら大浦城を探訪して堀越城へ北側の神社鳥居から堀前の駐車エリアに停めて初探訪。
 発掘調査後復元整備進行中、国道7号線沿いに駐車場、休憩エリア等の開発計画が在る様子。
 本丸(熊野神社が鎮座)、本丸堀、二の丸、堀、三の丸エリアの復元、木橋、館跡、東門跡の地表展示が行われてる、堀は水掘りの様に伺ってたが作り立てか工事中か水無く空堀状、探訪は3年前ですので令和2年は相当完成してる事でしょう。

 文禄3年(1594年)豊臣秀吉から四万五千石の所領を安堵されると大浦城から堀越城に居城を移し慶長12年(1609年)二代藩主津軽信牧が弘前城を築いて移るまでの本城。(城郭放浪記さんより)

 桜の頃は城址の桜と岩木山の遠望と素晴らしい景観と思われます。

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