近隣で車中泊をし、朝一番で登城。
雲海の季節でもないので半日いたが登城者は数人しか見かけませんでした。
大手口前の 【観音寺山城 200m】 の道しるべに誘われ見附櫓跡の石垣下を回り込んでみた。
観音寺山城への道は草木に覆われハチたちがブンブンと飛びまわっているので断念。
大手口の枡形虎口に入る前から、すでに横矢がかかる構造になっている。
北千畳から三の丸と二の丸の横を抜ける花屋敷へ向かう道は、何度も枡形で曲げられ少しずつ登っている。
その枡形も土で覆われ坂になっている場所もあるが、やはり石段になっているようだ。
四角い曲輪の花屋敷は両サイドに石塁が残っているが、向う正面にはそれらしき塁はない。
花屋敷から下へ降りる道は通行止めになっていた(残念!)
石塁には鉄砲狭間があるといわれるが、これが? って感じの凹みがあった。
櫓跡と思われる出角あるが、それほど防御性の高い曲輪とは思えない。
いま来た道を戻りかけて納得。 本丸方面からの攻撃にバッチリさらされる構造になっている。
南千畳へも何度も曲げられ、そのたびに少しずつ下っている。(本丸方面からなので当たり前か)
広く平らな曲輪の石垣には大きくはないが折れがあり横矢がかかる。
城外からの虎口も、北千畳ほどの防御性は高くない。
大手口へ戻り、あらためて二の丸から本丸を目指す。
スロープ状の坂を登った先の本丸への虎口は、櫓台が控えている。
天守台横の急階段を降りると、左右に中仕切り門跡が。
急階段も途中で狭くなっているしスロープ側虎口に比べ、こちら側は厳重。
途中から狭くし敵を登りにくくするだけなら最初から狭くすれば良いのに。
それとも櫓門か埋門的なことになっていたのか? 櫓門からなら天守台に登れそうだが…。
天守台に登ってみると、南北の千畳方向の狭くなった地点に確実に攻撃ができるのが良くわかる。
南千畳側の仕切り門が北千畳側よりも複雑なのは、南側が弱いと考えての事なのか?
登れる櫓台跡は全部登り、立てる石垣の天端には全部立ってみた。
(こんな見学者がいたために順路制限が設けられたのかも、と チョット憂いてます)
城内どこをみても石垣の面が揃っていないし、各曲輪や櫓台の高さも違う。
死角が無いように計算しつくされた縄張りですね。
思うに、花屋敷と南北の千畳は、敵に占拠されるのは想定内の縄張りなのかも。
竹田城を十分に堪能し南千畳の虎口から下城。
【山名氏・赤松氏、両軍陣没諸霊供養塔】には、太田垣氏の末裔の方々の御名前も刻まれていた。
この地をめぐり多くの血が流され、石垣造りの鉄壁の城が出来たころには平和になるなんて皮肉ですね。
登城当時はまだ順路に制限がなく自由に廻れました。
史跡保存の観点からは仕方がないことかもしれませんが、城好きとしてはとても残念でなりません。
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