モトさん、赤い城さん、また過去に元寇防塁をお訪ね下さった城人の皆々様、御訪問いただきありがとうございます。実はここ(生の松原・姪浜・愛宕)地区一帯は、私が仕事でよくウロウロしているまあ庭みたいな場所です(笑)。なので地元ボランティアガイドになったつもりで、ここでおせっかいながらも元寇に関するエピソードを御紹介させて頂きます。
元寇防塁は、執権「北条時宗」が、1度目(1274年文永の役)の反省から、2度目(1281年弘安の役)の元の襲来に備え九州の各御家人に命じて築かせたもので、福岡市内の各所に今も点々と残っています。中でも最も状態がいいのは、復元保存されている「生の松原」(いきのまつばら)です(写真①②③)。ここは有名な「蒙古襲来絵詞」という40mもの長々と膨大な絵巻物を作った、あの熊本県宇城市松橋(まつばせ)の御家人「竹崎季長」(たけざきすえなが)が築いた防塁で、この絵詞(えことば)が残っているがゆえに、現代の我々は元寇の様子を詳しく知る事ができるのです。
では熊本の田舎の貧乏御家人であった季長が、なぜ巨額の投資(借金)をしてまでこのような膨大な絵巻物を作ったのか、皆さんは御存知でしょうか🤔?
最も有名な絵は、この季長が馬が血を流しながらも勇ましく先陣を務め斬り込んで行く姿を描いている(写真⑧)の絵です。これは学校の教科書にも載っているので誰もが見た事がある絵だと思います。これは文永の役で最も激戦とされた「鳥飼の戦い」(福岡市城南区)を描いたもので、彼がここで勝利したため、上陸した元軍は船に逃げ帰り、その後天候の不良や食料不足や疫病などがあったため元に帰って行ったと言われています。この絵の舞台とされる鳥飼の「埴安神社」(写真⑨)や「塩屋橋」(写真⑩)や「祖原公園」(写真⑥⑦)にも行ってきました。このあたりが激戦地だったようです。この(写真⑧)の絵は、松の木がある事から(写真⑨)の埴安神社での戦いの様子を描いた物だと伝わっています。つまりこの絵詞は、命がけで戦ったにもかかわらず、鎌倉幕府から何の恩賞も無かったので、業を煮やした季長は自分の活躍をアピールし、鎌倉幕府から恩賞をもらうために作ったのではないかと言われています。では本当にこれで恩賞にありつけたのでしょうか🤔?
文永の役後、彼はこの絵詞(上巻)を携え、またも借金をしてまではるばる松橋から鎌倉まで何カ月もかけて行きました。着くと服はもうボロボロで、「田舎の貧乏御家人が何を言うか!ワハハ」と活躍した武将だとは誰からも信用されず、笑い者にされ相手にもされなかったようです。しかし粘り強く通い続け、1年後にやっとの思いで恩賞奉行(安達泰盛)に目通りがかない、そこで盛泰は季長の事を唯一信じて上奏しますがかなわず、彼にはせめてと松橋の地頭職を与えました。地頭職とは今の松橋町長のようなもので、彼としては当然時宗からお褒めの言葉があり、幕府の要職にここ鎌倉で取り立ててくれるだろうと淡い夢を描いてはるばる鎌倉まで行ったのでしょうが・・・(ああ~何と惨めな季長)😩・・・日本を救ったヒーローであるにも関わらず、認められないまま松橋に戻ります。
次は居城(竹崎城)にて弘安の役からどうなったのかの話へ続きます。
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