あきる野から奥に走ります。役場に停めて登城。なかなか急坂でした。主郭近くは整備されています。3重の堀切がみどころです。
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2020/03/28 10:39
2020/03/28 10:26
2020/03/28 07:22
2020/03/27 23:31
使いこなせなかったARアプリ😭 (2020/03/18 訪問)
観光案内所で親切にタクシーを呼んで頂き、そこから八幡口まで行きました。八幡口から歩き始めは人気がなく何となく不気味で怖かったですが、次々に現れる壮大な石垣にテンションが上がり、いつの間にか夢中で写真や動画を撮りまくってました📸
山の上にどうやってこんな立派な石垣を⁉️そして、それが今に残っていることが神秘で堪らなかったです👀✨
帰りのタクシーを予約していたので、ゆっくり出来なかったですが本丸まで片道20分なので、地図を見たり、ジーンと感激したり、ボーッと物思いにふける時間を含めると1時間半くらいあると良いのかなと思います。(タクシーで行かれる方はご参考までに)
地図もARアプリも全然使いこなせなかったですが、それでも大大大満足でした❗️
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2020/03/27 22:18
新城市の名前の由来となる城 (2020/03/26 訪問)
長篠の戦で、15,000の武田軍に対して500人で長篠城を守りきった奥平貞昌氏が築城。長篠の戦い後に、「新しく城を与えられた城」→「新城城」かな。この城への着目点は後に野田城主の菅沼定盈の孫菅沼定実らが城主となった事だ。菅沼定盈は遠江国井伊氏の重臣井伊谷三人衆の一人である菅沼忠久の親戚で、今川方であった井伊領において家康の遠州侵攻を手助けした重要人物だ。そのためか後々まで家康に重宝され、一族は新城城にて明治維新まで主に陣屋として居住して栄えた。井伊谷三人衆の動向は今川・武田と強敵に対峙してきた家康にとっていかに大事だったかがこの城に来て感じ取れた。今は小学校になっているが、学校の雰囲気は陣屋の感じを取り入れている。
城のすぐ南には豊川が流れており、西入船や東入船といった地名が残る事から豊川の舟運や伊那街道の要所としても栄えたようだ。城から鬼門の方向に妙見堂が祀られており、開運のご利益があるとの事。平和な雰囲気が漂う。
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2020/03/27 22:10
松平対今川の激戦地 (2020/03/26 訪問)
宇利城は今川系の城によく見られる連郭式で主曲輪とニの丸が眼鏡のように対で広く、標高もあまり高くはないが、主曲輪だけはかなりの高低差がある城だ。当時の宇利川がどのような形態だったかは不明だが、城の前面や側面は明らかに沼地で攻めにくい地形だ。
家康の祖父である松平清康が東三河の国人が次々従うなか、最後まで抵抗した宇利城城主熊谷氏を攻め落し三河国統一を成し遂げた。清康方で活躍した野田城主初代菅沼定則は家康の遠江侵攻のキーマン野田城主三代目菅沼定盈の祖父。菅沼一族は清康→家康と東三河における松平家の重臣だったのがわかる。この戦で清康方について戦ったであろう近藤氏はのちの井伊谷三人衆の一人である近藤氏で、宇利城は、熊谷氏から菅沼氏→近藤氏と城主が変わっていった。東三河と遠江井伊領の結び付きも垣間見える。国境の城で様々な歴史があったであろう。
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2020/03/27 21:56
姫街道を見下ろす国境の城 (2020/03/26 訪問)
1523年に本坂通(姫街道)を押さるため、西郷氏によって築城された山城だ。西郷氏はその後、月ケ谷城を嫡男に譲り、北方の山あい中山道沿いに居館城である五本松城を築いて本城とし、月ケ谷城を支城としたようだ。西郷氏は一帯を治める国人衆で、当初は今川方であった。ところが、1530年には松平清康について宇利城攻めに加わったかと思えば、清康が暗殺されると今川方に戻り、1560年に義元が討たれると再び松平方についたため、さすがに怒った今川方の武将で遠州宇津山城主朝比奈氏に夜襲をかけられて討ち死にした。この西郷氏、松平・家康にブレずに仕えた野田菅沼氏と親戚であったが、よくブレた。なんとなくだが、三河・遠江地方、一回のブレは許されるが、二回ブレると許されない感じを受ける。さて月ケ谷城主郭への登山道は程良く手を入れてくれてあり、山城登城を楽しむには丁度良い感じだ。主郭には大きなヤマモモの木があり、御神木の雰囲気がある。遺構は虎口や郭跡などわりとはっきり残っていて楽しめる。浜松方面から姫街道・嵩山宿を散策しながらの城巡り、登山口入口がなかなかわからず苦労したが、五本松城もセットでまわって楽しめた。
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2020/03/27 21:35
政宗が陰で操ったと噂の大崎・葛西一揆拠点の城 (2016/04/11 訪問)
平成28年4月中旬桜に浮かぶ涌谷城を終えて北方向約20km程の登米市佐沼城を初登城。
車は佐沼城の南側に在る公園駐車場を利用。 南側の登城階段から本丸へ、本丸周囲に土塁、東に櫓台現在は神社が鎮座、東は迫川が外濠の役目か?河岸段丘の丘城、東緩い崖、西虎口が本来の大手現在は神社の階段参道、本丸周囲に内濠、余湖図コレクションさんの俯瞰図では本丸を二の丸が囲み中濠、大沼が囲み、更に四の丸三の丸が囲む梯郭式城郭、現在は本丸のみ遺構残ってます。
西に明治期を迎えた亘理氏邸と博物館が在る。
小田原合戦に参陣しなかった大崎氏葛西氏が合戦後秀吉の奥州仕置きで改易、新しく秀吉家臣木村氏が新領主として太閤検地を行うが大崎氏葛西氏の旧家臣の一揆で拠点の寺池城を追われて佐沼城に逃げ込むが捕られられ、伊達政宗、蒲生氏郷に救出され、木村氏は改易、大崎葛西一揆を操ったのではと秀吉の嫌疑が掛り秀吉に釈明上京、政宗書状の伊達の家紋の雀に目が在る無いとかで大河ドラマの一コマに成ってましたが、旧領は一揆後政宗に与えられ政宗重臣の津田氏が城主、江戸期は佐沼要害とし継承するも故あって江戸中期改易、後亘理氏が佐沼に移り明治を迎える。
桜も咲いており月曜日でしたが何人か城址公園に来て居ら得ました、薄曇りでしたがここも桜で装われて居りました。
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2020/03/27 19:19
地元の方に感謝です。 (2020/03/21 訪問)
新しく専用駐車場と案内板がお出迎えしてくれた「島崎城」で感動しました。
行方 宗幹さんの息子、高幹さんが築城し島崎を名乗ります。
島崎氏はこの辺りの同族を攻め、諸豪族のTOPになりました。
その後、常陸国を安堵された佐竹 義宣さんが島崎氏をお花見だと誘い謀殺し島崎氏は滅亡、「島崎城」も廃城しました。
島崎氏、やっつけておかないと佐竹氏もヒヤヒヤするような方だったのかな?
駐車場から「島崎城」の入口が分からず困っていたら畑仕事をしていた方が声をかけてくれました。
駐車場から写真③が見えますが、ぐるーっと道を回らないと到着しません。
駐車場を背に、左に向かい左折。すぐに細い道があるので、左折すると写真②③の前の道に着きます。
写真③の階段は下の方は坂になっていて、滑ります。
帰りに分かったのですが、もう少し歩くと緩やかな登り道もありました。
登ってしまえば遺構が見えます。虎口、掘り、曲輪と良い状態で保存してありました。
戻って畑仕事の方に挨拶すると「島崎城」、まだまだ整備をして奥まで見られるようにするそうです。
多分、この方も保存会の方だと思います。
見どころを教えてくださいますし、今度「島崎城」の縄張り図を置いておくとも言ってました。
本当に感謝します!ありがとうございました。
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2020/03/27 17:50
岩村城下町 (2020/03/19 訪問)
ここは、私が1度は来たかった城址! 念願かないついに来ました。 まず、城下町を散策 朝ドラ 半分青いのロケ地だけあり風情が最高 気分が上々 食べ歩きとお土産買っていよいよ城址へ、その車で裏から上がれば簡単ですがここは、城下から城攻めのつもりで・・・前半は結構きついですが石垣が見えてくると疲れはどこかへ。見事な石垣に圧倒されながら歩く事40分程で本丸へ。 この岩村城は織田信長が本能寺の変80日前に訪れたようです、この時は武田氏を滅ぼして有頂天だったのに運命はわかりませんね。 とても良い城址で気に入り初めての御城印を買いました。
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2020/03/27 10:33
2020/03/26 23:14
桜の名勝涌谷城 (2016/04/11 訪問)
平成28年4月中旬政宗の居城岩出山城を終えて東に約30km広々とした田園を眺めながら走行し涌谷町の涌谷城涌谷要害へ初登城。
桜満開で桜に浮かぶ絶景の中の探訪と成った、車は城域に入り二の丸の先本丸下の駐車エリアに停める月曜日で空いていたか?
二の丸南端に高石垣が残りその上に二階隅櫓、太鼓堂と呼ばれてる、三階建ての模擬天守閣は資料館、二の丸奥に一段上がって本丸涌谷神社が鎮座。
涌谷城はもう一つの伊達騒動、原田甲斐の相対側で非業の最後を迎えるが勝ち組として明治まで存続発展した。
涌谷はもう一つ聖武天皇の御代、国内で初めて金の産出し東大寺大仏の金鍍金が可能と成る、涌谷城の北側近くに天平ろまん館と黄金山産金遺跡が在る。
天守閣史料館でじっくりと勉強できます。
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2020/03/26 22:47
福江城
廃藩置県までわずか8年という限りなく近代に近い時代に築かれながら、その構えは同時代の松前城や五稜郭とは異なりほぼ純粋に近世城郭。城を持つことを代々の悲願としてきた五島氏の熱い思いが反映されたものか。
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2020/03/26 22:37
興味深い縄張り (2020/03/26 訪問)
非常にユニークな縄張りで、以前から興味がありました。主郭から山麓に向けて棚田のように曲輪が存在しています。東側は断崖、西側は大きな竪堀で守られています。この大竪堀がこの城の魅力の一つです。他にも西側には何本か竪堀があり、曲輪C09という表示板近くには石垣も一部残っています。南には粕川があり、北側である主郭の背後には堀切があり土橋を見ることができます。
駐車場から主郭までは約20分くらいで行くことができます。道はありますが、トレッキングシューズで行くことをお勧めします。
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2020/03/26 22:18
揖斐氏の城 (2020/03/26 訪問)
折れ曲がった地形の連郭式の山城で桝形虎口、竪堀、堀切などを見ることができます。井戸が二ノ丸の南側山腹にあり、今でも水を湛えています。登城路はいくつかありますが、自分は三輪神社から登城しました。養老鉄道揖斐駅から徒歩約20分で登城口のある三輪神社に着きます。そこから城域まで約25分くらいでしょうか。登城路はよく整備され、曲輪などの表示も充実していて概ね見学しやすい城址です。井戸へ行く道だけは細く崖っぷちなので要注意です。縄張り図には西の丸曲輪、大手曲輪が描かれていて行こうとしましたが、道がわからず断念しました。
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2020/03/26 22:03
城山公園 (2020/03/26 訪問)
城址は城山公園となっていて、車で上がれます。城址碑はありますが、遺構はよくわかりません。
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2020/03/26 21:48
あま~~~い! (2014/04/05 訪問)
京王多摩線・京王稲田堤駅から南西に進み、三沢川が北西に曲がる場所のところにある登城口より散策開始。
そこから尾根道をひたすら進み、最後は読売ジャイアンツ球場まで駆け抜けましたw
訪問時期がお城見学はじめて間もない頃だったせいか、遺構が良く解らず(井戸跡はリアルタイムで確認できた)・・・
今日up時に写真見て空堀と思われるものと現地解説にあった推定物見台の土盛がようやく確認できたという(笑)
そもそも戦国時代より前にその地形を利用してお城にした場所なので、技巧的な遺構はそもそも存在しなかったと思われます。
代わりに曲輪系の平坦地が至る所にかなりの面積あったのが印象的。
(そのせいか、ピクニックやハイカーの方が至る所にいらっしゃいました)
当時解説・案内関連がほぼ主郭周辺にしか無かった為に散策スルーしまくりの駆け抜け登城だったので、現在の巷の騒動沈静したらウォーミングアップ的に再訪しようかと思っております。
(比高がそんなに高く無い甘~~い設定の山城なので(さすが小沢さん・・・もとい城w)、運動不足のリハビリには最適かも)
登城口は複数ヶ所ありますが、主郭附近だけ見るのであれば穴澤八幡宮(巨人軍関係者がよく参拝に訪れるとの噂あり)からの登城口が良いかもですが、ここからだと結構厳しそうな登りになってました。
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2020/03/26 20:34
奥平氏・武田方・徳川方 (2020/03/01 訪問)
【亀山城】
<駐車場他>城跡の東側専用P・城跡南側登城口前
<交通手段>車
<見所>曲輪・横堀
<感想>日帰り新城市攻城の旅1城目。愛知県新城市にあるお城には御城印が多く頒布されているので、購入目的と2018年に古宮城を攻めた時に攻めそこねた亀山城に攻めに来た。
山城表記となっているが、比高はそんなになくて丘城といった感じ。典型的な中世の山の形状に沿った曲輪の配置で南北に縦長な感じで広がっている。国道から見える城跡看板のある所が主郭で主に南北と主郭の東側に広めの曲輪が多くあります。東側の駐車場もかつては曲輪だったようで、横堀跡と石垣の崩れた遺構があります。笹が多く生えているので曲輪の輪郭がちょっと見ずらいところはあります。
私の勝手な憶測の推察は奥平氏が武田氏側についたのが1570年頃、古宮城の築城が1571年?で味方になった後から築城していたとしたら奥平氏にとっては人質も捕られ、裏切ったらすぐに攻めてこられる相当な圧力(それは古宮城がどうしても徳川攻略の亀山城の後ろ竪の城には見えない武田流堅固な城である)で、さらにもしかしたらその古宮城の物資も供給していたかもしれない。結果的に1573年に再び徳川方についたのがそのような理由かもしれないかもと思った。
城の規模からしたら断然亀山城の方が大きいし、作手地方の領主なので奥平氏が城を放棄するまで武田方も攻めとれなかったのであろう。やっぱり2城見比べてよかった、この地域は色々思いをめぐらせる楽しい場所です。
<満足度>◆◆◇
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2020/03/26 19:46
白石城 (2020/03/25 訪問)
桜ももうすぐです
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2020/03/26 19:42
出羽丸岡城 (2020/03/26 訪問)
しっかり整備された公園です
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