畝状竪堀群と切岸と
(2020/01/19 訪問)
鎌倉中期に遠山景重が築いた城で、明知遠山氏が代々城主となりましたが、戦国後期には武田氏と織田氏の争奪戦の舞台となって落城と奪還を繰り返し、武田氏が滅び織田氏が衰退した後も、豊臣氏と徳川氏の争いの中、城主(城代)は何度も入れ替わりました。関ヶ原の戦いにおいて、東軍についた遠山利景は小里氏らとともに明知城を奪取、その功績によりようやく旧領に復帰することができましたが、その十数年後、一国一城令により明知城は廃城となりました。
最高所の本丸と東下の二の丸、そこから南に土橋を渡った出丸の3つの曲輪を中心に、その周囲を横堀(と堀切)がほぼ一周し、横堀からは多数の竪堀が放射状に伸びています。特に、本丸北側の畝状竪堀群は規模も大きく状態も良く見事の一言! また、出丸をはじめとする各曲輪の切岸も高く急峻で、猿戻しと呼ばれるのも納得です。他にも、出丸の巨石列に柱石(旗竿石、手水鉢とも)、搦め手の貯水池や稲荷神社登城口付近の土塁など、見どころ盛り沢山です。
竪堀と横堀と堀切で敵の移動を制限した上で、急峻な切岸の上の曲輪から狙い撃ち。山城(土の城)の基本をこれ以上ないほどの形で見ることができ、大いに見応えがありました。大河ドラマ効果か、先達の投稿にある藪もきれいに刈られて見やすくなっていますし、今年が見ごろでしょうか。
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