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刑部

見所は石垣 (2018/05/04 訪問)

転用石を使った石垣が見もの、神仏を重んじた光秀とは思えない。それでも早期に築城が優先したのでしょうか・・・。

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夏の雪だるま

留守氏の城 (2016/05/14 訪問)

宮城県仙台市の岩切城です。「別冊歴史REAL日本の山城100名城」に掲載されていたので、訪れてみました。平泉藤原氏の滅亡後、源頼朝が重臣伊沢氏を陸奥国留守職に任命、伊沢氏は留守性を名乗り岩切城を築き居城としたとされます。七北田川の水運に恵まれたこの地はこの地域の政治経済の中心地として大いに栄えたとされます。1346年足利尊氏が奥州管領として吉良氏・畠山氏を任命しますが、足利氏内部で兄尊氏と弟直義の対立が激化、吉良氏と畠山氏も二派に分かれ争い、留守氏は畠山氏と共に尊氏側に加担し、1351年岩切城に籠城するも、直義側の吉良氏・和賀氏等の攻撃を受け岩切城は落城、留守氏の勢力は衰えたとされます。その後留守氏は奥州管領となった大崎氏に従い勢力の回復を図ります。戦国時代になると勢力が強くなった伊達氏と結び1567年伊達晴宗の三男政景を養子に迎えます。政景は留守氏家中の反伊達派を撃ち、北方の大崎氏や葛西氏に備えるため北東にある利府城に1570年居城を移し岩切城は廃城となっています。岩切城は標高106mの高森山を中心に高森山頂部に本丸、その東南に二の丸、それに続き三の丸が配されています。さらにその東側の尾根にも多数の郭が配されて、規模の大きな山城となっています。城は県民の森にあり、道路沿いに城址碑がありそこが入口となっています。

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夏の雪だるま

仙台城の前の政宗の城 (2015/09/20 訪問)

宮城県大崎市岩出山町にある岩出山城です。
岩出山城は、北羽前街道と羽後街道が交わる交通の要衝に足利氏一門の奥州探題大崎氏の重臣氏家直益が応永年間(1394~1427年)に築いた山城です。
豊臣秀吉の小田原城攻めに参陣しなかった大崎氏は1590年の奥州仕置によって改易となり、大崎領は豊臣秀吉の家臣木村吉清に与えられましたが、検地等への不満から一揆が発生。この責任を取らされ木村氏は領地没収となり、1591年米沢(山形県南部)から伊達政宗が葛西・大崎旧領(岩手県南部・宮城県)へ移封となりました。当時、奥州検地を行っていた徳川家康が約40日間在城し城を改修し、伊達政宗に引き渡したとされています。
1593年第一次朝鮮出兵文禄の役では、京都で行われた出陣式で伊達軍は黒漆の具足や銀箔の太刀などで統一、京都の民衆はさすが伊達者と叫んだとされ、そこからおしゃれな男性を「伊達者」と呼ぶようになったと言われています。
1599年政宗33歳の時、長女五郎八姫と徳川家康の六男松平忠輝の婚儀が成立、これ以降政宗は徳川派となり、1600年の関ヶ原の戦いでは、石田三成派の上杉景勝と戦い宮城県南部にある上杉氏の白石城を攻め落としています。
以降1603年に岩出山城から南約50㎞の仙台城を築城し移るまでの12年間、伊達政宗の居城となり、その後、岩出山城は、政宗の四男宗泰を初代とする岩出山伊達氏が1万5千石を領し幕末まで続いております。
城は、江合川南岸の標高108mの丘陵東端に築かれ、本丸は東西32m、南北205m、入口には石垣が組まれ、本丸の西側に83m四方の二の丸、三の丸が配され東西800m南北700mの大規模な城郭だったと伝えられます。本丸には、仙台城本丸に現在有る伊達政宗公銅像が1962年に設置されたことにより、かつて仙台城本丸にあったコンクリート製(第二次大戦の金属回収令で撤去された銅像の代わりとして設置)の伊達政宗の移設された像があります。
今、本丸は公園、二の丸は岩出山高校、岩出山小学校となり、北側には藩校として現存する最古の建物である国史跡指定の有備館があります。

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夏の雪だるま

伊達騒動の原田甲斐の城 (2016/05/14 訪問)

宮城県柴田町の柴田城(船岡城)です。山本周五郎の伊達騒動を題材とした小説「樅の木は残った」で有名な原田甲斐の城で、現在、観光地として多くの人がおとずれる公園となっています。伊達騒動は史実では1660年伊達4代藩主に2歳の綱村が就任。叔父の一関藩主伊達宗勝が実権をにぎり藩政を専横。奉行の原田甲斐も加担。これを一族の伊達宗重が幕府に上訴。幕府大老酒井家で審問が行われた時、原田甲斐が宗重を斬殺。原田甲斐は大老家臣に斬り捨てられたとされます。このため、原田家は一族が処罰され断絶。一関藩宗勝は改易となっています。小説では、原田甲斐は伊達藩を幕府の改易から守った英雄として描かれています。城は、東北本線船岡駅から西南の丘陵北端に築かれ、72m四方の本丸、54m四方の二の丸、126m四方の三の丸が配されています。城の起源はあきらかではありませんが、1200年鎌倉幕府に背いたとして攻め落とされた芝田館が当城とされます。戦国時代にはいり、伊達氏家臣の四保定朝が城主となり四保館と称し、二代宗義の時、四保氏から柴田氏と改めています。1593年柴田氏は所替えとなり、屋代勘解由が一時城主となりますが、1617年原田宗資が城主となります。1671年原田家当主宗輔は伊達騒動により徳川幕府大老酒井忠清邸で斬死し、原田家は断絶。城は幕命によりすべての建物が壊され城地も深さ1mも掘り下げられ表土を捨てられたとされます。その後1684年柴田氏が城主となり三の丸に居館を建て、明治維新を迎えています。城は公園化され大変きれいですが、遺構はほとんど残っておらず残念です。

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夏の雪だるま

一夜城 (2016/05/28 訪問)

神奈川県小田原市にある石垣山一夜城です。小田原城の北条氏攻めのため豊臣秀吉が小田原城西方3kmの標高257mの笠懸山に80日程をかけ築城、この時白紙を戸板などに張り付け白壁のように見せかけ、完成後前面の杉林を夜中に切り倒し、このため翌朝一夜にして現れた大城郭に北条方は恐れおののいたと言われます。一夜城と言われる由来です。しかし、にわか作りではなく、城は総延長1.9kmの石垣が造られ本丸、二の丸、西曲輪、井戸曲輪など多数の曲輪を配し東西275m南北550mの規模の大掛かりな城郭となってます。城はその後、関東に移封となった徳川家康の家臣小田原城主大久保氏により要害として管理されたとされますが、いつ頃廃城となったか定かではありません。現在城は、石垣山一夜城歴史公園となっています。城へ向かう農道沿いには参陣した武将たちの説明板があります。当日はJR早川駅から徒歩で石垣山農道を行き30分程でした。車でも公園入口に駐車場がありますので大丈夫です。

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刑部

天空の城 (2018/05/03 訪問)

私がずっと来たかった城の一つです!
映画のロケ地にもなった城址 やはり素晴らしい!
今回シャトルバスを利用しましたが次回は駅から歩いて登城したいと思います。

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夏の雪だるま

北条氏の居城 (2016/05/28 訪問)

神奈川県小田原市にある百名城の一つ小田原城です。鎌倉時代初期土肥遠平がこの地に館を置いたのが始まりとされます。1416年上杉禅秀の乱で土肥氏は禅秀に味方して敗れ、小田原は大森頼春に与えられ本格的な城として築城されます。1495年伊豆の北条早雲が突如小田原城を襲い大森氏から城を奪取、以来北条氏の本城として氏綱・氏康・氏政と城を改修・拡張が続けられたとされます。1561年上杉謙信、1569年武田信玄の攻撃を受けるも撃退、難攻不落を誇っています。北条時代の小田原城は城下町をすっぽり包んだ総構が特徴で、土塁・空堀の総延長は9kmとも12kmとも言われる大城郭で、現在の小田原城から北西の小田原高校周辺が主郭とされ、現在の小田原城を含む東西約2.8km南北約2.4kmの規模であったとされます。しかし、1590年豊臣秀吉が20万と言われる大軍により小田原城に押し寄せ、約6万の兵で小田原城に籠城した北条氏も3か月で降伏開城。関東は徳川家康に与えられ、小田原城は家康家臣の大久保氏が4万石で城主となりますが、1614年改易となります。その後数々の城代が置かれますが、1632年稲葉正勝が城主となり翌年の大地震で倒壊した城を大改修し本丸・二の丸・三の丸を築き近代的な城郭にしたと言われます。1685年稲葉氏が越後高田に転封となると大久保氏が再度城主となり明治維新まで続いています。明治維新により天守などは解体されますが、現在城は本丸・二の丸が小田原城址公園となり、三の丸は小学校や文化会館、住宅地となっています。市政20年復興事業により昭和35年天守閣が再建、その後も常盤木門が昭和46年に、銅門が平成9年に、馬出門が平成21年に再建されてます。

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夏の雪だるま

住宅街の中の城 (2016/05/19 訪問)

神奈川県横浜市鶴見区にある寺尾城です。急用で上京したおり、要件も片付き帰りまで時間がとれたので、横浜市ホームページに掲載された「なぞに包まれた中世の寺尾城」を見て住宅街の中にあるとのことで、興味を持ち訪れてみました。寺尾城は戦国時代、小田原北条氏に仕えた諏訪三河守5代百数十年にわたる城です。1435年頃には城主としてこの地域を治めていたとされます。小田原北条氏が勢力を伸ばすと北条氏の旗本相模衆十四家の一家に加わる豪族となっています。1569年武田信玄の小田原侵攻のさいに寺尾城は落城したとされます。殿山公園から西方の丘陵一帯が城跡とされ、東西300m南北300mの規模とされます。平成5年の発掘調査では、空堀は深さ3m、幅6m程あったと言われ、現在も一部に空堀や土塁が残るとされますが、現地を歩きましたが住宅地となっているため遺構はわかりづらかったです。川崎鶴見臨港バスの宝蔵院入口バス停から見える坂道登口に寺尾城址説明板があり、住宅地に上がる坂道を登り丘陵頂部付近の住宅街の中に寺尾城址碑があるようですが、疲れていたせいかその前を通ったのですが、見逃してしましました。また、住宅街の南側麓には殿山公園がありそこにも説明板があります。現地は丘陵地を住宅街としたせいか坂道が急で道も細く入り組んでいました。

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夏の雪だるま

北条と武田の攻防の城 (2016/05/29 訪問)

東京都八王子市にある滝山城です。1521年武蔵の有力豪族の大石定重が築いたとされます。しかし、大石氏は北条氏の圧力に対抗できず北条氏の軍門にくだり北条氏康の三男氏照をを養子に迎えています。当主となった氏照は滝山城を大幅に拡大整備、本丸、中の丸、二の丸、千畳敷、三の丸、小宮曲輪を配した大規模な平山城とされます。城は多摩川と秋川の合流点の丘陵部に造られ、北側と東側は多摩川を、西側は谷地川を天然の堀とし、南側は複数の曲輪で守られています。1569年武田信玄が2万の軍勢で北条領へ攻め入り、多摩川の対岸に本陣を張り、北条氏照以下2000名が守る滝山城を武田勝頼を先鋒として攻撃したとされます。戦闘は苛烈を極め、氏照も先頭に立ち戦い手傷を負いながらも指揮を取るも三の丸が落ち、二の丸でなんとか防いだとされます。信玄は兵の消耗を嫌い軍を小田原城へ向けたとされます。このことにより、滝山城の防備に不安を感じた氏照は、天険の地に八王子城を築き1587年頃には移り、滝山城は廃城になったとされます。当日はJR八王子駅から路線バスに乗り滝山城址下バス停で降り、徒歩5分程でした。車の方も駐車場30台があります。城址ではアプリをダウンロードしスマホをかざすと滝山城の建物などが見れるようになってます。

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夏の雪だるま

激戦の城 (2016/05/29 訪問)

東京都八王子市にある八王子城です。滝山城を居城としていた北条氏照が1569年北条領に侵攻してきた武田信玄に攻められ三の丸を落とされ落城苦戦した経験から、1570年代に要害の地である八王子に築城したのが始まりとされます。1587年頃豊臣秀吉の北条攻めに備え八王子城に居城を変えたとされます。城は標高460mの深沢山の急峻な山頂に本丸、本丸直下の山頂周囲に松木曲輪、小宮曲輪、中腹に高丸、金子丸、麓に南北40m東西100mの土塁に囲まれた御主殿と呼ばれる城主の館があります。1590年豊臣秀吉の小田原攻めが始まると城主の北条氏照は主力を率いて小田原城に籠城、八王子城には家臣の横地監物が1000の兵と農民・領民・婦女子を含め3000名で籠城。これに対し北国勢の上杉景勝・前田利家の1万5千が攻撃。多勢に無勢で1日で落城したとされます。その後小田原開城により北条氏照は兄氏政とともに切腹。氏照の死の100年後、八王子城の麓に氏照家臣の子孫で水戸藩家老となった中山氏が氏照の供養塔を造っています。当日はJR高尾駅からバスで行きました。土日は八王子城址まで1時間に1本のバスが運行されていますが、時間が合わず約10分毎に走る路線バスで都道61号線沿いの霊園前バス停で降り徒歩15分で城址を訪れました。麓の御主殿は楽に回れましたが、標高460mの本丸までは登山のような急坂の道で、キャラバンシューズ等が望ましいです。本丸は詰めの城のような感じで、本丸下の曲輪は多少の広さはありますが、本丸は物見台程度の小さな広さで城址碑と小さな祠があるのみです。

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夏の雪だるま

巨大城郭 (2016/05/19 訪問)

東京都にある江戸城(皇居)です。江戸城は1457年太田道灌によって根城・中城・外城の三曲輪による城として築かれています。1486年道灌は主家扇谷上杉氏に誘殺され、その後、扇谷上杉氏の本拠となりますが、1524年北条氏の攻撃により陥落、以降、北条氏の武蔵統一の前進基地となっています。1590年豊臣秀吉の北条氏征伐では、前田利家・上杉景勝の大軍に包囲され開城。北条氏が滅亡すると徳川家康が居城をここに定めています。以来、家康・秀忠・家光の三代に渡って西の丸、北の丸の増設や外郭の整備が行われ江戸城の総構が完成、空前の大城郭で千代田区の範囲が江戸城域とされます。江戸城天守閣は1607年秀忠の時完成、その後大改築され1638年家光の時に国内で最も大きい天守閣となっています。外観5層、内部6階で地上から58mの高さと言われますが、1657年明暦の大火で全焼、以後再建されませんでした。明治維新以降江戸城は皇居となり、東御苑と呼ばれる本丸・二の丸・三の丸の一部は月曜・金曜を除き公開されています。平成28年11月15日から東御苑内の富士見櫓が一般公開されています。

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勝野武士

加古川評定の舞台。吉親ェ… (2019/01/19 訪問)

高砂城と高砂町探訪を済ませたついでに寄ってみました。
個人的には十数年以上ぶりの訪城となりました。

築城年はかなり古く、遅くとも承久3年(1221年)以降には築かれていたようです。
この地は西国街道(山陽道)を監視出来るような立地でした。実際、明治に入るまで防備上の観点から加古川に橋が架けられることはなかったので、街道での防備上それなりに重要な地点だったようです。
加古川の水運も監視できますし、渡し船の船着場の跡もすぐ近くですし。

さて、話を戻しましょう。
どんな城だったかというと、『播磨鑑』によれば五十間(約90m)四方の規模であったらしい。城壁には狭間が空けられ、堀をめぐらして逆茂木を設けて、敵が容易に接近出来ないようにしていたらしい。
『播磨鑑』を真に受けると、城というより方形の居館に近かったようです。

また、江戸時代後期の絵図『播州三木城地図』に「加古糟谷城跡」として書き込まれてるようで、それによると堀と空堀で囲まれた三つの曲輪を持つ城であり、二十間(約36m)四方の一の曲輪、二つの櫓を持つ二の曲輪、それらとは独立した二十間(約31m)×四十間(約72m)の出曲輪から成っており、大手には階段、外周には土塁が作られていたという、『播磨鑑』とはまた違った内容も。

もっとも、『播磨鑑』の古い記述が享保4年(1719)。
んで、廃城が元和元年(1615)。
実に104年も経ってから書かれた文献なので、信憑性としては何とも微妙…。
『播州三木城地図』に至っては時代がさらに下る資料なので、言わずもがな。

発掘調査もされていないようで、はっきり言って実像が謎だらけの加古川城ですが、やはり有名なのは加古川評定でしょう。
詳細は省きますが、別所長治の代理として出席した別所吉親が秀吉を見下して軍議を決裂させたばっかりに、結果的に『三木の干殺し』の憂き目に遭うんですね。そして吉親は一人徹底抗戦の姿勢を貫こうとして開城間際に城兵に殺されちゃうという、何とも因果応報な結果に…。

播州攻めでいち早く秀吉に味方した糟屋氏。武則の代になると賤ヶ岳七本槍で有名となるほどの活躍ぶりで秀吉に大いに貢献。最終的に播州加古川一万二千石の大名に出世するのですが、時流を読み誤って関ヶ原で西軍に与して敗北、改易されてしまいます。
そして元和元年(1615年)6月15日付けで破却。廃城となってしまうのです。

現況ですが、称名寺一帯が城跡とされています。
残念ながら、表立って明確な遺構はほぼ皆無といって良い状況です。
しかし実際に訪れてみると、称名寺周辺に溝や水路など、思わせぶりな痕跡が。
地図を拡大してみると大きめの水路がしっかり書き込まれており、何らかの関係がありそうな??
山門の左右とかも微妙に起伏があります。
…まぁ、公的な調査資料がない以上、ほとんど推測しか出来ない現状です。

車で訪城の際は、称名寺門前の駐車場を利用すると良いでしょう。但し、あくまでお寺の駐車場なので、必要以上の長居は良くないかもです。
ニッケパークタウンの駐車場をお借りして寺家町(商店街が西国街道の加古川宿にあたります)探訪のついでに徒歩での訪城が無難です。
また、称名寺周辺は住宅密集地でもあるので、特に写真撮影などの際はくれぐれも不審者に間違われないようにw

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todo94

続日本100名城スタンプ87個目 (2019/01/13 訪問)

本当は吉野ヶ里から太宰府展示館に向かって大野城のスタンプをゲットしたかったのですが、太宰府天満宮に向かう車で大渋滞が発生していて太宰府展示館に行くことは諦めました。センター試験の前の週で参拝者が多かったのでしょうか。渋滞を避けて水城館にアクセス。昨年7月、豪雨のための休館で入れなかった水城館に入ることができました。リーフレット類もたくさんいただきました。

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曲輪姫

福山散歩 (2019/01/19 訪問)

2度目の参城です。本日も晴天なり。青空にお城がよく映えます。
いつ行っても駅裏ってことを忘れる閑静な城内。
居心地最高です。
前回見なかった城主・水野勝成公の寿碑もしっかり見ました。木々に覆われてひっそりと立つ寿碑。
これは見逃してしまう、、

1日4回、鐘櫓の鐘が鳴るとのことで、正午にその音を聞くぞ!と思っていたのに、お腹がすいてレストランに吸い込まれたので聞けず。。
またリベンジします!

そして今日は福山城に関係する神社、お寺も巡り御朱印をいただきました。(三蔵稲荷神社、阿部神社、備後護国神社、福山八幡宮、聡敏神社、艮神社、賢忠寺、草戸稲荷神社、明王院)
お城を守り、城下町繁栄を祈る神社やお寺がその時代から今まで続いているんだなぁ~心が洗われます。

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勝野武士

港町高砂の繁栄の礎?? (2019/01/19 訪問)

縁結びとか播州の秋祭りで有名な高砂神社。この境内一帯が高砂城の本丸跡といわれています。

元々の高砂城は羽柴秀吉の播州攻めで別所方に与し落城の憂き目にあっています。
その後、池田輝政によって大改修された(その際古くから現在地に鎮座していた高砂神社は北西に遷座させられ、その地に本丸が築かれた…ていうことは、天正期の高砂城は別のところにあった??)。
しかし、徳川幕府の一国一城令によって廃城。
本丸跡には、当時の姫路城主本多忠政によって再び高砂神社が遷座され、その周辺は港町・高砂町として発展してゆくことになります。

過去にも何度か訪れたことのある高砂神社…もとい高砂城。今回は高砂町の街並み探訪も兼ねて再訪してみました。
城跡としての面影は、平城の宿命か、それとも江戸時代以来の港町の繁栄に埋もれてか、ほぼ皆無に近いです。境内には石碑が建っています。
神社の外周を歩いてみると、玉垣の下や塀の下の基礎などに大振りな石材が使われています。なんと高砂城の石材が使われているのだそう。いわれてみればそう見えてくるからフッシギー。流石に当時の場所そのままってことはないかもしれませんが、訪れた際は是非探してみて下さい。
高砂神社の北には南堀川(運河、船着場)がありますが、高砂城の堀をそのまま利用したものでしょうか?
町内の案内板を見ても、なんとなく城の縄張っぽい感じがしますね。実際のところは詳細な構造は不明なままなんですが、果たして??

なお、高砂町一帯には格子やうだつのある建物があちこちに残っています。中でも工楽松右衛門旧宅とその周辺の蔵や発掘された南堀川の雁木や石敷きなど、港町としての繁栄を物語る見所がいっぱいで、歩いていてとても楽しかったですね。

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くろもり

慶長出羽合戦を疑似体験 (2013/12/07 訪問)

山形駅から徒歩で長谷堂城へ。片道7kmで2時間弱と少々距離はあったのですが、山形駅は山形城に近いので(江戸時代だと山形城三ノ丸に位置)、山形城主・最上氏視点での山形城から長谷堂城救援の行軍を体験できました。

長谷堂城に着いたので、今度は上杉軍視点に切り替えます。長谷堂城は、山形平野の南にポコンと突き出た小山で、愛知県の小牧山城くらいの規模に見えました。「こんな小山の城、落とすのに造作ないのでは?」と思って登城しましたが、実際に城山の縄張を歩いてみるとその考えははっきり打ち砕かれました。とにかく、帯曲輪・曲輪の数がべらぼうに多く、虎口で敵を防ぐ・帯曲輪から攻撃・その上の帯曲輪から攻撃・そのさらに上の帯曲輪からも攻撃可のような構造になっている所が至所にあり、こんな構造の城を力攻めで落としても、被害甚大で山形城の攻略に影響が出ていただろうなと恐怖しました。

城下に下りて、上杉軍の上泉泰綱(かみいずみ やすつな・通称 主水)公の討死の地へ。泰綱公は「剣聖」と呼ばれた上泉信綱公の孫と言われている方で、慶長出羽合戦の直前に上杉家に召し抱えられましたが、ここで討死したそうです。現在は一帯に田園が広がっているので、todo94さんのコメントにあるようにこの辺りは湿地だったのかもしれません。湿地に水堀にあの縄張のやべー城山に、山形城の最上軍と伊達氏の援軍の後詰まであると、直江兼続公も容易には手が出せなかったのかと思いました。

この後、山形城へ徒歩で向かうのですが、今度は上杉軍が長谷堂城を攻め落とした設定に切り替えます。山形城まで約2時間、甲冑具足をつけていても半日あれば、城下に殺到できる距離です。山形城に着いて、改めて長谷堂城主・志村光安公と鮭延秀綱公と城兵達が見せた武者振りに心から天晴れと思いました。長谷堂城が落ちていたら、最上氏は山形城を追われることになっていたと思います。

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ひろべえ

阿波九城の一つ (2018/04/01 訪問)

阿波国最南端の阿波九城の一つ、海部城へ。登城口がわからず小学校に行ったり、中学校に行ったりと右往左往しました。登城口は津波避難口を兼ねていました。未整備ながら小曲輪・石垣と予想以上の山城でした。整備して欲しいと願っていたましたが、有志の方々が整備にあたったいう内容が最近地元の徳島新聞で報じられていました。高速道路と連結していないので交通の便が悪いのですが、もう一度再訪してみたいと思います。

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ひろべえ

阿波九城の一つ (2017/05/27 訪問)

うだつの町並みで有名な脇町。阿波国のちょうど中間地点とも言える要衝の地。脇城とはどんな城か興味を持って攻城。案内がわかりにくいため、少し道に迷いました。何とか城址南麓の秋葉神社に到着。ここからの攻城だと車の置き場所に困りますが、短期駐車と腹を括って山道へ。山道を進んでいくので山城の雰囲気は味わえると思います。進んでいくと「脇城跡」の看板へ。一の郭と二の郭を分ける堀切の規模が竹藪だらけで未整備ですが、かなり大規模でした。一の郭は荒れ地で藪だらけですが無理やり入っていくと小規模な横堀あり。井戸を捜索しましたが見つからなかったので、たまたま二の郭付近でたけのこを取っていた方に聞くと平たいところ(一の郭の北側)にあるということで再捜索。藪の中からそれは突然現れました。囲っていないので、気をつける必要あり。たけのこ堀りの方に伺うと、私有地だから整備されていないとのこと。城跡として整備されたらもっと再評価されると思います。

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散歩 (2019/01/19 訪問)

 早朝、ホテルから散歩がてら行って来ました。遺構がもう少し残っていれば海に面した見ごたえのある城址だったのでしょうか。

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石垣の曲線美 (2019/01/18 訪問)

 沖縄の城壁に特徴でもある曲線が美しい城跡です。

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