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じゅんじん

吉川元春館麓より (2019/01/13 訪問)

石垣があります

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夏の雪だるま

斯波氏の居城 (2016/06/11 訪問)

JR盛岡駅から南約20kmにある岩手県紫波町の高水寺城です。標高180mの独立丘陵に築城されたこの城は斯波氏の累代の居城です。足利尊氏に奥州管領に任ぜられた斯波家長がこの城を本拠とし奥州の北朝方として活躍しています。室町時代になると斯波郡の領主として地位を確立、格式の高さから斯波御所と呼ばれたとされます。戦国時代に入ると南下攻勢をかける南部氏と争うようなり、1549年には岩手郡の雫石方面を攻略、雫石城に二男を、三男を猪去城に置き支配下を拡大しています。しかし北の南部氏の侵攻を受け次第に劣勢となり、また、配下の反乱が起こるなど弱体化、これを見て、1588年南部氏当主信直みずからが出陣、斯波氏は防戦するも南部氏の攻撃を受け滅亡しています。高水寺城を占領した南部氏は郡山城と改称、城代を配しましたが、居城として築城していた盛岡城築城に難航、一時この城を居城としています。しかし、盛岡城が完成するとこの城の建物は盛岡城に転用され、1677年廃城となっています。本丸(御殿)は東西60m南北120m、本丸の東南に二の丸(若殿屋敷)があり東西50m南北100m、本丸の北東に三の丸(姫御殿)があり東西30南北60mの規模で各丸には段状に腰郭が配され、城全体は東西700m南北1200mと大きな規模とされます。現在城跡は城山公園となっています。

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じゅんじん

女子駅伝を聴きながら (2019/01/13 訪問)

故郷愛知がいいレース・・・道を間違えて最後は急壁をよじ登って主郭につきました。駐車場に着いたところで優勝決定。静岡も入賞。
お城は意外に直線登山がきつかった。

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夏の雪だるま

遠野南部氏の城 (2015/09/14 訪問)

「歴史と民話の里」岩手県遠野市にある鍋倉城です。奥州藤原氏の攻めの功績により遠野地方を治めていた阿曽沼氏が、それまで居城としていた猿ケ石川右岸の横田城が、たびだび洪水の被害を受けたため、新たに猿ケ石川対岸の鍋倉山上に天正年間1573~1591年頃に築き居城とした城です。阿曽沼氏は豊臣秀吉の小田原攻めに参陣しなかったため、独立大名から南部氏配下とされます。1600年関ヶ原の戦いに南部軍として山形に遠野から出陣した時、一族の鱒沢氏が謀反を起こし鍋倉城を占領。鱒沢氏は南部家当主利直の妹を妻としており、南部氏の謀略とも言われています。阿曽沼氏はこのため、伊達政宗の支援を受け遠野を奪還しようとしますが、南部氏の加勢を受けた鱒沢氏が遠野を守り切り阿曽沼軍を撃退、阿曽沼氏は滅亡したとされます。その後、鱒沢氏も謀反の疑い有として南部氏に粛清され、南部氏は家臣を城代として遠野を治めましたが治安の乱れが続いたため、1627年一族の南部八戸氏を八戸根城から一万二千五百石で遠野に移封。以降、遠野南部氏として幕末まで続いています。遠野南部氏は御三家と呼ばれ、盛岡城に常勤したため鍋倉城には家老が城代として遠野を治めたとされます。城は遠野盆地の南方の標高340mの独立丘陵鍋倉山に築かれ、本丸に当主屋敷を置き、二ノ丸、三之丸に家臣の屋敷を配し、来内川を天然の内堀とし全体で東西350m南北450mの規模とされます。現在は、鍋倉公園として整備され、二ノ丸に遠野南部家墓所、三之丸に櫓を模した展望台があります。

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夏の雪だるま

和賀氏最後の戦いの城 (2016/06/11 訪問)

JR岩手県奥州市の北上駅から西約8kmにある岩手県北上市の岩崎城です。いつ頃築かれたかは定かではありませんが、南北朝時代にはあったとされ、飛勢城を本城とする和賀氏の一族岩崎氏の城です。城は和賀川と夏油川にはさまれた台地上に南北300m東西600mの規模で、本丸、二の丸、三の丸を有し、各郭は土塁と空堀に囲まれていました。1590年豊臣秀吉の小田原攻めに和賀氏は参陣しなかったため領地没収となり、この地は南部氏に与えられます。1600年関ヶ原の戦いで南部氏が出羽の最上氏支援に出陣、この隙をついて和賀氏旧臣が和賀忠親を擁し伊達氏の支援を受け兵2500で一揆を起こし南部氏の花巻城を包囲しましたが敗れ、飛勢城へ撤退するも支えきれず、岩崎城へ籠城。籠城後は伊達氏の支援も無くなり、翌年の1601年南部氏の攻撃より岩崎城は落城。忠親は伊達領に落ち延びた後、自害したとされます。一揆鎮圧後は、伊達氏に備える国境の城として修復され南部氏家臣が城代として置かれましたが、のちに廃城となっています。現在城跡は城址公園として本丸跡に模擬天守が建設されていましたが、老朽化と東日本大震災の被災を受け取り壊しとなり、現在は跡地に岩崎城址舞楽殿が建てられています。この時期になると草も伸び藪状態となり、手入れされていないところは歩道も歩けない状態となります。本丸から岩崎集落側の二の丸へ降りてゆく歩道があるはずなのですが、草で発見できませんでした。

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じゅんじん

名城 (2019/01/13 訪問)

要塞です。石垣の破壊が痛々しい。元就公にご挨拶してから上りました。旧本城は道が分かりにくいところがありました。

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夏の雪だるま

和賀氏の居城、別名飛瀬城 (2016/06/11 訪問)

JR北上駅から北約5kmにある岩手県北上市の飛勢城です。和賀郡を領した和賀氏の居城で和賀郡最大の城郭です。別名二子城。並ぶ二つの山に西側の山は物見、東側の山は八幡館が詰めの城として築城されています。いつ頃築城されたかは定かではありませんが、12世紀頃この地に任じられた刈田氏が和賀氏を称し築城したとされます。北上川に臨む標高130mの丘陵に築かれ東西500m南北1000mの規模であったとされます。城の麓に館群を配し北側より監物館・坊館・加賀館・八重樫屋敷・白鳥館・御台方屋敷・小田嶋屋敷・文殊院・大森屋敷・渋谷屋敷・斎藤屋敷などの名が残っています。城主の居館は白鳥館と言われ、主殿などが存在していたとされます。和賀領は周辺の稗貫郡領主稗貫氏や斯波郡領主斯波氏などとともに、南の葛西氏、北の南部氏の大勢力に挟まれており、特に南部氏がたびだび南下、このため和賀氏は稗貫氏と連合、また、出羽の小野寺氏などに援軍を求めるなどして対抗しています。しかし、1590年和賀氏は豊臣秀吉の小田原攻めに参陣しなかったため、稗貫氏とともに改易となり飛勢城には浅野長政家臣後藤半七が城代として置かれます。その後、改易となった大崎・葛西旧臣の一揆が発生、それに連なり和賀義忠と稗貫郡領主だった稗貫広忠も旧臣2000名で蜂起。飛勢城を奪いかえしますが、翌年、伊達政宗・蒲生氏郷により鎮圧され、和賀義忠は逃亡の途中土民により殺害、子の忠親は出羽国へ落ち延びています。1600年関ヶ原の戦いの時、和賀忠親は伊達政宗の支援を受け家臣残党を率いて蜂起。南部氏が守る花巻城を攻めるも敗退、飛勢城に籠りますが支えきれず岩崎城へ籠城するも落城。忠親は伊達領に逃れますが、政宗により殺害されたとも自害したとも伝えられます。

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じゅんじん

郡山城前のウォーニングアップ (2019/01/13 訪問)

元就誕生のお城だとか。よい準備運動となりました。

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夏の雪だるま

伊達藩領北の浮牛要害 (2016/06/04 訪問)

岩手県北上市の浮牛城です。いつ頃築城されたかは定かではむありませんが、安倍貞任が築城したとされます。鎌倉時代になり葛西氏七党の一人、岩谷堂城の江刺氏の子口内氏が戦国時代居城したとされます。しかし、葛西氏は豊臣秀吉の小田原攻めに参陣せず改易。口内氏も城を去り、その後伊達領となり南部領との境目の城として要害と称し伊達家家臣が在城。1695年には中島氏が城主となり明治維新まで続いています。城はJR北上駅の東約8km、岩谷堂城の北12km程の口内川北岸にあり独立丘陵頂部に本丸、東南側に二の丸、二ノ丸周囲には水堀が廻らされ、北東側は空堀が廻らされ、北側は断崖となっています。口内川両岸には家臣屋敷を配し中島氏は2524石の知行地でした。現在本丸は浮牛城農村公園として整備され二ノ丸跡・堀跡などに立札が設置されています。

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じゅんじん

15年ぶり (2019/01/12 訪問)

15年ぶりの広島城でしたが厳島→原爆ドーム→広島城 ・・・閉館直後に到着となってしまいました。

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夏の雪だるま

伊達藩最北の人首要害 (2016/06/04 訪問)

岩手県奥州市の人首城です。いつ頃築城されたかは定かではありませんが、葛西氏家臣で江刺郡を領した岩谷堂城主江刺重胤の二男人首如清が城主であったと言われます。1590年豊臣秀吉の奥州仕置により葛西氏は改易となり、伊達氏の一族沼辺氏が伊達領北辺の守りとして、この城に配され明治維新まで続き、城は人首要害と呼ばれたとされます。城の規模は東西188m南北104mで本丸は東西50m南北46mあり招魂社(護国神社の前身)が祭られています。本丸東側に一段高い二の丸があり東西36m南北50mの規模です。人首氏の時代は二ノ丸が本丸だったとされます。本丸と二の丸の間にも曲輪があり、伊達氏時代は搦手門、人首氏時代は大手門があったとされます。城の周りには堀が廻らされ、伊達領時代は西側に大手門があり、城への道、本小路は城内と称し家臣たちの屋敷町があったとされます。城は人首川に沿って東西に伸びた丘陵部にあり、岩谷堂城から北東13kmにあり遠野・三陸に通じる街道が分岐する交通の要衝の地で、現在は、館山公園となっています。

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じゅんじん

厳島 (2019/01/12 訪問)

神社に行く前に宮尾城へ。鹿さんに遭遇

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夏の雪だるま

南部藩の居城 (2015/11/03 訪問)

岩手県盛岡市にある盛岡城です。百名城の一つで東北では珍しい壮大な総石垣造りの城です。
南部氏は、青森県三戸町の三戸城を本拠とし、青森県・岩手県北部・秋田県鹿角郡を勢力下に置いていましたが、戦国末期後継者争いが起こり、それに乗じて津軽大浦城の津軽為信が青森津軽地方の南部方の城を次々攻略し青森県の西半分が独立。また、小田原攻めに参陣せず取り潰しとなった和賀氏・稗貫氏などの盛岡以南の領地が南部氏のものとなったことから、三戸では領地の北に偏りすぎるため三戸城から17km南の九戸城を居城としましたが、浅野長政のから当時、不来方と呼ばれていたこの地を本拠することを勧められ1598年から本格的に築城を開始。再三の河川の氾濫に苦しめられますが1615年頃にはある程度完成したところで、不来方から森岡と改め居城を移したとされます。しかし北上川等の氾濫により石垣が崩れたため築城を諦め、17㎞南の紫波町にある斯波氏の居城だった高水寺城を改修し一時本城しましたが、工事を再開することとし、初代藩主信直から利直・重直の3代36年をかけて1633年城を完成させてます。1691年盛りあがり栄える岡との祈りを込め現在の盛岡城と改名され、以後明治維新まで続いています。北上川と中津川の合流部の丘陵に造られ、本丸、二の丸、榊山曲輪、淡路曲輪を配し、それぞれに雄大な石垣を構築し内曲輪とし、内曲輪の北側に南部一族や家臣の屋敷を配して外曲輪とし、規模は南北1300m東西1100mと言われています。南部盛岡藩は当初10万石でしたが、その後、1664年新たに八戸藩2万石を分割したため8万石に。しかし、過去に領地を奪われた津軽藩が1808年石高の高直しにより10万石となったことから、津軽藩への対抗意識により幕府へ石高の高直しを要望し同年20万石となっています。明治維新の戊辰戦争では、南部藩は奥羽列藩同盟に参加し新政府方となった秋田久保田藩を山形庄内藩、仙台藩などと一緒に攻め、北では鹿角郡から侵入し久保田藩の大館城を攻め落とし、中央では奥羽山脈を越え久保田藩領内の田沢湖地方へ攻めいってます。これに対して津軽藩は新政府側に立ち久保田藩大館城へ武器等を援助してます。このため戦後、新政府より南部藩は減封処分、津軽藩は加増となっています。(2015.11.3訪問)

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夏の雪だるま

葛西一族江刺氏の居城 (2016/06/04 訪問)

JR金ヶ崎駅から東6kmにある岩手県奥州市の岩谷堂城です。いつ頃築城されたかは定かではありませんが、平安時代末期に奥州藤原氏となる清衡の父の藤原経清が居住した砦館が始まりとされます。経清は前九年の役で安倍氏に味方し敗死。その後奥州藤原氏の滅亡後、源氏の重臣葛西氏の領地となり、一族が江刺氏を名乗りこの地に居城しています。宮城県に本拠を置く葛西氏の北縁を守っていましたが、葛西家本家が各地の一族や家臣との対立により弱体化、奥州情勢が混迷を深める中、江刺氏は青森・岩手北部を領する南部氏と親交をもち、1566年秋田の安東愛季が南部領鹿角郡に侵攻した時、援軍兵300名を送ったとされます。しかし、1582年南部氏九戸政実の岩手南部への攻勢が始まり、葛西氏に背き九戸氏に従ったとされます。このように葛西家が混乱するなか豊臣秀吉の小田原征伐が始まり、小田原に参陣できなかった葛西氏は改易となり江刺氏も城を豊臣秀吉の奥州仕置軍に明け渡したとされます。そして、江刺氏はかつての縁により南部氏に召し抱えられています。その後、この地は伊達氏の支配下におかれ伊達氏家臣の岩城氏が城主となり岩谷堂要害屋敷と呼ばれ岩谷堂伊達家5000石の居館として幕末まで続いています。城は人首川に面した東側が断崖絶壁の標高115mの館山に築かれ東西400m南北850mの規模とされ本丸、二の丸を配していたと言われます。現在城跡は本丸が館山公園となり、二の丸が公園下のグランドとなり、城跡には土塁や空堀が残り往時の姿を偲ぶことができます。また、岩谷堂城御館坂の上の旧岩谷堂小学校グランドに三瓶家正門の三瓶門、西麓の興性寺に二の丸裏門が移設され現存しています。

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じゅんじん

公園 (2006/04/09 訪問)

奈良の町から一走り。公園となっていました。

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夏の雪だるま

天下統一最後の戦い (2015/09/11 訪問)

岩手県二戸市にある九戸城です。九戸城は、三方を川の断崖に囲まれた台地に15世紀末頃、南部氏の一族である九戸氏が築城したといわれます。南部氏24代晴政が1582年没すると、有力一族の石川信直と九戸実親の後継者争いが起こり、石川信直を支持する一派が強引に信直を当主とし、豊臣秀吉朱印状により公認。これに不満を持つ九戸氏一派が1591年挙兵し信直派の城を攻撃。もともと領土拡大に貢献した主力の南部氏精鋭部隊であった九戸氏を鎮圧することは信直派には難しく、豊臣秀吉に援軍を要請。この当時、小田原参陣せず取り潰しとなった、奥州の小大名達の大規模な一揆が多発していたため、これらの鎮圧も含め秀吉は大規模な奥州仕置軍を編成。各地の一揆を鎮圧しながら北上、9月初めには蒲生氏郷・浅野長政・井伊直正・南部信直を含め近隣の諸大名の総勢6万が城を包囲。これに対して九戸派5千の兵が籠城。九戸城は西の馬淵川、北の白鳥川、東の猫淵川を天然の外堀とし、本丸、二の丸、三の丸、松の丸、若狭館、外館を擁す東西約700m南北約500mの34万㎡(東京ドーム約7個分)の規模を誇る要塞堅固の城であり、九戸勢は良く防戦し寄せ手に多大の被害を与えます。そこで戦の長期化を嫌った仕置軍の蒲生氏が城兵の助命の和睦を持ち掛け、九戸氏はこれを受け降伏。しかし、助命の約束を違え一族郎党を二の丸に押し込め惨殺したとされます。戦いの後、蒲生氏郷が九戸城を改修後南部信直へ引き渡し、名を福岡城と改め信直が南部氏本城としました。その後、南部氏は1597年から本城を盛岡城とすべく築城を開始。1633年盛岡城が完成したため廃城となっています。

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刑部

田畑の中に遺る城址 (2019/01/17 訪問)

普通の田畑の中にあります、良く崩さずに土塁と空堀を後世に伝えて頂きました。・・・感謝!

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カルビン

野球部のランニングコースwww (2014/06/01 訪問)

当時伊勢新九郎が城主だった事等知らずに、そこに見やすいお城がある・・・ってだけで訪問しましたw
今思えばなんて無知だったんでしょう(汗)

観光用の駐車場から溜池の脇を歩いて10分もかからずに登城口に到着。
熊野神社を抜けたところで、正面の山道から威勢の良い声がしてきたと思ったら、いきなり10人くらいの野球部が自分の脇を駆け抜けて行きました(驚)
しかも全員礼儀正しく挨拶しながら(笑)
みんな結構な勢いだったので、返答聞き取ってもらえただろうか・・・ww
そもそも大事な史跡でランニングするってwww

遺構が見やすいシーズンの訪問では無かった為、遺構が雑草で見辛い場所も多かったですが、流石は当時から整備がしっかり整っていて藪の中を歩くような事はありませんでした。

現在お城として残っている遺構を見ると、本当に豊臣の大軍から長期間耐えれた?と疑問に思うくらい規模小さいですが、そこはそこ、山城というより丘城くらいの高さなので登りも苦にならず、気軽に散策できるお城です。


前回訪問してからもう4年半経つので、今なら違った観点から見学出来る気がするのでそろそろ再訪してみたいですね。

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刑部

連郭式 山城 (2019/01/17 訪問)

霞ヶ城の看板を入ると直ぐに駐車場がありますが、そこから道なりに進むと車で中腹まで行けます。かなり時間短縮です! そこからなら往復30分以内で行けます。 連郭式縄張りの山城は三の丸から二の丸・本丸と攻めることが出来て面白いです!

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チェブ

桶狭間の戦い前夜。 (2018/12/29 訪問)

今川 義元公が桶狭間に向かう前に宿泊した「沓掛城」。
桶狭間の戦い後は勲功一番の梁田 政綱の居城になりました。
今は公園になっていて本丸、空掘、土塁ときれいに残っています。
「沓掛城」に行く前に信長軍の砦跡を何ヵ所か巡りました。
信長軍、やる気満々、攻めモードONです!
「沓掛城」に泊まった義元公はどんな気持ちで桶狭間に向かったのでしょうか?

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