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夏の雪だるま

津軽氏に抵抗した浪岡氏最後の臣下の城 (2016/05/06 訪問)

青森県五所川原市の高楯城です。飯詰城とも呼ばれ津軽為信の津軽統一の最後の戦いが行われた朝日氏の居城です。津軽平野の北東部の標高60mの丘陵に築かれ、北に糠塚川を天然の堀とし、南側も沢が堀をなし、本丸、二ノ丸、三之丸を有し東西400m南北150mの規模と言われます。本丸の城址石碑裏面の記述によると1091年藤崎城主の安藤氏がこの場所に玄武砦を築きその後高楯柵と呼ばれるようになったとされます。1335年安藤氏を頼ってきた南朝方の藤原藤房にこの城を与え藤原氏は周囲に出城を築き高楯城と改称し、のち朝日氏と名乗ってます。第13代朝日行安の時、浪岡城の北畠氏の臣下でしたが津軽為信の津軽統一の中、1578年北畠氏は滅ぼされますが、朝日氏は屈することなく最後まで津軽氏に抗戦すること十余年、1588年ついに力尽き城に火をかけ主従三百余名が自刃したとされます。城は飯詰集落の妙龍寺裏手にあり、寺の右側の小道を行くと風雪により読み取れなくなった城説明板があります。その上の台地が二ノ丸で天守閣風の集会所的な建物があり、その奥の台地が本丸で、鳥居の先の台地に城址石碑が立っています。最近、戦国時代の城を訪れ本丸にたどり着いた時、石碑や本丸などの標柱があると、ほっとするとともに感動を覚えます。

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夏の雪だるま

南部八戸市の居城 (2015/08/23 訪問)

青森県八戸市にある百名城の一つ根城です。南北朝時代、南朝方の陸奥国司北畠顕家の国代として入部した南部師行が建武元年1334年馬淵川右岸標高20mの平坦部に築城した城で、5つの郭からなっています。八戸南部氏は南朝方として最後まで活躍しましたことで有名です。その後、同族の三戸南部氏の勢力が強くなり三戸南部氏が南部氏筆頭となりましたが、八戸南部氏は有力な一族として三戸南部氏を支え、その後、江戸時代初期1627年、遠野へ移封を命ぜられ遠野南部氏となっています。その後根城は破却されましたが、盛岡藩3代南部氏藩主が病没して分割成立した八戸藩2万石の城は別の場所に新たに城を築いています。根城は東西500m南北450mの規模を有していたとされ、北側は馬淵川の断崖、西側は沢、東と南は堀で囲まれた平城とされます。城は現在、復元され史跡広場となり、隣接には八戸市博物館があります。

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夏の雪だるま

戦国南部氏の居城 (2015/09/11 訪問)

青森県三戸町にある南部氏の戦国期の本城の三戸城です。三戸盆地の中央、馬淵川と熊原川の合流点の標高90m急峻な斜面の独立丘陵に永禄年間1558~69年に三戸南部晴政が築城した要塞堅固な山城です。城は、丘陵頂部に長さ1200m幅400mの規模で、本丸、二ノ丸、家臣屋敷を配した要害です。南部氏は最盛期に青森県・岩手県北部・秋田県鹿角郡・仙北郡まで勢力下に置き「三日月の丸くなるほど南部領(三日月の時に南部領に入ると毎日歩いても満月になるまで領内を抜けられない)」と言われるほどの広大な勢力圏をもっていました。しかし、戦国末期の津軽氏の独立や秋田安東氏の鹿角侵略などや、晴政亡き後の跡目争いによる一族九戸氏の南部当主信直への反乱による豊臣秀吉の天下統一最後の戦い九戸城の戦いにつながります。九戸の乱鎮圧後、三戸城は南部氏が居城を九戸城、そして盛岡城を築き移ったため、三戸には城代・代官が置かれ、明治維新を迎えてます。城は現在、城山公園として整備され、二ノ丸に模擬天守閣が建てられ、資料館として利用されています。

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夏の雪だるま

名門浪岡御所の居城 (2015/10/11 訪問)

弘前城から北東16㎞にある青森県青森市の浪岡城です。南北朝時代、南朝方として奥羽の兵を率い京都で北朝方の足利尊氏と戦って活躍した北畠顕家の子孫が15世紀中頃に築城したとされますが、それ以前から館として使用されていたものを城郭に拡張したもののようです。1578年津軽為信は浪岡城の有力武将であり当主顕村の叔父の北畠顕範兵の留守を狙い、忍びを城内に潜入させ攪乱させるとともに、ならず者に騒ぎを起こさせ城下を混乱させ、その間に兵2300で城を包囲、そのため内応するものも現れたため、当主顕村は降伏し、自刃したとされます。城はその後、北方にある南部方の油川城攻撃の拠点として利用されたあと、1590年代には廃城となったとされます。
城は津軽平野の北側、浪岡川と正平津川の合流部北岸の標高10mに築かれた平城で、南北600m東西1200mの大きな規模を有し、幅10~20m深さ5mの堀と土塁にで囲まれた八つの曲輪により構成されていたと言われます。廃城後の江戸時代には、津軽藩の代官所などが置かれていたとされます。現在は、史跡公園として整備され南東側の隣接した場所にビジターセンターがあり、城の歴史等の展示物やパンフレットがあります。

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夏の雪だるま

南部氏の津軽郡代の居城 (2015/10/11 訪問)

弘前城から南東約11㎞にあり青森県弘前市の大仏ケ鼻城(石川城)です。いつ頃築城された定かでありませんが、鎌倉時代には、この地の地頭曽我氏が在城したとされます。その後、津軽は南部氏が制圧、津軽郡代として南部高信が1533年この城を居城に津軽を治めたとされます。1571年南部氏に従っていた津軽為信は郡代を守るためと称し、近くの古舘堀越城を修復整備、城の検分と完成の祝いと称し高信家臣を招待、宴を開きもてなし油断させ、その夜突然、大仏ケ鼻城を僅か80名余を先陣とし総勢5百弱の兵で急襲落城させてます。高信は自刃(一説には南部に逃れたとも)。南部氏はその時期、当主晴政と娘婿の信直との対立や晴政亡き後、信直と一族九戸氏との間に相続争いが続いたため津軽に介入することができず、津軽氏はその間に、南部方の津軽諸城を次々に攻略し十数年で津軽統一を果たしています。城は、津軽平野の南西部に位置する平川左岸の丘陵の標高97mに築かれた平山城で、本丸、二ノ丸、三之丸を配し東西230m南北270mの規模を有していたとされます。自然の地形を利用した要害のため遺構はほとんど残っていませんが、城は現在大仏公園として市民の憩いの場となっています。

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夏の雪だるま

津軽藩初期の居城 (2015/10/11 訪問)

弘前城から南東約7㎞にある青森県弘前市の堀越城です。1336年この地方の地頭であった曽我氏により築かれたとされますが、南北朝時代末期に南部氏に滅ぼされ南部氏の支配地となり荒廃していたものを、大浦(津軽)為信が津軽郡代南部高信の石川城を守るためと称し石川城から南東約4㎞のこの古城を改修し兵を入れ、1571年突然堀越城から兵を繰り出し石川城を急襲し落城させてます。その後、各地の津軽諸城を攻め落とし津軽支配を進め、豊臣秀吉から津軽を所領安堵され、堀越城を拡大整備、居城を1594年大浦城から堀越城へ移しています。城は、平川左岸に築かれた平城で本丸、二之丸、三之丸を有し東西400m南北400m程の規模で土塁と堀で囲まれていたと言われます。しかし、津軽為信が関ヶ原の戦いに参陣中、家臣の尾崎・多田・板垣氏が謀反を起こし、堀越城を攻撃・占領する事件や、1602年為信が預かっていた3歳になる長男信建の子供大熊に怪我をさせたことにより信建が子供の返却を求め父と対立、その際使者にたった家臣天童氏の不手際を責め天童氏を処刑。これに起こった天童一族に僅か数名で堀越城本丸まで切り込まれたことなどから、堀越城の防備に不安を持ち弘前城を新たに築城、1609年居城にしたといわれます。その後、堀越城は一国一城令により廃城になったとされます。現在城は、史跡公園として整備するため平成24年から工事を行っていて完成は平成31年だそうです。城址は本丸が熊野神社となっており、その周辺を土塁や堀などを整備しているようで、完成後が楽しみです。

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夏の雪だるま

津軽藩の居城 (2015/10/11 訪問)

青森県弘前市にある百名城の一つ弘前城です。弘前藩津軽氏4万7千石の居城として、江戸時代に建造された天守や櫓などが現存しています。天守石垣が膨らみ修復が必要なことから、2015年一般参加の曳家作業により天守の移動が行われ、2016年から本格的な修復工事が始まり完成は2025年の予定です。
津軽藩初代為信が1603年に築城開始し2代藩主信枚が1611年に完成させています。城は、津軽平野の中央部岩木川右岸の標高15mの段丘に本丸、二の丸、三の丸、四の丸、北の郭、西の郭の6郭からなる平山城で、城域は東西612m、南北947mに及びました。5万石弱の石高に対して非常に立派なものとなっています。
城は現在、ほぼ全域が弘前公園となっており、東北地方で江戸時代の唯一現存する天守閣など、これだけの遺稿が残っているのは全国的にも珍しく国の史跡に指定されています。
津軽は元々南部領でしたが、南部氏に従っていた大浦城主津軽為信は南部氏津軽郡代南部高信が城主を務める大仏ケ鼻城(石川城)を1571年突如兵を刳り出し攻撃、油断していた南部高信の大仏ケ鼻城は落城、城主高信は討ち死にしています。
当時、南部氏は当主晴政と婿養子の信直の間で実子晴継が生まれたことから跡目相続の対立が起こり、その後、晴政や跡を継いだ実子の晴継が病死し、信直が南部当主となりますが、これに不満をもつ一族の九戸氏らとの争いが続いたため動けず、この間に南部方の城を次々と為信は攻略、一城主から為信は津軽統一を果たすとともに、豊臣秀吉より朱印状を受け独立を果たしております。このため、津軽氏と南部氏の間には遺恨が残ることとなります。
1808年津軽藩は、実収は変わらないものの格式を上げるため石高の高直しにより10万石となり、南部藩8万石より格上となったことから、津軽藩を臣下筋と考え格下と思っていた南部藩士の反感を買うこととなり、南部藩士らの津軽藩主暗殺計画が立てられます。しかし、密告により津軽藩は参勤交代のルートを変更し藩主暗殺が未遂となる騒動も起こっています。

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夏の雪だるま

津軽氏の出世城 (2015/10/11 訪問)

弘前城から西へ約5㎞にある青森県弘前市の大浦城です。1502年大浦(津軽)光信により築かれたとされます。15世紀初頭から安東氏が治めていた津軽を南部氏が侵略、安東氏の津軽奪還を防ぐため南部氏の命により大浦氏は日本海側の鯵ヶ沢町に種里城を築き1491年入部。その後、大浦氏が津軽平野に勢力を拡大する拠点として子の大浦盛信を大浦城に配しています。城は岩木山の南東の麓の後長根川右岸に本丸、二ノ丸、三ノ丸、西ノ丸、西ノ郭、南郭を配した平城として築かれ土塁と堀で囲まれ東西500m南北250mの規模と言われています。大浦氏5代為信が本拠を堀越城に移すと城代が置かれ、その後一国一城令により弘前城が築かれるとき大浦城の建物を弘前城に運び廃城となっています。その後、弘前城の詰城として本丸、二ノ丸、西ノ丸が残され、西ノ丸には火薬庫などが建てられたとされます。現在は、津軽中学校の敷地となっており遺構はほとんど残っておらず城址石碑と説明板により大浦城址とわかるのみです。

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三河のかづ

形原城 (2019/01/14 訪問)

入り口は案内板がありわかりやすいです。三河湾を臨むことができます。稲荷社があり周りはきれいに保たれています。

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todo94

吉野ヶ里歴史公園開園前に (2019/01/13 訪問)

吉野ヶ里歴史公園開園前に時間調整のため立ち寄りました。堤土塁跡歴史公園として整備されていますが、灌漑施設説、太宰府などの防衛施設説、古代道路説などがあり結論は出ていないとのこと。ここを攻城数としてカウントして良いものかどうか、悩むところです。

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まっつん

中世の高松! (2019/01/14 訪問)

高松城→屋島城と巡って、まだ日暮れまでに時間があったので十河城跡へ行こうと思い立ち、下調べも何もせずに突撃しました!
十河城は現在は称念寺というお寺になっていました。
説明板によれば、寺があるのは本丸跡で、西に池、東は断崖、南に大手があったとのこと。
確かに西側には池があります。堀の跡なんでしょうね。
南側の大手はよくわかりませんでしたが、本丸が小高い丘の上に築かれていたのはよくわかりました。
東側には駐車させてもらったスペースがあり、断崖といわれてみれば確かに段差がある地形です。そこから高松の街並みも見渡せました。
北側だけ確認せずに帰りましたが、後で知ったのですが、本丸の北側に堀や土橋の跡があったり十河氏のお墓があったりするそうで、あぁ失敗したな・・・と思いました。
まぁ、また徳島城に訪れる時なんかに改めて立ち寄ってみようと思います。
城主は「鬼十河」と恐れられ戦場で活躍した猛将・十河一存や、その跡を継いで土佐の長宗我部元親と激闘を繰り広げた十河存保が有名。今は小高い丘陵の上にお寺と田畑がある場所なのですが、1582(天正10)年の十河城の戦いでは、長宗我部元親軍3万6000に取り囲まれながらも持ち堪えて一度は退かせたというのだから、ここを一体どうやって守り切ったんだろうかと思いました。すごいなぁ。

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まっつん

古代の高松! (2019/01/14 訪問)

せっかく高松まで来たので、源平合戦の古戦場である屋島を見てみようと思ってテッペンまで車で登っていくと、古代の天智天皇の時代に大和朝廷によって築かれた屋嶋城(やしまのき)があるじゃないかということで行ってみました!
朝鮮式山城というやつを初めて見ました。
この石で築かれた城門は、懸門というつくりになっていて、敵が攻めてきたらハシゴを撤去して城門に入れないようにして、上から迎撃するという構造のようです。
石垣の城といえば織豊系城郭だと思っていたのですが、古代にもこれだけの石垣を築く技術があったんだなぁ、すごいなぁと勉強になりました!

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まっつん

近世の高松! (2019/01/14 訪問)

このところ山の上の土の城を重点的に巡っていますが、水堀に石垣、その上に白壁の櫓という近世城郭の成分が欲しくなったので補給しに行きました!
高松城は、1587(天正15)年、豊臣秀吉から讃岐一国を与えられた生駒親正によって築城され、その後も生駒氏が城主を務めていましたが、お家騒動で改易され、1642(寛永19)年に松平頼重が東讃12万石で入城し、以後、松平氏が城主となって明治を迎えたそうです。
今では埋め立てによって海から少し離れていますが、築城当時は瀬戸内海に面して築かれ、その名残として堀の水は今でも海水が引き込まれているそうです。
建造物は、北の丸の月見櫓、水手御門、渡櫓、旧東の丸艮櫓が現存しています。駐車場は城の南側にあり、無料で駐車できます。城跡は玉藻公園として整備されていて、大人は200円で見学できます。
城の西側には琴電高松築港駅があり、石垣のすぐそばを電車が行き来していたり、反対側の城の東側には香川県立ミュージアムが建っていますが可能な限り石垣は残された状態で建設されているようで、城と街の共存を一生懸命模索された結果なんだろうなぁと思いました。
果たして、天守台の石垣の上に天守は再建されるのでしょうか。個人的にはあの石垣の上に天守がそびえ立っているのを見てみたいかな(^^)

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まっつん

どっちが本丸?どっちが二の丸? (2019/01/13 訪問)

1221(承久3)年の承久の乱で戦功を挙げ、安芸国大朝荘の地頭となった吉川氏は、1313(正和2)年に駿河国から大朝へ移住。
駿河丸城はその際に吉川経高が築城したといわれています。
その後、南北朝時代末期に吉川氏は小倉山城へと本拠地を移していくこととなります。
城跡は比高30mほどの丘に築かれていて、主に2つの曲輪がありますが、城跡の入り口以外には特に案内板がなかったので、どっちがどうなのかちょっとわかりにくかったです(^^;)
城跡には堀切や土塁といった遺構が残っています。小さな城跡なのですぐに見て回れます!
車で行けば、写真2枚目の位置に駐車できます。

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くろもり

学んで・見て・体験できる城 (2013/10/19 訪問)

関東では、杉山城や滝山城がよく土の城の教科書と言われていますが、ここ飛山城もその一角に加えて頂きたい城です。
城址の入口にある「とびやま歴史体験館」は無料(写真撮影可でした)ですが、宇都宮氏や芳賀(はが)氏、飛山城についての詳しい解説があり、飛山城のジオラマ・縄張り図・城郭用語の解説がかなり丁寧で分かりやすかったです。特に大手周辺の模型は、中世の城攻めをイメージしやすく(攻城兵と守備兵がわちゃわちゃしてます)、城址に入るとすぐ模型で見た景色が広がるので、本当にイメージしやすいです。

整備で分かりやすく復元してあるので、「あぁ、これが薬研堀。こっちが箱堀ね。あのでっかい土手が櫓台なんだ。」といった感じです。歴史体験館で学んだことが、すぐ城址で見ることができます。

体験については、北東の土塁は上からロープが垂らしてあり、ロープを伝って土塁の上に登ることができます。傾斜はゆるくしてあるそうですが、5m程の土塁に自由に登れる機会はそうないので、お勧めです。土塁に登る為には堀底に下りないといけないのですが、その階段が子供用なのか幅がすごく狭いので、足元に注意してください。

南側の堀(5号堀と6号堀)はそこまで手入れされておらず、人工的過ぎる復元が苦手な方はこちらの方が見応えがあるかもしれません。ただ、一番南の6号堀は民家のすぐ横なので、散策には気を使った方がいいかもしれません。私がお会いした住人の方は笑顔で挨拶してくれましたが。

kucucuさんの投稿と同じく私の時も崖崩落の為、主郭が立入禁止でした。直前の台風の影響かと思っていたのですが、後日、東日本大震災での崩落だったと分かりました。震災後2年半経っていたのですが、爪痕はまだ残っていました。現在は主郭に立ち入れるようなので、またいつの日か再訪したい城です。

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まっつん

山城が初めての方にオススメ! (2019/01/13 訪問)

安芸吉川氏は、南北朝時代後期に同じ大朝荘の駿河丸城から小倉山城を築いて本拠地を移し、その後、吉川興経が1546(天文15)年に日野山城を築城するまで安芸吉川氏の本拠地でした(その後、毛利元就の次男・吉川元春が家督を継ぎ、日野山城を改修して本格的に小倉山城に代わる本拠地として整備したようです)。
城跡は国指定の史跡で、本当に綺麗に丁寧に整備されていて、広い駐車場はあるし、案内板は各所に設置されているし、本丸や二の丸、三の丸、御座所などの曲輪も堀切も土塁も掘立柱建物の跡もわかりやすくしてあって非常に見やすいです!
さらに、僕はじっくり見て回ったので1時間程度滞在していましたが、ササッと見て回るなら30分程度時間があればいけるんじゃないかというぐらいのお手軽な感じで、しかも比高80m程度の丘陵に築かれた城郭なのでほとんど疲れません。
山城に初めて行ってみようという人にオススメしたいと思いましたし、僕がおじいちゃんになって足腰が弱ってきても、ここなら山城を楽しめるなと思いました!笑

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まっつん

番犬注意! (2019/01/13 訪問)

吉川元春館の目と鼻の先にある屋敷跡で、元春の奥さんがお住まいだったのだとか。
この近辺の吉川元春館や万徳院跡 と同じ「石つきの者ども」という石工集団が築いたという特徴的な石の積み方がここでも見られます。
すけきよ堂さんが書かれているように、石垣の端っこに元気な番犬がいるので、よく吠える犬が苦手な方はご注意ください(^^;)

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じんじゃー

在地領主の城から福与城支城へ (2019/01/04 訪問)

箕輪町の養泰寺の裏山が主郭部分にあたる。現在主郭内部は墓地で、台地の崖を除く三方向を空堀と土塁で固めている。もしかしたら堀の外部分も郭であったのかもしれないが、現在はわからない。
天竜川の河岸段丘を利用した伊那地方にはよくあるタイプのお城です。

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にのまる

初日の出のかわりに (2019/01/02 訪問)

1月2日の日の入り。

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刑部

佐竹氏を追い出した城 (2019/01/13 訪問)

数十年ぶりに攻城、弘道館の駐車場を利用 弘道館を見学後 三の丸から本丸へ連郭式の縄張りを探索。 昔とはだいぶ違いますね!

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