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ぴぽぽ

散策というより登山でした (2019/01/19 訪問)

城EXPOで、いただいたパンフレットを整理していて面白そうなのでいってみました
パンフの中に、園内の登山道、クサリ場の文字で、覚悟していきました
本城曲輪を目指して、行きは、ちょっと険しいコース、帰りはらくらくコースでいきました
城坂から、男坂、これは、きつい・・登って折れて、登って折れて、本城と鷹射場のT字路に到着するまで40分くらいかかります
この道を当時の人は、登ったのかと思うと、感慨深かったです
当時の建物は、ないけど、土塁、堀、曲輪と曲輪を結ぶ細い道、引橋があった場所は見ごたえありました
城から見る景色も素敵でした

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夏の雪だるま

大崎氏の居城 (2018/07/01 訪問)

宮城県大崎市の大崎氏20万石の戦国期末期の居城、名生城です。いつ頃築かれたかは定かではありませんが、南北朝時代に斯波氏により築かれたと伝えられます。斯波氏は大崎氏を名乗り奥州探題に任ぜられ大崎地方に大きな勢力を持ちましたが、度重なる内紛により次第に勢力を失い、戦国の1560年頃には伊達氏が奥州探題に任ぜられたことにより、地方大名に転落。1588年大崎氏内紛を名目にした伊達軍1万2千の大崎領侵攻を撃退し、大崎氏の最後の意気を示しますが、1590年小田原の戦いに大崎氏は参陣せず改易・滅亡しています。その後、領地は豊臣秀吉家臣木村吉清に与えられ、名生城には吉清の子、清久が入城しますが、1591年葛西・大崎一揆が起こり、名生城は一揆に奪われ一揆の拠点となります。しかし、豊臣秀吉から一揆鎮圧の命を受けた蒲生氏郷の攻撃により城は落城。その後、伊達氏の米沢地方から大崎・葛西領への転封の検分役として検地と岩出山城改修を命ぜられた徳川家康が名生城に立ち寄った記録を最後に文献に現れなくなったため間もなく廃城になったと考えられます。名生城は、大崎氏の領地中心部の江合川の西岸の丘陵に築かれ、本丸、二の丸、三の丸、軍議評定所丸、内舘、北館、小館の7つの郭とそれぞれを囲む土塁・堀からなっていたとされ東西1km南北1.2kmの規模とされます。現在は、北館は浄泉院、その他は耕作地と点在する住宅などになり遺稿はあまり残っていません。小館跡に大崎神社があり大崎氏の城跡の名残を見せています。また、本丸跡には8世紀頃政庁があったとされ国指定遺跡の名生館官衛遺跡の説明板が設置されています。

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刑部

天下普請の城 (2018/05/04 訪問)

天守が無かった城、石垣素晴らしい城です。個人的には馬出しをしっかり残していたら良かったと思います。

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夏の雪だるま

伊達氏敗北の城 (2018/07/01 訪問)

宮城県加美町の中新田城です。1354年奥州管領に任命され奥州に下向した足利氏一門の斯波家兼の子孫は大崎氏を称し、室町から戦国時代、奥州探題として大崎五郡(加美・志田・玉造・栗原・遠田)20万石を支配し15世紀後半には、中新田城を本拠としたとされます。戦国末期の義隆の時代には周辺大名との争いが激しくなり、本拠を名生城に移しています。1588年大崎家臣の反乱に乗じて伊達政宗は留守政景・泉田重光を大将に大崎領に侵攻。留守政景が5千の兵を率い大崎方の城を牽制するなか、泉田重光が7千の兵で大崎領深く中新田城を攻撃、一気に名生城まで攻めようとしますが、中新田城代南條氏は兵1千5百を率い激戦を繰り広げ、二の丸を落とされるも本丸を死守、夕刻になっても落城しない中、大雪となり形勢逆転、伊達軍は撤退の中、殿軍の小山田氏が討死、泉田氏は包囲される中、大崎領内の味方の新沼城へ籠城、別動隊留守氏も攻撃を受け伊達領へ撤退。伊達氏は大崎氏に人質を出すことで和議を結び、泉田軍の引き上げを許されています。その後、1590年大崎氏は小田原不参を理由に豊臣秀吉から所領没収の処分を受け250年の歴史をとじています。中新田城は、羽後・中羽前街道が交わる交通の要衝に築かれ、規模は東西320m南北250mで、周囲に堀と土塁を築き、その内側に東西130m南北110mの内堀に囲まれた本丸を配した平城となっています。現在は、国道457・347号の交差点の多川稲荷神社や長興寺駐車場が本丸跡、二の丸北側は八幡神社・長興寺・瑞雲寺、二の丸南側は住宅地となり、遺構としては二の丸北側の堀跡が残るのみとなり、八幡神社に裏面に城由来が彫られた城址碑と斯波家兼像が立っています。

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夏の雪だるま

大崎反乱の城 (2018/05/13 訪問)

宮城県大崎市の古川城です。室町時代大崎氏7代教兼の子がこの地に居館を構えたのが始まりと伝えられ、その後子孫は古川氏を名乗っています。1534年泉沢城主新井田氏が主君大崎義直に叛くと古川城主持忠も叛乱に荷担、1536年6月叛乱鎮圧のため大崎義直は伊達稙宗に救援を求め、それに応じた稙宗は3,000騎をもって大崎領に侵攻、古川城は兵1千で籠城するも伊達・大崎連合軍4千騎に攻められ落城、古川持忠は自害しています。その後、一族の古川弾正忠隆が城主となりますが、1590年豊臣秀吉の奥州仕置によって大崎氏は滅亡、大崎・葛西領は木村伊勢守吉清に与えられ、古川城には吉清の子である清久が入城しますが、木村氏は葛西・大崎一揆により失脚。木村氏の後、この地は伊達政宗に与えられ、古川城は家臣鈴木氏が城主と成り、鈴木氏はその後3代続きますが1645年、桃生郡深谷に転封となり古川城は廃城となっています。古川城は大崎平野の中心部に位置し、本丸(古館)と南側に二の丸・三の丸(西館)、北西に外郭を配し、東側を流れる緒絶川を堀とし、周囲が土塁と堀に囲まれた東西200m南北600mの規模で、大崎地方の平城では大規模な城であったとされます。本丸は古館とも呼ばれ、現在は古川第一小学校、二の丸・三の丸は住宅地、外郭は古川中学校となっていて戦前は土塁や堀が残っていたそうですが、現在遺稿は残っておらず、小学校正門脇に古川城址の説明板があるのみです。また、近くの瑞川寺に鈴木氏が移築したとされる搦手門が山門として残っています。緒絶川に藤棚が造られ、5月には藤まつりが開かれています。

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夏の雪だるま

伊達・相馬氏の境目の城 (2016/05/14 訪問)

宮城県丸森町金山城から東10km程にある坂元町の坂元城(蓑首城)です。伊達氏の重臣亘理氏家臣坂元俊久が従来の居城愛宕山城を相馬氏に攻撃され父隆俊が討死したことから、愛宕山城を廃城とし新たに1572年築いた城です。その後、1591年亘理氏が涌谷城へ転封となったことから坂元氏も亘理氏に従い、その後数氏が城主になった後、大條氏が2千石で城主となり蓑首城と改名、幕末まで続いています。城は陸前浜街道が城下を通り相馬領へつながる交通の要衝で丘陵先端部に本丸、丘陵続きを大空堀で守り、北側山麓に二の丸、三の丸を配し周囲に水堀を巡らし、東西200m南北350mの規模といわれます。現在城址は、本丸が坂元神社、二の丸が坂元小学校などになり、三の丸が内山邸等になっています。門扉がなくなっていますが、内山邸の門として城の大手門が残っています。

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夏の雪だるま

伊達・相馬氏の攻防の城 (2016/05/14 訪問)

宮城県の福島県境近く丸森町の金山城(金山要害)です。丸森町の中央東寄りの金山の町並みの東南部にある独立丘陵の館山が金山城です。阿武隈川支流の東岸の標高117mの山頂に本丸と石垣があり、周囲に二の丸を、東側に三の丸を配した東西400m南北800mに及ぶ山全体が城跡となってます。福島県相馬野馬追で有名な相馬氏の北の重要拠点として、1560年頃相馬氏家臣の井戸川氏により築城されたとされます。その後戸川将監などが城主となりますが、1576年以降から伊達氏との間でこの城をめぐり激しい攻防があり、長い攻防の末8年後の1584年落城、伊達政宗に帰属しています。この城攻めに手柄の有った伊達家臣の中島宗求が2千石で城主となり相馬氏に備え新たに石塁・土塁・堀切を整備、強固な城に改修。本丸には居館、周辺の平場には兵具倉、煙硝倉、馬屋を配し、これを囲む土塀や埋門、陸橋を設け、山麓に家中屋敷や町場が配置され、伊達藩21要害の一つとして幕末まで続いています。城跡は現在お館山公園となっていて登り口に駐車場があります。

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刑部

続100名城 黒井城 (2018/05/04 訪問)

山頂付近に石垣があります、私の好きな野面積みの石垣! 駐車場に案内板があり 素人の私でもわかりやすく解説、とても良い城址です。

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夏の雪だるま

片倉景綱の城 (2015/10/04 訪問)

宮城県最南端の白石市にある白石城です。伊達政宗の重臣片倉氏が城主として、江戸時代一国一城令後も伊達藩では例外として仙台城とともに城と認められ、本丸は9mの石垣の上に三層櫓を立てるほどの壮大な城でありました。戦国時代、米沢城を本拠とする伊達氏の家臣白石氏が城主でしたが、1591年豊臣秀吉に、この地方を没収され蒲生氏郷の領地となり、1598年には上杉景勝領となり上杉家臣甘糟景継が城主となっています。1600年の関ヶ原の戦で、徳川方の伊達政宗は白石城を攻撃、城主甘糟景継は会津若松城に詰めていたため甥の登坂勝乃が守備していましたが、伊達軍は元々支配していた城であり地理や城の網張に明るく1日で本丸以外を攻略、上杉方は守備を諦め降伏、1日で落城となっています。落城後伊達氏家臣石川大和守が一時城主となりましたが、1602年片倉景綱が1万8千石で城主となり片倉家が城主として明治維新まで続いています。片倉景綱は幼い頃伊達政宗の十歳年上の近侍となり、伊達家の「知の片倉景綱」と呼ばれ(ちなみに武は伊達成実)軍師的役割を果たし伊達家の主要な戦で政宗を助け活躍した重臣です。また、1866年戊辰戦争の際、東北諸藩代表がこの白石城に集まり奥羽列藩同盟が結ばれた歴史的場所となっています。白石城は、市の中心部、白石駅の西500mにある標高76mの丘陵北端に築城され、本丸、二の丸、中ノ丸や曲輪などを配し、外側には館堀川があり、西南は沼と空堀、北東は二重の塀をめぐらし、前面には三の丸・外曲輪を配した壮大な平山城で、東西700m南北500m程の規模を有し伊達藩の南端を守る重要な城でした。現在は益岡公園(白石城)として市民の憩いの場となっています。

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夏の雪だるま

葛西氏居城 (2015/09/26 訪問)

仙台城から北東約60㎞に有る宮城県登米市にある寺池城です。築城時期は不明ですが、岩手県南部から宮城県北部を領地とする戦国大名30万石の葛西氏の居城でした。葛西氏は小田原征伐に参陣しなかったため豊臣秀吉により1590年改易となり葛西氏の領地は豊臣秀吉家臣木村氏に与えられ、城は木村氏の居城となっています。しかし葛西大崎一揆が勃発し、寺池城を占拠、このため木村氏は佐沼城へ逃れています。その後、伊達政宗が一揆を鎮圧、この地域は伊達氏のものとなり一時城は廃れますが、1604年伊達氏家臣白石氏が1万5千石で寺池城主と成り、その後、1682年に伊達性を名乗ることが許され、登米伊達氏として幕末を迎えています。城は北上川右岸の丘陵部に築かれた平山城で、東西100m南北450mの規模で、本丸、二の丸を有していましたが、現在は、公園、裁判所、住宅地となり遺稿があまり残っていません。

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夏の雪だるま

伊達騒動伊達安芸の城 (2015/09/20 訪問)

宮城県の仙台城から北東約45㎞の涌谷町にある涌谷城です。江合川河岸の丘陵標高30mに築かれた平山城で、背面は深い谷で本丸、二の丸、腰曲輪の東西109m、南北327mの規模とされます。古くは1430年頃大崎氏5代満持の弟高詮の次男涌谷美濃守が築いたとされ、東の葛西氏に備える城でした。1590年豊臣秀吉の小田原攻めへ大崎氏は参陣しなかったため支族の涌谷氏も領地没収となり、のちに伊達領となり当城は伊達氏の重臣亘理重宗が城主となり改修され近世城郭に整備されます。その後亘理氏は伊達姓を許され伊達一門として2万2千6百余石となり、一国一城令が出た後も、表向き要害と呼ばれてますが実質的には城郭で、表門脇の二層隅櫓もわざと太鼓堂と呼んだと言われています。涌谷伊達氏2代伊達安芸宗重の時、仙台伊達氏4代藩主にわずか2歳の綱村が就任し、叔父の一関藩主伊達宗勝が実権を握り権勢を振うという事態が発生します。この時、涌谷伊達氏の伊達安芸は幕府にこの実情を提訴、このため幕府で審門が行われることになり、幕府大老宅での審門中、宗勝派が伊達安芸を惨殺する事件が起こり宗勝派が処罰される通称伊達騒動が起こっています。このことは山本周五郎の「樅の木は残った」の小説になっています。この騒動で涌谷伊達氏は忠臣として評価され、涌谷伊達氏は幕末まで続いています。現在、本丸は涌谷神社となり宮城県で唯一現存する隅櫓(太鼓堂)の隣には模擬天守閣が建てられ資料館として使用、城跡は城山公園として整備され桜の名所として市民の憩いの場となっています。

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夏の雪だるま

葛西・大崎氏攻防の城 (2015/09/26 訪問)

仙台城から北北東約70㎞の宮城県登米市にある佐沼城です。築城ははっきりしませんが、奥州征伐の恩賞で鎌倉時代は葛西氏の持城となっています。戦国時代は大崎氏が城を奪い大崎氏家臣石川氏の城となりますが、小田原の戦いに大崎氏は参集しなかったため1590年奥州仕置きにより大崎氏は改易、城は豊臣秀吉家臣木村吉清に与えられます。その後行われた太閤検地に反対する一揆が起こると木村氏は佐沼城に籠城。伊達政宗が軍を率いて、木村氏を救出。その後、再び起きた一揆では、一揆軍2500名が佐沼城に籠城。伊達政宗が攻撃落城させ一揆を鎮圧させています。城は伊達領となり家臣の津田氏が配され佐沼要害と呼ばれ、1756年亘理氏が配され幕末を迎えています。城は、標高15mの丘陵の山頂に本丸、周辺に二の丸を配し、北と東に川が流れ、西側は湿地帯となり、水堀を周囲に回し東西350m南北550mの規模の要害だったようです。現在は、本丸が鹿ヶ城公園として整備され、土塁と水堀が往時を偲ばせます。城の鎮護のため鹿を生き埋めにしたことから鹿ヶ城とも呼ばれたとされます。公園の隣接に歴史博物館が佐沼城の資料も展示してあります。

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夏の雪だるま

伊達氏北方の城 (2016/05/14 訪問)

宮城県利府町の利府城です。鎌倉時代留守氏重臣の村岡氏の村岡城として築かれたとされます。1569年留守氏で相続問題が発生。留守氏の血筋を守ろうとする村岡氏と伊達氏から養子を迎え伊達氏の勢力下で留守氏の安泰を図るべきとの伊達派が対立。村岡氏は伊達政景の養子縁組に反発し挙兵。しかし、留守氏当主となった伊達政景に攻められ1570年落城滅亡しています。同年伊達氏と敵対する北の大崎氏と葛西氏に対する押さえとして留守政景が南西5kmにある岩切城と比べると規模は小さいですが、伊達勢力圏北方の押さえの城として村岡城へ移り改修整備し利府城と改称し居城としてます。20年の在城後、留守氏は1590年黒川郡の大谷城に配置替えとなり利府城は廃城となってます。城は利府町の館山と呼ばれる標高100mの独立丘陵の山頂に東西100m写真は南北50mの本丸を置き、西側の一段低くなった尾根続きに二の丸、三の丸が配されていたとされます。現在は館山公園として整備されています。

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刑部

見所は石垣 (2018/05/04 訪問)

転用石を使った石垣が見もの、神仏を重んじた光秀とは思えない。それでも早期に築城が優先したのでしょうか・・・。

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夏の雪だるま

留守氏の城 (2016/05/14 訪問)

宮城県仙台市の岩切城です。「別冊歴史REAL日本の山城100名城」に掲載されていたので、訪れてみました。平泉藤原氏の滅亡後、源頼朝が重臣伊沢氏を陸奥国留守職に任命、伊沢氏は留守性を名乗り岩切城を築き居城としたとされます。七北田川の水運に恵まれたこの地はこの地域の政治経済の中心地として大いに栄えたとされます。1346年足利尊氏が奥州管領として吉良氏・畠山氏を任命しますが、足利氏内部で兄尊氏と弟直義の対立が激化、吉良氏と畠山氏も二派に分かれ争い、留守氏は畠山氏と共に尊氏側に加担し、1351年岩切城に籠城するも、直義側の吉良氏・和賀氏等の攻撃を受け岩切城は落城、留守氏の勢力は衰えたとされます。その後留守氏は奥州管領となった大崎氏に従い勢力の回復を図ります。戦国時代になると勢力が強くなった伊達氏と結び1567年伊達晴宗の三男政景を養子に迎えます。政景は留守氏家中の反伊達派を撃ち、北方の大崎氏や葛西氏に備えるため北東にある利府城に1570年居城を移し岩切城は廃城となっています。岩切城は標高106mの高森山を中心に高森山頂部に本丸、その東南に二の丸、それに続き三の丸が配されています。さらにその東側の尾根にも多数の郭が配されて、規模の大きな山城となっています。城は県民の森にあり、道路沿いに城址碑がありそこが入口となっています。

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夏の雪だるま

仙台城の前の政宗の城 (2015/09/20 訪問)

宮城県大崎市岩出山町にある岩出山城です。
岩出山城は、北羽前街道と羽後街道が交わる交通の要衝に足利氏一門の奥州探題大崎氏の重臣氏家直益が応永年間(1394~1427年)に築いた山城です。
豊臣秀吉の小田原城攻めに参陣しなかった大崎氏は1590年の奥州仕置によって改易となり、大崎領は豊臣秀吉の家臣木村吉清に与えられましたが、検地等への不満から一揆が発生。この責任を取らされ木村氏は領地没収となり、1591年米沢(山形県南部)から伊達政宗が葛西・大崎旧領(岩手県南部・宮城県)へ移封となりました。当時、奥州検地を行っていた徳川家康が約40日間在城し城を改修し、伊達政宗に引き渡したとされています。
1593年第一次朝鮮出兵文禄の役では、京都で行われた出陣式で伊達軍は黒漆の具足や銀箔の太刀などで統一、京都の民衆はさすが伊達者と叫んだとされ、そこからおしゃれな男性を「伊達者」と呼ぶようになったと言われています。
1599年政宗33歳の時、長女五郎八姫と徳川家康の六男松平忠輝の婚儀が成立、これ以降政宗は徳川派となり、1600年の関ヶ原の戦いでは、石田三成派の上杉景勝と戦い宮城県南部にある上杉氏の白石城を攻め落としています。
以降1603年に岩出山城から南約50㎞の仙台城を築城し移るまでの12年間、伊達政宗の居城となり、その後、岩出山城は、政宗の四男宗泰を初代とする岩出山伊達氏が1万5千石を領し幕末まで続いております。
城は、江合川南岸の標高108mの丘陵東端に築かれ、本丸は東西32m、南北205m、入口には石垣が組まれ、本丸の西側に83m四方の二の丸、三の丸が配され東西800m南北700mの大規模な城郭だったと伝えられます。本丸には、仙台城本丸に現在有る伊達政宗公銅像が1962年に設置されたことにより、かつて仙台城本丸にあったコンクリート製(第二次大戦の金属回収令で撤去された銅像の代わりとして設置)の伊達政宗の移設された像があります。
今、本丸は公園、二の丸は岩出山高校、岩出山小学校となり、北側には藩校として現存する最古の建物である国史跡指定の有備館があります。

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夏の雪だるま

伊達騒動の原田甲斐の城 (2016/05/14 訪問)

宮城県柴田町の柴田城(船岡城)です。山本周五郎の伊達騒動を題材とした小説「樅の木は残った」で有名な原田甲斐の城で、現在、観光地として多くの人がおとずれる公園となっています。伊達騒動は史実では1660年伊達4代藩主に2歳の綱村が就任。叔父の一関藩主伊達宗勝が実権をにぎり藩政を専横。奉行の原田甲斐も加担。これを一族の伊達宗重が幕府に上訴。幕府大老酒井家で審問が行われた時、原田甲斐が宗重を斬殺。原田甲斐は大老家臣に斬り捨てられたとされます。このため、原田家は一族が処罰され断絶。一関藩宗勝は改易となっています。小説では、原田甲斐は伊達藩を幕府の改易から守った英雄として描かれています。城は、東北本線船岡駅から西南の丘陵北端に築かれ、72m四方の本丸、54m四方の二の丸、126m四方の三の丸が配されています。城の起源はあきらかではありませんが、1200年鎌倉幕府に背いたとして攻め落とされた芝田館が当城とされます。戦国時代にはいり、伊達氏家臣の四保定朝が城主となり四保館と称し、二代宗義の時、四保氏から柴田氏と改めています。1593年柴田氏は所替えとなり、屋代勘解由が一時城主となりますが、1617年原田宗資が城主となります。1671年原田家当主宗輔は伊達騒動により徳川幕府大老酒井忠清邸で斬死し、原田家は断絶。城は幕命によりすべての建物が壊され城地も深さ1mも掘り下げられ表土を捨てられたとされます。その後1684年柴田氏が城主となり三の丸に居館を建て、明治維新を迎えています。城は公園化され大変きれいですが、遺構はほとんど残っておらず残念です。

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夏の雪だるま

一夜城 (2016/05/28 訪問)

神奈川県小田原市にある石垣山一夜城です。小田原城の北条氏攻めのため豊臣秀吉が小田原城西方3kmの標高257mの笠懸山に80日程をかけ築城、この時白紙を戸板などに張り付け白壁のように見せかけ、完成後前面の杉林を夜中に切り倒し、このため翌朝一夜にして現れた大城郭に北条方は恐れおののいたと言われます。一夜城と言われる由来です。しかし、にわか作りではなく、城は総延長1.9kmの石垣が造られ本丸、二の丸、西曲輪、井戸曲輪など多数の曲輪を配し東西275m南北550mの規模の大掛かりな城郭となってます。城はその後、関東に移封となった徳川家康の家臣小田原城主大久保氏により要害として管理されたとされますが、いつ頃廃城となったか定かではありません。現在城は、石垣山一夜城歴史公園となっています。城へ向かう農道沿いには参陣した武将たちの説明板があります。当日はJR早川駅から徒歩で石垣山農道を行き30分程でした。車でも公園入口に駐車場がありますので大丈夫です。

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刑部

天空の城 (2018/05/03 訪問)

私がずっと来たかった城の一つです!
映画のロケ地にもなった城址 やはり素晴らしい!
今回シャトルバスを利用しましたが次回は駅から歩いて登城したいと思います。

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夏の雪だるま

北条氏の居城 (2016/05/28 訪問)

神奈川県小田原市にある百名城の一つ小田原城です。鎌倉時代初期土肥遠平がこの地に館を置いたのが始まりとされます。1416年上杉禅秀の乱で土肥氏は禅秀に味方して敗れ、小田原は大森頼春に与えられ本格的な城として築城されます。1495年伊豆の北条早雲が突如小田原城を襲い大森氏から城を奪取、以来北条氏の本城として氏綱・氏康・氏政と城を改修・拡張が続けられたとされます。1561年上杉謙信、1569年武田信玄の攻撃を受けるも撃退、難攻不落を誇っています。北条時代の小田原城は城下町をすっぽり包んだ総構が特徴で、土塁・空堀の総延長は9kmとも12kmとも言われる大城郭で、現在の小田原城から北西の小田原高校周辺が主郭とされ、現在の小田原城を含む東西約2.8km南北約2.4kmの規模であったとされます。しかし、1590年豊臣秀吉が20万と言われる大軍により小田原城に押し寄せ、約6万の兵で小田原城に籠城した北条氏も3か月で降伏開城。関東は徳川家康に与えられ、小田原城は家康家臣の大久保氏が4万石で城主となりますが、1614年改易となります。その後数々の城代が置かれますが、1632年稲葉正勝が城主となり翌年の大地震で倒壊した城を大改修し本丸・二の丸・三の丸を築き近代的な城郭にしたと言われます。1685年稲葉氏が越後高田に転封となると大久保氏が再度城主となり明治維新まで続いています。明治維新により天守などは解体されますが、現在城は本丸・二の丸が小田原城址公園となり、三の丸は小学校や文化会館、住宅地となっています。市政20年復興事業により昭和35年天守閣が再建、その後も常盤木門が昭和46年に、銅門が平成9年に、馬出門が平成21年に再建されてます。

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