さじじょう

佐治城

滋賀県甲賀市


旧国名 : 近江

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①Ⅰ曲輪虎口
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昌官忠

公共交通のみで(東海&関西遠征)17日目:佐治城 (2024/10/08 訪問)

小佐治公民館バス停から徒歩15分くらいで、秋葉神社鳥居前(34.940719、136.216474)に着きしました。南側に枡形池と説明板があります。

1062年(康平5年)平業国が伊豆国より佐治郷に移り佐治城を築いて佐治氏を名乗ったようです。
永禄11年(1568年)に六角氏が滅亡後、佐治為次は織田信長より安堵され、1571年(元亀2年)には14,000石を領したようです。
しかし1584年(天正12年)小牧・長久手の戦いにおいて羽柴秀吉は甲賀武士を七番備えに配したが、徳川家康からの内応を求める書状に秀吉が怒り、翌年根来寺攻めに置いて紀伊川治水の命を受けます。
更に領地没収の命が下されると一族は佐治城に籠城して滅亡したそうです。

堀跡といわれる桝形池や堀、土橋、虎口などがありましたが、どこまでが遺構なのかはわかりません。
バスの時間が迫っているので、攻城時間は10分くらいで撤退しました。
次の攻城先=仁正寺陣屋(城びと未登録 滋賀県日野町)を目指す為、和野バス停から甲賀コミュニティバスで平町バス停に向かい、そこから徒歩で水口石橋駅に向かい、近江鉄道➡近江鉄道湖国バスを乗り継いで日野川ダム口バス停に向かいました。

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ぴーかる

佐治城 (2023/12/23 訪問)

【佐治城】
<駐車場他>駐車場はなし。道路脇<34.940780, 136.216430>に停めました。
<交通手段>車

<見所>堀切・土塁
<感想>現地説明板によると佐治城の城主は佐治氏(小佐治氏)とされ、1585年豊臣秀吉の領地没収に対して籠城し抵抗したが、堀秀政・中村一氏に攻められ落城したといわれています。
 先達のじゅんじんさんの投稿登城時のゲートに入ってすぐにあるトラロープは私が行った時には無くなっていましたので奥まで進むことができました。積雪に関係あるのかもしれません。ゲートの外側にある土塁が中まで続き、先の南側が堀切になっています。奥に枡形池という堀があり、その南側が愛宕山山頂(土塁上曲輪を兼ねている)があります。山頂の西側は竹林となっていて段曲輪が数段あります。南側斜面を散策し忘れてしまいました。りゅうじん池の背後の僅かに残る土塁から南側の土塁までが主郭だったようですが、かなり改変・平坦地にされていて甲賀郡の単郭方形高土塁の遺構は見られませんでした。

<満足度>◆◆◇

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じゅんじん

森の中は立ち入り禁止 (2021/01/02 訪問)

森の中は防獣柵を開けてもトラロープで立ち入り禁止でした。土塁が残っています。池は堀の一部でしょう。

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YAICHI

なぜか京都山科に石碑があるそうです。 (2020/01/12 訪問)

城跡は甲賀町小佐治集落の北、野洲川方面を見下ろす丘陵上に位置します。城山北側の説明板付近(34.940739,136.216601)に駐車。水堀跡(桝形池)の後方に整地された広い主郭、害獣柵内に土塁、空堀、土橋、山頂郭等の遺構が見られます。城主は佐治氏(小佐治氏)とされ、織田信長の近江侵攻に伴いその配下となりましたが、天正13(1585)年に羽柴秀吉の領地没収に対しては篭城して抵抗、堀秀政・中村一氏に攻められ落城したとされます。令和元年度「日本遺産」認定において、日本遺産「忍びの里 伊賀・甲賀-リアル忍者を求めて-(平成29年度認定)」のストーリーを構成する文化財について、追加認定を受けました。市指定史跡。

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城郭情報

分類・構造 山城
築城主 平(佐治)業国
築城年 康平5年(1063)
主な城主 佐治氏
遺構 曲輪、土塁、堀切
指定文化財 市史跡(佐治城跡)
再建造物 説明板
住所 滋賀県甲賀市甲賀町小佐治字城殿
問い合わせ先 甲賀市歴史文化財課
問い合わせ先電話番号 0748-69-2250