いぬいじょう

犬居城

静岡県浜松市

別名 : 乾城、鐘掛城、鞍掛城
旧国名 : 遠江

投稿する
①馬出し曲輪➕横堀
口コミ・画像を投稿する

みんなの写真投稿

投稿する

みんなの口コミ

投稿する

姫街道

武田流山城の技巧的な縄張り (2023/12/31 訪問)

犬居城は東の登城路から登って頂きたい。
まず、①馬出し曲輪➕横堀→②土橋➕③枡形虎口の武田流縄張りが迎えてくれる。サイズ・歴史的背景からも勝頼期で間違いないだろう。
犬居城内を東海自然歩道が通っている。④本曲輪の土塁上を通って高見台に至るルートであり、
本曲輪は、その東海自然歩道の下にある削平地なのだが、残念な事に整備されておらず、草が生い茂っており気がつかない。
本曲輪の⑤北側は横堀が打たれており、⑥西側坂虎口にまわされる縄張りは見事。(ここも残念ながら未整備)
東海自然歩道のルートから、⑦高見台が主郭で土塁上がニノ曲輪の天野氏古城を感じて満足してしまうが、武田流山城の技巧的な縄張りが楽しめる事を伝えたい。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

カズサン

天野氏戦国の山城 (2015/05/11 訪問)

 犬居城は浜松市北部北遠天竜川支流気多川が蛇行した山間地春野町に在ります、春野高校北に聳える行者山山頂に築かれてる比高140m程の所。気多川は鮎釣りの名所で春野は風光明媚な地です又宝塚歌劇団代表歌で有名な「すみれの花咲く頃」の演出家作詞家白井鐵造の出身地でもあります。
 
 天野氏は鎌倉幕府御家人承久の乱後山香荘(現在の北遠一帯)に地頭に成り戦国国人領主として北遠を治め今川氏、徳川氏、武田氏の攻防の中武田信玄遠江侵攻時武田氏に従い長篠の戦武田氏の大敗後、徳川氏の攻撃を受け落城、約350年続いた天野氏は武田氏を頼り北遠の地を去った。

 犬居城は天竜区二俣山東より国道362号線を大井川川根方向へ春野高校、春野ふれあい公園を目指し車はふれあい公園の駐車場を利用(登城口に2、3台のP有り).
 旧道の春野街道町並みを見ながら徒歩で、入口に宝塚歌劇団すみれの花咲く頃白井氏を記念の歌劇団像が有ります、途中に犬居城指示の案内標柱有り国道362号線に架かる橋を渡り登城口へ約30分。
 登城口から長いだらだら坂一折れしてさらに長い坂が続くと北東尾根へ約20~30分で東曲輪、馬出曲輪へ到着、馬出曲輪下の三日月堀、横堀を回り込み馬出曲輪、土橋(左右竪堀)を渡り虎口から二の曲輪、本曲輪、物見曲輪から駆け降りる夫婦カモシカに遭遇、遠くから睨まれてる様な感じ、物見曲輪の展望台、西に数段曲輪が有りその先に大堀切で西尾根を遮断してる。
 三日月堀、馬出曲輪、竪堀、物見曲輪、大堀切と大変見応えの有る山城です、眺望も素晴らしい、探訪し易い山城ですので出来れば車でお越しください。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

姫街道

古道でつながる北遠の城 (2020/03/21 訪問)

犬居城を考える時、二俣城・只来城・光明城・犬居城と古道、尾根の古道でつながっていた事をイメージしなければならない。
犬居から北へは、秋葉古道で秋葉山から瀬尻へ抜けて佐久間・水窪・青崩峠を通って塩なりを信州へ運んでいたのであろう。
今日は、光明城から犬居城へと二回目の登城をし、犬居城の古城と呼ばれている篠ケ嶺城をまわった。先日行った只来城といい光明城といい、「何でこんな所に」って思うが、古道図と照らし合わせてみるとその分布も納得いく。
さて、犬居城の城主天野氏は伊豆出身の豪族で南北朝時代は南朝方→北朝方、戦国時代は徳川方→武田方と、裏切りや内部分裂を繰り返していた。
天野氏と言うと、信玄公亡き後の一族の存続をかけた徳川との戦がドラマチックに語られている。
第一次の攻撃は、天野氏の勝利。犬居城から三倉城に抜ける秋葉街道に家康軍を追い散らしたが、さすがに仕切り直しの攻撃には耐えきれず、犬居城を捨て篠ケ嶺城に逃げ、最後は一族で甲斐へ逃がれて約300年続いた北遠の支配が終わった。
さて、犬居城単独で防御性を考えると標高もあまり高くなく、北側の尾根は緩く、贔屓目に見ても堅固だとは言い難い。ただ近郊の城との一体感で考えれば、ゲリラ戦にはもってこいの地形で、他領の人間はとても怖くて天野氏領内を行進出来なかっただろう。篠ケ嶺城など、今でも城に近づくに吊り橋を歩いて行かなければならず、勿論山頂への道もない。山頂には石碑が建ってるらしいが、麓でも十分雰囲気は楽しめた。遠江天野氏・奥山氏は同心のような資料が多いが、南北朝時代は奥山氏はコテコテの南朝方であったためどちらかと言えば敵対関係で、戦国時代に入って対今川や、武田につくか徳川につくかの利害関係の中で同心として行動していたのではないかと感じる。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

姫街道

北遠の山城は、川で浜松城とつながっていた (2020/01/12 訪問)

「北遠の山城」は、南は二俣城〜最北は高根城と定義されており、犬居城はその中間地にある要所だ。その三城について特徴をまとめてみた。①城の標高②城を取り囲む川③築城時期④廃城時期⑤廃城理由

二俣城・・・①標高80m②天竜川と二俣川③築城16世紀中④廃城1600年頃⑤徳川の関東転出により

犬居城・・・①標高255m②気田川③築城不明④廃城1570年頃⑤武田に寝返り、徳川に攻め落とされた事による

高根城・・・①標高420m②水窪川③築城1414年④廃城1580年頃⑤長篠の戦い後、武田の遠州撤退により

やはり、北に行くほど山城はスケールが大きく、武田の築城技術が反映されている。勿論、中遠地方同様に、武田と徳川で取った取られたが繰り返されてきたのだが、静岡県の県民性だろうか、、、案内看板の内容はかなり徳川贔屓に偏った書き方がしてあり面白い^_^

さて、犬居城だが、山城の作りは丸子城に似ている。今回は東側から攻城したが、非常にキツイ山道だ。ただ、道中は階段は無いが東海自然歩道になっておりよく整備がされている。勿論、当時は人一人が歩ける程度の道幅だっただろうが。山の尾根、本丸から東は何段にも曲輪が連なる。本丸から西側は東側に比べると尾根が緩やかなため、要所に深い堀切がある。あまりに深い為、登り降りをサポートするロープが設置してある。
北遠の山城をいくつか歩いて気付いたのだが、北遠地方の山城は眼下の川の地形が大きくSの字に蛇行している所が多い。川が道だとすると、北遠の城は、その川の停留所に適した箇所に作ったと私は想像する。山城は各々の川から天竜川へ、そして馬込川を経由して、浜松城へと繋がる。
要するに、「北遠の山城は、川によって浜松城とつながっていた」と私は想像する。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

城郭情報

分類・構造 山城
築城主 天野氏
築城年 南北朝時代?
主な改修者 武田氏
主な城主 天野氏
遺構 曲輪、土塁、堀切、横堀(空堀)、竪堀、土橋
指定文化財 県史跡(犬居城跡)
再建造物 碑、説明板
住所 静岡県浜松市天竜区春野町堀之内
問い合わせ先 浜松市天竜区役所区振興課
問い合わせ先電話番号 053-922-0012