佐伯山の山頂部分は岩が多かったせいもあるだろうが城域は山頂部分を避けているようだ。山頂の磐座を含め山全体が恐らく古代以来の聖地で寺院等が集まっていたところに後からお城が割り込んだのだろう。
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2021/02/19 18:15
聖地にお城が同居した (2020/12/06 訪問)
佐伯山の山頂部分は岩が多かったせいもあるだろうが城域は山頂部分を避けているようだ。山頂の磐座を含め山全体が恐らく古代以来の聖地で寺院等が集まっていたところに後からお城が割り込んだのだろう。
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2021/02/19 08:16
圧倒的なスケール感! (2021/01/31 訪問)
室町期に築かれた服部氏の城とも望月氏の城とも言われますが、詳細は不明です。
磯尾川西岸の丘陵地に築かれた城で、新宮城から谷をはさんだ南隣の尾根に位置します。方形の曲輪を分厚く高い土塁で囲んだ典型的な甲賀の城ですが、土塁の高さと厚みは甲賀でも一二を争う圧倒的なスケールです!
新宮城東側登城口の少し南に新宮支城の登城口があり、登り始めてすぐにたどり着く北東の曲輪は北西端を仕切土塁で区切り、南西部には大土塁が壁のように聳え立っています。大土塁の裏側(南側)は主郭との間を隔てる深い堀切です。東の曲輪から斜面を登っていくと、虎口受けを経て主郭東部の虎口に至りますが、東の曲輪にはイノシシの罠が何箇所か設置されていますので、ご注意を。虎口を抜けて主郭に足を踏み入れると、自分が巨大なすり鉢の底に立っていることに気付かされます。主郭を囲む高土塁に上ってみると、曲輪内がはるか下に見えます。非常識なまでの高さです。何だこりゃ…。また、主郭南側の堀切と土塁は、主郭の土塁上から見ても、下から見上げてみても見事なものでした。
昨冬、伊賀の城が大いに気に入ったので、次は甲賀に行きたいと思いつつも、コロナの影響や、麒麟がくる紀行を優先してなかなか訪れることができませんでしたが、ようやく来ることができた甲賀の城、その中でもブラタモリで見て以来、一番楽しみにしていた新宮支城は期待をはるかに上回る城でした。ただ、この圧倒的なスケール感は写真や映像ではその半分も伝わらないと思いますので、ぜひ実際にすり鉢の底に立って体感してみて下さい。
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2021/02/19 07:02
鷲津砦、丸根砦、大高城周遊 (2021/02/11 訪問)
丸根砦から織田軍になったつもりで、大高城めざして進軍しました。
史実は、逆で大高城の松平元康に討ち取られちゃったのですが・・・
東海道新幹線・本線のガードを通り抜けて、ほどなく、川に進路を塞がれてしまいました。
大高川です。
この川は大高城の堀の役目を果たしていました。
川を越えたところにある津島社で、進路を西に変えさらに進みました。
城跡がみえてきたので、北側に回り、坂道を登ります。
大高城に到着
入口の両脇は腰曲輪があったようです。
本丸からは、鷲津砦,丸根砦が見えます。
本丸には一段高くなっているところがあります。かつては建物があったのでしょうか。
現在は城山八幡社が置かれています。
本丸と二の丸をつなぐ土橋の両脇にはけっこう深い堀切がありますが、樹木が生い茂る遠目にはよくわかりません。
城の北には城下町らしい細くて折れた通りがありました。
大高駅を出発して、徒歩で鷲津砦、丸根砦、大高城とめぐって、大高駅に戻ってきました。全行程5.1km、1時間40分でした。
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2021/02/19 06:17
京成&東武野田線日帰り攻城④:高根城 (2019/06/14 訪問)
金杉城から徒歩20分で高根城跡(35.721131、140.007261)に着きました。
外周を一周すれど遺構は住宅地になっていてわからないので、秋葉神社/高根寺付近(35.720031、140.005694)に向かいました。
高根城の城主は、松戸の小金城に本拠を置く高城氏の一族とされ、高城山城守又は、その家臣であった高城右京亮であったといわれています。
城址西南方にある高根寺は、小金城主高城氏の開いた広徳寺の末寺で、高城山城守の時に保護を受け、寺名を小山寺から高源寺に、その後、高根寺に改めたと伝えられています。
1590年(天正18年)の豊臣秀吉による小田原征伐で攻められ廃城となりました。
現在、城址は宅地化されており、高根寺と秋葉神社の東にある台地にわずかに土塁と空堀の遺構を確認することができます。
秋葉神社/高根寺付近の土塁は確認できました。
攻城時間は15分くらいでした。
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2021/02/19 06:11
京成&東武野田線日帰り攻城③:金杉城 (2019/06/14 訪問)
佐津間城➡六実駅➡馬込沢駅と移動し、馬込沢駅から徒歩30分弱で金杉城址(35.730518、140.000127)に着きました。
遺構はみつからない(私有地なので入れない)ので、土塁があるとされる神明社付近(35.730655、140.001417)に向かいました。
金杉城の詳細は不明です。
小金城の高城氏の勢力圏にあったことからなんらかの関わりがあったと推定されています。
中世に金杉氏を名乗る一族がこの地に存在したらしく、おそらくはその居城だったと思われるそうです。
現在城址は大部分が私有地となっており、見学はできません。
一部、神明社の周辺に土塁の遺構を確認することができます。
攻城時間は20分くらいでした。
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2021/02/19 00:23
島城(京都府南丹市美山町島) (2020/11/29 訪問)
東胡麻ー塩貝城跡縦走の午後から美山へ行き、丹波の山城をハシゴ攻めしてみた。
島城は秦河勝の後裔川勝氏の居城で若狭と西への街道が交差し、由良川と棚野川の水運を押さえる交通の要衝に築かれた山城だ。川勝氏は光秀に従い丹波平定に加わるが、本能寺後、秀吉に取り入り、また関ヶ原合戦時は田辺城(舞鶴市)の細川幽斎を攻めたりしているが、徳川時代を経て近代まで生き抜くしぶとさには感服する。
城山の登山口は三ヶ所あるようだが、それぞれ距離的に変わらないので南側から尾根筋を歩く平坦なルートを採った。
途中、熊の爪痕があったが、山頂にもあってビビりまくりの登山となった(;゜0゜)平地には熊が出てきているとの情報があったので冷や汗をかいた💦
山頂の本丸付近は立派な石垣で固められ、二ノ丸には美しい竪堀の跡がくっきり見られ遺構が良好に残る。
眺望も大変よく、北は若狭との国境、東西南北の街道が見渡せ、この地を選んだ理由がよく分かる。菅原神社が鎮座している市場という数少ない平地を守るよう今宮城、中村城とともに取り囲むように城を整備したようだ。
小規模ながら京都にも戦国大名がいたようで、身近な府内の城跡をもっともっと訪ねていきたい。
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2021/02/18 23:03
残念ながら非公開 (2021/02/13 訪問)
にのまるさんの投稿通り非公開なのは分かってましたが「行った」をポチしたく。
鎌倉七口めぐりの途中に立ち寄りました。
稲村ヶ崎から極楽寺へ、極楽寺坂切通を見たあとここに向かいました。
住宅地の細い道を進むと入口がありますが進入禁止。
いつか公開してほしいですね。
この後大仏切通、化粧坂切通、亀ヶ谷坂切通、巨福呂坂切通と巡り、一旦鶴岡八幡宮へ。
さらに釈迦堂切通、名越切通と歩き回リました。
脳内BGMはもちろんサザンでした。
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2021/02/18 13:59
虎の血脈② (2020/08/23 訪問)
JRの駅から徒歩数分。街のシンボル的な城址ですが、一見すると物静かな佇まい。遺構は豊臣と徳川によるもの。つまり、武田滅亡後に造られた城。北に2キロほど離れた躑躅ヶ崎館跡と比べると、やや熱量で劣るように感じるのはそのせいかもしれません。もちろん、残された野面積の状態は良好で、東国における初期の織豊系城郭を知る上で重要な手がかりです。
長らく天守はなかったとされてきましたが、近年の発掘調査で鯱瓦などが見つかり一転。関ヶ原の前後までかなり大きな天守が存在した可能性が高くなっています。天守復元を求める声もあります。ただ、絵図が見つかっておらず、議論は長引きそうです。
治水事業と金山開発で信玄の領国経営は安定していたと言われます。あえて豪壮な城を建てずとも領民の敬意を集めていたのかもしれませんね。そんな信玄が欲したもののひとつが海(湊)だったとよく聞きます。甲府城の天守台に登ると甲斐の町が一望できます。のちに本居宣長が記したとおり、山々に囲まれた「峡」(かい)の町。信玄はこの地に引きこもることなく、縦横無尽に海を、そして京を目指したようです。ようやくチヤホヤされ始めた信長、秀吉、家康がまだこの虎の一挙手一投足に肝を冷やしていた頃のお話。
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2021/02/18 08:12
土造りの枡形虎口 (2021/01/31 訪問)
室町期に築かれた服部氏の城とも望月氏の城とも言われますが、詳細は不明です。
磯尾川西岸の丘陵地に築かれた城で、方形単郭の城が主流の甲賀にあって、丘陵頂部を主郭とし、東側斜面にいくつかの曲輪群を段状に配した縄張になっています。
駐車場はないので、東側登城口近くの県道脇に路駐して登城。歩き始めてすぐ右手に段状の曲輪群が広がり、主郭東下の曲輪に至る虎口は土塁により枡形が形成されています。主郭東下の曲輪の西辺には主郭の土塁が高くそびえ立ち、その南端に開けた虎口から主郭に入ると、四方土塁が高く囲んでいます。主郭北下には堀切と土塁を設け、その東下には水の手と思しき貯水池がありました。主郭南西隅の虎口を出ると、土橋が掛かった幅広い堀切で西尾根を断ち切っています。
藪化していて見づらい箇所もありましたが、一般的な甲賀の城の要素に加えて、織田信長に近江を追われた六角氏の影響ともいわれる土造りの枡形虎口も見られるなど、なかなか見応えのある城でした。
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2021/02/18 06:55
京成&東武野田線日帰り攻城②:佐津間城 (2019/06/14 訪問)
藤心陣屋➡逆井駅➡六実駅と移動し、六実駅から徒歩25分で佐津間城説明板前に着きました。。
本来はもっと早く着くと思いますが、場所がわからず廻りをウロウロして付近の人に聞いてたどり着きました。
城址への道を聞く人が多そうなので、今回教えていただいた登城口を記載しておきます。
県道沿いにある渋谷重兵衛商店(いつもシャッターが閉まっているそうです)を(35.796412、140.004020)目印に進みます。
鎌ヶ谷市消防団第7分団付近の小道(35.797114、140.004252)を進めば佐津間城説明板前に着きます。
佐津間城の歴史はわかっていませんが、鎌倉時代は相馬氏の所領であったことが確認されています。
「相馬文書」によれば、南北朝時代は千葉一族の相馬氏の城で、戦国時代には松戸市を地盤とした小金城の高城氏の支城のひとつであったと考えられています。
いつの時代にどの勢力が佐津間城を築いたのかはわからないそうです。
現在城址には案内板が建てられており、遺構として土塁と空堀が確認できます。ただし曲輪内は私有地のため許可がないと入れないようです。
攻城時間は10分くらいでした。
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2021/02/18 06:50
京成&東武野田線日帰り攻城①:藤心陣屋➡城びと未登録(千葉県柏市) (2019/06/14 訪問)
自宅最寄り駅からJR逆井駅で下車。そこから徒歩15分で農地の中にある案内板/石碑(35.826068、139.995977)に着きました。
そこから徒歩15分で表門(観音寺)(35.816968、139.985368)に着き、徒歩15分で逆井駅に戻れます。
今回は時間の都合で中門(法林寺)には行っていません。
藤心陣屋は本多俊正の四男で本多正信の弟である本多正重によって、1616年(元和2年)に築かれた飛地陣屋です。
正重は「大坂の陣」の功で9千石の加増を受けたことにより、一万石の大名となり舟戸藩を立藩しますが、その際に飛地領を支配するために置かれた陣屋です。
重信の跡を継いだ正貫の時に二千石の減封となるが、1688年(元禄元年)正永の時に一万石に復帰、さらに五千石の加増があり、1703年(元禄16年)上野国沼田に転封、さらには田中藩へ移封されます。
しかし、転封/移封後も下総国の領地は飛領地として、明治を迎えるまで本多領として藤心陣屋には代官が置かれていたそうです。
攻城時間は25分くらいでした。(案内板/石碑から表門(観音寺)までの移動時間を含みます)
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2021/02/17 22:53
高取山城 埼玉県入間郡越生町 (2021/02/06 訪問)
越生駅から徒歩で7〜8分くらいのところに越生神社があり、説明板が立っています。
神社の奥の院にあたるところが城址で要害山城とも呼ばれています。
ハイキングコースにもなっていて歩きやすかったです。
主郭手前は七曲り状の登城路でした。
山頂部に主郭があり、その奥に二郭、三郭と続きます。
二郭に竪堀、三郭下に横堀がありました。
児玉党の一族、越生氏の城です。
越生は梅の名所ですがそろそろ見頃なのですかね。
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2021/02/17 22:48
2021/02/17 21:32
園児の声を聞きながら (2021/02/14 訪問)
ひっそりと池田幼稚園の下で残ってます。
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2021/02/17 20:40
2021/02/17 20:26
2021/02/17 15:21
今も阿久沢氏の末裔が守る (2014/10/25 訪問)
群馬東部の山間で、今も城主一族の末裔が大切に守り続けている神梅(阿久沢or深沢)城です。
【アクセス(車)】
渡良瀬川沿いにR122を遡り、渓谷鉄道の『本宿駅』を過ぎた宿廻の交差点を左後方に大きく回り込む形で県道335に入り、登り坂を約1km登ると『➡深沢城』の看板があるので、右折して行くと『正圓寺』という寺があり、この境内が神梅城址です。
城名がいろいろ有ってややこしいのですが、地元では『深沢城』で統一されてる様ですね。
本堂前の道路沿いにお寺の広い駐車場が有るので停めさせて貰います。
日曜日の朝、ちょうど地元の方(檀家さん?)が総出で周囲の草刈りをしていたので、『城址を見学させてもらいます』と挨拶して、探訪に入りました。
【城の歴史】
築城は意外に新しく、永禄年間(1558~70)の阿久沢彦次郎に依る…とされています。
阿久沢氏は黒川谷(渡良瀬渓谷)に土着する“黒川郷士”の一人でしたが、当時の一番の有力者だった様ですね。
この頃、上野は上杉謙信と北条氏康が攻防を繰り広げる戦場になっていましたが、赤城山西麓の利根川沿いは北条氏が多くの城砦で固めていたので、謙信は東麓に間道を拓き、この黒川谷に出て来て南下していた様です。
おそらく謙信が土地の郷士達に命じて、築城し守らせた城なのでしょう。
その後北条方となった阿久沢氏は金山の由良氏の傘下となり、小田原征伐では籠城のため41名の郷士が小田原城に向かいましたが、小田原開城降伏後は神梅城も廃城となり、みな近郷で帰農したそうです。
【見どころ】
南向き斜面に築城された城は、50m四方ほどの本丸を広い堀が囲い、南の裾に小曲輪を幾つか重ねており、南からの攻撃に備えています。
背後の北側も本丸を取り囲む様に広い郭が造られて、大外を空堀が走っています。
つまり、本丸は北の外郭から見下ろす低地にあるのです。
三島の山中城は有名ですが、敵の攻め口が特定できる場合、こんな城の選地と縄張りも有り得る訳ですね。
しかし、一番凄いと思うのは、公的な史跡指定のないこの城址が、綺麗な状態で維持されている事です。
本丸は約750坪の平坦地ですが、住宅にも耕地にもならずにそのまま維持されています。
帰農した阿久沢氏の末裔の人達は、北の郭に移してきた正圓寺とともに、“先祖の遺産”として大切に守ってるが故の事でしょうね。
【感想】
阿久沢氏は蝦夷の末裔という伝承があります。
前九年の役で勝利した源義家は、捕縛した安倍宗任を京に連れ帰りますが、宗任を慕う蝦夷の人達は、その後ろからゾロゾロ付いて来て、その数は700人に上りました。
困った義家は、この地で蝦夷を説得し、『此処に連絡役として数十名を住まわせ、京での宗任の動静は彼らに伝えるから、安心して帰れ!』と蝦夷達を帰らせました。
その連絡役として残ったのが、阿久沢氏および黒川郷士だと言うのです。
真偽の程はともかく、此処の人達が、より先祖を崇め尊ぶ、文化的なDNAを持っているのだとすれば、有り得る事かな?…と思ったりしました。
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2021/02/17 08:12
いつ行くか? 今でしょ! (2021/01/31 訪問)
甲賀郡中惣遺跡群として国史跡の指定を受けていますが、築城時期、城主など詳細は不明です。
杉谷川東岸に築かれた方形単郭の城で、主郭を高さのある四方土塁が囲み、南部と北東部に虎口が開口し、西辺から北辺にかけての土塁外周を横堀がめぐっています。
倉治城から北西に徒歩7分、竹中城の南にある民家の西辺の竹塀沿いに奥に進むと南側の虎口に至りますが、気付かず通り過ぎてしまい、土塁外周の南西部にたどり着きました。西側の横堀はとりあえず整備されていて堀底を進むこともできましたが、北側の横堀は竹藪で進めず、土塁は急峻で高さがある上にびっしりと竹が伸び盛り、取りつく隙間も見当たりません。それでも南西隅から何とかよじ登って主郭内を見てみると……めっちゃ整備されてるやん!
先人の投稿にあるように、その名の通りの「竹藪の中の城」を覚悟して訪れたのですが、主郭内の竹藪は大規模に伐採され、整然と積まれた大量の竹からはこれまでの壮絶な竹藪ぶりが窺えます。伐採は大変なご苦労だったと思いますが、おかげさまで主郭内に立ち入ることも見渡すこともでき、高土塁に囲まれた甲賀の城を堪能することができました。年初のじゅんじんさんの登城時には竹藪だったようですから、最近伐採されたばかりだと思いますが、竹が伸びるのは早いので、登城されるのであれば早いうちがおすすめです。
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2021/02/17 07:54
房総日帰り攻城Ⅳ⑫:千本城(ラスト)➡城びと未登録(千葉県君津市) (2019/06/26 訪問)
秋元城から転戦。車で30分くらいでした。
近くの大戸城と千本城が同じだと勘違いして、千本城攻城で大戸城を攻城済としていましたが違うようなので、大戸城を未攻城に修正しました。
国道410号線の千本城跡入口の石碑前(35.259523、140.064274)から小道に入り登城口付近に駐車して攻城しました。
築城については、1488年(長享2年)に里見氏の里見義実が築城したとされるが、不明な点が多いそうです。
久留里城の南方を防御する支城で、里見氏の武将、東平安芸守がこの城に住んでおり、娘が里見義弘へ嫁いで梅王丸を生んだと推測されるようです。
1578年(天正6年)5月に里見義弘が亡くなった後、里見義頼と里見義重(幼名は梅王丸)の「天正の内乱」の際には、反義頼勢力は久留里城、千本城を拠点としたとされます。
戦いは義頼の勝利に終わり、里見義重(幼名は梅王丸)は出家させられます。
城は義頼の管轄下に置かれたが、小田原征伐の後の1590年(天正18年)に、里見氏は豊臣秀吉によって上総を召し上げられたため、廃城となりました。
城址には堀切等の遺構がきれいに残っており、主郭には1488年(長享2年)に里見義実が寄進したといわれる北野神社が建てられています。
登城口より北野神社を目指す途中、倒木が道を塞いでいるが横をすり抜けて進むと素晴らしい堀切が見れます。
堀切のオンパレードに堀切好物の自分は拍手喝采。
攻城時間は35分くらいでした。
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2021/02/17 07:24
房総日帰り攻城Ⅳ⑪:秋元城 (2019/06/26 訪問)
滝田城から転戦。途中ナビが通信不可となり、誤った所に誘導された為、正確な時間は不明。
秋元城跡駐車場(35.255242、139.993494)に駐車して攻城しました。
秋元城は里見義豊が、1504年-1521年(永正年間)に臣下の秋元義正に命じて築かせた城だといわれています。
しかし義正の子である義久の時代の1564年(永禄7年)「第2次国府台合戦」により北条軍に攻められ落城したと伝えられています。
その後は北条氏の城として、斎藤正房を城代として置いていましたが、1590年(天正18年)の「小田原の役」で浅野長政が率いる房総別働隊によって攻められ、廃城となりました。
現在も城趾には土塁や堀切などの遺構が良好な状態で残っているそうです。
駐車場はありますが、トイレはありません。
滝田城から車で転戦しましたが、途中ナビが通信不可となり、誤った所に誘導された為、正確な時間は不明。
レンタカー返却の時間が気になり、道路わきの案内板の写真を撮り撤退。
着いた時点で予定の65分オーバでした。
攻城時間は5分くらいでした。
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