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ぎりょう

鎌倉以来の名族、長江氏の本拠地 (2015/03/07 訪問)

東松島市の鳴瀬川河口に位置する。北からの丘陵先端部に並び建つ桜ヶ森館と梅ヶ森館で構成されるという。曲輪・切岸・土塁・堀切が残る。曲輪跡は長年畑地として利用されていたようだが現状は草も刈りこまれ観やすい状態。駐車場は特に無く、両館を隔てる沢の道路脇に停めることとなる。

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ぴーかる

登り石垣・天秤櫓・その他 (2019/11/15 訪問)

【彦根城】
<感想>平日日帰り彦根市の城攻めの旅2城目。2回目の投稿で、じっくり城を見るのは5年ぶりの3回目。今回の来城の目的は御城印購入と、今まで知識も薄く、じっくり観察しなかった遺構の箇所(登り石垣・天秤櫓・城の北西部)を見に来た。結果的には城に行ったら興奮してしまって登り石垣は全部で5本あるが2本見落としてしまって、今まで見てかなった井戸郭・西の丸北東面の高石垣も間近で見るのを忘れてしまい、なんとも情けないざまに。まあ少し知識を得て新しい気付いた遺構も分かりよかった所もあった。また来よっと。今回も写真はタイトルに特化したものを添付してます。

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朝田 辰兵衛

上野の美術館鑑賞ついでに散策。 (2019/11/17 訪問)

みなさんと同じアングルとなり,スミマセン!

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にのまる

遊歩道じゃないところも行けます? (2019/11/02 訪問)

愛宕神社の大きな鳥居が登城口です。(写真①)
パンフレットには、「国道27号線後瀬山トンネル東口北隣」が遊歩道入口と書かれていますが、遊歩道にもいろいろあるので油断は禁物です。
こちらは所要時間20分の山道ではありますが、比較的安全な遊歩道でした。(私的過去最強遊歩道は太尾山城の湯谷神社の裏の道です。)

ただ縄張り図を見ると畝状竪堀群などの遺構がたくさんある(=防御していた)側は北西側で、遊歩道沿いのメインは団地のような曲輪群でした。八幡神社の方にも曲輪が連なっているようでしたが、そちらには行かずに本丸を目指しました。(帰りに行けばよかった…)

曲輪群を右手に見ながら(左手は崖)登っていき、土橋を渡ると崩れたような石が目につくようになり、ほどなく本丸に到着です。
虎口石垣の鏡石(として据えたのだと思う)に出会ったときには、500年前にタイムスリップした気持ちになり、来てよかったなーって心底思いました。

本丸には若狭武田氏城址碑と、常高院(京極高次の妻で浅井三姉妹の次女お初)勧進の愛宕神社と四阿がありました。細長く残る土塁もいい感じでした。

本丸の南西にある二の丸の方がむしろ見所だったようなのですが、遊歩道としてパンフレットに道が書いてあるのが本丸までで、この先下ったとして上れるか不安だったので、本丸までにしました。

 が、やはり今思うと、行ってみればよかったなーと少し後悔。
チャンスがあればもう一度行ってみたいです。(読みもしない本とか予備の予備のバッテリーとか晴れなのに折り畳み傘とか秋なのに日焼けどめとかの荷物の見直しをして身軽にしてから^^;)

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いんげん丸虫

三ヶ郷城 群馬県みどり市 (2019/11/17 訪問)

城というより砦といった規模ですが尾根両端に虎口を持ち帯曲輪も明確についてます。少し場所はわかりずらいかな。

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チェブ

方面音痴と焼き畑。 (2019/11/09 訪問)

昨日 投稿した「成田氏館」の後「皿尾城」に行きました。
もともと「忍城」の支城だったそうです。
が、上杉 謙信さんが「皿尾城」を攻略し「忍城」の成田 長泰さんを監視するために改修築城しました。
「皿尾城」から「忍城」まで2㎞弱です。
近っっ!
最後には、いくつか説がありますが謙信さんが怒って「皿尾城」を焼きます。
近いから、いろいろ見えてしまったんでしょうね。

こちらも「成田氏館」と同じく迷いました。
オマケに焼き畑と言うのですかね?田園風景に火と煙です。
刈り取られた後の田んぼで方向が分からなくなります。
久伊豆雷電神社の近くで公民館前に公園があり、立派な石碑がたってます。

のどかな風景。心が安らぎます。
謙信さん、怒らない怒らない、、、って、怒ったから歴史が面白いのか!と再確認しました。

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イオ

竹藪の中に… (2019/10/27 訪問)

応仁の乱の頃、「妙椿の動向は中央の政界をも揺るがす」と言われた斎藤妙椿の築城とされ、可児川北岸の河岸段丘に築かれた平城です。

南側の可児川が天然の堀、東側、西側、北側は空堀と土塁で囲まれており、西側と北側は竹藪と化していますが、東側は幅広く深い空堀と高い土塁が状態よく残っています。北側と南側に虎口があり、北側の虎口の脇には土塁が見られますが、城内は私有地(民家や畑など)とのことなので、それ以上内側の様子は未確認です。

写真ではなかなか伝わりませんが、実際に周囲を歩いてみると竹藪の中の堀の深さと土塁の高さを感じることができると思います。15分もあれば外周を歩いて一周できますので、お近くに来た際はぜひ。
 

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todo94

2度目の続日本100名城スタンプラリー・2城目 (2019/11/17 訪問)

郡上八幡城下町もみじまつり2019の最終日。快晴の日中でしたが、たいそうな混雑で駐車場所には難渋しました。もちろん、紅葉はきれいに色づいていました。2度目の続日本100名城スタンプラリー・2城目、富山城に続いての模擬天守となりました。

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小諸城~穴城の紅葉~ (2019/11/19 訪問)

小諸城の起源は鎌倉時代末期にまで遡ります。戦国時代、武田信玄が山本勘助、馬場民部少輔信房(後の美濃守信春)に命じて築城したのが現在の小諸城と言われています。武田家滅亡後の天正18年(1590)仙石秀久が城主となり主要な城郭を整備し、子の忠政の代で現在の小諸城が完成しました。以後城主は徳川氏、松平(久松)氏、青山氏、酒井氏、西尾氏、石川(松平〔大給〕)氏と変遷し、元禄15年(1702)に牧野周防守康重が越後与板から赴任、この後明治維新まで牧野氏10代の治世となりました。

現存遺構は大手門、三の門、天守台、石垣など。特に大手門は、長野県内の現存例としては貴重な慶長期の建築物で、国指定の重要文化財に指定されています。三の門は、寛保二年(1742)の水害で流失しましたが明和2年(1765)に再建されこちらも重要文化財に指定されています。門に掲げられている「懐古園」の書は、徳川宗家第16代当主、徳川家達によるものです。

小諸城は、大手門側からしなの鉄道の線路を挟んで反対側の三の門の方が低くなっているため、別名「穴城」とも言われています。しかし、不開門のあった水の手展望台から見下ろすと分かりますが、千曲川を眼下に望む崖の上に築かれているため、その難攻不落さが見て取れます。

戦国~江戸時代を経て大正15年(1926)近代的な公園「懐古園」として生まれ変わり、春は桜、秋は紅葉の名所として訪れる人の目を楽しませてくれます。特に秋の紅葉は、京都の庭園を思わせるような趣を醸し出し、その彩の豊かさは天下一品の芸術品と称賛できると思います。

11月からは従来の懐古神社の御朱印とは別に、小諸城址の「御城印」が新たに販売されるようになりました。

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小城小次郎

古宮城

武田氏が最前線に築いたとされるお城はどれもみな戦闘的な構えを見せているが、古宮城のそれは尋常ではない。もはや狂気。

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じゅんじん

散歩 (2019/11/05 訪問)

お仕事できたので散歩

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じゅんじん

石垣のお城 (2019/10/05 訪問)

海が見えました。

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カルビン

大河放送前に行ってみた (2015/12/18 訪問)

松平郷を中心に愛知県東部を散策し、最後に立ち寄ったのが静岡県浜松市の井伊谷地区。
井伊家菩提寺の龍譚寺を見学した後、なんとか日没前に井伊谷城に間に合いました(汗)

公民館の駐車場に駐車させて頂き、急いて地味に急な坂道を登った先の井伊谷城の主郭と思われる場所に到着。
解説や標柱があったので多分正解だったと思います。

お城としての遺構は殆ど見受けられず・・・井伊家の拠点ではあったものの、所詮そんな大きな一族では無かったようで、有名な大きなお城と比べるのはちょっと酷かも。。。

主郭部裏手に御殿丸跡と、山の途中に横堀・土塁と思われる形跡が残る程度のものでした。
公園化によって遺構が削られた可能性もありますが。。。もともと戦いの拠点になった訳でも無く、はじめから遺構は殆ど無かったと推測します。

ちなみに大河ドラマ「おんな城址・直虎」の放送前の訪問だったせいか、井伊谷城では誰にも遭いませんでした。


お城そのものを楽しむというより、井伊家の歴史を感じに行くというコンセプトで訪問されるのが良いでしょう。


・・・大河で放送された後に井伊家始祖・共保公出生の井戸の事を知り。。。現地解説で確認していたにも関わらず訪問漏れていた事に気付きました・・・無念orz

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プリン

御城印を目当てに再訪 (2019/11/02 訪問)

限定御城印を手に入れるため福山駅近くの福山城を再訪。
この日は時間がなかったので東側から近道しました。

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チェブ

一方通行の右手。 (2019/11/09 訪問)

埼玉県熊谷市「成田氏館」に行きました。
「のぼうの城」でお馴染みの成田氏。
初代 成田 助高さんから成田 親泰さんが「忍城」に移るまでの400年位、本拠地でした。

実は、なかなか見つからず同じ道を何度も通りました。
車で国道17号の大きな通りを深谷市方面に走り「上之」の信号を左折、ではなく鋭角に一方通行を左折です。
間違って、左折して国道に戻るを何回かしました。
右手に「成田氏館」の石碑があります。お隣は牛小屋。前は成田山泰蔵院の大きな駐車場です。
写真を撮る位だったら路駐できるスペースがあります。
遺構はありません。
苦労して来たんだからっ、と思い写真を撮りまくろうとしましたが三枚が精一杯です。
周りは民家と牛小屋です。

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イオ

大切にされている城 (2019/10/27 訪問)

美濃国守護土岐氏の一族・土岐康貞が築城し、次代から久々利氏を称し居城としました。織田信長の美濃攻略により森氏に従うも、本能寺の変を機に離反したことで、森長可に攻められ落城、その後、森氏の支城となりましたが、森忠政の信濃国川中島への転封にともない廃城となったようです。

縄張は谷をはさんで東の尾根と西の尾根に大別され、東尾根には斜面沿いに曲輪が段々に配置されています。一番下の曲輪は大手として曲輪全体が枡形虎口状になっており、三の丸から見上げる二の丸、本丸の切岸は急峻で、随所で横矢が掛かるようになっています。本丸から先も、土橋あり、二重堀切あり、竪堀ありと見どころ満載で、さらに西尾根にまわって堀切や竪堀を確認しながら下山できるようになっています。

この日は山城サミット2週間前のため、あちこちで整備作業をされている方に出会いましたが、こうして下草や灌木をきれいに刈ってくれているからこそ切岸の急峻さも際立つんだよなぁ、とただただ感謝…。よく整備され、手書きの案内板などもあって、本当に大切にされていると感じる素晴らしい城でした。
 

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todo94

国史跡 (2019/11/17 訪問)

江馬氏城館跡として国史跡に指定されています。麓の大国寺から遊歩道があるのですが、標柱脇の舗装路を進むと墓地の横を通り藪の中に入り込んでしまいます。遊歩道は舗装路の右側の道で四角く墓地下を回り込んで登り道になり主郭に通じています。きれいに整備されていてお手軽に楽しめる城です。説明板は四阿の中に伏せてあったので見えるように立てかけておきました。

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天下布武

三遠境目の山城 (2019/11/20 訪問)

城址西側の嵩山町集落へ国道362号から水路沿いの道を入った先が登城口(34.807124, 137.465678)です。
駐車場はないので登城口手前の路肩スペースを探し停め登城しました。

月ヶ谷城は三河西郷氏が本城とし今川氏の台頭により服したが、桶狭間の戦い後自立した松平元康に協調する。
今川氏は離反する国人により広がる抗争に対し挙兵し、城主西郷元正は三遠境界を守備する遠江宇津山城主朝比奈泰長に討取られ落城しました。

登城口は小さな水路があり簡素な丸太橋が架かっています。その脇に黄色い標柱が立ち「月ヶ谷城址入口」と書かれています。
登城路には所々折れ点等に木製の赤矢印板があり約20分で主郭です。
主郭は二段構造で高低差がつけられており部分的に土塁が見られます。また内枡状の屈曲する虎口が二か所しっかりとした形状を成しています。
その他主郭南下のⅡ郭には井戸状の深めな竪穴が見られますが用途不明です。

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プリン

吉田郡山城 (2017/12/20 訪問)

安芸高田市歴史民俗博物館の駐車場に車を停めて、徒歩で登城開始。
毛利一族の墓所を抜けてから、そこそこ険しい登山道を登ると本丸跡に到着。

今年11/1に安芸高田市歴史民俗博物館を再訪し、オリジナル御城印帳(ポケット式)と御城印を購入しました。

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輝本公

天守台 (2019/11/23 訪問)

江戸時代から現存している天守。城郭の威厳を示しながらも、何故か心も和ませてくれる木造建築の温もりや素晴らしさは、先人の方々が遺してくれた我々に対する賜物ですね。

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