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倒竹だらけの竹林を越えて (2021/04/24 訪問)

大和郡山付近の城を巡るべく調べていると、2019年5月に訪問された、ぴーかるさんの投稿を発見。本郭に行こうとしたが、竹林や廃屋に阻まれたとのこと。恐いもの見たさに、行ってみました。
ぴーかるさんは、北北西から、アプローチされたとあったので、余湖さんのレポートを参照して南側からアプローチ。レポートどおり、犬が激しく哭いてました。結局、害獣避けの柵の扉は城域の西北しかなく、ぴーかるさんと同じ進入道に。
廃屋を右手に見つつ、倒竹だらけで、かつ、不燃ゴミ捨て場になっている地帯を40mほど東進。日差しが強い日で、竹林の中でもまだ明るかったので突破できました。
突破した先には、深い横堀!
余湖さんが、レポートしている、
「北側には土塁が盛られている。土塁は幅広の重厚なもので、土塁の上にさらに土塁が盛られるという二重構造のものとなっている。」も確認できました。さらにその北側には幅広の堀も。東側は、平地に向かう急斜面。一方、南側は、浅く緩い谷形状ながら、守りは弱そう。北側からの攻撃に備えているのでしょうか。
帰りに城域の北側、東側も歩いてみましたが、民家が建て込んでいて、西北からアプローチするしかなさそうでした。

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くっしー

中世と近世をつなぐ城 (2021/04/24 訪問)

近世初期の城郭(織豊系城郭)の条件は、高石垣、礎石建物、瓦建物です。

織豊系城郭というぐらいなので、信長や秀吉、その配下の武将が築いた城なのですが、

この鎌刃城は、浅井氏の家臣であった堀氏の城です。

まあ、秀吉に寝返るのですが、1574年に改易され、城も破城されているので、

信長・秀吉の影響で改修したわけでもありません。

にもかかわらず、とっても立派な石垣が残っています。

さらに発掘調査の結果、礎石建物跡も見つかっています。

石垣で囲われた立派な枡形虎口もあります。

陶器類も多く見つかっているようです。

さすがに瓦は見つかっていないようですが、

近世の要素をふんだんにもった城なのです。

今回、はじめてこの城を訪問したのですが、近江の国人レベルでこんなすごい城を築いていたなんてちょっと驚きました。

もちろん、近江には観音寺城や小谷城のような凄い城があることは知っていましたが、

国人レベルでこの城を築いていたということは、

いかに近江国が先進的であったかということを感じさせられました。

また、城郭の進歩は織豊政権が牽引して進歩したものだと考えていましたが、

そんな一元的なものではなく、多元的に進歩したのがこの時期の日本のお城なのだと思います。

ちなみに、石垣や枡形虎口以外にも堀切・切岸・土橋など素晴らしい遺構がたくさん残っていますので、

是非多くの人に訪れてほしいと思います。

登城ルートは3種類ありますが、中山道の番場宿から歩いて、だいたい30分~40分ぐらいです。

車は番場宿の資料館の駐車場を使わせてもらいました。

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まっつん

長崎城跡と荒神山城跡 (2021/04/25 訪問)

因島の南にあった城跡。かつては岬の先端に築かれた水軍城だったのでしょう。今はそこに「ナティーク城山」というホテルが建っているので詳細はわかりません。海岸には岩礁ピットがあったそうです。
また、この城の背後の山に荒神社という神社がありますが、ここには荒神山城があったとされ、長崎城の詰城だったのではないかということです。
長崎城は海賊・因島村上氏の本拠城として180年間使われた後、村上吉充とのきに向島の余崎城へと移っていったそうです。

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まっつん

青陰城跡 (2021/04/25 訪問)

道が細いと分かっていたので、麓に車を停めて歩いて山頂まで登りました。車は「はっさく交流館」に停めさせてもらうのが良いのではないでしょうか。
さて、城跡は標高275mの青影山の山頂にあります。景色が見やすいように木も切ってあったりと良い感じに整備されていました。
城は南北朝時代に村上義弘によって築城されたと伝えられ、戦国時代には海賊・因島村上氏の居城としても使われていたそうです。

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朝田 辰兵衛

梨郷南館(山形県南陽市) (2021/04/17 訪問)

【りんごうみなみ だて】大塚城から北に約600m,国道113号線に到達したら東に約1km。コンクリート工場の隣です。とくにパネルや標柱などはありません。
なぜ来てしまったかというと,「り」のフォロー手札を発見しておいて,スルーはできないやろということで…<笑>。
北東約1km先には,山形鉄道梨郷駅にアクセスします。

梨郷南館は,詳細不明ですが,中世の館跡と伝わっています。

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肉球

立川番所・高知県大豊町 (2021/04/12 訪問)

岡豊城を見学したあと先方さんとの待ち合わせが山間の大杉駅。
まだ時間があるのでカーナビを立川番所にセットすると15分〜20分の距離。
途中台風の影響で道が崩落していましたが簡易道路が設置されていて15分ほどで到着しました。
ここはお城ではないですが高知の殿様が参勤交代で江戸に向かうとき宿泊した場所です。
海路では天気によって行程が定まらないことが多く陸路に変更し街道が整備され
現在残っている建物は築200年程。
内部は指定された日のみの公開です

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キンヤ

信玄誕生地とされる武田氏の詰城 (2019/04/21 訪問)

事前に織豊期の改修とも聞いていましたが、信玄誕生地ですし、武田氏をイメージして行きました。

でも、本丸に辿り着くまで確かに織豊期の改修と思われる、いくつもの枡形虎口を通って行き驚きました。

本丸から北側背後は、竪堀や土橋などが続き、武田氏時代の遺構と思われ少し安堵しましたが、竪堀の内側には珍しい石垣があり、これにも驚かされました。

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ミッピのパパ

「たら、れば」の歴史妄想 (2021/04/01 訪問)

天下が信長から秀吉に移るターニングポイントとなった重要な城
(本能寺の変→備中高松城水攻め→中国大返し→山崎の戦い)

歴史に『たら、れば』は禁物であるが、
1.清水宗治の切腹の予定が1、2日遅れていたら。
2.本能寺の変の情報が、備中高松城をはさんでにらみ合っている毛利陣営に
 伝わっていたら。 などなど
この城の水攻めの結果が、このあとの歴史にどれだけ影響しただろうか。

明智の天下か、毛利の天下か、はたまた、徳川か島津か伊達か、
ひょっとしたら天皇?
今の日本の首都は、東京じゃなく、山口か仙台かもしれない。
とついつい妄想してしまう。

城としての遺構は、清水宗治関連の石碑か、蛙が鼻築堤跡が主なものに
なってしまうが、現場の地形を見定めて、歴史に思いをはせる城跡だった。

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橋吉

災害復旧工事中 (2021/03/27 訪問)

基肄城(きいじょう, きいのき)は、福岡県筑紫野市と佐賀県三養基郡基山町にまたがる基山(きざん)に築かれた、古代山城です。
白村江の戦いで唐・新羅連合軍に大敗した大和朝廷が倭(日本)の防衛のために築きました。
665(天智天皇4)年、大野城とともに築いたことが『日本書紀』に記載されています。

まずは、基山町民会館へ
ここで続日本100名城スタンプを押すことができます。

次に、登城口のある基山草スキー場へ行きました。
基山草スキー場から基山山頂、基肄城を経て水門までの道はハイキングコースにもなっています。
ただし、現在は災害復旧工事をしているので通行止め箇所があります。

草スキー場のゲレンデを山頂をめざして登っていきました。
ゲレンデを60%ぐらい登ったところ
土塁が見えてきました
しかし、心臓がバクバクです。
それ以上に足の調子がおかしいです。
ゲレンデは扇の勾配のようになっており、上部へ行くほど傾斜がきついです。
なのに、この状況で耐えられるか。
残念ながら、ここは勇気ある撤退を決断せざるをえませんでした。

気持ちを切り替え、水門へ車で移動することにしました。
水門跡の前に数台分の駐車スペースがありました。

本来ならば、ここから草スキー場方向へ向かって行くこともできるのですが、残念ながら通行止めでした。

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小城小次郎

ずっと駐車場のないお城だと思っていた (2021/01/28 訪問)

本丸にかかる極楽橋はちょうど架橋が終わり開通直前だったようだ。実はずっと「駐車場のない」城だと思っていたが、大手門脇に専用駐車場があるのを3度目の訪問で知ってちょっとびっくり。

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T-Shionoya

350年前に先祖が歩いたかもしれない城 (2021/04/03 訪問)

今月は、私のお城巡り101城目として山梨県都留市の谷村城&勝山城に行ってきました。

ほとんど平地がない郡内において、桂川沿いは古代から生活の場があったとのこと。
郡内の北寄りは甲州街道が走っており、桂川は相模川の上流部であるため相模国との交流もあったエリア。

その郡内の中心地が都留。
戦国時代は小山田氏が統治し、火災に遭った中津森の居館を1532年に谷村に移したのが谷村城&勝山城の始まり。
桂川を挟み、平地の居館が谷村城、対岸の比高90mほどの山に築かれた詰城が勝山城です。
小山田氏滅亡後は鳥居氏などが城主となり、豊臣方の浅野氏重の時代に大修築を実施。
江戸期の1633年からは秋元氏が入り、1704年に秋元氏が川越城へ移ると廃城となりました。

現在の勝山城は、桜で飾られた城山公園となっており、本丸周囲には所々で石垣が確認できます。
また大沢見張り台手前の堀切(竪堀)も山城らしい遺構。
源生見張り台は行くことができませんでしたが、全体をゆっくり回っても1時間半で十分な大きさでした。

谷村城は遺構がほぼないものの、小学校辺りが本丸。
水堀の名残として家中川が流れています。

さて、私の先祖は秋元氏の馬廻衆だったとの話。ボディーガードのような役割でしょうか。
しかし市役所前に立っていた秋元氏時代の谷村城絵図を見ると、武家屋敷の中に我が名字はありませんでした。
足軽屋敷に住んでいたのかな?
それとも谷村城内で警備員として暮らしていたのかな?

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肉球

長宗我部元親の本拠地 (2021/04/12 訪問)

出張で訪れた高知二日目。
先方さんと合流するまでの時間を使い初めて訪れました。
国分川沿いの道から撮影を済ませ北側にまわると歴史資料館があり
車を停めることが出来ます。
散策路が舗装されていて歩きやすく各郭には案内板が設置され見学しやすくなっています。
土塁や石積みが残り斜面には竪堀が確認でき防御の高さを感じられます。

 

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ぴーかる

中島砦 (2021/04/10 訪問)

【中島砦】
<駐車場他>駐車場はなし。
<交通手段>青春18切符

<感想>日帰り18切符の攻城旅5城目。中島砦は今川方になってしまった鳴海城を包囲するために丹下砦・善照寺砦と共に信長が築いた。桶狭間の戦いでは信長がまず丹下砦に入り、善照寺砦へ移り、最後にこの中嶋砦に入ってここから今川義元本隊へ突撃を開始した出発点となった砦です。城跡碑のある場所は民家の一角が解放されています。扇川と何川かわからない合流場所の内側にあり防備力はありそうな立地です。

<満足度>◆◇◇

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赤い城

城域は広く主郭部は公園に。 (2021/04/17 訪問)

木原小学校の裏手が城址公園となっている。
公園入口に模擬門があり、すぐに深い堀が。
主郭は高い土塁に囲まれ、市民の憩いの場となっていました。
八重桜、チューリップは終わりかけでしたが十分綺麗。
搦手側の櫓台跡に稲荷神社があり、二郭との間には深い堀が。見どころです。
降りてみましたが高い!凄いです。
南側の永源寺(寺曲輪)に移動。
南虎口、寺の裏手の二重堀を見学。
城域はかなりの広さがあります。
江戸崎土岐氏の家臣、近藤氏の居館です。

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あるびの

掛川城 (2021/04/24 訪問)

緊急事態宣言発令前の駆け込み乗車です。
この日は天気も良く暖かな日差しの中、掛川城に行って来ました。復元された木造天守閣は素晴らしく当時に想いをよせる事が出来ます。

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ぎりょう

小野城(宮城県大崎市古川小野西館)奥州探題大崎氏の居城 (2021/04/24 訪問)

宮城県も仙台市だけでなく県北地区もコロナ感染者が増えている。春先からGWまでの城館訪問シーズンも県をまたぐ訪問は自粛、悩ましい日々を送っている。そんな折、地元の中世城館の小野(この)城跡の山林が刈り払らわれたとの情報を知り訪問した。
この城は別名内館城、小野御所とも云い、中世に奥州探題としてこの地に君臨した大崎氏(斯波氏)の居城である。仙台藩の古城を記した「仙臺領古城書上」には栗原郡(当時)小野邑の項に「一 山 内館城 東西三十七間 南北八十間 大崎義宣居城。・・・・・」と記載が有る。斯波氏(後の大崎氏)が奥州に下向し、現在の大崎地方に本拠を置いたのが三代詮持の時代と云われ、天正十八年(1590)秀吉の奥州仕置きで没落するまでの二百年余り「小野御所」として存在したと云う。
城地は北から延びる栗原丘陵の南端に位置する。北・東・南側は千枝湖と呼ばれた沼地を天然の豪とし、比高18mほどの丘陵上に配した多数の曲輪と土塁で中央の低地をUの字型に囲んだ要害である。東西700m、南北400mほどの規模であり近隣の中世城館と比して広大であり、奥州探題の本拠地にふさわしい規模となっている。
現状は南側の東西に延びる曲輪は山林が刈り払われ非常に見やすくなった。そこから北側に大規模な土塁でつなぐ主郭や東側の曲輪は土取りのせいで大きく破壊されているが、虎口・土塁・切岸・堀切など見どころも多い。
東北自動車道古川ICから7Km(9分)、全域が私有地であり駐車場は無いが、主郭西下に位置する梅香院に駐車場有り。

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肉球

現存天守閣 (2021/04/11 訪問)

出張の為訪れた高知。前日入りして安芸土居を見学後まだ時間があるので高知城へ。
以前より高速道が整備され移動が楽になっていました。
コロナの影響で人出も少なく御殿、天守閣共にほぼ貸し切り状態でした。
御殿上段の間を正面から撮影したかったのですが見学は廊下部分から
その間に柱と障子がありうまく撮れません。なんとかもう少し近くまで入れるようになると嬉しいのですが。
天守閣入口の扉は分厚く現存御殿から現存天守閣へ入ることが出来るのは感動ものです。
修復中だった高欄は綺麗になっていました。

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肉球

山内家重臣五島家の土居 (2021/04/11 訪問)

私にとっては長めの出張高知〜姫路。コロナの影響で一人で行くことになり時間に余裕を持ってクルマで出かけることにしました。
前回は枡形部分と武家屋敷などを見学しましたが今回は詰まで登りました。
詰、北の段、二の段、三の段と郭があり詰と北の段の境にも石垣が存在してます。
詰の部分はそこそこ広いですが二の段、三の段はそれほど広くないです。
詰の虎口付近に大きなハチが飛び交っていましたので近々訪れる方は注意しましょう!
公開されている武家屋敷や岩崎弥太郎の生家もあり見学スポットは結構あります。

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小城小次郎

松永久秀渾身の一作だったに違いない (2021/01/28 訪問)

天下人・織田信長をも悔しがらせた壮麗な城郭は果たしてどんなものだったのか。四重櫓を擁し、多聞櫓で囲まれたお城は当代随一の文化人でもあった松永久秀渾身の一作だったのだろう。せめてもう少し遺構が残ってほしかった。

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とまんど

鉢形城跡&鉢形城歴史館 (2021/04/24 訪問)

前回鉢形城跡に行った時は鉢形城歴史館が新型コロナの影響で閉まっていたので歴史館目的で再訪。
受付の方に伺った限りでは歴史館は再度の緊急事態宣言で4/29からまた閉まるとのことでした。
小田原北条5代と城主であった氏邦や当時の歴史について様々な資料が展示されていました。城のCGビデオを見てから城跡を歩いてみるとまた違ったイメージが持てて良かったです。
鉢形城はスケールが大きくかつ縄張りが北条らしさを感じるお城で好きです。
資料館にはスタンプと「北条五代」を大河ドラマに!の署名用紙がありました。関係者と小田原北条ファンの悲願ですよね。署名しました。

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