みんなの投稿

検索結果・・・「」を含む投稿

カルビン

立山城 [千葉県千葉市緑区大木戸町1051] (2016/01/16 訪問)

JR外房線土気駅から南に真っ直ぐ・大椎城の傍にあるチバリーヒルズに至る道を南に進まずそのまま道なりに大きい橋を渡った先・上り坂の途中の脇道を右手に入った先に立山城があります。

チバリーヒルズが高級住宅地感満載なのに、そこから近い場所にまさかの不法投棄祭りの場所が・・・そこは立山城の超浅くなった堀だったりして。。。(歴史的重要な場所がこんなところばかりだから県知事を良く思えないんですよね・・・)

その先、ちょっと広くなった場所に石碑とお手製の解説板があります。
(自分は未確認ですが、かなり奥に小さなお社があり、その脇に「立山城之護神跡」の石碑がある様です。)

確認出来た遺構は先に書いた堀と広くなった曲輪と思われる場所くらいしか無かったので、上記の石碑も見ておきたいところです。


大椎城のある城山に見学当時に開発の手が加わっていた事、その後に大椎城の解説版が取っ払われた情報入った事より、もしかしたら大椎城もこの先長く保存されない事を考えると、立山城にも影響しそうです(大椎城がなくなると立山城に足を運ぶ方は更に減りそうですし)

+ 続きを読む

いんげん丸虫

甲賀市 方形城跡 (2020/11/22 訪問)

典型的な甲賀市の城跡です。方形で谷を挟んで支城があります。
竹林の中に巡る遺構はとても保存状態が良く、感動しました。ぶ厚い土塁、急な切岸、しっかりとした横堀等素晴らしいです。

+ 続きを読む

退会済み
ユーザー

金沢城に行きました (2019/08/24 訪問)

金沢城に行きました。
加賀一向一揆の拠点から織田信長家臣の佐久間盛攻が築城しそのライバルの前田利家が入城した。
前田利家時代に天守もごうかけんらんに金箔瓦を使用した天守にしたが落雷で焼失(僕見たかったな)残念
今の城の姿は寛永8年(1631年です)に普請で作られたらしいです。
真っ白な建物を見るとさすが加賀100万石だなと思います。
皆さんも行ってみてください!!!!

+ 続きを読む

カズサン

雨に霞む鹿野城 (2020/11/28 訪問)

 因幡会下城を終えて鹿野町の鹿野城へ今回九州未踏の城廻り36城目、鹿野城西山麓に在る寺参りと墓参りの前にチョット写真撮影し投稿させて頂きます。
 車は神社前に数台、町中の観光駐車場に余裕有、トイレは神社前、観光駐車場に完備
 城は亀井新十郎築城、山中鹿之助の婿、山中鹿之助を祀る幸盛寺が町中に在る、静かな良い城下町です。

 この後に両親祖父母の墓参り、同敷地の寺にお参り約1時間程参拝、院家、坊守さんと一年以上振りのお茶を飲みながらのお喋りを楽しみました武漢コロナウイルス禍の影響です中々参拝出来ない。

 今夜は豪華に鳥取西隣吉岡温泉泊りで解禁明けの松葉ガニ三昧、久しぶりの楽しみです。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

カズサン

山陰道トンネルの上が城跡 (2020/11/28 訪問)

 伯耆河口城を終えて雨の中ですが国道9号線を故郷の青谷町へ、初のコンビニが出来たと旧友言ってましたが寄って故郷の中学校を眺めて無料山陰道青谷ICを入り隣の浜村鹿野温泉ICを降りる、会下城を目指す今回の九州未踏の城廻り累計35城目。
 浜村鹿野温泉ICから気高青谷広域農道を青谷方向へ山越えトンネルを通過し県道198号線を越えて青谷方向へ、一本北の道へ進むと尾根筋下に案内板、登城口に在る、駐車場は無く路肩に路駐ギリギリ寄せれば離合は可能。
 雨も降って居り登城口は急で縄伝いに登る道、危険に付き案内板と周辺を撮って終了。
 城は尾根筋北西に延びてるガイドは古城盛衰記さん案内と写真が大変役に立ちます。

 歴史は案内板によると逢坂与十郎が居城、村の前に屋敷、元亀天正の頃日本海の姉泊の浜頭から大軍が押し寄せる、与十郎は村人に助けられ辛うじて青谷方向に落ち延びたが城は落城したと。
 この峠道は古代の山陰道辺りに当たり、今回の無料山陰道の工事で青谷浜村トンネルの青谷側で古代の山陰道の遺構が発掘調査で発見されていますので会下城も街道筋の見張り往来で賑わって居たかも?

+ 続きを読む

カズサン

泊港南の舌状台地先端の海城 (2020/11/28 訪問)

 鳥取城を終えて新しく開通した無料山陰道鳥取西ICから青谷IC間を走行し西隣の泊東郷ICを降りて国道9号線を鳥取方向に戻る伯耆の東泊港に在る河口城を目指す、今回の九州未踏の城廻り累計34城目。
 河口城へは泊小学校へ9号線に架かる橋を海側から回り込み渡り小学校方向へさらに農道を三差路まで行き松崎方向へ進行降りていくほどなく進むと右手海側に河口城案内説明板が有る、車は幅広のエリアに路駐、交通量は少ない。草が刈られてましたが道を下に降りていく公園広場が有る、ここが城跡かと思い打ち切りましたが、案内板と今回ガイドの古城盛衰記さんをよく理解すると更に200m程下に城跡、石垣、曲輪、櫓台が有るそうです。
 雨の中注意散漫で重要遺跡を見落としました。
 次投稿の方に宜しくお願いいたします。

 歴史は建武の新政で伯耆守護に任ぜられた山名氏から始まり国境の城で山名氏一族(河口氏)が城主、後に尼子氏の侵攻、毛利氏の侵攻、秀吉軍の攻撃で目まぐるしき城主交代も有り秀吉政権下羽衣石城の南条氏の所領と成った、関ヶ原西軍に着いた南条氏は没落廃城。(案内説明板より抜粋)

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

段丘堆積物層の山体 (2020/12/13 訪問)

野村城下調べの際に、城びとの先達、あきおこさん記事に、「右手に豪邸があるので、そこを越えて」とあり、また、城郭放浪記さんの記事には、「右側に立派な家がある」とあり、城跡だけでなくそちらも気になりました。間違えることなく、その通りでした。背丈程の石板が、広い敷地を隙間なく取り囲んで、吉野ヶ里を思わせました。

また、あきおこさんの記事に、「切岸の土の間から礫がみられる」とあったのも気になりました。野村城のあとに行った平井山本陣でも山頂にも関わらず、角が取れた礫が転がってました。調べると、明美高位段丘堆積物層で、かつて浅い海底や河川の河原であった平坦な地層が隆起して、侵食を受けていると。

立派な家を越えて、山裾に至ると、「有害野獣駆除の罠を仕掛けています」との注意看板あり。檻が見当たらないので、落ち葉の下に仕込んだ罠かもとびびるが、高まりの道を行くことにして先へ。
緩めの尾根を登りきると、本郭に至り、東の郭も含め土塁や屈曲した堀やがあり、見ごたえがありました。

+ 続きを読む

Toshiaki

小田原城 (2018/05/06 訪問)

小田原城

+ 続きを読む

Toshiaki

姫路城 (2018/08/17 訪問)

姫路城

+ 続きを読む

Toshiaki

甲府城 (2019/04/29 訪問)

甲府城

+ 続きを読む

Toshiaki

八王子城 (2020/08/12 訪問)

八王子城

+ 続きを読む

Toshiaki

名古屋城 (2019/08/12 訪問)

名古屋城

+ 続きを読む

Toshiaki

川越城 (2020/08/12 訪問)

川越城

+ 続きを読む

Toshiaki

犬山城 (2020/11/28 訪問)

国宝

+ 続きを読む

カズサン

中ノ御門復元工事中 (2020/11/28 訪問)

 因幡山崎城を終えて国府町経由鳥取城へ山沿いの道を選び混雑を避け県庁前から鳥取城内堀の駐車エリアに行くが内堀の通りが綺麗に整備され駐車エリアが無く成って居り吉川経家像前の県庁駐車場に停める。
 30年鳥取城整備計画の第一期、擬宝珠橋の次は中の御門木造復元、工事中で令和3年3月末が竣工予定、現状の工事進捗は如何にと雨の中寄りました、工事現場は工事テントに覆われ復元原寸大か復元図が描かれ復元近しを醸し出し公開日が待たれます。
 年が明け桜の頃が待ち遠しい限りで、武漢コロナウイルスが早く収束して欲しいものです。今回の鶴丸城御楼門と九州未踏の城廻り累計で33城目。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

カズサン

殿ダムが出来て登城し易く成りました (2020/11/28 訪問)

 西播磨の上月城、歴史資料館を約2時間滞在、探訪と城談義有意義な時間を終えて故郷鳥取へ山を越えると天候はガラッと変わり雨模様で気温は寒い、昨年末に城郭放浪記さんの放浪記の寄稿が有り故郷の山崎城を認識し帰省の折にと考えてましたが武漢コロナウイルス禍で中々移動が難しく今回の鶴丸城御楼門と九州未踏の城廻り(城廻り累計32城目)の帰路途中に鳥取入りし寺参り墓参りの序にと「稲葉山崎城」を訪ねました。
 行程は国道373号線を北上し横目に利神城、武蔵の最初の決闘場を車窓チラ見、佐用平福ICより無料鳥取道を北上、河原城をチラッと見て河原ICを降りる、県道32号線をを東方向、船岡、郡家、国道29号線を一部通り、県道39号線山道山越え国府町中河原辺りから県道154号線へ殿ダムに抜ける道を入り殿ダムの手前に大きい看板が有り到着。車は交通量が少ないので登城口の幅の広い所に路駐、または直ぐ近くの殿ダム駐車場か手前の駐車場エリア十分駐車台数可能。

 情報ガイドは何時もの城郭放浪記さん古城盛衰記さんですが今回は古城盛衰記さん案内図を参考にしました。
 今回は当日雨で条件が悪く登城口、案内板、殿ダムから全体撮影だけと成りました、城郭は袋川、上地川に守られた要害の地、草が枯れて雪前の登城が最高でしょうから次回の帰省タイミングで再訪できたらと思っております。

 歴史は看板によると源平の頃因幡守であった大江広元の子孫で12代続いた家柄、天文年間(1532~55年)一族の市場城(私部城)毛利豊元に攻められ落城と有ります。 大江広元の子孫と言えば安芸毛利元就も同族。
 
 次に殿ダムの頂部道を渡り県道31号線を国府町経由鳥取城へ約10km程の北西に走る。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

昌官忠

クラブツーリズム群馬県に残る真田氏ゆかりの城日帰りツアー② (2018/08/25 訪問)

「クラブツーリズム群馬県に残る真田氏ゆかりの城日帰りツアー」2城目は沼田城です。
続100名城スタンプは「沼田市観光案内所」で押しました。

沼田城は1544年沼田氏12代・沼田顕泰が築城したと言われています。戦国期に沼田氏は北条氏に追われ、北条氏が変わって入城。
1580年真田昌幸が北条方の武将を調略し、城を奪い取ることに成功。沼田城は真田昌幸の管理下に入りました。
武田氏滅亡後、滝川一益の管理下になるが滝川一益が神流川の合戦に敗れると、真田氏に明け渡す。
真田昌幸は北条氏の執拗な攻撃を6年間にわたって撃退し続けて、1587年に真田信幸が沼田城を任されます。
1589年の豊臣秀吉の裁定で沼田城は北条領になりますが、北条氏配下の重臣・猪俣邦憲の名胡桃城奪還事件により、1590年北条氏は滅亡。これで沼田城は真田昌幸に帰し、長男の信幸(関ケ原の戦いの後、信之に改名)が入城。
しかし、1681年真田氏5代の信澄が領地を没収された翌年、沼田城は破却されました。

城址は沼田公園となり、本丸には土塁、空堀、櫓台の石垣が現存します。1983年鐘楼が復元され、城址のシンボルになっています。二の丸には東側の土塁と石垣・堀の一部が現存しています。攻城時間は40分くらいでした。

沼田城見学後、ツアーは小松姫の墓がある正覚寺にも行きましたので、そちらの写真も投稿します。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

todo94

2巡目の続日本100名城のスタンプラリー30城目 (2020/11/15 訪問)

諫早のホテルで朝食をとりチェックアウトしてからスタンプ置き場の有馬キリシタン遺産記念館に直行しました。帰りの飛行機の時刻の関係でささっと城内を巡ってとんぼ返り。帰りがけ、諫早陣屋に立ち寄ったという次第です。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

カズサン

故郷と縁の有る山中鹿之助を偲んで (2020/11/28 訪問)

 九州未踏の城廻りを終えて故郷鳥取帰路の途中西播磨の城廻り3城目、白旗城を終えて北に約9km程の上月城を初登城、今回の九州未踏の城廻り累計31城目、ナビは上月歴史資料館の兵庫県佐用郡佐用町上月373に合わせて走行、駐車場は上月歴史資料館に十分のスペース在り、トイレは同資料館を利用。
 資料館の前に案内板、小川を渡って登城路が南に登って行く又川沿い50m程の所に尼子勝久、山中鹿之助の追悼碑が有る。
 先ずは比高約110m、本丸まで380mと案内、登りは急な丸太土の目階段で尾根筋へ登ると最初の小さな曲輪、物見曲輪の様、だらだらと尾根筋道を登る、曲輪と堀切、本丸下の二段の曲輪が在り切岸が防御、本丸切岸横の登城路で本丸へそこそこ広い、本丸には赤松氏の供養塔、なぜ尼子氏鹿之助の供養塔が本丸に無いのか⁉といぶかる!本丸の東に曲輪群、南西に土橋の様な細長い曲輪、その先に二段造りの曲輪が二ヶ所続く曲輪の左右は深い崖、続き曲輪の奥は崖状に成り堀切、横堀に成ってる、更に進むと元の登城口へ700、800m程と案内に出てるが来た道が分かって居り安心なので堀切を上から見て引き返す。
 資料館の方と色々尼子の情報などで情報交換城談義をし時間を過ごす、同時間来訪者は私一人、終わって尼子勝久、山中鹿之助追悼碑にお参りする。

 なぜ一時撤退を秀吉、信長から言われた時に尼子勝久、山中鹿之助は撤退しなかったのか?鹿之助の娘婿亀井新十郎は後に秀吉配下と成り活躍して因幡鹿野城城主に成ってる、亀井氏が鹿之助の幸盛寺を鹿野城下に建てて現在まで継承されてる、故郷の寺と墓が鹿野城の西山麓に在り、亀井さん鹿之助と親しみを同郷の方々は感じて居ります。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ぎりょう

保呂羽館(宮城県登米市)広大な規模を持つ奥州葛西氏の拠点 (2020/12/13 訪問)

日頃、大崎市・加美郡内の城館を訪ねているが、今シーズン最後の訪問先は登米市の保呂羽館にした。この日は朝に初雪となり訪問中止も考えたが午後には晴れの予報を信じて攻城した。
保呂羽館は北上川の右岸、寺池城の有る市街地から1.6kmほど南に位置する丘陵地にある。登米神社脇の道を登り保呂羽浄水場から300m進むと城址碑の建つ曲輪跡がある。その平場の奥が主曲輪となる。仙台古城記(仙台領古城書上げ)では寺池村登米町の項に「一 保呂羽城 東西五十間 南北百五間 城主葛西清重。草長伊豫伊達若狭。」と記載があるが日本城郭大系では1,100m×1,200m 標高108m 比高100m。古城記の記録は城の中心部にある主曲輪とそれに付随する二ノ曲輪の規模を表したものと考える。主曲輪を中心に現在は浄水場の場所、日高見牧場の施設となる場所など広大な敷地に多数の曲輪を付随させた大規模な城であったと想像できる。
遺構としては主曲輪に付随する四ヶ所の曲輪跡の平場、帯曲輪、土塁、空堀などを確認できるが何れも杉林・竹林・梅林となっている。
城主は天正18年の奥州仕置き時までは葛西氏だが同氏が何時ごろから使用したかははっきりしないようだ。中世の早い時期には山城の保呂羽館を拠点とし、後に市街地の寺池城を拠点としたのであろうか。
城址最高所のトイレがある場所に駐車スペースがある。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ページ1148