聚楽第の破却によって、豊臣秀吉は洛中における新たな居城を築く必要があった。
豊臣秀吉は、慶長2年9月26日に豊臣秀頼と徳川家康を伴って入城しています。
慶長4年には、豊臣秀吉の正室北政所の居所となるが、慶長5年の関ヶ原合戦直前の8月28日から9月13日にかけて、城内の矢倉、塀、石垣等が破却されております。
しかしながら、その後も北政所が亡くなる寛永元年まで使用されたと
見られます。
調査では、仙洞御所の造成土の下層から石垣と堀の一部が出できた。
石垣は、南西方向に約8mを検出し、南北共に調査区外へと続く。堀の西肩を成す石垣です。
石垣は、自然石を積み上げた野面積みでありました。
3〜4段の石が残り、高さは1.0〜1.6mである。
但し、石垣の上半部は崩されていることから、本来の高さは約2.4m、石垣は5〜6段積まれていたと考えられます。
石垣は、大きな自然石を用いながらも面や並びのラインがよく整えられており、丁寧に構築されています。
石垣の年代は、安土桃山時代のもとと分かった。
堀は、南北方向に8mを検出した。堀の幅は3m以上で、西端が石垣で東端が調査区外になる。
堀の深さは約2.4mである。堀の底には厚さ40cm以上の粘土が貼られています。
また、堀の中からは桐文と菊文の金箔瓦が出土している。
なお、堀の幅については表面波探査によって幅約20mと推定されています。
京都新城は、東西約400m、南北約800mの320.000㎡の広大な敷地だったことが分かった。
この石垣の発見によって、京都新城の実施解明に向けて定点を得た事になり、豊臣秀吉の晩年の政権構想の再評価にも繋がる可能性があります。
なお、消化設備は建設場所を変更し、石垣と堀は保存される事が決定しています。
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