長谷堂城から山形城への行軍は思ったほど苦行ではありませんでした。
まずは目標地点の霞城セントラル(地上24階、高さ約115m)が遠くからでもよく見えたということ。絶対に迷子にならないという安心感は7kmという距離の心理的負担を軽減してくれました。そしてR348沿いの歩道の歩きやすさと気持ちよさ。道の両側で風に揺れる黄金色の稲穂は今世界に蔓延る禍を忘れさせてくれます。視界が広く安全な道路には、熊・猪・猿が飛び出してくる不安も、烏・鳩・雀のそばを通らなければならないという試練もありません。(鳥類全般苦手なので。)
しかし、この遮るものが何もない道筋は、当時にしてみれば、長谷堂城が陥落したら、ただでさえ兵力分散し寡兵で守る山形城もひとたまりもないということ。このあたりの田畑を自軍に有利に利用することを両軍ともに考えたのではないかと思います。
そんなこんなで歩き続けたのですが、霞城セントラル、どれだけ歩いても全然近づいてくれません。いつまでたっても“遠くに見える”ままで、「手が届きそうで届かない、どんどん逃げていくお月さま」状態です。
そんな中、歩道脇に見つけた「湯目之碑」(写真⑩)。伊達政宗に命じられて来援し上杉軍と奮戦、討死した湯目加賀守重旧の供養碑でした。ここのほかにも戦士たちの碑が何か所かあるようです。
午後3時ちょうどに霞城セントラル最上階の展望ロビーに到着しました。ここから見下ろすと輪郭式平城の山形城のようすが隅々までよくわかります。そして霞城公園となっている山形城に向かったのですが、外したくないのが4年前に時間切れで入れなかった二の丸東大手門櫓です。今回も時間に余裕があるわけではないので真っ先に行こうと思ったのですが、南大手門の石垣に上がり、坤櫓跡まで歩き、などしているとどんどん時間が過ぎていき…。本丸一文字門も同じく4時閉門だったのですがこちらは以前入っているので踏みとどまり、何とか東大手門櫓に間に合いました。
そのあと整備がかなり進んだ本丸西土塁と西堀、それから北側へまわってみました。北側の野球場はなくなって(別の場所に移設されたそうです)、広大な発掘現場となっていました。少し会話をしたお散歩中の方が「ここまで本丸だったとしたら相当広かったんだろうな」としみじみ仰っていたのが印象的でした。地元の方にとって山形城の復元は見届けたい夢なのでしょう。史料を探し出し、発掘調査をし、現代の建築や人々の生活とも折り合いをつけて元の姿に戻してゆくということは財源の確保も含めてきっとたいへんな事業なのだろうと想像することしかできませんが、そこにある夢はとてつもなく大きく、過去を探ることで未来に向かっているような気がいたしました。
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