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ダイエティシャン

ライフジャケット必要⁈ (2021/02/26 訪問)

石見国 大田市温泉津町温泉津
櫛島キャンプ城近くの海城。温泉津町観光案内所【ゆうゆう館】から車で約10分で、キャンプ場駐車場に到着。
歩いて約5分でキャンプ場に着きます。そこの屋外テーブルに櫛島城案内図(2枚目)右に進み、岩と海を結ぶコンクリート橋(3枚目)を渡り、
コンクリートの通路を(4枚目)進みます。通路から降りると、岩肌を踏み締めて進みます。満潮や波が高い時は恐らく通れません。海を渡る感じです。浮き輪とか必要かも?と思ってしまいましたよ。
あまりにも波の音が大きく、怖くなり、遠景(1枚目)だけ撮影し、引き返しました。
次回、浮き輪と、心の準備をして攻城します。

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ダイエティシャン

沖泊港 (2021/02/26 訪問)

石見国 大田市温泉津町温泉津
かつて、石見の銀を運び出され、栄えたそうです。
海路は無限大
交易された様子を伺い知れる品が、温泉津町観光案内所【ゆうゆう館】で無料展示中。
銀山グッズと共に、しまねっこグッズも見逃せません。

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ダイエティシャン

鵜丸城跡(うのまるじょうあと) (2021/02/26 訪問)

石見国 大田市温泉津町温泉津にあります。
石見銀山の銀搬送で栄えた、沖泊港の近くの、海城です。
温泉津町観光案内所の【ゆうゆう館】の方に登城口を丁寧に教えて頂きました、ありがとうございました。
ゆうゆう館から、温泉津港管理所を通り過ぎ、釣り人、船を通り過ぎ、車1分程で白い倉庫(2枚目)が見えます。空きスペースを探し、攻城します。猿を2回 見ました。
登城口は、倉庫の左後ろです。(3 4枚目)登城口に説明板あり(5 6枚目)
階段を登り(7枚目)明るくなった(8枚目)と思ったら、本丸に到着
本丸迄は登城口から約5分。灯台があります。
海が見えます。(1枚目)ここで、船の往来を監視していたのでしょyか?
二の丸、三の丸は藪に覆われ、進めませんでした。(10枚目)無理に進み、海城で今年初滑りをしてしまいました。

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ダイエティシャン

福光城Ⅴ 本丸 上の丸 御屋敷 (2021/02/26 訪問)

本丸(1枚目)から、岩肌を越え、(2枚目)シダ植物をかき分け(3枚目)、約10分で、上の丸に(4枚目)到着。
眺めは、木々が生い茂り、イマイチ(5〜7枚目)。攻城は明るいうちに。
下山途中に、広い郭らしい場所を見つけました。もしかしたら、御屋敷跡でしょうか?

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ダイエティシャン

福光城Ⅳ 本丸 馬洗い池 上の丸 (2021/02/26 訪問)

本丸(1枚目)から、上の丸を目指します
途中の急斜面(2)3枚目も、ロープ付きで安心。出雲高瀬城の登城路を思い出す路(3枚目)です。亀ような岩あり(4枚目)
岩を通り抜け(5枚目)岩肌を滑らないように登り(6枚目)様相が変わり、シダ植物が出迎えてくれます。(7枚目)
馬洗い池(8 9枚目を越え、上の丸に到着(10枚目)

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ダイエティシャン

福光城Ⅲ 本丸 二の丸 三の丸  (2021/02/26 訪問)

駐車スペースから本丸迄、約15分で着きます
本丸に、詳しい説明板(1〜6枚目)
本丸が一番広く(7 8枚目)二の丸(9枚目)と続き、急斜面下った所に三の丸
本丸は眺めが良く
ここが温泉津港初め、要所であることが伺い知れます
本丸は、猪か猿か何物かが、木の根と闘った跡があり、とても土臭かったです。
続く

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ダイエティシャン

福光城Ⅱ  谷山の石仏 登城路 本丸 (2021/02/26 訪問)

谷山の石仏の標識(2枚目)から奥に進むと、石仏(1枚目)があります。説明板もあります(3枚目)コロナの収束と無事の攻城をお祈りしました。
井戸跡(4 5枚目)水が湧き出ています
落ち葉の山道をどんどん進むと、本丸が見えてきます。(7枚目)
本丸の標識(8 9 10枚目))要所だったんですね

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ダイエティシャン

福光城Ⅰ 登城口 登城路 (2021/02/26 訪問)

登城口は、9号線の大看板(1枚目)から、橋を渡り、左手です。大看板の所の駐車スペース(2枚目)に駐車し攻城。
橋を渡り、左手に説明板(3枚目)があり、少しその右側に細いコンクリート道(4枚目)を進むと、藪に覆われた標識(5枚目)が見つけました。そのまま水路に沿って(6枚目)進むと、また標識が(7枚目)、落ち葉の中をどんどん進むとまたまた標識が(10枚目)
分岐点毎に、標識があり、わかり易いです
続く

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pascal

市街地への城郭復元のお手本 (2018/01/20 訪問)

 ほとんど更地から本丸の約半分が復元された宇都宮城。
実はこの時期に、宇都宮に住んでいたので、その一部始終を目の当たりにした城です。

【アクセス】
 宇都宮市役所の東隣にある宇都宮城、地図の◎印が目印の判り易い立地です。
市役所の広い駐車場が城址との間にあります。
電車は、東部宇都宮駅から南東に400m、JR宇都宮駅からだと、西に真っ直ぐ伸びる大通りを進み、PARCOとドンキーの間の通り(バンバ通り)を真っ直ぐ南進すると城址が見えて来ます。

【城の歴史】
 平安中期の“前九年の役”で功の有った藤原宗円が、宇都の宮(現:二荒山神社)の別当に任ぜられ、赴任して居館を建てたのが宇都宮城の始まりです。
宗円の孫:朝綱の代からは“宇都宮氏”を名乗り、以後500年にわたり、関東の名族としてこの地に勢力を拡げ君臨しました。
居城として拡張・改修が繰り返された宇都宮城は、関東七名城に数えられる壮大な名城でした。

 戦国が終わり、秀吉の天下でも領地安堵されていた宇都宮氏でしたが、『石高の過少申告』という理由で改易されてしまいます。
後には会津から蒲生秀行が入りますが、関ヶ原以降は奥平家昌を入れています。
大坂の陣が終わり徳川幕藩体制になると、家康は腹心の本多正純を入れて要地:宇都宮を統治させましたが、将軍が家光になると、突然改易されてしまいます。
俗に言う“宇都宮吊り天井事件”ですが、これは明らかに幕閣との政争の結果ですね。

 以後は譜代と親藩の8家がつないで明治になるのですが、戊辰戦争では藩主(戸田家)が新政府に恭順したため、宇都宮城は幕府軍に攻められ占領されてしまいます。
そこに新政府軍が攻め寄せたので、激戦が繰り広げられた城と城下は殆ど灰燼に帰してしまいました。

 戦後は幕閣の城の常で、城地は民間に売却されて市街化が進み、平成15年の時点では城址の痕跡を見付けるのも難しい更地状態でしたが、翌年から復元工事が始まり、本丸の西半分が外観復元されました。

【見どころ】
☆平坦地の平城ですから、堀を掘った土砂での掻き揚げ土塁で囲まれる本丸ですが、ここの土塁は3倍以上の土砂を積み上げた感じの高土 塁です。この高さは他では見られません。
 夏の夜は暑くて寝られなかった事でしょうね(^^;
☆土塁も堀も現代工法で、正直ガッカリな印象も抱きますが、外寸は寸分違わず復元されています。櫓2棟は木造です。
☆利用者の客層や使われ方を観察して見てください。この城、活きてますよ。

【感想】
 数々の城めぐりをして来ましたが、復元整備の動きが無い名城の多さを嘆く一方で、忠実に復元された城址の惨状も目につきます。
税金を掛けて整備したものの、興味を持って訪問する人は殆ど無く、住民の益になっていないのです。
その割に維持管理の費用は莫大で、特に城址を覆っていた木々を伐採すると風雨による損壊は驚くほど早く進みます。
 そう考えると、文化財指定の無い宇都宮城を、城の姿形は忠実に再現しつつも、現代工法で丈夫で壊れにくい構造にし、さらに文化施設やイベント会場、緊急災害時の避難場所にと、活用の付加価値を与えて行くという宇都宮市の判断こそ正しい様に思えます。
都市の城址の、あるべき姿ですね。

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ふゆづき

海賊の城 (2021/02/21 訪問)

九鬼氏が築いた平山城である鳥羽城を訪問しました。
鳥羽駅から歩いても10分程度の距離で郭内にたどり着けますので、観光の便を考えれば最寄りの中ノ郷駅よりも鳥羽駅の方が便利だと思います。
近鉄の鳥羽駅改札の外には観光案内所があり、御城印(今は3種類あります)が入手可能であり、鳥羽城までの徒歩での行き方を教えて頂けます。
城はこんもりした岡の上に築かれており、城の一部には廃校となった旧鳥羽小学校があります(本丸は校庭だったようです)。
全山石垣という訳ではありませんが、海沿いの三の丸から本丸に向けて段々畑の様に築かれた石垣は見事だと思います。
この城が築かれた時点では高石垣を作事する技術がなかったのかもしれませんが、その分、石垣の重なりを楽しむことができるように思います。
本丸や二の丸からは真珠で有名なミキモトや鳥羽水族館を見ることもできますが、この城の見所は、この三の丸から重なり合う石垣と本丸付近の石垣のように思います。
山の手にある市役所の方には家老屋敷跡が残されており、そこも見逃すことは出来ないように思いました。

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イオ

杉谷砦(滋賀県甲賀市甲南町杉谷) (2021/01/31 訪問)

詳細は不明ながら、杉谷砦は杉谷氏(甲賀五十三家)が築いた出城と伝わります。なお、織田信長を火縄銃で狙撃したことで知られる杉谷善住坊は杉谷氏の一族とも言われます。

県道から正福寺の東側に続く道に入り、少し行くと車両通行止めになっていますので、道路脇の空きスペースに路駐させてもらいました。駐車場所から正面の藪に突入すると主郭北西部に至るのですが、進入路を見付けられず、竹藪沿いに東に少し進んだところから突入すると、東側の堀切から続く竪堀の北麓に出ました。杉谷砦の一番の見どころと言われるだけあって、相当な深さで東尾根を完全に断ち切っています。堀切の西側には主郭があるはずですが、ルートがわからないので土塁によじ登ってみると、はるか下に主郭が見えます。大変な高さ(7mくらい)です。主郭に下りていくと広さはないものの、東辺から南辺、西辺までを高土塁で囲んでいます。主郭北東隅から東側の堀切に続く道があり、堀切を越えて東尾根にも行ってみましたが、雑木林になっていて特に削平された様子もないので、城域ではなさそうです。それにしても、堀切のあちこちに石仏が転がっていたのは何か謂れがあるものなんでしょうか。

…ということで、この日は甲賀の新治地区・杉谷地区の城をめぐりましたが、こんな小さな砦に至るまで見上げるような高土塁を備え、徒歩圏内に10以上の城が密集し、それぞれ登城口からすぐに遺構にたどり着けるというのは……甲賀の城、最高すぎますね。満足満腹を通り越して胃もたれを起こしそうなほど濃密な一日でした。
 

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todo94

遺構消滅 (2021/02/11 訪問)

ここも遺構はありませんでした。それでも、説明板があるだけありがたい限りです。平安末期の築城で、勝瑞城の西の守りとなり、長宗我部元親の阿波侵攻で勝瑞城とともに落城したとのことです。

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昌官忠

利根川沿日帰り攻城⑧:須賀山城➡城びと未登録(千葉県香取郡東庄町) (2019/05/27 訪問)

森山城から転戦。車で5分くらいで着きました。
須賀山城跡駐車場(35.828913、140.651390)に駐車して攻城しました。

須賀山城は千葉常胤の六男、東胤頼によって1190年(文治6年)築かれた城です。胤頼は上代前掛城(桜井城/現:旭市・旧:千潟町)より移りました。
その後、1218年(建保六年)に須賀山城とは台地続きに森山城を築城して須賀山城から移り、ここには一族が居城したようです。
三代東胤行は1221年(承久三年)に美濃山田庄の地頭として移り、その後は海上氏が居城としました。
戦国時代には千葉胤冨が東氏一族である海上氏の養子として入っていましたが、1557年(弘治3年)千葉宗家を継ぎ本佐倉城に移りました。
しかし、胤冨はこの城を境目の城として重視し森山城の外郭として森山城に取り込む形で須賀山城も改修したようです。
天正年間に入ると東氏、その家臣の原氏が在城し、宗家千葉氏とともに北条氏に従いました。
1590年(天正18年)、城主の東直胤は小田原城に籠城しましたが、北条氏滅亡後に森山城とともに廃城になりました。
現在城址には土塁や空堀などの遺構が残っており、天之宮神社付近の鳥居前に城址碑があります。

深い空堀、高い土塁が残っており見ごたえ十分でした。
攻城時間は25分くらいでした。

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昌官忠

利根川沿日帰り攻城⑦:森山城 (2019/05/27 訪問)

小見川陣屋から転戦。車で7~8分くらいで着きました。
森山城説明板前の空スペース(35.834595、140.633978)に路駐して攻城しました。

森山城は千葉常胤の六男、東胤頼が1190年(文治6年)に須賀山城を築城、その後、1218年(健保6年)に須賀山城とは台地続きに森山城を築城して須賀山城から移ったようです。
三代東胤行は1221年(承久三年)に美濃山田庄の地頭として移り、その後は海上氏が居城としました。
戦国時代には千葉胤冨が東氏一族である海上氏の養子として城主をつとめていましたが、1557年(弘治3年)に千葉家当主・千葉親胤が家臣によって殺害されると千葉宗家を継ぐために本佐倉城に移りました。
胤冨が移ったのちも境目の城として重視され、天正年間には東氏その家臣の原氏が在城して千葉氏にともなって北条氏に臣従しまsた。
1590年(天正18年)城主の東直胤は小田原城で籠城、北条氏滅亡後に森山城は廃城になりました。
現在城趾は農耕地や牧場になっていますが、主郭部には空堀や土塁などが比較的良好な形で残されています。
また、山麓にある真性院芳泰寺は東氏代々の菩提寺であり、東胤頼夫妻の墓があるようですが、自分は行っていません。

星宮大神側の鳥居右側の竹林から攻城しましたが、藪蚊が多く大変でした。
主郭跡前の案内板横に箱があり森山城址説明チラシが置いてありました。
土塁、空堀、土橋が確認できました。
攻城時間は35分くらいでした。

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赤い城

天守は休館中 (2021/02/20 訪問)

鷹の巣城、湯坂城のあとせっかくなので小田原城立ち寄りました。
梅がきれい、本丸には河津桜も見頃でした。
緊急事態宣言により天守は休館中。
おかげで?人が写らない天守の写真も撮れました。
が、これでいいはずありません。
疫病退散!対策しながら祈るばかりです。
本当は総構探索したかったけどこんどじっくり。

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橋吉

善照寺砦 (2021/02/20 訪問)

丹下砦から徒歩にて、善照寺砦に向かいました。

現在は公園になっています。
物見櫓風の器具があるのがおもしろいです。

西側から見ると何気ない公園なのですが、南東側は結構急な斜面になっており、
公園の一段下に広場があり、さらにその下にも、そのまた下にも兵を配置するような場所がありました。
当時のそのままの形かどうかは疑わしいですが・・・

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ぴーかる

芥川山城 (2021/02/06 訪問)

【続百名城47城目】
<駐車場他>上の口方面有料1000円あり。
<交通手段>車

<見所>大手門跡・石垣・曲輪・土塁
<感想>近場の府またぎせずに行ける城で、このご時世の時の為にとっておきにしていた山城です。私は摂津峡温泉にある登城後に入湯した日帰り温泉施設祥風苑に駐車しました。登城口がわからず結局芥川を上流の方まで遡って上の口の登城口まで歩いのだが、幸いに摂津峡を堪能できて、上の口からの登城道にある城跡遺構も確認できました。南の大手登城口は<34.878714, 135.590828>のポイントより登ってゲートを開けて入ります。
 城郭は東西横並びに主郭部曲輪群、出丸曲輪群、東曲輪群に分けられ、曲輪群を堀切や鞍部で仕切っている。ミスったのが出丸曲輪群(柵があったかも)と主郭部南曲輪群を見落としてしまいました。
 上の口から登城すると東曲輪群の北側に出ますが、東曲輪群には石垣が多くあります。後世のものだそうだが、にわかに信じがたいのが、上の口登城口から登るとすぐに曲輪、竪掘り、石垣が見られます。縄張り図にはない東曲輪群の北側斜面にも添付写真の石垣遺構があります。農地の石垣らしいのですが、日の当たらない北側に下がる斜面に造りますかねえ。腑に落ちない感じを受けました。
 主郭は台風被害からかなり整備されていましたが、主郭部の曲輪群(主郭の付曲輪)は草が伐採されておらず入り込むことはできない箇所が多かった。帰りは大手道を下って大手門跡を見て下山した。これにて百・続百名城の大阪府制覇。

<満足度>★★☆
<宿・温泉>登城後入湯した祥風苑は20年近く前からよく行く温泉施設です。肌にいい俗に言う美人の湯として有名で男子の露天風呂から芥川山城が望めます。安心して旅行ができる時が来たら、摂津峡温泉に宿泊するのもまたいいかと。もし戦国時代にこの温泉が湧いていたら廃城することはなかったであろう、薄い切り傷程度なら本当にすぐ直ります。

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チェブ

小学校と庭園。 (2021/01/02 訪問)

きちんと 行った!と言えるか自信のない「宇田家屋敷」です。

宇田 長左衛門さんが築きました。

まずは「宇田家屋敷」があったとされる『大相模小学校』に向かいました。
訪れた日は、1月2日のお正月。
近所のお宅のお客様(かな?)の車が、小学校周辺に路駐してました。
駐車しずらく、諦めて 車の中からパチッ。
お散歩している方もいて、怪しまれないように写しました。写真④です。
『越谷市立 大相模小学校』の『谷市立大相』しか写ってません。
ちょっと慌てました(笑)
遺構は土塁があるようですが、分かりません。
普通の小学校でした。

皆さんの投稿にもあるように復元門がある『花田苑』に移動しました。
こちらは駐車場があります。
この日、正装した方々が『花田苑』に入って行くのを見て、平服で入って良いか躊躇い、遠くからパチッ。

遠くから眺めただけの「宇田家屋敷」になってしまいました。

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イオ

望月支城(滋賀県甲賀市甲南町杉谷) (2021/01/31 訪問)

# 望月支城(城びと未登録)は、望月城のいわゆる支城ではないものの、隣接して築かれた同名中惣の城と考えられますので、望月城で投稿します。

戦国期に築かれた望月氏(甲賀五十三家)の一族の城で、杉谷川南岸の丘陵地先端に築かれ、谷をはさんだ北側の望月城と連携して機能したものと考えられます。

下調べでも登城口がよくわからなかったのですが、望月城西側の二重堀切のあたりで南側の谷越しに望月支城らしき切岸が見えたので、谷を渡って北麓に取りつき、雑木を手掛かりに直登すると北側の帯曲輪に着きました。さらに土塁を乗り越えて主郭内へ。「土塁、低っ!」 思わず声が出ます。主郭を囲む四方土塁は常識的な高さで決して低くはないのですが、この日は非常識な規模の土塁ばかり見てきたので、感覚がおかしくなっているようです(笑) 主郭内は北西部が一段高くなっていたり中央部に窪みがあったり、なかなかの広さがあり、東側と南側に虎口が開口しています。東側の虎口を出ると小さな曲輪がありますが、その先は道路により崖状に削り取られています。南側の虎口の先に広がる南の曲輪を経て西側へ回ると堀切が西尾根を断ち切り、堀底から見ると南西隅の土塁は充分な高さと厚みが感じられます。

さて、北側の谷から望月城に戻ってもいいのですが、どうせなら直接に望月支城へと至る登城ルートを探してみよう、ということで、東側虎口の先の崖を降りる…のはちょっと怖いので、南の曲輪から南側の谷のほうに下りて行きました。しかし…北側の谷もそうでしたが、谷にはいくつかの水の流れがあり、ところどころ足場と思しき丸太が置かれているものの、ヘタに足を踏み入れるとずぶずぶと沈んでしまう箇所もあり、無事に道路には出られましたが、あまりおすすめできません。やはり望月城から来て望月城に戻るのが一番良さそうです。
 

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todo94

遺構消滅 (2021/02/11 訪問)

蔵珠院、芝原八幡宮辺りが城址ですが、遺構は残っていないようです。まいこみ泉は目を惹きますが。

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