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ふゆづき

細川幽斎の城 (2020/12/10 訪問)

麒麟がくるゆかりの城の一つである田辺城を訪問しました。
最寄り駅はJR西舞鶴駅。駅の構内にある観光案内所の近辺には細川幽斎の一生を記したパネルが展示してあります。
駅からは徒歩7~8分。裁判所や警察署などの公共施設があつまる近辺に位置しています。
城址は公園になっているので、誰でも気軽に散策することが可能であり、古今集伝授の松も数回植え替えられて公園内に存在します。
訪問した時間(9:30頃)に散策している方々もおられました。
田辺城というと、復元された城門と隅櫓に目がいきますが、発掘された天守台も復元されており、野面積みの低く大ぶりな石垣が武骨な感じを良く表していると感じます。
城門の上は資料館となっており、御城印が購入可能です(御城印を購入するとマンホールカードも貰えます)。
展示は関ヶ原の際の籠城戦のものや、江戸時代の城下町の様子などがなされております。
また、隅櫓の中は細川幽斎の一生を説明した展示(こちらは無料)が飾られています。
攻城時間はゆっくりみて一時間少々というところだと思います。
城址前の明倫小学校は江戸時代の藩校の末裔のようで、貫禄のある校門とともに外構はそれらしい装飾が施されています。

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いんげん丸虫

小川中ノ城 滋賀県甲賀市 (2020/11/22 訪問)

主郭を囲む土塁はないですが、大規模な堀が東にあり、その尾根の先にははっきりとした堀切があります。

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カニカニ

所用にかこつけた城巡り 8城目 (2020/11/17 訪問)

一城だけなら午前中に巡れると踏んで、遠回りであるが日田の夜明地区から小石原へと向かう。
脇を流れる大肥川では2017年の豪雨災害の復旧と思われる工事が今も続けられていた。
小石原焼といえば ”飛びカンナ” だが、いろんな作風のものが道の駅で展示販売しており
ステキなコーヒーカップが目にとまり手に取ってみたが、値札をみて そっと 棚に戻した。

この松尾城、筑前六端城の一つだが、比高も低く趣きがかなり違うそうな。
残る五端城の城将は黒田24騎といわれる1万石以上の大身であるのに対し、この松尾城は
黒田氏の豊前入封後に家臣となった禄高2500石の中間六郎衛門統胤である。
黒田氏が豊前入国の直後におきた「豊前宇都宮氏(城井氏)」に代表される国衆一揆の際に、
当初は一揆に加担したがすぐに恭順(寝返り?)し軍功を立てたそうだ。
新参ではあるが黒田の姓を賜っているのでそれなりに信頼されているのだろうが、他にも24騎に
連なる武将が大勢いるはずなのに彼がなぜ選ばれたのだろう?

駐車場から10分ほど登り進むと右手の林の中に削平地が数段見えてくる。
これらは秋月氏時代の物らしいのだが、黒田氏時代にも当然利用されていたことだろう。
木々が切れたところで、主郭の石垣と草に覆われてはいるが南側の畝状竪堀が見えてくる。
枯草がわずかだがうねっており、そこが畝状竪堀になっているのがかろうじて分かる。
(写真では、分かりにくいかもしれません。 ゴメンナサイ)

最初にお目にかかるのが虎口南側の破城の様子を残した角の石垣である。
整備工事の案内板によると、方針により南北の虎口修復具合を、あえて変えているそうです。
こういう見せ方もあるんだなと感心しました。
説明書きによると、畝状竪堀群や三重堀切があるがこれらは秋月氏時代の物と推測されており
黒田氏時代は主郭部の石垣・土塁・虎口の強化だったようである。
その三重堀切や畝状竪堀群はススキに覆われており見ることができなかった。
時期になったら保全のための草刈りや山焼きが行われているのだろうが見られず、残念。

他の端城は未踏なので確かなことは言えないが、ここは規模も小さく一見して防御性はあまり
高くないようにも見える。   しかし北側や東側斜面は案外急で、遮るものが無い斜面を登る
敵を迎え撃つのは容易そうである。
城は、大きければ良いといううものでも無さそうだ。

それにしても黒田家は、なぜあのような掟破りの所業にでたのだろう? 
筑前六端城に対し、豊前細川家はあからさまに新規に築城をしてないように思えるのだが・・・ 
(私の知識不足かもしれないが)
細川家は、大人の対応をしたということなのかナ?

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イオ

猪ノ口山系を駆けめぐる (2020/12/06 訪問)

(西の丸編から続く)

西の丸から北西尾根を進んで出城のひとつの千丈寺砦に向かう途中、黒井城全図によれば、西太鼓の段と呼ばれる曲輪があるようですが、たぶんここだな、と思われる小さなピークはあったものの、明確な遺構は見つけられませんでした。

西太鼓の段からさらに進むと急傾斜の小山に行き当たり、その山頂部に千丈寺砦があります。台形の主曲輪の南辺を厚さのある土塁が取り巻き、北辺にも低い土塁があり、その北下には竪堀がのびています。また、北西下の斜面には何段かの腰曲輪が設けられていました。

千丈寺砦から南に続く尾根の先には兵主西砦があり、余裕があれば行ってみようと思っていましたが、全図にある尾根道を見つけられなかったため諦め、西の丸まで戻って今度は北東尾根の龍ヶ鼻砦を目指します。

西の丸の主曲輪から北東下にトラロープ伝いに下りて堀切を越えて進むと、尾根道のため迷いはしないものの、倒木がそのままだったり灌木が茂っていたりと未整備の状態で、地面を掘り返した跡やぬた場と思われる痕跡もあり、良く整備されていた北西尾根と違って北東尾根が明らかに獣の領域であることに気付かされます。クマ出没注意の看板もありますしね。

警戒しながらそれでも進んでいくと、痩せ尾根を過ぎたあたりに名前の付けられていない小曲輪群がありましたが、東南東に続く(はずの)小曲輪群は薮に沈んでいて、獣に遭遇するのも怖いので進入するのはやめておきました。

小曲輪群から北東尾根をさらに進み、なだらかな坂を登りきったところが龍ヶ鼻砦です。主曲輪の日当たりの良いあたりはシダが生い茂っていますが、北側斜面には数段の帯曲輪を設け、最下段の北辺は土塁で囲んでいます。

龍ヶ鼻砦から東に下っていくと百間馬場と呼ばれる曲輪があります。山城で馬場と呼ばれる比較的広い(細長い)曲輪を見かけても、その多くは馬が本気で走るには全然足りなさそうな広さしかありませんが、百間馬場はその名の通り馬が全力で駆け回るにも充分な広さがあり、現在は雑木林状態で見通しは利かず、遺構もないようですが、この広さを体感できただけでも北東尾根の端まで来た甲斐がありました。

さて、来た道を引き返して西の丸まで戻り、かつてあったはずの西の丸から北の丸への横移動の道を探しましたが(本城への岩場の急斜面を登るのは避けたい)、斜面の崩落で失われたのか見当たらず、やむなくまた本城まで登っていくことに…。
本城からは北の丸を経て東出丸に向かい、そこから南東尾根をたどって的場砦と東山砦に行って下山するつもりでいたところ、多田砦方面との分岐のあたりから先の道が、おそらくシダが左右に分かれているところが道だろう、というような大変な獣道で、本当にこの先も道がある(わかる)のか不安になり、結局、東出丸に戻って石踏の段からゆるやかコースで下山しました。

本城はもとより出丸や出城を制覇してこそ完全なリベンジ! と意気込んでいながら、兵主西砦や多田砦、的場砦、東山砦に行き損ねてしまいましたが、6時間歩いて手許に縄張図があるところには全て行ったので、最低限はクリアできたということにして……今日はこれぐらいで勘弁しといたるわ!(笑) でも、織豊期の石垣や虎口と戦国期の土の城、そして尾根筋の出城のネットワークなど、本当に見応えのある城でしたので、本城の整備が完了し、防護ネットや仮設階段が撤去された頃にまた訪れたいものです。
 

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昌官忠

比企城館跡群日帰り⑤ (2018/07/10 訪問)

「比企城館跡群日帰り」の5城目は高坂氏館(ラストのおまけです)です。松山城からの転戦です。

松山城から徒歩で「六反町バス停」へ行き、川越観光自動車のバスに乗って「東松山駅」に着きました。
「東松山駅」に着いた時、少し時間の余裕があったので、付近の城跡を検索した結果、「高坂城/高坂氏館」を見つけたので急遽、攻城することとしました。
東松山駅から東武東上線で高坂駅で下車し、そこから徒歩で「高済寺」を目指して高坂城に到着。

高坂氏館は徳川家康の家臣・加賀爪政尚の居城として知られています。1562年の「松山城の戦い」で北条氏政が松山城を攻める際に高坂に陣を置いたとされています。
現在跡地に建つ高済寺の境内周辺に残る土塁や空堀は、このときに造られたものだそうです。
近くに稲荷神社と「加賀爪氏累代之墓」があります。 攻城時間は15分くらいでした。

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昌官忠

比企城館跡群日帰り④ (2018/07/10 訪問)

「比企城館跡群」とは埼玉県比企郡にある城館跡のことで、「菅谷館跡」、「松山城跡」、「杉山城跡」、「小倉城跡」を指します。
「比企城館跡群日帰り」の4城目は松山城です。(この攻城で「比企城館跡群」コンプリートです)

菅谷館からの転戦です。菅谷館から徒歩で「女性会館前バス停」へ行き、イーグルバスに乗って武蔵村山駅に到着。
武蔵村山駅から東武東上線で東松山駅下車。そこから川越観光自動車のバスに乗り「百穴入口バス停」下車し、徒歩で「岩村観音堂」を目指し松山城に到着。

松山城は比企丘陵の先端に築かれた北武蔵屈指の平山城です。
15世紀中ごろから後半に、古河公方足利氏・扇谷上杉氏と山内上杉氏との軍事的緊張関係の中で築城されたと考えられています。
その後、関東制覇を進める後北条氏の支配下に置かれ、1558年~1569年以降は後北条氏・武田氏・岩槻太田氏によって城取合戦が何度も行われました。
城主の上田氏は扇谷上杉氏の重臣でしたが、のちに後北条氏に臣従し、他国衆に位置づけられて所領を安堵されました。
豊臣秀吉の小田原攻めによって落城しました。
~以上 嵐山町パンフレットから抜粋~

見所は空堀と土橋だと思います。岩村観音堂もいい味出しています。近くに「吉見百穴」がありますが、バスの時間の都合上、見学はしませんでした。 攻城時間は50分くらいでした。
帰りは、松山城から徒歩で「六反町バス停」へ行き、川越観光自動車のバスに乗って「東松山駅」に向かいました。

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昌官忠

比企城館跡群日帰り③ (2018/07/10 訪問)

「比企城館跡群」とは埼玉県比企郡にある城館跡のことで、「菅谷館跡」、「松山城跡」、「杉山城跡」、「小倉城跡」を指します。
「比企城館跡群日帰り」の3城目は菅谷館です。続100名城スタンプは「嵐山史跡の博物館展示室受付」で押しました。

小倉城からの転戦です。小倉城➡田黒バス停➡武蔵村山駅に到着。
武蔵村山駅からイーグルバス「せせらぎバスセンター行 と01」に乗り、女性会館前で下車し、そこから徒歩で菅谷館に到着。
まいりました。菅谷館手前で足がつってしまい、しばらくその場でストレッチ。
この経験に懲りて、この遠征以降で徒歩攻城を行う際は、「足や指のつり用薬(ツラレス:ロート製薬)」と脱水症状防止用としてペットボトルを持ち歩く為、携帯のペットボトル入れ」を必ず持って行くようになりました。

菅谷館は「吾妻鏡」に1205年畠山重忠が「小衾郡菅谷館を立つ」と記され、鎌倉時代の名称畠山重忠の館跡として国の史跡に指定されています。
現在の菅谷館跡の形は戦国時代の城で、須賀谷原合戦の後に山内上杉氏によって再興された「須賀谷旧城」だと考えられています。
都幾川の断崖上に本郭があり、二の郭・三の郭・西の郭・南郭が同心円状に配され、東西は自然の谷を利用し深く堅固な堀で防御されています。
~以上 嵐山町パンフレットから抜粋~

見所は堀と土塁だと思います。道も平坦でとても歩き易いです。菅谷館手前で足がつっていたので助かりました。攻城時間は45分くらいでした。
帰りは、菅谷館から徒歩で「女性会館前バス停」へ行き、イーグルバスに乗って「武蔵村山駅」に向かいました。

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昌官忠

比企城館跡群日帰り② (2018/07/10 訪問)

「比企城館跡群」とは埼玉県比企郡にある城館跡のことで、「菅谷館跡」、「松山城跡」、「杉山城跡」、「小倉城跡」を指します。
「比企城館跡群日帰り」の2城目は小倉城です。杉山城からの転戦です。

杉山城➡嵐山町役場➡武蔵村山駅➡タクシーで小倉城に到着。

小倉城は北条氏の家臣である遠山光景の居城であったとされ、豊臣秀吉の小田原攻めの折に落城となったと考えられています。
本丸を中心に土塁と堀で防御された郭が取り巻き、土橋や馬出しの後も良好に残っています。
~以上 比企城館跡群ガイドの解説から抜粋~

大堀切、郭1への虎口(南、東、北と北虎口先に枡形状虎口)、城や関東では珍しい石垣も見れます。攻城時間は70分くらいでした。
帰りは、小倉城から徒歩で「田黒バス停」へ行き、炎天下の中、バス待ち35分でイーグルバスに乗り「武蔵村山駅」に向かいました。

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todo94

大規模な山城 (2020/11/22 訪問)

天気予報通り、雨が落ちてきてしまいましたが、意を決して種福寺の登城口より攻城しました。幸い、傘がなくても大丈夫な小降りのまま攻城を終えることができました。大堀切を境に南域と北域に分かれ、南域の方が古い城跡とのことでした。周辺にたくさんの城があるので、改めてじっくりと散策したい地域です。

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昌官忠

比企城館跡群日帰り① (2018/07/10 訪問)

「比企城館跡群」とは埼玉県比企郡にある城館跡のことで、「菅谷館跡」、「松山城跡」、「杉山城跡」、「小倉城跡」を指します。
「比企城館跡群日帰り」の1城目は杉山城です。続100名城スタンプは「嵐山町役場」で押しました。

自宅の最寄り駅から東武東上線の「武蔵嵐山駅」に行き、そこからタクシー(10分くらいだったと思います)で杉山城に到着。

杉山城は市野川左岸の比高20mほどの台地の上に築かれ、発掘調査の結果から山内上杉氏の時代に造られたのでないかとみられています。松山城と同時期に北条氏の属城となり、豊臣秀吉の小田原攻めの折に廃城となったと考えられています。
本丸を中心に土塁と堀で防御された郭が取り巻き、土橋や馬出しの跡も良好に残っています。
高度な築城技術により知名度が高く「築城の教科書」「戦国期城郭の最高傑作のひとつ」という評価がされています。
~以上 比企城館跡群ガイドの解説&嵐山町パンフレットから抜粋~

評価にたがわない素晴らしい城跡です。 堀切、空堀、切岸、虎口など一見の価値ありです。攻城時間は80分くらいでした。
帰りは徒歩で「嵐山町役場」に行き続100名城スタンプ押印後、徒歩で「武蔵村山駅」に着きました。
杉山城からの帰りの徒歩で武蔵村山駅までの所要時間が60分くらいかかっており、夏の暑い中の歩きで、少し脱水症状気味でした。

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零汰

山頂には大きな自然石が点在しています。 (2019/11/03 訪問)

19年秋、山口・広島攻城の際に訪れた城郭です。標高410.5m、登山口の武田山憩の森駐車場から高低差250m程度、大きく道を逸れた為、2時間以上かかりました。

登山口から遊歩道を歩き始め、馬返しと呼ばれる曲輪を通り過ぎて暫く道なりに歩いて行くと自然石を配置した御門跡に辿り着きます。ここが大手口でその先に千畳敷と呼ばれる城跡ですが思いの外狭く感じました。

その先を進むと大きな自然石が各所にあり、中には階段状に加工したりとしています。正面の堀切道を登りきり分岐、東側に進むと山頂で、御守岩台・館跡と呼ばれる場所です。自然石の間を進みながら出丸迄進み散策、引き返し今度は西側へ進みました。

遊歩道は観音堂・弓場跡・上高間・下高間・馬場跡・見張台の順で見て歩く事が出来ます。見張り台を過ぎると遊歩道が分岐しているのを私は見逃し、大きく迂回してしまい銀山城登山口に降りてしまいました。間違えると武田山憩の森駐車場迄一般道を40分程かけて戻って行くようになります。



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ぴーかる

一城別郭を堪能 (2020/11/22 訪問)

【続百名城43城目】
<駐車場他>城跡南駐車場を利用
<交通手段>レンタカー

<見所>切岸・横矢・堀切・横堀
<感想>1泊2日武田・徳川攻防の城旅7城目。追手口のある南駐車場から攻めるのがお勧め。縄張りの感じは南北に2本連なる連郭式で、御存じの一城別郭の城。東側の本丸を中心とする連郭側は本丸を最上段として南に御前曲輪、三の丸、着到櫓の曲輪、追手口へと下り、本丸の西側腰曲輪として的場曲輪、玉場の曲輪が付随する。もう片方の連郭は天神社・西の丸を最上段として北に二の丸、袖曲輪、堂の尾曲輪、井楼曲輪があります。こちらの連郭は各曲輪間を堀切で仕切り、連郭の西側に特徴的な武田方が造ったと思われる一直線に伸びる横堀が通っており見応えがあります。横堀端の方はに石が堆積していたので、一部石積みの堀だったかもしれず防備の固さを窺わせた。また天神社の更に西側には堀切を挟んで馬場、馬場の西に犬戻り猿戻りの険という超狭っ狭の尾根道があり楽しめます。難攻不落の大城郭、私的にはもうちょい大きな縄張りかと思いましたが木々に埋もれた遺構があるのかも、少し小さいと感じた。難攻不落の城を攻めとり遠江を制す。

<満足度>★★☆

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カルビン

小杉陣屋・御殿 [神奈川県川崎市中原区小杉御殿町1丁目] (2014/09/20 訪問)

昨年の台風で多摩川が氾濫した際に武蔵小杉のタワーマンションが機能マヒして一気に武蔵小杉とタワマンの評価が下がってしまったのは記憶に新しいところ・・・
(勿論この問題に直面した事で色々改善された事でしょう。。。自分はそもそも高所恐怖症なのでタワマンはノーサンキューですがw)

その武蔵小杉には城びとにはお城としての痕跡が何も残っていない丸子城が登録されておりますが、そこから西・新丸子駅からの方が近いですが小杉陣屋と小杉御殿の跡地があります。
こちらは両方とも解説や碑石があり、どちらかというとこっち登録されるのでは?と思っておりました。
(実際丸子城って城びと会員になっで初めて知った場所ですし)

小杉陣屋のほうは小さな空き地に小さな祠があるところにちょっとした解説があるだけ、小杉御殿のほうは西明寺の入口のところが御殿入口であった事が示されており、そこに石碑と解説もあります。

小杉御殿の本殿は現在の西明寺の御本殿がある場所と推定されます。
御殿を造ったのは徳川幕府になりますが、西明寺に掲げられている家紋は北条氏のものでした。。。何か関係あるのでしょうか・・・

陣屋も御殿も遺構は残っていない為、ここメインで訪れる程の場所ではありません。
場所柄乗り換えの拠点になる所なので、乗り換えついでに立ち寄られるのが良いかと。

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モト

薬研堀跡と今はなき狼煙台 (2019/09/24 訪問)

 制作途中だったらしい薬研堀跡が見られます。
見張台の跡の柱穴なども発見されたようです。
訪問当時は皆様の投稿にもあった見張台、狼煙台がありましたが今は解体されているようです。
小高い山の上にある城址からは付近の名のある城が見渡せます。

今の通信手段は進化してスマートフォンになりました。
昔は人が走って手紙を届けたりしておりましたが、狼煙で伝えるという画期的な手段が生まれて情報がすばやく伝わるようになったんだろうなと考えます。
その当時では最新の伝達手段があったであろうその手段を使用して、主たる城や合戦時に情報を伝達していたであろうこの城址に、一気に価値が高まった気がしてワクワクしてしまいました。
また制作途中であったという薬研堀も、浅い状態ではありますが確認でき、歴史上で重要な狼煙台と合わせて雰囲気を味わうことができました。

小高い山の上まで車でも上がれます。
駐車場もありますので気軽に見学にも行けると思います。
その割に楽しめる城址だと思います。

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城Expo2020 (2020/12/19 訪問)

今回で3回目の城Expoの参加でした。
19日と20日の二日間おしゃま致しました。
初日は、3つの厳選プログラムとお城の各ブース等でした。
大和田先生の「穢れの逆転」の話や平山先生の「戦国の忍び」の話を興味深く拝聴致しました。
私は、関西なので奈良の大和郡山城の天守台にある「逆さ地蔵」が有名ですね。
即ち、地蔵さんを逆さに置くことで穢れが一掃されお城が護られると言い伝えられているのです。
また、戦国の忍びと言えば伊賀忍者や甲賀忍者を思い起こすのであるが、各地でいろんな呼称があるのですね。
かまり、乱波等の別称があるのですね。
非常に面白く勉強になりました。
2日目も3つの厳選プログラムとワークショップセミナーに行きました。
萩原さんのお城と食事のお話で、お蕎麦やお酒とお城との逸話を教えて頂きました。
また、トークショーでは昇太さんと中井先生と加藤先生のマニアックな土の城のお話ですね。
関西では石垣の城が多いのですが、関東ではやはり土の城なんですね。
北条の城で最近発掘調査された「河村新城」の障子堀がマニアックな彼らでさえ圧巻だったと云っておられました。
コロナで行けなかったけど、僕も行きたかった。
また、北条は土の城にかなりこだわっていたみたいです。
なのに、北条の城で小田原城の支城である「八王子城」には石垣があるのですね。
いつも行ってらっしゃるにのまるさん!
どうしてか教えて下さい!
最後に、中井先生と加藤先生と松田先生の三人のトークでは「瓦のお話」でした。
瓦と言えば、初期の頃はお寺の瓦を代用としてお城に使っていたのですが、織田信長の安土城の頃から「お城独自の瓦」が登場するのですね。
会場の「ノース」はかなり広いですね。
ゆったりと見学が出来て満足でした。
来年は、コロナが終息してもっと自由に見学出来ることを祈らざるを得ません。

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イオ

赤鬼の土の城 (2020/12/06 訪問)

(本城編から続く)

本城・西曲輪北端の防獣柵にも注意書きがありますが、本城から西の丸に行くには、岩場の急斜面をトラロープを頼りに下りて行くことになりますので、滑りにくい靴と手袋は必須です。そうして鞍部まで下りて、尾根道をまた少し上ると西の丸に着きます。

西の丸は本城から北西にのびる尾根の付け根に築かれた出丸で、東端の主曲輪から西方向に4つの曲輪で構成されています。主曲輪は南辺に土塁を設け、北東下は龍ヶ鼻砦へと続く尾根を堀切で断ち切っています。主曲輪から西に一段下りたところが二の曲輪で、南辺を土塁が走り、北西の切岸の下にも塹壕状の土塁が見られます。二の曲輪西端には櫓台があり、その西下には堀切と土橋が明瞭に残っています。堀切の先は三の曲輪で、細長く続く曲輪の西端には(二の曲輪と同様に)櫓台と堀切・土橋があります。その先の四の曲輪の西端にも櫓台があり、櫓台の西下は岩盤むき出しの急斜面になっています。

各曲輪の西端に櫓台を設け、曲輪間を堀切で遮断し、北西尾根からの侵攻に何重にも備える意識が明らかな造りで、東出丸や石踏の段などと同じ出丸のひとつに位置付けられますが、規模はそれらより格段に大きく、中小規模の山城ひとつに相当するほどで、「小城」とも呼ばれるのも納得です。本城は斎藤利三の頃以降に石垣や虎口を中心に改修されていますが、西の丸では荻野(赤井)直正が改修した頃の黒井城の姿を見ることができ、ひとつの城でふたつの魅力を堪能できますので、岩場の急斜面の登り降りは大変ですが、土の城好きなら西の丸まで足を運ぶ価値は充分にあると思います。

さて、西の丸には大いに満足しましたが、ここまで来たら出城まで攻略せずにはリベンジを果たしたことにならない! ということで、さらに先へと進みます。(続く)
 

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todo94

黒髪山登山口から (2020/11/22 訪問)

黒髪山登山口から攻城してみました。駐車場も完備されているしさほど苦労することなく見事な空堀に囲まれた城域にたどり着くことができるお薦めの城です。山城と云うよりは、山腹に築かれた居館跡という佇まいでした。

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昌官忠

横浜線沿線日帰り⑤ (2018/07/15 訪問)

「横浜線沿線日帰り」の5城目は篠原城(ラスト)です。小机城からの転戦です。

小机城から小机駅に出て、そこからJR横浜線で菊名駅下車し、徒歩で篠原城へ向かいました。

篠原城は北条氏の家臣・金子氏の居城で、小机城の支城として築かれたようです。
金子氏は北条氏滅亡後もここに残り、江戸時代には名主をつとめたようです。

現在城址には土塁や空堀などの遺構が残っていますが、自分が攻城した時は立入禁止になっており、本丸に入ることはできませんでした。攻城時間は10分くらいでした。

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昌官忠

横浜線沿線日帰り④ (2018/07/15 訪問)

「横浜線沿線日帰り」の4城目は小机城です。津久井城からの転戦です。
続100名城スタンプは小机駅横の「城郷小机地区センター」で押しました。

津久井城から北根小屋バス停に出て、そこから神奈川中央交通バスで橋本駅に向かい、JR横浜線で小机駅下車、小机駅横の「城郷小机地区センター」でスタンプ押印とガイドマップを入手し小机城へ向かいました。

ガイドマップによりますと、小机城は15世紀半頃(室町時代)までには築城されていたと考えられているようです。
1478年には長尾景春の乱にともなう戦乱で、太田道灌によって攻め落とされています。
戦国時代には、小田原北条氏の関東進出のなかで重要な軍事拠点となり、城も改築されたようです。
北条氏の重臣・笠原越前守信為が城代となった後、北条三郎・氏信・氏堯・氏光が城主となりました。
豊臣秀吉による小田原攻めでは戦闘の記録はなく、徳川家康の関東入りの後に廃城となったようです。

現在城址は「小机城址市民の森」として整備されており、遺構として巨大な空堀や土塁、本丸、二の丸などがほぼ原形のまま遺されています。
本丸から二の丸までを大きく囲む空堀は素晴らしいです。城塁、櫓台、土塁など見ていて飽きない城跡です。攻城時間は45分くらいでした。

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昌官忠

横浜線沿線日帰り③ (2018/07/15 訪問)

「横浜線沿線日帰り」の3城目は津久井城です。片倉城からの転戦です。

片倉城から片倉駅に出て、そこからJR横浜線で橋本駅下車、橋本駅北口から神奈川中央交通バスで津久井湖観光センター前で下車して津久井城を攻城しました。

攻城ルートを写真から辿ると、津久井観光センター前から、らくらくコースで登城をはじめ不動坂➡男坂(車坂)➡女坂と合流➡太鼓曲輪➡堀切と引橋(ここで野生の鹿と遭遇、怖かった)➡土蔵➡本城曲輪➡城山山頂➡ここで引き返し➡飯縄曲輪/飯縄神社➡大杉➡宝ヶ池➡ここで引き返し➡男坂を下る➡らくらくコースと合流➡諏訪神社➡北根小屋バス停で下城でした。
あとで公園マップを確認すると中心部は見学していますが、城山登山口方面の「みどころスポット」をいくつか見学していませんでした。 時間の都合上、これでよしとします。

津久井城は小田原北条氏に仕えた内藤氏が城主をつとめていました。1590年の豊臣秀吉による小田原攻めに伴い落城し、江戸時代初頭には麓に陣屋がおかれていたようです。

現在城址は「県立津久井湖城山公園」としてハイキングコースも整備され、家老屋敷跡や宝ヶ池、堀切などが残っています。
山頂近くにはトイレもありましたが、水は使えなかったと思います。男坂は60台のおじさんにはけっこうきつかった記憶があります。
攻城時間は2時間弱くらいでした。

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