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昌官忠

埼玉県(東武野田線&東武東上線&JR埼京線沿線)日帰り② (2019/08/04 訪問)

「埼玉県(東武野田線&東武東上線&JR埼京線沿線)日帰り」の2城目は大和田陣屋です。岩槻城からの転戦です。
岩槻城から徒歩で岩槻駅へ戻り、岩槻駅から東武アーバンクラインで大和田駅に到着。そこから徒歩で大和田陣屋を目指します。(大和田駅から徒歩10分強くらいです)

大和田陣屋は岩槻城主・太田氏の家老であった伊達与兵衛房実の陣屋で、1590年の小田原征伐により北条家が滅んだ後、徳川家の旗本として仕え、旧所領の跡地であったこの場所に、陣屋を構えたと伝わっています。

インターネットで調べたら、大和田公園通り沿いに「大和田陣屋」の立て看板と案内板が設置されている旨の情報がありましたが、自分はみつけられませんでした。
陣屋跡のポイントは住宅街で土塁遺構らしきものも見あたりません。攻城時間は付近をウロウロした時間含みで10分くらいでした。(結局、何も見つけられず!)

投稿するものが何もなく(城びとで示されたポイント:空地の写真は私有地のようなのでやめました)、陣屋と大和田駅間で見つけた神社の写真を投稿しました。場所はGPS座標(35.927526、139.648062)です。

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昌官忠

埼玉県(東武野田線&東武東上線&JR埼京線沿線)日帰り① (2019/08/04 訪問)

「埼玉県(東武野田線&東武東上線&JR埼京線沿線)日帰り」の1城目は岩槻城です。
自宅最寄り駅から岩槻駅に到着。そこから徒歩で「岩槻城址公園(岩槻城)」を目指します。
ナビでは西口からのルートで誘導されましたが、東口から諏訪神社経由の方が早いような気がします。(岩槻駅から徒歩20分くらいです)

岩槻城は1457年(長禄元年)に太田道真・道灌父子がはじめて築城したといわれていましたが、近年では、忍城主・成田親泰の祖父にあたる成田資員が築城したとする説も有力で、築城者と築城年については定かではないようです。
元荒川を天然の外堀として利用した総曲輪(惣構え)の縄張りで、扇谷上杉氏と古河公方足利氏の領地の境目に築かれた最前線の城として活用されていました。
城は大改修されるも小田原の役で2万の軍勢に囲まれ降伏開城しました。江戸時代には高力清長が2万石で入り、以来、幕府要職に就く譜代大名が入封しました。

本丸・二の丸・三の丸等の城の中心部のある主郭部、その周囲を取り囲む沼の北岸に位置する新正寺曲輪、南岸に位置する新曲輪という、3つのブロックから 構成されており、大きな沼に囲まれていたことから水に浮かぶように建っていたと言われています。
現在は岩槻城址公園として整備されており、黒門と裏門が移築されているほか、当時の土塁がいまでも残っています。

大部分が開発され沼も埋め立てられていますが、鍛冶曲輪・新曲輪のあたりが城址公園として残っており、高い土塁に囲まれた空堀の底を歩くことができます。
黒門、裏門も見応えあります。時の鐘を見るのを忘れました。攻城時間は60分くらいでした。

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肉球

木造復元天守閣・現存御殿 (2020/12/24 訪問)

木造復元された天守閣と二の丸御殿が現存 
天守閣内部は所々金属による補強がされているところをみると
掛川城より規模の大きな名古屋城の木造復元はかなり難しいことのように思えてきます
御殿の長囲炉裏間の天井には当時の藩主太田氏の家紋が入っています

その他にも大手門が元の位置とは少し違うが復元され
その裏手には番所が現存しています
十露盤堀は元はもう少し大きかったようですが腰曲輪を削っって埋められてしまったようです
なので腰曲輪ももう少し広かったみたい

お城から北東へ300メートル位のところには古掛川城があり
徳川家光を祀った御霊屋と大堀切が残っています

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カルビン

川連城 [栃木県栃木市大平町川連] (2016/05/22 訪問)

ここに来てのコロナの猛威炸裂と先週のぎっくり腰(軽度)の為、近々ではお城訪問はおろか通勤以外で電車に乗る事さえ出来てませんorz
もう最後に史跡訪問してから9ヶ月経過してます。。。(たまに運転慣らしで近場の滝山城や高幡城脇を通過はしたw)
流石に残っているのは在庫処理的なお城が大半になっております(@投稿の旬の過ぎた100名城w)

そんな見所の乏しいお城の中の1つ、栃木県にある川連城をご紹介。

周辺に勢力を誇っていた皆川氏による築城のお城らしいのですが、昭和後期の道路整備によって遺構の大半が失われた様です。

実際車で訪問しましたが、現地はバイパス道路沿いにあり、車を停めるスペースさえ見つけられませんでした。
(すぐ傍に川連天満宮があったので、そこの駐車場利用できると踏んでいたのですが・・・)

駐車場所を探して周辺を数周した時点で諦め、交差点の信号待ちの際に車内から城碑と解説を撮影致しました。

実際車で回った限りでは遺構の「い」の字も見つけられなかったので、仕方がないかと。。。


一応最寄りの駅となる栃木駅(JR線・東武日光線)からギリギリ徒歩圏内(直線距離で1.7km)ですが、そこまでして訪問するのはちょっと・・・
なので駐車し辛い事も加味して2輪での訪問がオススメの地となります。

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零汰

その先に行ってみた (2019/12/03 訪問)

以前どこかの教授がこちらの城郭を鹿児島城郭ランキング2位と推している城郭関連本か記事を目にしました。教授が推すのだからきっと見どころのある城郭だろうと県内の名続100との違いも考えながら攻城しました。

周辺の山一帯が城域でとても広いです。整備のされている範囲は駐車場付近の本丸までの限られた場所だけ。本丸東の馬場跡の南側に本丸から続く高い土塁の間にポッカリ空いた堀切(虎口と言うべきか?)が有ったのでその先に行ってみた。案内板でいう蔵ノ城と呼ばれる場所です。駐車場から整備された範囲と蔵ノ城を含めて3.2km・累計高低差190m・2時間20分程の攻城です。なお、整備された範囲は先輩のレポートがあるので省き、倉ノ城と呼ばれる範囲だけの写真となります。

結論から言いますと、整備された入口周辺の遺構とは様子が違い、天然の浸食谷を幾つも利用し石は使われていない土の山城です。鹿児島でよく見られる荒々しくワイルドな堀切や堀切道が施されており遺構はほぼ揃っています。道に迷う事も有りませんが、特徴的で警戒すべきは二股に分かれた堀切道、隼人族の居城でも驚かされた片方が崖に落ちる仕掛け。時には折れ曲がって見えない先は崖だったりと。行かれる方は二股の道に出くわしましたら十分ご注意下さい。

初めの教授のランキングの件、好き嫌いが分かれるのかと、必然的に名続100との違いは万人向けではないだろう、フェイク堀切とか歴史的背景など。私はメジャーマイナー拘らずに浪漫の欠片探し大好きなのでビビリながらもとても楽しめて都合2度行きました。

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カズサン

今年の登城納めは掛川城❣ (2020/12/26 訪問)

 冬型の気圧配置が少し収まり遠州は晴天、真っ青な天空です、今年の登城納めは掛川城にと出掛けました、流石百名城多くの方々が登城されてました、御殿、天守とも入場の感染対策はバッチリ、掛川城駐車場に車を駐める。
 ルートは駐車場近くの復元大手門、大手門番所、三光稲荷神社、逆川沿いからの景観を愛でて三の丸下から二の丸へ、二の丸御殿入場しなく周囲を巡る、二の丸東の高土塁、四脚門から三日月堀、十露盤掘、四脚門では門松飾り付作業中、太鼓櫓、本丸、天守曲輪、登閣せず周囲を廻り眺める。
 駐車場に戻り西に約14km程袋井市の油山寺に移築されて山門に成ってる掛川城大手門を久しぶりに観察する、年末に関わらず参拝者が多い。
 駐車券を精算する時に財布忘れの現実を体験、全てのポケット、背負ってるリックを調べ財布無し真っ青、駐車場の管理人さんに事情を話した処、親切にもお金を立て替えてくれる事に成り大変ありがたくお世話に成り感謝です。自宅まで約30km程引き返して立て替えて頂いた料金と手土産を持って掛川城駐車場の管理人さんに手渡し重々お礼をして帰路へ。
 この為本日は財布忘れの失敗も有りましたが2回掛川城を訪ねるラッキーと成り考え様で好事へ変換。

 今年は復元建物が多く建てられ北陸、中部、北関東、南九州と出掛け未踏の山城も数多く廻り今年の登城数は135城と成って居りました、また感動し見応えの有る山城がまだまだ数多く在る事が分かった次第、来年も厳選しながら巡りたいと思って居ります。
 1年間、投稿愛読?有難うございました、来年もよろしくお願いいたします。 良いお年をお迎えください。

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ぴーかる

久野城 (2020/11/22 訪問)

【久野城】
<駐車場他>城跡駐車場無料あり
<交通手段>レンタカー

<見所>曲輪
<感想>1泊2日武田・徳川攻防の城旅8城目。この城跡は現地説明板によると、在地領主久野宗隆が造ったが明応年中(1492~1500)とも永正年中(1504~1520)ともいわれている。宗隆は今川氏に属していたが孫の代の宗能は徳川家康に属して掛川城・高天神城攻撃・小牧長久手の戦いで戦功をたてている。徳川家康の関東移封に際して伴い宗能は下野に移封され、松下家→宗能(再封)→宗成→北条氏重で正保元年(1644年)に廃城となります。
 城跡は独立した小高い丘城で周囲を水堀で囲んでいたようです。西側に二の丸、三の丸を配し、東側が大手入口、南の丸、東の丸、北の丸を配します。堀切、竪掘りは見られますが短く、曲輪間を仕切る程度のものである。綺麗に草刈がなされていて気持ちよく散策できましたが、本丸の東面から南面にかけてだけが樹木の整備をしておらず木々の隙間から僅かに見える堀切が勿体なかった。

<満足度>◆◆◇

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城好きのメガネ

「伝富岡城」 (2020/03/28 訪問)

<オススメ>★☆☆☆☆
富岡城は室町時代に国人領主であった富岡氏に築かれた城とされる。現在、城山公園として整備されているが遺構は遺されていない。世界遺産 富岡製糸場も徒歩圏内にあるため併せて散策することをオススメしたい。

<アクセス>
上信電鉄 上州富岡駅 徒歩15分

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いんげん丸虫

県史跡 (2020/11/22 訪問)

主郭は土塁で囲まれ石積も確認できます。発掘調査によって内部から建物礎石も見つかってます。
3つの小川城の中では1番整備されていて眺望も良いです。県道138号線の案内看板から2kmで城跡まで行けますが、この2kmは普通車ですれ違うのも難しいので注意が必要です。

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昌官忠

信州(列車&レンタサイクル)日帰り⑥ 田口城 (2018/06/24 訪問)

「信州(列車&レンタサイクル)日帰り」の6城目(ラストです)は城びと未登録の田口城です。龍岡城からの転戦です。

龍岡城から徒歩で田口城南側登城口目印の黄色いカーブミラー(36.197486、138.503896)に到着。であいの館から2~3分で着きます。
カーブミラーの小道をひたすら山方向に進むと田口城に着きます。

田口城は田口氏の居城として知られています。1546年には武田信玄の佐久侵攻により落城しました。1548年の「上田原の戦い」で武田氏が撤退するとその混乱に乗じて、田口長能が城の奪還を図りましたが、敗けて田口氏は滅亡します。
その後は阿江木氏の流れを汲む依田能登守の城でしたが、武田氏滅亡後は徳川家康についた依田信蕃が攻略して本城としました。

城址には石積みや堀切などの遺構が確認できますが、山頂(展望台があります)から龍岡城の五稜郭が見られることで有名です。
山麓にある蕃松院は信蕃の子・松平康国が信蕃のために建立した寺で、信蕃の墓とされる五輪塔があります。攻城時間は50分くらいでした。

帰りは龍岡城駅まで戻り、佐久平駅経由の新幹線で帰宅しました。

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昌官忠

信州(列車&レンタサイクル)日帰り⑤ (2018/06/24 訪問)

「信州(列車&レンタサイクル)日帰り」の5城目は龍岡城です。小諸城からの転戦です。
続100名城スタンプは「五稜郭 であいの館」で押しました。

小諸駅からJR小海戦で龍岡城駅で下車し、そこから徒歩で龍岡城北の入口枡形(36.199448、138.500672)を経由し、「であいの館」で続100名城スタンプを押印/展示資料見学後、龍岡城に到着しました。

龍岡城は函館とともに日本に2つしかない五芒星形の西洋式城郭の内のひとつです。函館の五稜郭に3年遅れ、1867年に龍岡藩主・松平乗謨(まつだいらのりかた)によって築かれたようです。
完全な完成前に明治維新を迎え、廃城となりました。廃城後、城内のほとんどが農地転用されましたが、稜堡式の石垣や水堀に加え、御殿の一部である御台所櫓が現存しています。
城址内を一通り見学した後、五芒星形の形を確認する為、城びと未登録の「田口城」に向かいました。攻城時間は40分くらいでした。

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昌官忠

信州(列車&レンタサイクル)日帰り④ (2018/06/24 訪問)

「信州(列車&レンタサイクル)日帰り」の4城目は小諸城です。鍋蓋城からの転戦です。
100名城スタンプは「懐古園事務所」で押しました。

鍋蓋城からレンタサイクルで小諸城の大手門(36.328800、138.421952)に到着して見学した後、小諸観光案内所にレンタサイクルを返却。
それから、小諸駅の陸橋を渡り、懐古園(小諸城)に到着しました。

小諸城については、城びとの概要にも記載されていますので説明は割愛します。

攻城ルートを写真から辿ると、小諸駅➡「徳川秀忠 憩石」➡三の門➡食違い虎口➡二の門跡➡二の丸跡➡番所跡➡中仕切門跡➡北の丸跡(弓道場)➡南の丸跡➡稲荷神社➡黒門橋/黒門跡➡お駕籠台跡➡本丸跡(懐古神社鳥居)➡懐古園の碑➡懐古神社➡山本勘助愛用「鏡石」➡庭園の池➡社務所➡天守台➡小諸八重紅枝垂(馬場)➡富士見展望台➡観測の木➡草笛演奏機➡武器庫➡酔月橋➡水の手展望台/水の手不明御門跡➡藤村記念館➡荒神井戸➡山城館(そば処:おそばを食す)➡ふたたび南の丸跡➡下城➡本陣主屋➡小諸駅
動物園/遊園地/小山敬三美術館以外、ほぼひととり見学しました。

自分的には食違い虎口と天守台の石垣、三の門(寄棟造)、大手門(二層入母屋造の楼門)がお勧めです。 攻城時間は2時間30分くらいでした。

本文を書いていて思い出しました。自分は攻城時の記録用にスマホとデジカメで写真を撮りますが、大手門前で撮影中に自撮棒からスマホがはずれて地面に落ち、スマホ画面にキズがつきました。

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姫街道

北条氏の砦 (2020/12/20 訪問)

北条氏が駿河東部に攻め入った時に築城したと言われる城。土塁が残ると言われ探したが、参道脇に溝のような物のみ確認したが、不明。ここも、案内看板や由緒書きもない。同じ愛鷹山の麓でも、東の葛山城周辺や長久保城などと比べると西側は城が少ない。

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姫街道

甲相駿三国同盟が凍結された場所 (2020/12/20 訪問)

創作説は強いが、善徳寺は駿東地域の象徴的な場所であり、大規模な寺院であった。
その同盟を破って駿河に攻め入った武田軍によって焼失されたとある。その事は結果論からも事実であろうが、なんとも酷いことを…。さて、遺構はほとんど残っていない。
場所も、本当にわかりにくい。公園に駐車場があるが、普通車では難しそう。
公園化されているが、ここから見える富士山は今も昔も変わらない。今日は残念ながら、山頂に傘雲がかかっていたが、雄大な景色の下、歴史的な話し合いが多々あった事がしのばれる。

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姫街道

駿甲国境の押さえの城 (2020/12/20 訪問)

富士山本宮浅間大社とは川を隔てた東側にある。今は大宮市の運動場が一の曲輪で、校舎がニの曲輪、蔵屋敷神社や長屋門付近が、蔵屋敷曲輪だったとある。案内看板が皆無で寂しいが、出土品は大量に発掘されていて、しっかり調査済みのようだ。富士山周辺は、どうしても地形が一辺倒であり、なかなか城を築城するには難しいのではないかと思う。さて、この城は武田氏の駿河侵攻時にまず攻め入る城で、歴史の舞台に度々登場する。築城した富士氏は、浅間大社の大宮司家だったとの事。武田が侵攻して来た時の浅間大社はどのようだったのか、など興味は尽きない。

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にのまる

八王子城の話・お返事

 今年の2月に八王子城を訪れたときに、前年の台風19号で露出した御主殿の滝の石をガイドさんに案内していただいたのですが、その時の、大手道を歩きながらのガイドさんとのやりとりを猿さんのご投稿を読んで思い出しました。
ガ:「古い石垣と新しい石垣の境目はどこでしょう?」
私:「全然わかりません!」
ガ:「この上の曲輪は何段あるでしょう?」
私:「2段!」
ガ:「3段です。」
ガ:「御主殿虎口の石段はあるお城と似ていますがどこでしょう?」
私:「安土城!」(←これは知っていた。)
ガ:「信長のところに北条氏照に遣わされて行った間宮綱信が安土城の築城に携わり、安土城に似せて御主殿の石垣を築いたという説がありますが、では間宮と言ったら?」
私:「間宮海峡!」(←ボケたつもり。)
ガ:「そのとおり。」
私:「えっ?」
…とこんな感じでした。
間宮海峡の間宮林蔵は間宮綱信の後裔で、綱信は北条氏滅亡後、家康に取り立てられ大出世したということです。
 (「北条のお城なのに何故石垣が多いのか」という猿さんの問いの答えにはなっていませんが、素人の私が検索して貼るのもアレなので…。)
 
猿さん、お城EXPOでは平山先生の講演にもいらしていたのですね。戦国の忍びの話。かまり、透波、乱波…。非正規雇用でアウトローな存在だった名もなき人たちの忍び働きなくして城も戦も成り立たなかったというお話はたいへん興味深く、現代社会と変わらない側面もあるのではないかと思いながら拝聴しました。

昌官忠さん、いつも美しいお写真を拝見させていただいております。仰せのとおり滝山城は(ざっくり)我が領域内です。どうぞお通りくださいませ(^^)/
と言いましても私は脱藩してきた流れ者で(奥方様と同郷のようで!)、領民感覚はあまりないのですが。
城びとさんのなかにはこのあたりが(多分)“庭”の方もいらっしゃるようです。。。

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姫街道

伊勢湾の海運を収めた城 (2020/12/20 訪問)

南北朝時代、1350年頃に一色氏がこの地に城を築いて伊勢湾の海運を収めたとある。その後、佐治氏の時に水軍を率いて活躍。
非常に重要なだ。戦国時代には織田信長の弟である長益が入ったが、すぐに大草城築城に入ったようだ。さて、主曲輪には模擬天守が建っているが、西側には大きな外堀と土塁があり眺望も最高だ。大草城も一望出来るとある。まさに、伊勢湾を収めるに相応しい城だ。

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姫街道

白山城(富貴城) (2020/12/20 訪問)

円勧寺と白山神社が並んでいるが、地元の方に聞いたところ白山神社に城があり、白山城と呼ばれているとの事。今は埋まってしまったが、白山神社のま周囲をグルリと堀があったとの事。確かに軽トラ1台通れる程度の堀跡の道があり、土塁が残存している。
勿論、円勧寺も城の一部を担っていたであろう。城の近くまで海が来ていたであろうが、張り出してたようには現状見えない。コンパクトではあるが、知多半島の東岸を南北に通る街道の抑えの城だったのではなかろかと思う。

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零汰

4・500年早く産まれていたら城主でしたね。 (2019/07/29 訪問)

城郭廻りを本格的に初めて2か月余りたった頃、まだ知識も今以上に不足していて遺構に指差呼称しなが廻っていた去年の7月29日に訪れました。

そこは1段上がった所に主郭が有り、取り囲むように土塁付の帯曲輪が配置されている小規模な城郭です。地元の人々に愛され定期的に整備をされているとても見やすい城郭です。正面虎口の樹木は地元の方が植樹されたそうです。

その日は城郭に向かう沿道には多くの幟が立てられていて、沿道右側にある神社で【吉広楽】なる伝統的な祭りのある日でした。その様子を眺めなら進み、道路の終点になっている城郭正面に到着。そこで身支度している最中に1台の車でやってき来た夫婦が1組。こちらに来て「城跡見に来たんですか?」「はい、そうです」「私はよしひろです」私「・・・・。」それまで城名は(きちひろ城)と呼んでいたので話がかみ合いません。よくよく話をしてみると吉広氏直系の現当主の御夫婦でした。ほんの4・500年早く産まれていたならお殿様と奥方様です。ご主人はハキハキ喋る方、奥様は上品な方でした。

城郭く近くの吉広楽の主賓で他県から来られる途中に立ち寄ったそうです。それからご主人の案内で城郭をひと回り、和紙製の直筆名刺と手造りの焼物の御猪口をお土産に頂き、なんとも贅沢な攻城となりました。

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こげら

亀山城と城下の風景 (2020/12/24 訪問)

東海道は亀山宿、関宿より野村の一里塚を経て亀山城下に到着。
広重が描いた亀山城のイメージをたどりながら城下の散策を楽しみました。

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