「西郷、松平、今川、徳川と東三河の城らしく城主が変わってきたが、最後は徳川家康の家臣酒井忠次で、1590年家康の関東移封にて廃城」とだけ情報をインプットして登城した。当然、遺構は最後の城主が誰だったかが重要になる。最後が武田で徳川に落とされて廃城の城は何となく武田の遺構だと感じるが、三河〜駿河まで関東移封の頃まであったこの山中城のような城は、情報が無ければ徳川なのか武田なのか正直見分けがつかない。
ただ、私の個人的感想だが、徳川方の遺構は城の面積に締める曲輪の面積の割合が広いように思われる。この山中城も各曲輪、非常に広かった。保存会の方の御尽力だと思うが、整備が非常に良く、案内看板も各所にあってわかりやすかった。比高が若干低いかなと思ったが、その分各所の曲輪に対する切岸が堅固に作られているのではないかと感じた。
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