駐車場の南側は城山公園の範囲に入らないみたいですが、曲輪跡だと思われます。
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2021/03/07 07:13
駐車城南側の土塁 (2021/02/23 訪問)
駐車場の南側は城山公園の範囲に入らないみたいですが、曲輪跡だと思われます。
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2021/03/07 07:07
小高神社 (2021/02/27 訪問)
本丸跡に鎮座する小高神社
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2021/03/07 06:32
利根川沿日帰り攻城⑧:芝原城(中峠城) (2019/05/25 訪問)
中沢城から転戦。車で60分くらいで着きました。
古利根公園入口付近(35.874803、140.075894)に路駐して攻城しました。
1541年(天文10年)に初代河村出羽守勝融が中峠城に入り、1546年(天文15年)には第2代河村修理之亮が城主になります。
1564年(永禄7年)には修理之亮が国府台で北条氏に敗れて戦死し、河村氏は後北条氏の配下となります。
第3代当主は河村山城守、第4代は出羽守で、1590年(天正18年)の小田原城征伐の際には小田原城中に詰めていたが、留守中に中峠城が陥落しました。
その後、同年12月には小金城主の武田信吉が治め、1593年(文禄元年)には徳川家康の料地となり、名前が中峠村(又は芝原村)となりました。
利根川南部の河岸段丘上に築かれた城で、現在は宅地化されていますが一部が自然公園「自然観察の森」として整備されており、空堀や土塁などの遺構を確認することができます。
なお平将門が築城したという伝説もありますが詳細は不明です。
城址の一部が「古利根公園自然観察の森公園」になっているとのことなので、公園入口から攻城しましたが、城址かどうか不安で歩いていると説明板発見。
説明板はあったが、縄張りがよくわからなかった。
攻城時間は15分くらいでした。
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2021/03/07 06:26
利根川沿日帰り攻城⑦:中沢城 (2019/05/25 訪問)
多古陣屋から転戦。車で30分くらいで着きました。
中沢城址説明板前の空スペース(35.722548、140.319379)に路駐して攻城しました。
中沢城は千葉氏の支城として築かれたと考えられています。
城主には千葉氏の庶流である三谷氏が推定されていますが詳細は不明です。
城趾は農耕地になっていますが、地元で「城山(じょうやま)」と呼ばれる山には土塁や空堀などの遺構が残っているそうですが、確認できませんでした。なお、登城口に説明板があります。
案内板の裏が登城口だと思いますが、藪で塞がれ突入する勇気がなく説明板の写真を撮って撤退しました。
攻城時間は5分くらいでした。
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2021/03/06 21:52
茶々丸 (2021/03/06 訪問)
伊豆急下田駅から東海バスに乗り約17分で箕作郵便局にて下車。深根橋を渡ると堤防道路の次の細い道の入口に折れて倒れている深根城址の石柱があります。そこから土蔵の壁に設置してある案内板の所までは約10分くらいで行くことができます。遺構はよくわかりませんでした。折れている深根城址の石柱の西側に行くと北条早雲に滅ぼされた足利茶々丸夫妻の墓の入口を示す石柱が立っています。
ネットを見ていると詰めの城と思われる遺構が西方奥にあるとの情報がありましたが、場所がわからず散策していません。
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2021/03/06 19:50
2021/03/06 17:43
長野(工藤)氏重臣の城 家所城(三重県津市美里町)➡城びと未登録 (2019/02/26 訪問)
伊勢中部に勢力を張った長野(工藤)氏の属城:家所城です。
城びと未登録ながら遺構の残存状態も良く、見どころの多い城址です。
【アクセス(車)】
津市美里町の広域農道:グリーンロードの辰ノ口の交差点を東に折れ、県道411で300m走った“辰水小学校北”の信号を南に入ると、左手に見えて来る丘が家所城址です。
向かい側の辰水小学校入口に駐車スペース(児童送迎用?)があります。
城址への入り口は、城山の南側に回り込んだ民家の横にあり、狭い歩道と案内看板があります。
【城の歴史】
家所城は貞治元年(1362)、家所祐歳により築城されました。
長野氏は源頼朝の側近だった工藤祐経の三男:祐長が伊勢国二郡の地頭に任じられ、安芸郡長野郷に移り住んで“長野氏”を名乗ったのが始まりです。
家所祐歳は長野氏6代:藤房の三男であり、家所の近郷24ヶ村を貰って家所氏を名乗りました。
以後8代にわたり、長野氏の重臣を務めた訳ですが、『勢州軍記』によると、家所氏の兵力は500人(騎馬50、徒歩250、小者200)だったそうです。
家所の地は、南の北畠氏領だった一志郡に境を接しており、南北朝~戦国時代に両者は激しく戦っていますから、対北畠の尖兵…という位置付けだった様ですね。
織田信長の侵攻に際しては、家所氏は抗戦派だった様で、結局は織田信包ではなく、織田信雄の傘下に入っています。
しかし、その後の家所氏の消息については不明で、信雄の羽柴秀吉との抗争の中で没落してしまった様ですね。
【見どころ】
中世の築城らしく、土塁を巻いた広い主郭があり、居館からスタートした城の様です。
周囲には大規模な横堀が掘られ、東西の尾根上には曲輪群が幾重にも付加されおり、最後には菩提寺(什心寺)も郭内に取り込まれた様で、主郭の物見台下からは寺に向けて“抜け穴”も掘られていた様です。
市の史跡だから保存整備も限定的ですが、時代が進むに連れて機能を強化する進化の具合が良く見られる城です。
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2021/03/06 16:12
本丸跡 (2021/03/06 訪問)
草刈りがしっかりなされているので、お城の形状が良くわかります。
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2021/03/06 16:08
お城入口 (2021/03/06 訪問)
本丸跡に向かう参道です。傾斜が結構キツいです。
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2021/03/06 15:32
勝手に第二次籠城企画 延長戦 [上田原古戦場] (2015/04/30 訪問)
投稿サボり期間長かったのでもう1本upします。
今回は武田晴信が二度に渡って敗戦した(川中島合戦の5回の戦いも結果全て武田晴信の勝ちと言われている中で)VS村上義清との合戦の1敗地・上田原古戦場になります。
それまで負け無しだった武田晴信が軍師・山本勘助不在の際に村上義清を甘くみて戦いを挑み、結果大敗したとされる上田原合戦。
この合戦で晴信は重臣だった板垣信方と甘利虎泰を始め多くの味方を亡くしただけでなく、諏訪や佐久地方の豪族からもソッポ向かれてしまい、後の塩尻峠での小笠原長時との戦いに勝つまで再浮上出来ない程のダメージを受けた訳です。
ただ、武田信虎の家臣だった主だった重臣からこの合戦後に若い家臣を重く登用するように変わった(高坂昌信や秋山信友等)事から、ワザと負けた説も出た程ですが。。。それにしても武田軍の被害大きすぎるのでその説はどうかと・・・
上田原古戦場跡地自体には遺構は無い(近場で利用されたお城や砦は除く)ですが、武田・村上氏両配下の武将のお墓が知っているだけで4ヶ所(無名戦士の墓を含めると5ヶ所)はあるので、訪問された際には上田城を始め周辺の史跡と含めてまとめて訪問されると良いでしょう。
(上田原古戦場だけで結構な範囲なので、車での訪問推奨です)
大河ドラマ「風林火山」の上田原合戦のシーンで、板垣扮する千葉真一さんが討たれた際の晴信役だった市川猿之助(当時は亀次郎)さんのセリフ
「いーたーがーきー!」
が超棒読みでワロタのを刻銘に覚えております(爆笑)
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2021/03/06 14:57
勝手に第二次籠城企画 延長戦 [姉川古戦場] (2015/03/20 訪問)
期末のごたごたで投稿サボっていたので、久しぶりにupします(汗)
今回は織田・徳川軍VS浅井・朝倉軍の対決した姉川古戦場になります。
そもそも浅井の勢力範囲の為か、多くの古戦場に遺構的なものが残っていないのに対し、浅井氏配下に関する史跡が多く転在しており、何も無かった感を味わう事は無いと思います。
なにより解説が充実しているのが目につきました。
一応近鉄バスが走っている様ですが、近くに史跡多い(横山城や石田三成誕生地等)ので、車での訪問が宜しいかと。
(自分もこの時は長期遠征で車でやってきました)
当初兵数の関係から織田信長は織田VS朝倉、徳川VS浅井を想定していたようですが、これがそのまま履行されていたら歴史が変わっていたかも?って歴史研究者達が推測している様なんですね。
本当ならここ見学した後に勢いで小谷城や虎御前山砦を見学するのが多くの方の王道ルートなんでしょうが・・・実はこの1ヶ月前に電車で小谷城攻略したばかりだったんですw
しかもその時は雪の影響で浅井長政自刃の地等、雪の影響で全部見切れなかったのが至極残念だった訳で。。。
(雪に埋もれながらも何とか浅井長政の親父がいた京極丸までは突撃したんですけどね。。。それ以上は無理でしたねorz)
同様に虎御前山砦も雪の為に途中断念しているので、ここは他の未訪問史跡の見学を含めて是非リベンジに来て見たいです。
緊急事態宣言延長はここ最近の人出状況から見ていたしかたないかと。。。だって仕事と日用品や食事の購入以外で外出しない自分から見てもどう見ても不要不急で出歩いている人多く見られますからね。
みんなでもっと気を引き締めないと一向に感染者減らないし、お城巡りに行きたくても行けません。。。頼むよ、本当に(ΦωΦ;)
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2021/03/06 12:21
長篠城眼下、長篠戦が甦って来ます! (2021/03/04 訪問)
城びと登録未踏城、山城登城を当初より体力的にパスしてましたが皆さんの投稿と城郭放浪記さんの案内で砦の近くに林道と駐車場在りとの情報が有り三河塩瀬城初登城の後R257号線を引き返し長篠方面へ移動。
車で移動 ルートはR257の有海信号交差点を直進南下、新東名を潜り県道433号線を新東名沿いに走り、また新東名を潜り飯田線を渡り豊川に架かる牛渕橋を渡ると突き当り集落に入る道を細いですが道なりに進むと本久集会所(新城市乗本新井貝津50-1)に当たります、その手前集会所倉庫横に案内看板案内図がり舗装された林道を約900mと小さな看板、細く急ですが舗装され道は良い車の距離計を見ながら駐車場に到着。
砦の駐車場、林道を片側広くして10台位は可能、トイレは有りません。車で行けて大変助かります初登城です。
鳶ヶ巣砦へは小さ看板で約300mと有り数分で着きます、余湖図コレクションの俯瞰図で辿って行くと、入口に鳥居の有る7曲輪、横を通って堀切の様な縊れた所を通り6曲輪5曲輪へ同じ様な平坦な曲輪と見えましたが6と5の間に溝?土居?ほ凹みと土盛が有り区別してる様子、5曲輪が高所で鳶ヶ巣山、ここに慰霊石碑、祠、鳶ヶ巣砦戦の解説板、枯れた天正杉展示、尾根伝いに下って4曲輪、3曲輪此処に来ると長篠城が眼下に一望、2曲輪、先端の1曲輪円墳の様な土盛、現在墓地、集落から登って来れる道に繋がってます。
3曲輪と2曲輪は南西長篠城方面に数段の曲輪が有る様に見えますが後世の段々畑かどうかは分かりません。 降りて来た道をまた昇るのがキツイ、でも長篠城を見ながら武田氏の数陣も北側の見え戦が甦って来ます、武田氏は高みに陣を敷きながら10日近く囲み攻め落とせなかったのか?と思ったりしたり。
歴史的には先達の方が詳しく投稿されてますので鳶ヶ巣砦で簡単に 天正3年(1575年)武田氏により築かれ長篠合戦の陣城の一つで武田信実(信玄弟)小見山信近が陣を守る、織田・徳川軍が援軍に来ると武田氏の本体は城の押さえ残して設楽ヶ原へ戦場を移す。残った兵に対して徳川氏方の酒井忠次軍が背後から攻め武田信実以下打ち取られた、設楽ヶ原合戦の直前との事。
この後、長篠城、大通寺三陣所、医王寺山勝頼陣所、天神山陣所を巡ります。
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2021/03/06 11:05
忍城訪問 (2004/05/04 訪問)
過去のお城巡りの振り返り、第4段は埼玉県行田市の忍城。
北の利根川と南の荒川(現在の元荒川)によりつくれた氾濫原の微高地群(自然堤防)を利用した城。
現在は水城公園程度ですが、元々は広い沼があり、その水を生活用水や田園に引き入れる拠点にでもなっていたのでしょうか。
交通面では、江戸期は中山道の鴻巣および熊谷から館林・佐野へ向かう日光脇往還の分岐点。
利根川の川俣の渡しを管理(新郷川俣関所)していました。
江戸時代以前は中山道がどうだったかわかりませんが、川越街道(松山から北は現国道407号線)も近くを通っており、きっと古くから熊谷と館林を結ぶルートがあったのでしょう。
そんな地域に室町中期には成田氏が居城しており、山内上杉氏や北条氏に従属。
秀吉の小田原征伐以降は松平氏や阿部氏が城主となり、阿部氏によって江戸期の城郭整備が行われました。
現在の忍城址公園は、その城郭の一部である本丸エリア。
そこに元々中央小学校と水城公園の間にあった三階櫓や、二ノ丸東隅にあった鐘楼が復興されています。
訪問時は、まず水堀を渡って郷土資料館と三階櫓へ。
裏には本丸南側の土塁が残っています。
ほとんど遺構がない忍城ですが、小さなスペースで江戸期の城が感じられました。
続いては城の南西部の水城公園へ。
元々はこの池が城郭一帯に広がり、天然の要害となっていたのですね。
最後はチョット移動し石田堤史跡公園へ。
忍城といえば石田三成の水攻めを耐え抜き、秀吉の小田原征伐で最後まで落ちなかった北条方の城。
攻め手の三成も28kmにわたる堤を5日とか1週間でつくるとは、当時の土木技術の力を感じます。
小田原征伐以前も、忍城は何度も落ちなかった歴史があり、関東七名城の1つにあげられているのですね。
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2021/03/06 09:05
2021/03/06 08:25
日本100名城 No,029 お城に会いたいときは松本城に来ます。 (2011/07/16 訪問)
■100城の19城目(3回目の登城)【烏城】現存12天守の1城目、国宝5城の1城目。
☆信越1泊2日城攻めの2城目(高遠城→松本城→松代城→春日山城→上田城→小諸城)
【移動手段】車:高遠城から1.5時間強(松本市内は渋滞でした)
【駐車場】お城近くのコインパーキング(20分100円)
【スタンプ】有料ゾーンに入ってすぐ右側の管理事務所○
【天気】快晴
【印象】☆☆☆ 何度きても素晴らしい!
【お土産】なし
【昼食】そばの名店「浅田」に向かいましたが時間が遅くなり売り切れでした。前回も売り切れだったので縁がないのかな?朝食を食べすぎて14時に梓川SAでミラノサンドでした。
【同行者】姫、息子、犬(柴)
【他】水堀は穏やかで城が映えます。
【柴犬のクウ】有料ゾーンはワンコは入れない!
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2021/03/06 07:49
日本100名城 No,028 小諸なる古城のほとり 雲白く遊子悲しむ (2011/07/17 訪問)
■100城の23城目(初登城)【白鶴城】
☆信越1泊2日城攻め最後の6城目(高遠城→松本城→松代城→春日山城→上田城→小諸城)
【移動手段】車:上田城から0.5時間
【駐車場】懐古園駐車場(1回500円)
【スタンプ】懐古園事務所○17時45分でもスタンプを頂けました。こころよく対応してくれた職員の方に感謝です。
【天気】晴れのち曇り
【印象】☆☆ 大手門、三之門、石垣、素晴らしい。
【お土産】なし
【昼食】なし
【同行者】姫、息子、犬(柴)
【他】18時前に到着したので、有料施設は閉まっていて入れず城内を30分散策。石垣が良いです。
信越1泊2日城攻めが終了し、軽井沢のドッグカフェで夕食。その後渋滞の中帰路に着くが、美味しいそばと馬刺しが喰いたかった! 今度は城廻り、温泉めぐり、グルメでまた来ます。
【柴犬のクウ】今回はたくさん歩けました!ワン!
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2021/03/06 07:27
2021/03/06 06:52
利根川沿日帰り攻城⑥:多古陣屋➡城びと未登録(千葉県多古町) (2019/05/25 訪問)
多古城から転戦。車で2~3分くらいで着きました。
多古第一小学校裏門前(35.734784、140.466338)から校内に入り石垣前に駐車して攻城しました。
攻城当日は学校で運動会?をやっていたので校内に駐車できましたが、通常は閉門していると思いますので、近所の多古町役場の駐車場を利用することをお薦めします。
1590年(天正18年)徳川家康の関東入封に従い、信濃国(長野県)高遠城主保科正直(まさなお)が下総国多胡(千葉県香取郡多古町)1万石を与えられ、1600年(慶長5年)関ヶ原の合戦の勝利により徳川家臣の旧領が復活し、子の正光(まさみつ。飯野藩主正貞の兄。会津藩主保科正之の養父)が高遠2万5千石で元の封地に戻るまでの約10年間保科家が統治しました。
江戸時代は1635年(寛永12年)駿河国の旗本久松(松平)勝義が8千石の領主となり、1713年(正徳3年)松平勝以が1万2千石の大名となって多古藩を立藩し、藩丁を陣屋に置きました。
以降明治4年の廃藩までの230年余りの間、久松松平家が藩主でした。
廃藩置県で多古県庁舎になり、多古県廃止後の明治6年に競売にかけられ、明治8年に御殿は多古学校に当てられ、多古小学校に引き継がれました。
昭和8年製作の多古町鳥瞰図の小学校(陣屋跡)の隣に久松子爵邸が描かれているそうです。
現在陣屋跡には多古第一小学校があり、校門脇と校庭に石垣が一部残っています。
現在は、縄張りは、多古小学校となっていて、校門脇や校庭に石垣の一部が遺されていました。
校門入口横に稲荷社 天神社があり、多古藩陣屋跡入口の標識があります。
攻城時間は5分くらいでした。
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2021/03/06 06:48
利根川沿日帰り攻城⑤:多古城➡城びと未登録(千葉県多古町) (2019/05/25 訪問)
飯高城から転戦。車で15分くらいで着きました
カスミ多古店駐車場(35.733637、140.461520)に路駐して攻城しました。
多古城説明板(35.731152、140.464211)
多古城の詳細は不明ですが、千葉宗家最後の城として知られています。
古河公方と山内上杉氏が対立すると、千葉氏も巻き込まれることとなり、一族の馬加康胤が古河公方の支援を得て、千葉宗家に攻め寄せます。
1455年(享徳4年)の享徳の乱では、当主・千葉胤直は居城である千葉城を捨て、多古に逃れて胤直は志摩城に、嫡子である千葉胤宣がこの城に籠城しましたが、ともに自刃することとなり千葉宗家は滅亡しました。
その後、徳川家康の関東入封の際には保科正光がこの地を与えられ、山麓に屋敷を構えたとされます。
なお多古中央保育園のあたりが出城跡とされます。
カスミの駐車場から空堀跡まで徒歩7~8分で着きます。
高台にあるため一部が住宅として開発されていました。大きな空堀は見事でした。
攻城時間は5分くらいでした。
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2021/03/06 00:42
雲ひとつない快晴につき! (2021/01/10 訪問)
2021年新春、
『お正月だけど帰省も遠出もできないから関東で行きたいところ厳選の静かな城めぐり』
のトリは約5年ぶりの山中城にしました。
三島駅はそれほど寒くなかったけれど、到着したら空気がひんやり。けっこう登ったんだなあという感じです。
そして頭上に広がるのはどこまでも青い大空。これは!念願のアレが見られるかもしれない‼︎と、気もそぞろですが、“落ち着け自分”と言い聞かせながら、三の丸堀に沿って田尻の池方面へ。台風19号の被害のために通行止めのところは迂回路が設置されていました。ブルーシートがかけられた堀は芝の張られていない今しか見ることのできない、450年前に近い法面の状態とのことでした。
映えスポットの連続にいちいち感動し、写真をバシバシ撮りながら二の丸から西の丸へ。
そしてついに、念願叶って富士山&障子堀のコラボを*\(^o^)/*
これ、見たかったんだ♪
欲を言えばもう少し冠雪していてほしかった……というのもなくはないですが、緑の芝も咲き誇る躑躅もお休み中の今だからこその、障子堀が主役になれる写真が撮れたのではないかと思います。
遺構に学ぶとか戦略を考えるとかは置いといて、清々しい空気の中、広々とした美しい景色を堪能しました。(現代におけるお城の役割に「癒し」があると信じています。)
そして溜池から北の丸方面へ。こちら側の整備されていないうっすらとした障子堀や、北の丸堀、本丸堀で戦国へタイムトリップです。何かが潜んでいるような、麓から敵が攻めあがってくるような雰囲気に心拍数上昇↑。
まわれるところはすべてまわって、両軍武将のお墓と石碑のある宗閑寺に行き、岱崎出丸へ。こちらも隅々までまわり、富士山の眺めも楽しみました。
お城成分をたんまり吸収しておなかいっぱいになった一日でした。
……山中城、関東じゃなかったΣ(-᷅_-᷄๑)
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