大崎領への伊達の拠点
(2020/11/03 訪問)
このところ奥州探題大崎氏に関連する城址を歩いていましたが、今日は大崎領に対する伊達氏の拠点千石城を訪問。
宮城県大崎市松山(旧志田郡松山町)の中心部に位置する。応永8年(1401年)遠藤盛継が関東公方から志田・加美・玉造の三郡の奉行人に任ぜられこの地に居住した。天文5年(1536年)大崎天文の乱に際し遠藤光定が古川城攻めに参戦。天正16年(1588年)遠藤高康のときに大崎合戦でこの城が伊達軍の基地となる。さらに天正18年(1590年)葛西・大崎一揆の際には鎮圧にあたる伊達政宗がこの城に入城したと云う。伊達氏にとってこの城は、北を流れる鳴瀬川を挟んで対岸に拡がる大崎氏領に対するくさびの役割を果していたものと考える。
慶長8年(1603年)茂庭氏が領主となる。当初は三ノ丸を使用したが、寛永8年(1631年)に下屋敷上野館(現在は松山高校)を築き、以後千石城三ノ丸には留守居として家臣一名を置くだけとなったと云う。
構造は、黒川郡から延びる大松沢丘陵の先端部に複数の曲輪を配した連郭式山城。南側最高所の本丸は三方が切り立った崖となり、北側へ続く二ノ丸、三ノ丸とは堀切で遮断する。これら三つの主要な曲輪を中心として複数の小曲輪が付随する防御性の高い造りとなっている。
現在城地は「コスモス公園」として整備され市民の憩いの場となっている。旧三ノ丸の部分は大きく改変されているが、本丸、二ノ丸は中世山城の雰囲気を十分感じさせてくれる。山上の三ノ丸まで車で登る事が出来る。
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