室町期に山岡氏が築いた城で、元は六角氏に仕えていましたが、山岡景隆が城主の頃、織田信長が上洛し六角氏が近江を追われた後は信長に従い、本能寺の変の後には明智光秀の誘いを拒み、瀬田の唐橋を焼き落として明智軍の安土城侵攻を遅らせました。その後、賤ヶ岳の戦いで柴田方に与したとして羽柴秀吉により改易され、廃城となったようです。
城跡は現在ではマンションとなり、遺構は消滅していますが、マンション西側の県道沿いに石碑が建てられ、その南には城跡にちなんででしょうか、城郭風の石垣と土塀が設けられています。
瀬田城から北に徒歩3分、日本三大名橋に数えられる瀬田の唐橋は東海道・東山道から京都に至る交通の要衝で、「瀬田橋を制するものは天下を制する」と言われるとおり、本能寺の変のみならず、壬申の乱、藤原仲麻呂の乱、治承・寿永の乱(源平合戦)、承久の乱、建武の戦い、観応の擾乱と、各時代の戦乱の舞台になっています。また、千利休と古田織部の逸話で知られる唐橋の擬宝珠は信長の架橋により設けられたもので、現在も江戸期の擬宝珠が現存しています。
瀬田の唐橋は俵藤太秀郷の百足退治の伝承地でもあり、瀬田城と唐橋の間にある勢多橋龍宮秀郷社は、伝承に語られる瀬田川の龍神と秀郷を祭神とし、その東隣の雲住寺は秀郷の供養のために子孫の蒲生氏により建立され、百足供養塔と虫塚があります。瀬田川中洲の南側には陶製の秀郷像も建てられていました。
# ぴーかるさんの投稿にある浮気住吉神社のことは知らなかったので、いつか浮気城を訪れた時にチェックしてみたいものです。
瀬田の唐橋は「急がば回れ」の語源とも言われますが、満々と水をたたえて流れる瀬田川を見ていると、唐橋の重要性を実感できます。
これは橋なくして軍勢を動かすのは困難ですね…。
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