天正伊賀の乱の激戦地 壬生野城(三重県伊賀市川東)➡城びと未登録
(2018/10/15 訪問)
天正9年(1581)、織田信長による伊賀忍者討滅作戦=第二次天正伊賀の乱で激戦地となった壬生野城です。
【アクセス(車)】
自動車専用道路の名阪国道を御代ICで降り、県道2で南に2㎞走ると、左手に見えて来る小丘が壬生野城址です。
丘の北端に殉難者を供養する地蔵尊があり、小公園になっていて駐車場もあります。
城址へは、公園の北側の農道を登って行くとアクセスできます。
【城の歴史】
築城主や時代の詳細は不明で、信長公記にある『壬生野の城』が初見です。
地元では『清水の城』と伝承されているそうですから、川東の郷士:清水家の館なのかも知れません。
天正9年(1581)9月、川東地区の郷士と郎党500名は、壬生野城に集結して織田軍を迎え撃ちます。
指揮官としては富田勝長、中村丹後などの名が伝わっています。
最初に壬生野城に攻め寄せたのは滝川一益の軍7,000で、霊山寺焼き討ちの余勢を駆って攻め掛けますが、城兵の士気は旺盛で容易には攻め口を見出せません。
翌日には柏野城を攻略した丹羽長秀軍8,000も加わり、城兵の30倍の兵力に達しますが、攻防は一進一退で進み、落城までにはさらに3日を要してしまいます。
この間、伊賀上野の比自山では伊賀忍者1万vs織田軍1万3千の、この戦役最大の激戦が展開されており、夜襲を受けた筒井順慶の軍は家老2名が討死にするほどの大損害を喫しています。
滝川、丹羽という織田家が誇る歴戦の将を釘付けにした、壬生野城の大きな戦功ですね。
【見どころ】
居館と見られる方形の主郭を中心に、周囲に小曲輪が付加されています。
主郭の北と東は、伊賀の城には珍しく水堀が囲んでおり、造られた時代と仮想敵が見える気がします。
推測の範囲ではありますが、結束力の強い川東の郷士連合が、有事を想定して総力で築いた“詰め城”なのでは?…と思います。
麓の川東公園には夥しい数の供養塔が集められ、供養されています。
壬生野城の伊賀忍者は全滅した…という事ですが、“見事に死んで家名を上げる武士”とは違い、故郷を守るためだけに死に臨んだ忍者の壮絶な生き様を垣間見る思いでした。
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