みんなの投稿

検索結果・・・「」を含む投稿

響ちゃん

曇り (2020/01/12 訪問)

人まるけっぽい

+ 続きを読む

響ちゃん

曇り  (2020/01/12 訪問)

今日は良く転ぶぽい

+ 続きを読む

ぴーかる

明知城(白鷹城) (2019/12/15 訪問)

【明知城】
<駐車場他>城跡東側登城口前、城跡東側道路沿い入った所奥に登城口がある。数台駐車できます。
<交通手段>車

<見所>曲輪・畝状竪掘り・竪掘り・切岸
<感想>御城印5城分購入の旅2城目。岩村城の御城印を購入後、日本大正村横の観光案内所にて明知城(白鷹城)・土岐明智城・仲ノ深山砦の3城の御城印を購入(ちなみにシールタイプです。)してから来城した。
 この城はこの地方を治めていた明知遠山氏の本城であったらしく、戦国時代武田氏の東美濃進行の際に他の遠山氏の城と同じように奪われたり奪還したりした城です。岩村城・苗木城のような石垣や巨石遺構はあまり残っておらずほぼ土盛りの城です。この地域の盆地を取り囲むように御城印の残り2城で守っている感じを受けた。山城表記になっているが麓からはそんなに比高はなくて平山城という感じを受けた。
 城跡はそこそこ大きく、ここも山の形に沿った曲輪群の配置、連郭式で三の丸まで、他多数の曲輪がある。見所は主郭東側の畝状竪掘り群である。畝状竪掘り群は私が見た中では大きいほうでした。近畿地方にはあまりない規模か、または遺構が残っているのを見ていないか、見応えがありました。
 城跡の南西側を少し下った所に万ヶ洞神社という社があり、明智光秀の幼き頃の学問修行場所となっていたらしい。光秀生誕・出身地の説では岐阜県可児市が有力らしいが、次回投稿する土岐明智城も含めてこの地も光秀ゆかりの場所だったところがいくつかあります。
光秀抜きにしても良く整備された、大河ドラマ館があるので大河に備えて整備してました。(先達の方達の投稿写真より全然違ってました)非常に見応えある城跡でした。

<満足度>◆◆◆

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

国重

堀切や曲輪の姿がよく残っていました。 (2020/01/11 訪問)

中世、三次盆地を支配した三吉氏代々の居城で、1591(天正19t)年に比熊山城に移るまでの約400年間続きました。標高410m、比高220mの山頂からの眺望は素晴らしいものです。【現地案内板より】

まっつんさんの投稿を見て行きたくなりました。熊野神社近くから登りました。登山道の標識が各所にあり迷うことはありません。ただ三ノ丸付近は100mほど藪になっています。三ノ丸手前の大きな曲輪に土塁と大きな堀切が有ります。見所の一つです。
残念ながら穴蔵跡は見つけられませんでした。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

コキュート

彦根城

好き!!!

+ 続きを読む

コキュート

松本城 (2018/10/25 訪問)

カッコいい!

+ 続きを読む

コキュート

弘前城 (2018/09/20 訪問)

12天守閣最北の地

+ 続きを読む

エグ1394

明智城 (2020/01/12 訪問)

明智城・天龍寺へ行ってきました。
明智荘をみつめる会が桔梗坂で御城印を
販売していたので購入しました。
天龍寺で日本一大きい明智光秀の位牌を拝観してきました。
御朱印もいただきました。
明智城はきれいに整備されていました。
明智城は明智光秀が生まれた城として知られています(諸説あり)。光秀は11歳で城主となり、斎藤義龍に攻められ落城するまでの30年近くをこの城で過ごしていたと考えられています。城址には本丸跡や曲輪・土塁などの遺構が比較的良好な状態で保存されており、明智城址散策道として整備され、春から秋にかけてはハイキングコースとして楽しめるようになっています。また、城址北麓にある天竜寺には日本一大きな(184cm)明智光秀の位牌と明智氏歴代の墓所があり、旧暦6月には光秀公御法要が営まれています。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

シロマサ

小林寺の裏山が城跡 (2019/11/13 訪問)

この城は八上城主波多野秀治の武将小林長任が、永禄年間(1558〜70)に築いたものという。
天正7年時の城主小林重範は、明智光秀の攻撃を受け落城した。
篠山城の北東の沢田にある小林寺の裏山が本丸跡です。
小林寺は小林氏の菩提寺であり、本丸に行くにはお寺のお堂の横を潜ると、石段があり登って行くと三蔵法師のお墓があります。
その墓の横を登って直ぐに本丸に着きます。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

響ちゃん

晴れ (2020/01/12 訪問)

富士山綺麗ぽい

+ 続きを読む

前ちゃん

地元の名城 (2020/01/02 訪問)

今年の大河の舞台

今までは雑に扱われたけど・・・

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

AIBO

雪はありませんでしたが (2020/01/11 訪問)

雪の鶴ヶ城が綺麗との噂を聞き、観に行ったんですが、今年は雪が少なく通常の状態でした。天気が良く国内唯一の赤瓦が非常に綺麗でした。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

にのまる

帰京前の定例訪問 (2020/01/05 訪問)

小倉城には、小笠原氏下屋敷跡を復元した大名庭園と江戸時代の武家屋敷を再現した小倉城庭園がありますが、有料施設なのでつい先延ばしにして、中に入ったことはありません(^^;)
このたびも新幹線で帰京する前に小倉城に寄ったのですが、庭園を見る予定はありませんでした。しかし、案内図を見ていると庭園の一部に「無料区域」があるではありませんか!無料ならばもちろん寄ってみます。(いい大人がまったく…)
無料区域は庭園の端の通路部分でしたが、櫓台付きのようにも見える低い石垣があり、思いがけないお年玉をもらえた気分でした。
ちなみに庭園の入場料は350円です。(3施設共通券は700円)

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

くっしー

桶狭間の戦いで松平元康が攻めた城 (2020/01/11 訪問)

ここも桶狭間合戦の最前線。
守る織田方の佐久間盛重軍はは全滅したとか。
曲輪、土塁の跡がありました。

+ 続きを読む

くっしー

桶狭間合戦の最前線の城(飯尾VS朝比奈) (2020/01/11 訪問)

今川勢の大高城牽制のため、織田信長によって築かれた城です。
堀、土塁、曲輪の跡が結構しっかり残っていました。
踏査しながら、縄張り図書いたら面白いなっと思いました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

くっしー

織田家と今川家が奪い合った城 (2020/01/11 訪問)

桶狭間の戦い前後で織田信長と今川義元が奪い合った城です。
現在は、半分が神社・半分が公園になっています。(その間に道とか寺とかありますが。)
あと、堀らしきものもありました。

駐車場がなかったので、近くのコインパーキングに止めました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

くっしー

遺構がしっかり残った桶狭間合戦関連城郭 (2020/01/11 訪問)

関ケ原の戦いで松平元康(のちの徳川家康)が布陣した城ですね。
二重の堀があったということですが、内堀がしっかりと残っていました。
あと、曲輪が複数残っていたのと、土塁もありました。

駐車場がないので、別のところに置いて、歩いて行かないとダメですね。

+ 続きを読む

朝田 辰兵衛

つつがなく「つ」。 (2018/11/26 訪問)

千早城から近鉄を乗り継いで津城へ向かい,日没寸前に到着。スタンプもギリギリセーフ。
つつがなく「つ」を終えました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

姫街道

街のシンボル (2020/01/11 訪問)

掛川城の再建はよく覚えている。当時は色々言われたが、今になって考えれば、「あの時やっておかなきゃ掛川はどうなっていたかと思う。ほんと、英断!天守閣から西方向、二の丸の位置に御殿があるが、実際には本丸にあったものを移築している。晴れた日には富士山も見える。南方向は、眼下に流れる逆川が掛川城への侵入を防いでくれる。逆川の南を旧東海道が通り、当時はまさに絶景だったであろう。戦国時代、高天神城をめぐる戦いでは掛川城はなぜか攻められなかったようだ。それより、高天神城が落としたかったのだろう。掛川城から、南の高天神城へ向かう道中には多くの砦があり、物資の供給源となっていたのかも。。。いずれにしろ、中遠地方の山城が持つ殺伐とした雰囲気は無く、少し離れた高い所から眺めていたような優雅な雰囲気を感じさせる。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

イオ

勝者と敗者 (2019/12/14 訪問)

大坂冬の陣の際に、古墳を改変して徳川秀忠の本陣とした砦で、夏の陣の後、戦勝を祝して「岡山」を改め「御勝山」と呼ばれるようになりました。

砦跡は「御勝山古墳」と呼ばれる古墳時代中期の前方後円墳ですが、中央部は道路で分断され、前方部は公園化し後円部が残るのみで、砦としての遺構はありません。後円部も柵で囲まれているので、周囲から見上げるか歩道橋上から見渡せるくらいです。

さて、岡山砦そのものが大坂の陣の史跡であることは言うまでもありませんが、ほとんど見どころはないので、ついでに周辺の史跡めぐりを(不定期連載第5回)。

岡山砦から南に約1.8kmの桑津付近は大坂夏の陣の激戦地で、駒川沿いには豊臣方で戦った福島正則家臣・柴田権十郎正俊討死の塚があり、そこから西に徒歩5分の桑津天神社の東側には、大坂陣戦没将士慰霊塔が建てられています。

正直、福島正則はあまり好きではないんですが、大坂の陣に際して江戸留守居役を命じられて動けない中、豊臣秀頼のためにせめて家臣を遣わさずにはいられなかったのかなぁ、と考えると少々気の毒ではありますね。この数年後には、正則自身も秀忠に改易させられてしまう訳ですし…。
 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ページ1135