たいこうがなるじん

太閤ヶ平陣

鳥取県鳥取市

別名 : 太閤ヶ平砦
旧国名 : 因幡

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東の虎口 土橋
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しんしんちゃん

写真が余ったのでもう一稿。 (2019/05/02 訪問)

太閤ヶ平陣の写真が余っていたのでもう一稿。太閤ヶ平陣は鳥取城一城を落とすのにはあまりにも規模が大きいので毛利攻めの本拠地の一つとして転用する目的で築かれたのではないかと現地の案内板には書かれています。規模はだいぶ違いますが秀吉が三木城を攻めるときに築いた本陣にも構造が少し似ていますね。なんにせよ防御より攻めを重視した攻撃の為の城と言った雰囲気が良く出ていると思います。基本的に織田信長も武田信玄も上杉謙信も自分たちの領土で戦をするなんてことは全く考えていないと思うんですね。
戦国を代表する大名たちの本城が未完成だったり守りが甘かったりすることは結構あって、その真逆にいるのが北条氏だと思います。

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しんしんちゃん

巨大な山城と化した御本陣山の中心部。 (2019/05/02 訪問)

太閤ヶ平陣は羽柴秀吉が鳥取城を攻めた時の本陣が置かれた場所です。東側一帯に中継所が設けられていて、東照宮より舗装された道が続いています(徒歩ですが)。開発の手が伸びてきてはいますが国の史跡に登録されており、よくぞ遺構を壊さずに残しておいてくれたと思います。
本陣の置かれた帝釈山(御本陣山)から鳥取城の築かれている久松山まで遊歩道が続いていますが、周囲にこれでもかとばかりに陣城が築かれています。まるで御本陣山そのものが巨大な山城のようであります。本陣周辺にも土塁や空堀が非常に良好に残っていて東と南に虎口が設けられ土橋がかかっています。枡形など複雑な防御の構えは有りませんが、それが必要ないほど本陣の周囲の守りは固いのだと思います。

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ダイエティシャン

太閤が平陣 (2021/07/01 訪問)

鳥取城跡から攻めました

今年も残り僅か。過去の攻城記録を載せておきます。

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にのまる

無事に行けました。 (2023/04/23 訪問)

鳥取城本丸(久松山山頂)を出立してから約1時間。
ようやく深い山を抜け出しました。
目の前には端が見えないほど大きな土塁。
遺構図を頭に入れ、足を踏み入れます。
「ヒドイことした陣城」と思うと怖くなってくるので、ここまでずっと鳴らしていた熊鈴アプリを切って、YouTubeで嵐メドレーをかけて歌いながら歩きました😘

引き締まって見える窪地状突出部、大手虎口から見渡す広々とした城内。攻撃態勢も抜かりない土塁上の櫓台。目に映る光景が隅々までかっこいい。感動するくらい生き生きとして見えて全く色褪せた風には感じませんでした。
しかし、周辺の段々も全て曲輪で2万の兵が詰めていたと想像すると、かっこいいのだけれど、何もここまで……と恐ろしくなってきます。
“末代までの誉れ”と自刃した吉川経家の言葉に偽りはないと思えども、朝田さんの「かるた」に、城にはその時代に生きた人々の悲しい歴史もたくさん詰まっているということを思いました。

下りはGoogleさんの言うことを素直に聞いてアスファルトの道を下りました。途中に展望台や休憩所もあります。鳥取駅まで歩いて1時間半くらいでした。

2泊3日の山陰城めぐりはここで終了です。
カズサンさん、赤い城さんの故郷めぐりをさせていただきました。
(元祖カープ女子的には大野さんと川口さんの故郷めぐり。福士さんは城内の西高出身!)
6城すべて楽しかったです。また行きたいです。

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城郭情報

分類・構造 山城
築城主 豊臣(羽柴)秀吉
築城年 天正9年(1581)
主な城主 豊臣(羽柴)氏
遺構 曲輪、土塁、竪堀、横堀(空堀)
指定文化財 国史跡(鳥取城跡附太閤ヶ平)
再建造物 石碑、説明板
住所 鳥取県鳥取市帝釈山
問い合わせ先 鳥取県教育委員会事務局文化財課
問い合わせ先電話番号 0857-26-7525