茂ヶ崎城から国道286号、県道258号で南下し、仙台市営地下鉄富沢駅の東側に富沢館があります。
つい最近までは、館跡が良い状態で残っていましたが、区画整理事業によって、遺構が破壊され、現在は一部の土塁が残っているのみです。
駅近の平場なので、有効活用したいのは理解できますが、状態の良い遺構だっただけに勿体ないことです。
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2020/06/24 00:34
2019.3.30登城 (2019/03/30 訪問)
茂ヶ崎城から国道286号、県道258号で南下し、仙台市営地下鉄富沢駅の東側に富沢館があります。
つい最近までは、館跡が良い状態で残っていましたが、区画整理事業によって、遺構が破壊され、現在は一部の土塁が残っているのみです。
駅近の平場なので、有効活用したいのは理解できますが、状態の良い遺構だっただけに勿体ないことです。
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2020/06/24 00:05
かつての土居跡や堀跡も残る清洲城 (2018/03/04 訪問)
過去の清洲城の投稿を拝見しますと、土居跡や堀跡については紹介されていないようですので、2年以上前に行った時のものですが投稿させて頂きます。
今ある清洲城から南へ約1km離れた天王公園のすぐ西に城の外堀の土居(土塁)跡があり、当時は広大な総構えの城だったことが分かります。
また、今ある清洲城から北へ約500mに位置している御園神明社にある空池が、かつての中堀跡だと伝わっているそうです。
現在の模擬天守は、新幹線の車窓から良く見え、名古屋に住む者としては西日本の遠方に出掛け戻って来る際、名古屋に帰って来たなと感じます。
模擬ですが天守はその地域の象徴的存在で良いなと思います。
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2020/06/23 22:46
住宅地の中に土塁や堀が復元されています (2020/06/21 訪問)
県道173号線沿いにあり、城址公園になっています。
公園には説明板が立ち、復元された土塁もあります。
二ノ丸はほとんどが畑、牛舎の裏には復元された堀や曲輪がありました。
関東官領上杉氏の居城で官領府も置かれましたが北条氏に落とされ、謙信によって奪還された城です。
鮎川が自然の堀となっていて主郭は断崖の上にある感じです。
幟も沢山立っていて地元の推しは結構強いようですね。
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2020/06/23 22:29
信長好きにオススメ (2020/01/05 訪問)
他の方も書いてましたが、歴史遺産的にはちょっと残念です。ただ歴史を学ぶ場としては最適です。スポーツ新聞よかった笑
あの有名な信長象も見れますよ。
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2020/06/23 22:12
鳥羽水族館の近くに (2020/03/03 訪問)
石垣好きには堪らないお城。
志摩の海もよく眺望できます。
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2020/06/23 22:04
手軽に石垣
手軽に石垣を楽しめます
防御設備の無い城郭です
街道を見下ろす眺めも最高です
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2020/06/23 22:03
長久手合戦の激戦地 (2020/03/06 訪問)
展望天守が印象的なお城です。
ここで池田父子や鬼武蔵と戦った思うと感慨です。
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2020/06/23 21:57
今年のMVP候補❓ (2020/06/23 訪問)
話題のあの城に行ってきました。
天守がなんとも印象的。
思わず写真を撮りたくなる城ですね。
あと喋る光秀自販機も悪くないですね。
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2020/06/23 21:40
お隣からケンカを売られた城 (2020/06/23 訪問)
この鈴岡城の主もお隣の松尾城の主もどちらも小笠原氏。同族なのですから、お互いの背中を守り合って、南と北に勢力を拡げていけばいいのに、やったことは殺し合いのケンカ。ここ鈴岡小笠原氏は結局、松尾小笠原氏に滅ぼされます。
でもさすがは名門小笠原氏の居城です。本郭はとにかく広いし、掘られている横堀の幅も深さも驚かされます。
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2020/06/23 21:20
町全体が城跡 (2020/06/07 訪問)
御城印が欲しくて二度目の訪問。
土日だったので多聞櫓のなかも見学できちゃいました。
町全体が城跡で門跡や曲輪跡をさくっとめぐれる楽しいお城でした。
あと御城印ゲットのついでに立ち寄った関宿も味があって好きだな
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2020/06/23 20:55
茨木城 (2020/06/20 訪問)
【茨木城】
<駐車場他>駐車場はなし。
<交通手段>バイク
<感想>城跡は現在は小学校・住宅地になっています。校門に復元城門と説明板があります。本丸の位置は小学校の100mほど北に位置していますが、現在は月極め駐車場になっていました。現存移築搦手門が茨木神社にあります。茨木神社には一度訪れたことがありますが、その時は現存移築城門は気にも留めていなかったのです。今回は茨木神社には行かなかった。
<満足度>◆◇◇
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2020/06/23 18:33
「高崎城」 (2020/03/24 訪問)
<オススメ>★★★★☆
高崎城は、元々和田城と呼ばれ、平安時代には国衆の和田義信が築城したとされる。和田氏は上杉氏に服属していた。その後、和田信業の代になると後北条氏に属し、小田原征伐では小田原城に籠城した。和田城は前田利家らの猛攻により落城し、廃城となった。徳川家康の関東移封後は箕輪城主となっていた井伊直政が家康の命を受け、和田城を大改修し、近世城郭へと発展させた。1600年の関ヶ原の戦いの後、直政は近江国佐和山城に移封となった。その後は、諏訪氏、酒井氏、戸田氏、松平(藤井)氏、安藤氏、松平(長沢・大河内)氏、間部氏、松平(長沢・大河内)氏と譜代大名が目まぐるしく入れ替わり、明治維新を迎えた。1873年の廃城令により存城となり、第3師官官内分営所が置かれた。以後建造物は移築もしくは破却され、跡地の大半は歩兵第十五連隊の駐屯地として使用された。現在、乾櫓、移築門、土塁、横堀が遺されている。
<アクセス>
JR高崎駅 徒歩15分
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2020/06/23 18:11
「金窪城」 (2020/03/24 訪問)
<オススメ>★☆☆☆☆
金窪城は、武蔵の最北端にあり上野国との境目の城として重要な拠点であり、武蔵丹党一派である加治家季によって築かれたとされる。戦国時代には、山内上杉氏の家臣である斎藤盛光の居城となる。その後、斎藤氏は後北条氏に服属する。本能寺の変後、織田方の滝川一益により攻められ落城する。徳川家康の関東移封後は川窪信俊がこの地に陣屋を置くが、丹波に移封となったため廃城となった。現在、遺構は消滅している。
<アクセス>
JR神保原駅 徒歩35分
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2020/06/23 17:33
要衝を抑える立地 (2020/06/20 訪問)
詳細は不明ながら、興福寺大乗院方で筒井氏と縁戚関係のあった立野氏が戦国期に築いたと考えられ、戦国後期には松永久秀の信貴山城の支城となったようです。
城山台第2児童公園とその隣の墓地あたり一帯に複数の曲輪を構えた作りで、発掘調査では土塁や横堀、馬出なども確認されましたが、宅地造成により遺構は消滅しています。墓地からは大和川を眼下に見下ろし、大和国と河内国を結ぶ要衝を抑える立地であることがよくわかります。
児童公園から南東に徒歩10分の観音寺には立野城の宝篋印塔があるらしいので訪れてみましたが、この日は門が閉ざされていて、見学することはできませんでした。事前に確認したほうが良いかもしれません。
【しりとり業務連絡】
「高安城」「下志明城」ともに攻略済みです。レポートはまた後日になりますが、これで「秋」と「明」に繋げられますね。
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2020/06/23 17:07
「岡部陣屋」 (2020/03/24 訪問)
<オススメ>★☆☆☆☆
岡部陣屋は、元今川家家臣で後に徳川家康に仕えた安部信勝が5200石を領し、その子・信峯の代に加増され陣屋を置いたとされる。幕末には砲術家の高島秋帆の身柄を預かっている。また藩主信発が天狗党を鎮圧するために出兵した。1868年に、新政府側に自ら願い出て三河国半原藩(愛知県新城市)へ移転したため、岡部陣屋は廃止された。現在、遺構は消滅している。
<アクセス>
JR岡部駅 徒歩20分
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2020/06/23 17:05
「本庄城」 (2020/03/24 訪問)
<オススメ>★☆☆☆☆
本庄城は、武蔵児玉党の本庄氏によって築かれた。本庄宮内少輔実忠が古河公方家を迎え撃つために、改修した。その後、後北条氏に攻められ服属する。実忠の死後、家督を継いだ本庄隼人正近朝が城主となり、後北条氏とともに、小田原城へ籠城するも、落城に際して自害した。徳川家康の関東移封の際に、小笠原信嶺が児玉郡の北部国境沿いに位置する本庄に1万石で入部した。小笠原信嶺は元々武田氏の家臣であったが織田氏の甲州征伐の際に、織田方に寝返り高遠城の案内役をつとめた。本能寺の変より家康の家臣となる。1598年に死去し、その家督を継いだ小笠原信之が本庄藩初代藩主となった。信之は徳川四天王の筆頭・酒井忠次の三男であり、家康の命によって信嶺の養嗣子となっていた。1612年、信之は下古河藩に加増移封され、本庄藩は廃藩となり、本庄城も廃城となった。
<アクセス>
JR本庄駅 徒歩20分
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2020/06/23 17:04
「倉賀野城」 (2020/03/24 訪問)
<オススメ>★☆☆☆☆
倉賀野城は、武蔵児玉党の倉賀野氏によって築かれた。戦国時代には倉賀野行政が上杉憲政に仕えたが、河越夜戦で戦死する。倉賀野尚行が倉賀野衆を率いて城を守る。上杉謙信の関東侵攻の際には倉賀野衆を率いて小田原攻めにも従軍する。その後、武田氏の猛攻を受け、落城する。尚行は上杉憲政を伴い、越後へ逃れる。倉賀野衆の金井秀景は武田氏に寝返り、倉賀野城主となり姓を倉賀野に改める。武田氏滅亡後は、後北条氏に属す。小田原征伐では倉賀野衆を率いて小田原城に籠城し、落城後死去した。倉賀野城は廃城となった。現在、遺構は消滅している。
<アクセス>
JR倉賀野駅 徒歩15分
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2020/06/23 13:44
久しぶりに遠出して世界遺産を見学 (2020/06/20 訪問)
県外への移動の自粛が解除された翌日の土曜日に、続日本100名城で世界遺産である原城跡に行って来ました。
今回は、現地のガイドさんと原城の本丸を中心に見学致しました。
今年の初めに「ぶらタモリ」で原城跡を取り上げていましたが、同じように現地で辿って見ました。
原城は一揆軍が籠城した時は、既に廃城になっていました。
3万の一揆軍に対して幕府軍は12万で約4倍だったのです。
しかしながら、天草四郎が率いる一揆軍は幕府軍に多大な痛手を与えて3ヶ月間も守り抜きました。
この原城は、頑丈な不落のお城でした。
幕府軍は、兵糧攻めに作戦を変えて食料が果てるのを辛抱強く待ちました。
食料が尽きた頃に総攻撃を開始して、一揆軍をほぼ全滅にしました。
確かに幕府軍は勝利しましたが、キリシタン信仰というものまでは、破壊することは出来なかったのですね。
幕府軍によって完全に埋められた原城も発掘で甦りました。
原城には井戸が無かったのですが、蓮池によって真水が確保されたのです。
その蓮池は、阿蘇山の爆発によって降り続けた火山灰によって出来たとされております。
あの壮大な原城の地形も阿蘇山の爆発がなければ無かったのですね。
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2020/06/23 12:12
「伊奈氏屋敷」 (2020/03/24 訪問)
<オススメ>★★★★★
伊奈氏屋敷は伊奈忠次が築いた屋敷跡とされる。東西約350m、南北約750mの楕円形の地には、当時を偲ばせる表門、裏門、蔵屋敷、陣屋などの名称も遺されている。伊奈忠次は父と共に三河一向一揆に加担し、堺に移り住み治水を学ぶ。本能寺の変では徳川家康の伊賀越えに加わり復帰した。関東移封では関東郡代に任じられ、検地・治水工事の責任者として頭角を表す。後の江戸幕府の経済基盤の確立に寄与した。江戸を守護する北の要として陣屋を構えた。現在、土塁、堀などが遺されている。
<アクセス>
埼玉新都市交通伊奈線 丸山駅 徒歩15分
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2020/06/23 12:09
「高坂氏館」 (2020/03/24 訪問)
<オススメ>★★★☆☆
高坂氏館は比高10mの段丘崖を利用して築かれている。後北条氏が武蔵松山城の攻略に際して本陣を構えたとされる。その後、徳川家譜代の家臣であった加賀爪氏の墓所となっている。加賀爪政尚は徳川家康に近侍して長久手合戦や小田原征伐に従軍する。慶長大地震で圧死した。子・忠澄が跡を継ぐ。加賀爪忠澄は関ヶ原の戦いや大坂の陣に従軍する。大目付として幕府を支えた。子・直澄が跡を継ぐ。加賀爪直澄は徳川家光の小姓として仕え、書院番頭・大番頭を経て、寺社奉行などを歴任した。現在、高済寺の境内となっており、土塁、堀などが遺されている。
<アクセス>
東武東上線 高坂駅 徒歩15分
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