南北朝期に楠木正成が築いたとも言われますが、史料上は室町期に畠山氏の内紛や細川氏との抗争の中、畠山氏が籠城した記録があります。戦国中期には木沢長政が恒久的な城として築き権勢をふるいましたが、太平寺の戦いでの敗死に伴って落城。その後、松永久秀が現在見られる姿に改修して多聞山城と並ぶ拠点とし、筒井氏や三好三人衆との攻防戦が繰り広げられましたが、織田信長に反旗を翻したことにより織田信忠に攻められ、久秀は天主に火を放って自刃。そのまま廃城となりました。
生駒山地南端の信貴山に位置し、雄嶽山頂を中心に南の雌岳と北半分に扇状に広がる支尾根に多数の曲輪群を配した巨大山城で、南に大和川を望み、大和国と河内国を結ぶ交通の要衝です。なお、南麓には聖徳太子創建と伝わる朝護孫子寺がありますが、往時は朝護孫子寺も城内に含まれていたようです。
寅年にちなんで、張り子の大寅で知られる朝護孫子寺にお参りがてら信貴山城に登城しようと計画していましたが、新年早々は混雑しそうなので避けて、さすがに15日なら大丈夫だろうと思っていたんですが……甘すぎました。朝護孫子寺の手前から駐車場の空き待ちの車の列が続き、何とか30分ほどで駐めることができましたが、駐車場の人の話ではこれでも三連休だった前週末よりは随分ましなんだとか。寅年の朝護孫子寺恐るべし…。
気を取り直して開運橋から信貴山城を仰いで登城開始。予定より遅れてしまったので、朝護孫子寺は下山後にお参りすることにして、大寅を横目に境内を抜けて山頂を目指します。山頂までは空鉢護法堂への参道になっていて、急坂ではあるものの舗装されて歩きやすい道が続いています。10分ほど登ると雄嶽と雌岳の鞍部に信貴山城の説明板が建てられており、まずは雌岳へ。雌岳の頂部は細長い曲輪が南にのび、南端部には虎口が設けられています。雌岳の切岸は急峻で石積みも見られるようですが、見落としてしまいました…。
鞍部に戻って今度は雄嶽へ。雄嶽の山頂が信貴山城の主郭で、松永期には天主があったとされますが、現在は信貴山縁起絵巻(飛倉の巻)に由来する空鉢護法堂が建てられており、痕跡は見られません。主郭東下の曲輪には城址石碑と説明板があり、もう一段下の曲輪からは奈良盆地の視界が開けています。主郭の周囲は数段の腰曲輪や帯曲輪が取り巻いており、切り立った切岸が見られます。山頂から北に続く林道を下って行くと、信貴山城最大の見どころの松永屋敷です(続く)。
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