たかやまじょう

高山城

岐阜県土岐市

別名 : 土岐高山城
旧国名 : 美濃

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御屋敷跡 遊歩道武士の道 (2025/12/13 訪問)

 昨年も来ましたが、近くまで来たので寄ってきました。本丸付近は整備されていて歩きやすい城址です。
本丸の北西に「御屋敷跡 遊歩道武士の道」の標識が建っています。以前来た時から気になっていました。前に来た時は獣の痕跡に怖気づいたこともあり、ここからの下山を断念しています。「戦国の魅惑が残る、土岐高山城・下街道」というHPの高山城復元想像図を見ると搦手にあたる道のようです。そこから門があったような地形を通り降りて行きました。途中で道がわからなくなりましたが、ピンクリボンなどを頼りに何とか下りて砂防ダム付近から退城することができました。

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しんちゃん

切岸が頼り。 (2025/11/16 訪問)

高山城は土岐高山城とも呼ばれ、三の曲輪跡が駐車場になっています。現地案内板によると美濃源氏である土岐光行が浅野館を構えた承久の乱の頃に土岐氏一族高山伊賀守秀頼によって築かれたとされます。
戦国時代には平井頼母が城主となり織田氏、武田氏の争いの境界線上にあり激しい争いが繰り広げられたとのこと。
一の曲輪の西側下段に帯郭のように二の曲輪が配され堀切を挟んで南に三の曲輪が配されています。三の曲輪の先にも堀切が切られていたようですが、主な防御を切岸に頼っているようで構造的には中世の居館の延長に有るように見えました。

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浅野館 大富館 (2024/07/15 訪問)

 高山城はもともとは浅野館、大富館の詰城ともいわれます。高山城を下りて散策してきました。

浅野館
 土岐氏の館跡で現在、多度神社となっている付近が跡地です。遺構はありません。
鎌倉初期、土岐光衡は、瑞浪の一日市場館を拠点とし「土岐氏」を称します。その子光行、光時兄弟は、承久の変の後浅野館に移りました。光行の子孫からは明智氏、多治見氏、小里氏、肥田氏が生まれています。

大富館
 公園となっています。遺構はありません。
源頼光の一族がこの地に住んで土岐氏の拠点となったとされています。「美濃国土岐源氏発祥の地」の石碑が立っています。

 ちなみにこのあたりは江戸時代は下街道高山宿という宿場町でした。下街道は中山道と名古屋を結ぶ街道で、中山道の大井宿と大湫宿の間にある槙ヶ根追分から、名古屋城下の伝馬町札の辻まで行くことができました。ただ街道として整備される前から道はあったらしく「日本武尊が東征の帰りにこの道を通った」と言う伝説があります。交通の要衝であったと思われます。

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高山伊賀守秀頼 (2024/07/15 訪問)

 久しぶりの土岐市の高山城です。承久の乱の頃に土岐氏の一族である高山伊賀守秀頼が築城したとされています。戦国時代には単独で城の機能を果たしていますが、最初の頃は土岐氏の居館であった浅野館や大富館の詰城ではなかったかと思っています。主な場所は公園として整備されています。山の上の城址まで車で行くことができ以前に登城したときは車で山の上まで行ったのですが、今回はJR土岐市駅から徒歩にて登城しました。駅から20分くらいで行くことができます。一の曲輪、二の曲輪、三の曲輪と石柱がありましたが、二の曲輪の石柱は草に隠れていました。堀切の石柱はありましたが、堀切は埋まってしまっています。縄張り図に描かれてはいませんが、帯曲輪のような削平地が所々ありました。当時のものか否かわかりません。
 出丸方面から武士の小道を下って御屋敷跡へ行こうしましたが、途中に鹿の排泄物に加えて猪の排泄物が二カ所にあり新しいそうであったことでびびってしまい、また藪になっている所もあり途中で引き返しました。
 前回の登城時に公園となっているという印象しかなかったので気軽に来ましたが、思ったより楽しく散策できました。

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城郭情報

分類・構造 山城
築城主 高山秀頼?
築城年 延元3年〔南朝〕/暦応元年〔北朝〕(1338)
主な改修者 平井頼母
主な城主 高山氏、平井氏、林為忠(森氏家臣)
遺構 曲輪
指定文化財 市史跡(高山城跡)
再建造物 城郭風建築物(模擬櫓)、模擬門、石碑、説明板
住所 岐阜県土岐市土岐津町高山454-1
問い合わせ先 土岐市観光協会
問い合わせ先電話番号 0572-54-1111