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カズサン

二の丸丑寅櫓と続き土塀完成公開 (2020/07/16 訪問)

 待ちに待った西尾城二の丸丑寅櫓木造復元、天守台との続き屏風折れ土塀復元が合わせて令和2年7月11日に公開に成りました、12日に千田教授のツイッターを閲覧してましたらフォロワーの方のツイートに7月11日に公開との内容でしたので梅雨の晴れ間の今日16日浜松より地道、環状線、1号線バイパス、23号線バイパス、岡崎バイパスを利用して出掛けてきました。
 車は西尾城二の丸の駐車場に停める8割方の混みよう。

 2層3階?の木造復元丑寅櫓、本丸にも丑寅櫓3層3階が以前より聳えてます、屏風折れ2か所の続き土塀も同時に完成公開されましたが二の丸丑寅櫓には入場できません.。(建築基準法の関係とか)
 二の丸丑寅櫓を東西南北から探訪写真撮影、続き土塀は二の丸側、堀跡の道路側、天守台から眺め撮影、西尾市良く頑張って復元してくれました只々感謝です、次は天守閣3層4階の木造復元を期待してしまいますが20、30億円は必要かな?相当寄付を募らなければ?
 昼は車で家内手作りの弁当を二の丸丑寅櫓を眺めながら食べ昼過ぎ駐車場の車が殆ど無くなり急いで写真撮影2時間ゆっくり過ごしました、まだ二の丸丑寅櫓のパンフレットは有りませんでした。

 帰り道の途中に豊橋市未登城「高縄城」を訪ねました。

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チェブ

【家×お城】登城したお城しりとり(255)

良いパスの時だけ、すいません。
久しぶりに、しりとり参加させて下さいね。
朝田 辰兵衛さんの「江迎城」から
「向羽黒山城」続100名城

残り、1城となってしまいました。
どんな、お城で繋がっていくか楽しみです。
では、お次は「ま」「山」で、お願いします。

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カニカニ

鳥居強右衛門 夜の川を下る (2013/08/10 訪問)

長篠城を抜け出した強右衛門が上陸したと伝わる地点まで辿ってみた。


私は何度かこの川をリバーカヤックで下ったことがあるので、川面からいつも本丸を見上げ、これは登れんなー、すごい崖だなー、と思っていた。
飯田線鉄橋の水面からの高さをみれば、この城が断崖で守られていることが実感できると思うのだが、皆さんはどうですか?

そして、私はこの川のどこの瀬がヤバいのかを知っている。

牛渕橋から下流の写真をみてほしい。  中洲の左側が白く波立っているのが少し見て取れるだろうか。
その瀬に行くまでは深い淵で穏やかなのだが、そこは落差が大きく、大岩がゴロゴロあり、波がうねって暴れる、ヤバイ場所なのだ。(私の川下りのカヤックテクニックでは)
写真は水量が少ない時期だし遠目には大したことはなさそうに見えるが、どうしてどうして、これでも実際はかなりの急流なのだ。
しかも当時は梅雨の真っ只中。     増水した川にライフジャケットも着けずに身ひとつで突っ込むなど・・・。
(ジャッケットとヘルメットをおまけしてくれても 絶対に ム~リ~~!!。)
それが戦国の世、戦の最中と言われればそれまでだが・・・。

旧暦五月十四日はほぼ満月だが、当夜は霧雨が降っていたと言われており、ほぼほぼ真っ暗であったろう。 激流の轟音が近づいてくる闇の中、行く手に恐怖はなかったのだろうか。(通常水量でさえ瀬音はかなり大きく響くので、ビビりの私にはとても考えられない。)
日本の川は、ふつうなら何度も瀬と瀞場を繰り返すのだが、増水時は瀞場は皆無。 ただただ急流に翻弄されながら、ただただ流されただけだったはず。
波にたたかれ、岩にぶつかり、川底に引き込まれ、しこたま水を飲まされたことだろう。 (長良川で経験済みなので、実感です。)
 
上陸場所は連吾川の流れ込み地点と言われている。  その場所に行ってみた。(もちろん今回はカヤックではない)
勝楽寺の参拝者用駐車場を拝借し、軽く(?)参拝を済ませ、伝山本勘蔵信共の墓の前を通り、豊川(寒狭川と大野川が合流してからは名前が変わる)にぶつかるまで南進。
橋があるが渡ってはダメ。   しかし川沿いに道はないので少し戻って、今度は連吾川にぶつかるまで西進。
そこには、それと分かる標柱が、ひっそりと待ってくれていた。
水上のカヤックから眺めていたとしても、うっかり通り過ごす、何でもない川岸だ。
廣瀬渡という地名も残っており、朽ち掛けた船が放置されていたので最近まで「渡し」があったのかも。 
 
この連吾川の上流は設楽原の決戦場である。 ここから飯田線の線路に交差するまでは、深く切り立った峡谷なのをご存じだろうか。 馬防柵のある設楽が原の連吾川の下流とは、とても思えない様相なのだ。
ここまで来なくとも、決戦場からのんびりと田園風景の中、飯田線線路直下まで行って覗いてみてはいかがでしょうか。

ちなみに線路の北側付近は、大久保忠世、忠佐兄弟と、山県昌景が対峙した場所だという。
昌景の討ち死に場所は、もう少し北の地点なので、よほど縦横無人に駆け回ったのであろう。
この古戦場一帯には、討ち死にした武将たちへの鎮魂墓碑や地元の皆さんが苦心して考えた『いろはかるた』四十八句の句碑が其処かしこに建てられているので、あわせて散策するのも良いと思います。
(かなり広範囲です。鵜の首にも建っているので歩くと、かなりキツイが、滝(??)を眺めていれば疲れが飛ぶかも)

ネット投稿というものを、生まれて初めてしてみました。  
過去に多くの方々が長篠城を紹介しているので、ビビッて城と関係ないものになっちゃいました。
写真は、数回分の抜粋です。

こんな内容でも容認されるのかな~??      やっぱり、疲れた~。

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イオ

鈴木佐太夫の城 (2020/07/11 訪問)

戦国期に鈴木重意(佐太夫)が築いた城で、織田信長の雑賀攻めの際には弥勒寺山城とともに抵抗の拠点となり、一度は織田方の大軍を撃退するも、衆寡敵せず降伏しました。

妙見山頂から北に続く尾根上の台地(千畳敷)あたりが城域とされますが、遺構らしきものは特に見られません。それでも山頂に立てば和歌浦から紀伊水道を一望でき、交易の拠点だったことがうかがえます。

登城口は妙見山東麓の津屋公園の奥にあります。北麓には徳川頼宣(紀州徳川家初代)が母・養珠院の位牌を安置するために建立した養珠寺があり、妙見山頂には養珠寺妙見堂が建てられています。

ところで、鈴木佐太夫というと、信長の野望・戦国群雄伝で紀伊国に攻め込んだ際に鉄砲隊に散々にやられ、「この鈴木なんちゃらって何者だ?」と思って調べてみて、雑賀孫一(鈴木重秀)の父親(諸説ありますが)だと知り、それ以来、雑賀衆には少々思い入れがあったりしますので、遺構は特になくてもその鈴木佐太夫の城を訪れるのは楽しい経験でした。
 

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dougen

2019.3.31登城 (2019/03/31 訪問)

真坂城址の向かい側の丘陵にある姫松館森林公園が姫松館跡となります。

一迫川を天然の濠とする丘陵に位置しており、自然地形を利用した大規模な山城となっています。

遺構も整備されていることもあって、堀切や竪堀などが良く残っており、オススメです。

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朝田 辰兵衛

【家×お城】登城したお城しりとり[254] (2020/07/12 訪問)

todo94さんの「え」からリレーします。
三連水車の「江迎城」で。
次は,東北最大級の山城で,福島の続日本100名城をお願いします。

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チェブ

二の丸公園と外掘公園。 (2020/06/20 訪問)

本丸跡が、利根川の大洪水で過去に崩落してしまった「石倉城」に行きました。
各地の河川の氾濫はTVで報道されているので、「石倉城」の崩落も想像はできます。
自然災害には抗えないです。残念です。

「石倉城」は上野国守護代 長尾 憲景さんが築城しました。
その後、討死した憲景さんに代わり 長景さんが城主になります。
この頃、武田 信玄さんが上野国に侵略して来ます。
長景さんは「厩橋城」を守ってました。留守の間に「石倉城」は武田氏に。
その後は上杉 謙信さんが攻め落としました。
で、取り返す武田氏!
武田氏滅亡後は北条氏、と忙しい「石倉城」です。

まずは「石倉城二の丸公園」に行きました。
こちらには石碑と縄張図がありました。
遺構のようなものは分かりません。
見ようによれば見えてくる、程度です。
縄張図には、川の水を引き入れた掘が描かれてます。
そして、石碑。
なんだか、味わいのある文字。彫ったと言うより削ったような筆跡でした。
、、、福田元総理の文字でした。
次に「石倉城外掘公園」です。
掘を埋めたのか、縄張図のどの辺りかも分かりませんでした。
そして、ちょっと怖い、遊具がありました。
どのように遊ぶのか、悩みます。

【業務連絡?】
朝田 辰兵衛さん、お帰りなさい。九州の河川氾濫報道で心配してました。
おかげで、福島県のお城に繋がりますね。
お疲れ様でした。

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todo94

【家×お城】登城したお城しりとり【253】 (2018/09/15 訪問)

教来石民部館、実は未訪なんです。遠くにばかり行きたがって近場はかなり抜けています。木曽の城も一つも攻略していないほどですから。さて、しりとりです。「きょうらいしみんぶ」から【福江城】。個人的には石田城の方がしっくりくるのですが。次は「え」で、筑後川近くの攻城を完遂された朝田辰兵衛さん、よろしくお願いいたします。

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カルビン

【家×お城】登城したお城しりとり【252】 (2014/10/18 訪問)

todo94さんの記事を最初ざっと見してしまった為、一時?松前(まつまえ)城?と頭上にはてなマークが5個くらい出てましたww
↑すいません、油断してましたorz


パス頂きました松前(まさき)城から

教来石民部(きょうらいしみんぶ)館:山梨県北杜市白州町鳥原

山梨県北杜市の国道20号線から荒田交差点をサントリー 白州蒸溜所方面に西に入り、入り組んでちょっと道解り辛かったですが、坂上に教来石民部館跡があります。

おそらく自分よりtodo94さんの方が圧倒的に地元に近い事から、恐らく既にここも訪問済と思われます。。。しりとりパス頂き忝く存じます。。。

肝心の現地には明確な遺構は残って無さそうで(1段だけ高くなっていたのはもしかしたらその名残だったのかも)すが、史跡として標柱と解説版があります。

教来石民部こと馬場信春さんのお墓は討死したとされる設楽原合戦場にありますが、山梨県北杜市の自元寺にもお墓があります。
(教来石民部館跡地から直線距離で4km弱)
比較的近いので、セット訪問推奨です。

ちなみに国道20号線を挟んで北東側、自元寺よりも近い所には笹尾塁がありますが、聞くところによると崩落の影響で現在立入制限されているそうですのでご注意下さい。


お手数ですが次の方「ふ」より198番目の続100名城から朝田さんのお疲れ様行軍地を挟んで199番目の福島県続100名城に繋げて下さい<(_ _)>

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カズサン

南部氏城廻りⅡ、九戸政実の乱で有名 (2015/05/25 訪問)

 平成27年5月南部氏の城廻り第二弾、三戸城を終えてレンタカーで国道4号線を南下天気も良く新緑、アカシアの満開大変気分の良いドライブでした、二戸なのに九戸城か?と思いながら町中に入り二戸郵便局辻から東入り九戸城へ案内看板在り。
 車は二の丸駐車場へ、側にプレハブの資料館在り説明を聞きパンフレットゲット(現在は新しく城西麓に資料館と駐車場完備)
 早速城内探訪、事前情報、写真で九戸城本丸の高石垣、蒲生氏郷の改修と脳内認知していましたが現地は本丸石垣は草に覆われ高さもそれ程で無く成程こうなんだと確認、でも素晴らしい造りです本丸、二の丸、二の丸西、南の河岸段丘の絶壁は絶大な切岸、まだ探訪時は続100名城選定2年前、大変見応えの有る素晴らしい城郭です。

 九戸城は九戸政実の乱で有名で南部氏宗家の相続問題から九戸政実などが異を唱え南部氏では収拾が付かず奥州仕置き後でも有り秀吉の介入により奥州再仕置きで九戸政実の乱は鎮圧さて、九戸城は蒲生氏郷に改修され三戸南部宗家に引き渡された、宗家は三戸城から九戸城に移り後領地の北端により中心地の盛岡城に総石垣造りの城郭に移転、九戸城は廃城に成った。

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カモン掃部

100年に一度の (2020/07/14 訪問)

今は石垣のお直しで本丸の中心部に移動している天守。百年に一度のことに立ち会えたことに感謝。
やっぱり青森は夏でも涼しげでした。

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todo94

【家×お城】登城したお城しりとり【251】 (2013/02/16 訪問)

「広島城」から【松前城】(愛媛県松前町)「まつまえ」ではなく「まさき」ですので、次は「き」になります。カルビンさんの教来石、よろしくお願いいたします。

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だめなこ

リベンジ(๑•̀ㅁ•́๑)✧ (2020/07/12 訪問)

前回は激しく台風だったからか
ググったら営業中になってたのに行ってみたらお休みで
( •́ω•̀ )ショボーンってなったけど
今回はちゃんとお城に入れたヽ(・∀・)人(・∀・)ノゎーぃ♪

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朝田 辰兵衛

当初の予定日より2日遅らせました。 (2020/07/12 訪問)

今回の九州遠征では,前日までスケジュール変更していました。それを,初日のホテルで最終チェックを入れ,江迎城はベストコンディションで登城できました。
JR吉野ヶ里公園駅から徒歩約50分。筑後川が氾濫してゾッとしましたが,対岸側の久留米市に浸水被害がありました。支流との合流エリアです。とはいえ,水田地帯なので,増水時には警戒すべきと慎重に計画をたてました。
無事にミッションクリアで安堵してます(もうひとつも水害チェック要となりましたが…)。
それでは,福江城までの流れを宜しくお願いいたします。

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にのまる

とうれぎ土塁 (2019/01/02 訪問)

撮りっぱなしで放置していたSDカードの中身を何とかしなければと見ていて写真を見つけました。
一昨年の年末から新年にかけて九州のあちこちを巡っていたときのものです。
この日は佐賀城と吉野ケ里に行き、実家に帰る途中で基山で途中下車。基肄城には登れそうにないこと、スタンプ置き場も閉館していることは察しがついたのですが、続100名城スタンプ開始後初の年末年始のため確かな情報がなく「もしかしたら休日窓口みたいなところがあるかもしれないし、守衛さんがいらっしゃるかもしれない」という淡い期待を抱いて基山町民会館を目指してみたのです。期待はあえなく空振りとなりましたが(※現在は年末年始もスタンプ対応ありのようですが行かれる方はお確かめください。)、駅への帰り道、ビビビっとくる盛り土を見つけました。近づいてみると説明板があり、基肄城に関連する土塁の一部であると記されていました。うれしい出会いです。土塁は向平原丘陵と千塔山丘陵を結び全長350メートルだったと考えられるとのこと。いつになるかわかりませんが、山頂からこの土塁を見下ろし、350メートルを思い描いてみたいと思います。

…なので、基肄城は未登城、未行ったポチ、未スタンプです。

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前ちゃん

村重逃亡の城 (2020/07/14 訪問)

有岡城(伊丹)の籠城から逃げ落ち、花隈城で身を潜めてから、毛利側へ亡命

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小城小次郎

天正時代まで壮絶な攻防戦が展開された (2020/03/17 訪問)

後北条氏(佐野氏)の侵攻を皆川氏が必死で奪い返す壮絶な攻防戦は、真田氏が後北条氏と沼田を巡ってごたごたしていたのとほぼ同じ頃の出来事だった。一歩間違えばこちらが小田原の役のきっかけになっていたのかもしれない。

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赤い城

忍城水攻めのための堤防 (2020/07/12 訪問)

北鴻巣駅から徒歩で30分。
新幹線沿いに石田堤史跡公園がありここから行田市に向けて土塁が続いています。
忍城水攻めのために総延長28kmの土塁を築きながら落とせず、忍城恐るべしです。
堤が決壊したとされる堀切橋、さらに行田市方面に歩くと石田堤歴史の広場、駐車場もありました。
忍城の戦いも梅雨時期ですが当時はこんな豪雨では無かったんでしょうね。

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とりの子

和霊神社から山道を登った先に (2020/06/20 訪問)

福山城といえば、広島県福山市にある城が真っ先に思い浮かぶと思います。でも、広島県のお隣の岡山県の総社市にも福山城があります。
このお城は、広島の福山城とは違い、山城です。和霊神社の近くの登山口から登ります。しばらく登ると、「史跡 福山城」と書かれた石碑が見えてきて、やれやれと思ったのですが、そこから本丸跡が思いのほか遠かったです。井戸跡などの遺構が見どころです。
登山の際は、スズメバチに注意!

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カズサン

南部氏城廻りⅠ (2015/05/25 訪問)

 青森県は飛行機で桜装う弘前城、北海道の五稜郭、松前城を巡って以来一城のみ5年前の平成27年5月家内とフルムーンパスを利用して南部氏の主な城跡を巡りました。
 東北新幹線はやてで八戸駅、レンタカーで先ずは三戸城へ向かう、山や丘、街道は白い房成りのアカシヤの木々で覆われ新緑と相まって美景素晴らしい道中です、近付くと城山と分かる独立丘陵そのころからワクワクして来ます、レンタカーで丘陵上部本丸へそこは駐車場に成って居り周辺の空いた所に停める。
 城郭ハンドブック等に載ってる模擬天守、石垣城門を探すが分からず余湖図コレクションさんの俯瞰図を元に探訪、模擬天守閣、資料館と巡り当日は月曜日で休館、入場出来ず、本丸跡、三階櫓跡、搦手側、鶴池、亀池、車で下って路駐し有名な綱御門、物見台と巡る。
 三戸城は丘陵全体を城域とし半日で4城こなすには広すぎる城郭です、中世城館と近世石垣を使用した城跡と合わさった城郭で大切に保存管理もされており大事にしたい城です。
 南部氏は甲斐源氏の出身で山梨県南部町に故郷が有ります南部町には大きく南部氏発祥地と看板が有り、頼朝の奥州藤原攻めで功績が有り南部氏が甲州南部氏と奥州南部氏と分かれ奥州南部氏宗家は三戸城から蒲生氏郷が修復した九戸城を経由して南部領地の中心地岩手県盛岡城に移転、盛岡城の石垣も豊臣家臣などに指導を受けた様子。
 三戸城は以後城代、代官を置いて明治まで継承された。
 桜の時期は全山桜の覆われ約1600本の桜花でさぞ見事な事でしょう!

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