福岡城にはこれまで天守はなかったとされてきましたが、近年の資料で1620年に細川忠興が息子の忠利にあてた手紙に「長政公は天守を壊すと語った」と書いてありました。
もしこれが本当だとすれば、福岡城には天守が建っていたという事になります。気になってさっそく福岡城天守台を見に行ってきました。
これに関して、これまで有識者の方などから様々な意見があり、失礼とは思いますが私の意見想像を少し。
福岡城は1601年に築城開始、1607年にほぼ完成しました。1646年の正保の絵図には、大中小の天守台はありますが天守は描かれていません。(小中天守には矢蔵跡の記述あり)
もし大天守があったとしたら、天守台の大きさからして五重六階ほどのものが建つそうです(確かにデカイ天守台です)。
【ここからは私の想像ですが】
その頃、豊臣とその恩顧の大名に次々と悲劇が起こります。加藤清正は、名古屋城普請や家康と秀頼の会見を成功させた直後の1611年に謎の病死(徳川からの毒殺説あり)。1615年には大坂の陣で豊臣秀頼が滅ぼされます。1619年には福島正則は広島城の石垣修理を届け出たにもかかわらず、謀反の疑いをかけられ改易。 長政からすれば、次は間違えなく自分が狙われる番だと思ったでしょう。そこで、当時まだ大天守はなかったが、小中天守の矢蔵を取り壊し、その廃材を1620年から始まった徳川大坂城の普請に差し出し、天守は建てないと表明して徳川幕府に忠誠心を見せる事で、黒田家の安泰を図ったのではないかと思います。(そして安堵したのでしょうか、その直後の1623年長政はこの世を去ります)
しかし、私としては大天守があったという夢は持ち続けたいので、これからも密かにそうしたいと思います。(以上、大変失礼しました)
[福岡城へのアクセス]:JR博多駅より、市営地下鉄で赤坂門または大濠公園下車徒歩5分または西鉄バス3番系統福岡城鴻臚館前下車徒歩1分です。
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