万喜城に行ってきました
(2021/04/17 訪問)
万喜城に行ってきました
模擬天守がある!と思ったら模擬天守風の展望台でした
話は変わりますが万喜城は応永19年に武田氏が作った城です。
北、東、西には夷隅川が流れていて天然の水堀となっていて、
南には複雑に入り込んでいる尾根が続き天然の要害となり、この二つが四方を守っています。
主郭には多数の曲輪が配置され、尾根の部分は垂直に削り、空堀や堀切を設け守りを固めました。
そして麓といすみ川の天然の堀に守られた平地を内宿と呼び、城主や上級武士の館があったといわれています。
万喜城の原型は15世紀の中頃から上総を支配した武田氏によって築かれた城を、
その後没落した武田氏に代わり土岐氏が入り、城と城下を整備しました。
土岐氏についてはいろいろな説がありはっきりとはしていません。
城下にある土岐氏の菩提寺海雄寺には、土岐為頼を讃えた文書が伝わっていて、
為頼は比較的多くの資料に登場しているため土岐氏の最盛期は為頼の時代であると考えられます。
そして土岐氏は万喜城を中心に夷隅地域東部を支配し、
国府台、矢竹、中滝、鶴ヶ、日在、小浜などの城は万喜城の支城として河川や海上交通を意識して
作られたといわれています。
そして戦国時代末期には北条氏の配下となり対立している里見氏やその配下の小田喜氏、
長南武田氏などから度々攻められたといわれています。
万喜城は北条氏の最前線の基地として使われています。
その後豊臣氏の北条征伐時には北条氏と運命を共にしました。
そして、万喜城は本多忠勝が入りましたが、忠勝が大多喜城に移ったため廃城となりました。
〔城情報〕
・築城年 ❘応永19年
・廃城年 ❙天正18年
・築城者 ❙武田氏(土岐氏)
・最後の城主 ❙本多忠勝
・廃城理由 ❙本多忠勝が本拠を大多喜城に移したため
・主な城主 ❙武田氏、土岐氏、北条氏、本多氏
・遺構 ❙堀、曲輪、土塁
・主な建築物 ❙模擬天守風展望台
・説明看板 、石碑❙有
・駐車場、トイレ ❙両方有
・天守 ❙無
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