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ランフランコ

#6 二条御所 (2020/12/04 訪問)

唐門が素晴らしい。

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ランフランコ

#5 金亀城 (2019/12/15 訪問)

リフトで行くのが楽しい。

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ランフランコ

#4 高城 (2019/04/06 訪問)

運よく桜祭りの時に行けました。

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ランフランコ

#3 加里屋城 (2019/01/12 訪問)

大石神社とセットで行くのが良い。

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ランフランコ

#2 安井ノ城 (2018/12/15 訪問)

石垣のみだが、それでも壮観。

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ランフランコ

#1 白鷺城 (2018/09/23 訪問)

地元ということもあり、日本一のお城だと思っとります。

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カズサン

復元極楽橋と修復天守台感激探訪 (2021/11/20 訪問)

 私なりに纏めてる全国の城郭復元、修復リストに大和郡山城極楽橋復元も令和2年度末とリストアップして居り今か今かと待って居りました、各先人の方々より復元極楽橋の投稿記事と写真が城びとに載り出し行きたい気持ちをこの武漢コロナウイルス禍中県境超えての移動自粛、規制が緩和しETC休日割が再開した11月に企画し福島県宮城県の後に出掛けました。

 今回は珍しく家内も同伴してもいいとの事で同伴ドライブ、城廻り、新東名、湾岸道、東名阪、西名阪を飛ばして郡山ICより国道24号線経由大和郡山城へ登城。

 車は以前も利用した城ホール駐車場(2時間無料)を利用、近くの追手門隣駐車場は満車を心配し止めて居ります。

 登城ルートは鉄御門跡→二の丸→竹林橋跡→櫓台石垣を潜って→毘沙門郭跡間の土橋、石垣橋、ここから復元極楽橋南側面が良く見える→毘沙門郭→極楽橋東正面→初渡り→白澤門跡、両脇の修復成った櫓台も観察→柳澤神社東横を通り→月見櫓跡→天守台下逆さ地蔵観察、修復成った天守台観察撮影→天守台に登る、周辺と遠く奈良の寺院が良く見通せる→竹林橋跡、中仕切り門跡→新宅郭の堀沿い散策路、本丸の西面石垣が良く見える、北西角からは本丸と天守台が重層なった石組みが良く見え圧巻の天守台景観である→毘沙門郭に入り本丸東面石垣を眺める→復元極楽橋に至る→柳沢文庫→追手門、枡形、向櫓、東櫓→陣甫郭空毘沙門郭東面石垣眺める→鉄御門跡石垣を抜けて本日終了、約2時間。

 極楽橋は旧柳澤藩士と市民の寄付を基に復元したとの事、立派な橋が復元しました感謝です、白澤門も復元されるといいですね? 
天守台の修復も素晴らしい出来です、以前と比べ整備が成され歩き易く、見やすく、説明板も完備、ボランティア説明員も充実して居り大事に保全管理を期待して居ります、まだ天守閣の復元は早いのでしょうか、各方面天守閣復元案が出てるようですが?
 人出も多く極楽橋の撮影で人影無しは難しい、兎に角2時間探訪させて貰いました、家内も良くついて来てくれました。

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POYO58

織田信長と徳川家康の城! (2021/08/22 訪問)

小牧山城は織田信長が建てた城です。稲葉山城攻めの際、ここを拠点にしていました。
また、この城は小牧長久手の戦いのとき徳川家康が居城していました。この城で徳川家康、犬山城で豊臣秀吉が睨み合いをしていたそうです。
その際に作られた堀などがいくつか存在します。
また最近の発掘調査では最初の石垣の城は安土城とされていましたが、小牧山城であったことがわかってきています。
約20分登場しますが、その前に登城口の近くにある、「れきしるこまき」というところにも行ってみてください。たくさんの資料があります。
写真は御城印だけにさせていただきます。
ちなみに御城印は信長バージョンと家康バージョンの二つあります。

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POYO58

浅井長政の娘の居城! (2021/08/05 訪問)

こんなところに浅井長政と間接的な関係がある城があることに驚きました。夏に行ったので暑かったです。ここには展望台があり、景色が綺麗です。海が近いです。またここには浅井長政の娘、お江とその夫、佐治氏が居城していたそうです。お江の墓が近くにあります。
写真は御城印だけにさせていただきます。

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前ちゃん

JR西日本どこでも切符の旅 (2021/11/30 訪問)

萩城、山口市(大内氏館跡、大嶺城)と行き、今まで素通り状態の小倉城へ。雨降る前に行けて良かった

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higekam

市街化に飲み込まれた城跡 (2021/11/29 訪問)

城跡の一部が公園となり、模擬の石垣、水堀、そして高山右近の像があった。
すぐそばの公園入口に天守台、本丸御門跡で発掘されたという石もひっそりと展示されていた。
何も遺構はないと聞いてはいたが、芥川山城を登城した帰りに寄る。

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カズサン

駐車エリア確保出来ず探訪断念 (2021/11/15 訪問)

 新地城別名蓑首城を終えて国道6号線を約3、4km程南下し駒ヶ嶺城を目指す、ナビを古城盛衰記さん情報の白鳥神社の朱鳥居先に若干の駐車スペース有との情報で、同神社下鳥居辺りに合わせ到着したが、細い山道に舗装路沿いの草叢に駐車出来そうなエリアが在るが少し心配で(以前草叢駐車し前輪駆動の愛車はタイヤスリップして抜け出すのに大変難渋した経験が有り)その辺り中心に上り下り行ったり来たりして駐車可能場所を探すがその当時見当たらず、再度鳥居まで行き、登城口を確認し、車の登城禁止、登っても回転するスペースが有りませんとの看板情報で、今回城廻り最後の城でしたが家内を宇都宮に待たせて居り、時間の期限も近づきさらに探す余裕も無く、駒ヶ嶺城探訪を断念しました。登城口の写真も撮ってませんでした。
 帰ってからグーグルマップで周辺を探すと白鳥神社南下に約300m程降ると立田川沿いに駒ヶ嶺公民館が有り拾数台は駐車可能スペース有を発見。行く前によくよく情報調査が肝心です。
 次回福島、宮城、岩手城廻り探訪の折には再チャレンジでしょうか?

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カズサン

もう一つの「みの首城」 (2021/11/15 訪問)

 坂本城別名みの首城を終えて国道6号線を南下約4km程、宮城県との県境に新地城別名蓑首城(ミノクビジョウ)が有ります、近くなので城探訪迷いそうですね!

 情報ガイド:余湖図コレクションさん、古城盛衰記さんに由る。

 案内看板は国道6号線西側に一つ、西入りして直線道路を約1km程の舘前集落入口に大きく有る、後はそれに従って且つ要所要所に案内指示板が出て居り、細い集落の舗装路が本丸東の駐車エリア(37°52'56"N 140°54'20"E)に繫がってる、眼前に新地城址会看板のしめ縄を飾った建物が有る。

 車を建物前に駐車、車から出ると畑に鋤き込んだのか牛ふんの異様な臭いが鼻につき大急ぎの探訪と成る、本丸西土塁に案内解説板、本丸虎口から入り内部を観察、遊技器具が設置され公園と成ってる、周囲は土塁の囲まれてる三角形に近い本丸、西虎口から出て本丸西、北の堀を見るとかなり大きい空堀、余湖図コレクションさんでは水堀、西館曲輪、西館曲輪と北館曲輪間の土橋、その隘路に枡形とと有るが草木が茂り分からない、西館は草原、何か植わってた痕は有るが?北館は耕した直後で植栽前かよく臭う、北虎口から東館に入る、駐車エリアに入る、臭いがきつく、本丸、西館、北館、東館の奥の空堀、帯曲輪など探訪観察する気欲が無く退散、降り掛けに本丸南下に在る曲輪と本丸崖切岸を見る事が出来た、余湖図コレクションさんの俯瞰図では南に3段の段曲輪が集落の下まで描かれて居りかなり大きく堅固な城郭だったようです。
 訪れるのは春桜の頃が良いようです。

 歴史:この城は永禄9年(1566年)頃、相馬氏によって築かれ海道の境の城として、伊達・相馬氏の抗争に重要な役割を果たした。
 天正17年5月伊達政宗は相馬義胤が田村に転戦してる留守を突き、新地・駒ヶ嶺を攻め落とした。政宗は新地城を亘理重宗に与え、坂本三河を城代として置いた。慶長5年に坂元への引き上げが命ぜられた記録が残っており、その頃廃城と成った。(新地城(蓑首城)跡案内板を抜粋)

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イオ

立入禁止に撮影禁止!? (2021/11/19 訪問)

城主は諸説あって詳細は不明ながら、城域に建つ菅原神社の由緒書によれば、菅原神社は室町中期に稲葉城主の稲葉元春が京都の北野神社から勧請したとされ、その後、稲葉氏が本願寺方についたことから織田軍の攻撃を受けて落城したようです。

牛滝川と支流の間の河岸段丘に位置し、菅原神社の境内が城域で、裏山の周囲に土塁と横堀を巡らせ、切り立った切岸の上に主郭を構えている…んですが、先人の投稿にある通り、いのししの生息が確認されたため、防獣柵が設けられて立ち入りできなくなっています。

…と、主郭に立ち入れないのは承知していましたが、せっかく近くに来たのだから(松尾寺城から車で10分弱)と、ついでに登城してみました。菅原神社の駐車場に車を駐めて、菅原神社に参拝した後、拝殿を抜けて奥に進むと本殿左側に並ぶ境内社の背後に土塁があり、その奥には防獣柵越しに主郭切岸が見えます。柵内には入れないにせよ、せめてできるだけ近付いてみようと思っていると、境内のあちこちにいのしし出没の注意書が掲示されていることに気付きました。こんなにも掲示されているのは、境内にも立ち入るな、ということ? でも、立入禁止を示す三角コーンやロープなどは見当たらないし……と引き返すべきか迷っていると、今度は「社叢林の動物保護のため、神社内での写真撮影はご遠慮下さい」との趣旨の掲示を発見…。フラッシュを使わず、シャッター音を切っていても写真撮影はダメ!? 撮影禁止の理由がどうにも解せませんが、遠慮しろと言われれば従うしかありませんので、それからは神社の外からの撮影に留め、牛滝川と支流側からの遠景を確認して退散しました。

菅原神社の境内(社叢林部分)への立ち入りの可否についてはわかりませんが、少なくとも神社内での写真撮影は禁止されているようですし、掲示に気付く前に神社内で撮影した写真は投稿を控えさせていただきます。…もっとも、どうせ主郭には入れないので大した写真は撮れてないんですけどね。
 

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にのまる

その10・数寄屋敷石垣・土橋門石垣・戌亥櫓石垣 (2021/10/31 訪問)

数寄屋敷石垣の切石積みには刻印がたくさん。「自分の持ち物には名前を書きましょう!」「名前がないから誰のものかわかりませ―ん!」はこの頃から日常風景だったのかなと思ってみたり。「自分だけにわかるマークは他の人にはわかりません!」もあったかな⁉︎

土橋門石垣の六角形の石(亀甲石)には防火の願いが込められているそうです。ほかのお城の石垣でも1コだけ亀さんが嵌められているのを見つけたら立ち止まって考えてみようと思います。

戌亥櫓石垣は石の隙間に平らな石をはめ込んで粗加工石積みを切石積みのように見せる技法を取り入れているのだそうです。抜け落ちた石も間石ではなく積石のような加工と大きさでした。全部埋まっている姿を想像すると切石積みの石垣で見たのと同じようなデザインが浮かび上がってきました。

いろいろな石垣を見ていると、このお城の石工さんたちは限界やゴールを決めないで走り続ける技術者でありアーティスト。おもしろいアイデアが浮かんだら試さずにはいられない人たちだったのだろうと思えてきました。誰よりもリーダー自身が‼︎

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ぎりょう

米谷城 中世には山城、藩政期には米谷「所」地域支配の拠点に (2021/11/23 訪問)

仙台藩寛文事件の主人公の一人原田甲斐の墓がある、登米市東和町米谷の東陽寺を訪れた。原田家は伊達家の重臣で宮城県南の船岡を領していた。その墓が県北の米谷にある理由は添付画像の東陽寺説明書きをご覧いただきたい。秋晴れの下、本堂裏手にある甲斐の墓は、密かに埋葬した場所の目印に植えられて、今は大木となったイチョウの落ち葉に彩られていた。

米谷城は建治2年(1276)に葛西家家臣の亀掛川氏により築城されたと云う。奥羽仕置により葛西家が滅び、伊達家の所領となると、柴田氏、次いで高泉氏(準御一家2,700石)が配され維新まで続いた。
城は市街地の北側、米谷工業高校にほど近い山の中腹に二の丸を、頂上に本丸を置く縄張。仙台領古城書上には「山 米谷城 東西十六間 南北十八間」との記載がある。藩政時代には旧二の丸が米谷「所」の中心として居所が置かれたものと思われる。
道路脇の登り口に高泉家十九代当主による米谷城跡の碑があり目印となっている。
見学者用の駐車場は無い。三陸自動車道登米東和ICより2.4Km、5分。

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赤い城

跡地には城主のご子孫がお住まい (2021/11/21 訪問)

田園地帯の民家脇に説明板が立っています。
近くには駐車場はありません。
民家には城主の末裔がお住まいのようです。
民家を囲むように土塁があり、その外側の堀は田んぼとなっています。
見学の際にはご近所も含め配慮が必要ですね。

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BUGTI

山頂からの眺望がすばらしい城 (2021/11/28 訪問)

城の由来はいろいろな説があり、はっきりしていないようだ。登城路の途中に防御の土塁があるが、主郭はそこからだいぶ登ったところにあり、連携した防衛ができるとは思えない。主郭と呼ばれるところは、だいぶ手が加えられているようだが、土塁で囲まれた曲輪になっている。ハイキング道が整備されて登りやすく、国見山頂上からの眺望はすばらしい。

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カズサン

サンドイッチマン伊達君もう一つの先祖の城 (2021/11/15 訪問)

 国道6号線沿いの中島舘を終えて国道6号線を南下約3km程宮城県県境に在る坂元城を目指す、国道6号線から西に約500m程の所に在る坂元小学校が二の丸跡、下段北が三の丸、小学校南の丘陵が本丸、車は三の丸砂利駐車場、本丸、坂元神社北下段駐車場を利用。

 本丸は坂元神社方形の丘陵に本曲輪、北下段に二の丸現在坂元小学校、本丸周囲は低い崖に成りそれなりの防御性あり、本丸西に大空堀、現在本丸北に車道と歩道が出来てますが、本来は北西の枡形虎口?が登城口か?、現地説明板の絵図に由ると回の字に空堀、濠が本丸、二の丸を囲んでおり、北下段に三の丸が方形出丸のように堀に囲まれた城域の様です。
 本丸、神社参拝し、本丸で東日本大震災に由る一部石碑の倒壊が見られる、西の大空堀を観察、二の丸は小学校なので本丸から眺める、三の丸には現存大手門、現存板倉、現存茶室が残り一部土塁と池も残ってる。
 二の丸が小学校に成ってますが城域の保存状態はよく散策探訪には問題有りません、城域の城名碑は別名の「みの首城跡」と成ってます。

 歴史:蓑首城(ミノクビジョウ)は亘理氏の家臣坂元三河が元亀3年(1572年)に築城、その後領主が入れ替わり元和2年(1616年)から伊達氏の家臣大條宗綱の居城となり明治維新まで大條氏の治政が続いた。(現地案内板抜粋)
 大條氏7代宗直が大枝城から伊具郡大蔵村に移り、8代宗綱が坂元城に転封と成る、明治維新後大條氏から元の伊達氏に改称され現在の漫才コンビサンドイッチマンの伊達君に繫がってる。
 

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higekam

三好長慶が飯盛城に移る前の居城 (2021/11/29 訪問)

丹波、摂津守護の細川氏から奪い取った中世の山城に長慶が手を加えたもの。
搦手から攻めたが、三郭の竪土塁、二郭の石垣、大手門石垣、主郭南西下の大堀切、土塁など見どころは多い。
そして主郭部から臨む大阪平野の眺望が素晴らしい。

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