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新ろくべえ

阿内城(宿阿内城)にいってきました。 (2021/08/28 訪問)

阿内城(宿阿内城)にいってきました。ここは神社にあります。
行きましたが神社と、下川淵カルタのここに関してのカルタしかなく
城びとに書かれていた土塁と堀は見つかりませんでした。
あと周辺を探してみると阿内宿の石塔がありました。
〔城情報〕
・築城年代 ?
・築城者 ?
・主要城主 ?
・平城
・主な遺構 堀、土塁
・備考   下川淵カルタには「ぬくもりの心 石の塔」と書かれていました

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kazu

世界的にも珍しい「桃山風南蛮造り」の城「岩国城」 (2020/11/25 訪問)

岩国市のシンボルとして山の上に鎮座する岩国城 、別 称:横山城 復興天守
岩国城は、初代岩国領主吉川広家(きっかわひろいえ)によって慶長13(1608)年に作られた山城で、
眼下を流れる錦川を天然の外堀にし城山に位置していました。
三層四階の岩国城は、上の階が下の階よりも大きく張り出す「桃山風南蛮造り」という世界的にも珍しい造りが特徴であり
国内では小倉城(現在の福岡県北九州市)と高松城(現在の香川県高松市)も同様の南蛮造りが採用されている。
*5連アーチの名橋「錦帯橋(きんたいきょう)」は錦川にかかり、全長約193m。
1673年(寛文13年)に岩国藩主の吉川広嘉によって架けられた木造橋である。
山上の本丸跡や二の丸跡、出丸跡、北の丸跡、大手門跡には随所に石垣が残り、往時の近世山城の名残りをとどめています。



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赤い城

民家の脇に説明板 (2021/08/22 訪問)

深谷駅から徒歩で40分くらい。
途中案内板もありますが最後の詰めが甘く少し分かりにくい。
民家の脇に説明板があり、そこから土塁と空堀が走っています。
当時は東西に三つの郭が並んでいたとのことですが西郭は畑。
その周りは二重の空堀で守られています。
武蔵七党の猪俣党の一族、人見六郎によって築かれたとされています。
この日は岡部陣屋から徒歩、とても暑く久しぶりにへばりました。
暑いのは結構得意なんですけどね。

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小城小次郎

この城の真価はその歴史と遺構にある (2021/05/29 訪問)

この城の真価は模擬天守よりその歴史と遺構にある。羽柴の三河中入りを食い止め、長久手で徳川の勝利を引き寄せたのは岩崎城の頑張りによるところがあまりにも大きい。名古屋近郊でがっつり「土の城」が拝めるのもまた嬉しい。

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カズサン

「戦国の城」Amazonで購入 (2021/08/27 訪問)

 昨日の城びと新着記事で「戦国の城」香川元太郎著、「日本の城」からの第2弾8月発売との情報が有りましたので早速Amazonを開くと8月26日発売と有り受け付けて呉れましたので注文し本日午後に到着。
 香川元太郎さんの「日本の城」から3年経ってますのでそろそろ次が出ないのかなと思ってた矢先でした。

 浜松市静岡県も蔓延防止指定都市から緊急事態宣言県と9月12日まで不要不急(城廻りもか?)の外出等の自粛で市の境、県の境の越境も控える様にと、帰省も自粛、県内の人は県外に出ない、県外の人は静岡県に入境自粛と厳しい事で、7月末までにはコロナワクチン接種2回完了し孫が来ても大丈夫な様に準備してたのですが不可に孫たちの都市も蔓延防止規制から緊急事態宣言と成り今夏は孫に逢えず。

 こんな状態ですので自宅謹慎、香川元太郎画伯の第2弾「戦国の城」で山城など俯瞰図を眺めて城廻りを楽しみたいと思います。
 写真は「戦国の城」の表表紙、「戦国の城」の目次、行って見たい【出羽・舘山城】想像俯瞰図、行って見たい【上総・坂田城】想像俯瞰図を投稿します。
 

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新ろくべえ

反町館に行ってきました (2020/03/31 訪問)

反町館に行ってきました。
ここは新田義重の館と言われています
調べましたが情報が入手できませんでした。
〔城情報〕
・築城年代 中世?
・形式 平城
・築城者 新田義重
・主要城主 新田氏、大館氏、新田氏、矢内氏
・主な遺構 堀
・大きさと形 北70m×南120mの凸字形

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新ろくべえ

江田館に行ってきました (2020/03/31 訪問)

江田館に行ってきました。
ここは江田行義の館跡と言われています。行義は新田義重の子供の義李の四世の孫です。
義李は鎌倉幕府討伐での極楽寺坂口の大将となり軍功をあげました。
その後西国転戦後に備後国で農業をして足利氏の目をしのび
姓を9代にわたり守下とあらためていましたが10代の大膳が1593年、
祖先の地であるここに移転してきたと言われています。
戦国時代、近くにある反町館とともに金山城の出城として改修、
金山城主由良氏の四天王の1人の矢内四郎左衛門の居城となりました。
天正年間には後北条氏勢が金山城攻略に先立ちここを奪って攻撃拠点にしました。
そして後北条氏滅亡とともに廃城になりました
〔城情報〕
・築城年代 ?
・形式 平城
・築城者 新田行義
・主要城主 新田氏、矢内氏(由良氏家臣)、後北条氏
・大きさと形 東西約80m×南北約100mの長方形
・主な遺構 堀、土塁

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あまり

赤穂城天守台 (2021/03/07 訪問)

見ての通り赤穂城天守台です。
攻○団でうpしたのと同じものです。

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あまり

竹田城の石垣つめ

なんか竹田城の写真溜まってるのもったいないので、こちらでうp。攻○団でうpしてるのと同じやつやったらスマン。

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kazu

石垣は築後390年にもなる「島原城」、五層の白色総塗込みの天守閣、壮麗なたたずまいが特徴! (2020/11/25 訪問)

島原城の築城は徳川家康の配下で、関ヶ原合戦や大阪の陣で軍功を上げた松倉重政によるものです。
石垣は緩やかな曲線を描きながら垂直近くに立ち、築後390年にもなりますがびくともしません。
<折れを幾重にも重ねる高石垣(屏風折れ)が特徴の本丸、 石垣は、死角を無くす為、多重の折れを見せる!
連なる高石垣が刻む旋律美と陰影 に感動!!
*1618年より7年の歳月とおびただしい労力を注ぎ込んで完成させた 。
五重の天守と四九基もの隅櫓が林立する大城郭で、当時4万石の小大名には過分な城でもあった。
そのための重税とキリシタン弾圧により、1637年の天草・島原の乱が勃発。

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AJ

堀に落ちれば (2021/08/09 訪問)

小学校低学年だった私はある日、近所の公園の砂場でひたすら穴を掘っていました。1時間近く経ったでしょうか。搬入された砂の層は底をつき、手元からは赤褐色の砂質粘土が姿を見せていました。これが私と関東ローム層の出会いです(笑)。

あれから約40年。目の前にあるのは同じく富士山の火山灰が風化して粘土質になった赤土の層ですが、あの時とは比べ物にならない大土塁。そして周囲には畝を伴った横堀。非常によく滑るため、一度下に降りてしまうと登ることはおろか、しがみついているのも一苦労。右往左往しているうちに上から狙い撃ちされるという仕組みですね。

三島駅からバスで40分ほど(往復するなら一日乗車券がお得です)。山中城はローム層をフル活用した、後北条氏にとって最前線の砦。現存する堀障子は近年、その形がベルギーワッフルに似ていてインスタ映えするなどと話題になりましたが、その機能は実にエグいものがあります。発掘調査では夥しい数の銃弾が見つかっているそうです。

1590年3月29日、秀吉による小田原平定の戦端はこの地で開かれました。多少の誇張はあるにせよ、押し寄せた豊臣軍6万8千。守る北条方は多く見積もって5千と、その差は歴然。結果だけ見れば、わずか半日で落城しています。ただ、実際には特殊な空堀と執拗な銃撃に阻まれて大将のひとりが討ち死にするなど、豊臣方の被害も相当のものだったというのが近年の見方だと某歴史番組で紹介していました。

北条は当時、足柄ー山中ー韮山に防衛ラインをセット。同日に攻められながら、容易に落ちなかった韮山の方がより優れた城だとする向きもあるようですが、これは単に豊臣方が韮山よりも、東海道(旧箱根道中)を抱きこんだ、事実上の“小田原への関門“だった山中攻めを最優先した結果ではなかろうか、と解説される方もいらっしゃいます。

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まーく

小早川氏城跡、新高山城 (2021/08/16 訪問)

続日本100名城認定の新高山城跡(にいたかやま)
案内板などしっかり整備されてます
駐車場には地図付きパンフレットもあり

※令和3年7月8日の大雨により、登山道が崩れて
 当面の間、登山禁止
 駐車場から徒歩5分程のところです
 4枚目の写真
 それ以降の写真は前回撮ったものです

御城印は三原駅の「うきしろロビー」にて購入
参考までに三原城跡の御城印もこちらで購入可能

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お城川柳

 アンバサダー特別賞受賞しました。
模擬天守について改めて考える機会があり何気なく読んだ句でしたが、このような評価をいただきありがとうございました。
 とてもうれしく、そしてびっくりしました。

 新型コロナウィルス感染症拡大のため城めぐりへ行けていませんが、健康に気をつけながら秋の中旬には遠征にいけることを信じて妄想をめぐらしながら準備をする今日この頃です。

 

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まーく

三原城跡 (2021/08/16 訪問)

毛利元就の子、小早川隆景によって築城された見晴らし城跡
海に浮かんでいるように見えることから「浮城」と呼ばれる
JRの三原駅改札前を通って天主台へ
階段をあがると新幹線ホームと同じ高さです

御城印は三原駅にある、うきしろロビーにて購入
参考までに新高山城跡の御城印もこちらで購入可能

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新ろくべえ

石倉城に行ってきました (2021/08/25 訪問)

石倉城に行ってきました
注意書き
・ここの石倉城二の丸公園(石碑があるところ)は
地蜂らしきものがいます。地面にあるあなは巣なので
そこはふまず、さらに公園に近寄るのは避けてほしいです
ここは1485年に長尾憲景が築城しました。
堀は利根川の水を久留間川を利していれていたといわれている
その城主長尾憲景が総社長尾氏と白井長尾氏と長野氏との戦いの
新井城の戦いで戦死し、三男の長景が城主となったが
石倉城が関東要衛であるため信玄に攻められ落城し、
内藤修理亮政豊及び外記親子が城主となりました
ですが内藤修理亮政豊が長篠で戦死すると外記は
厩橋城代北条高広の軍門に降り北条家臣寺井左馬助が守りました
この間80年間は度重なる攻防凄惨な流血を繰り返して
1590年に德川進行により寺井左馬助が
松平康国との井野川の戦いで奮戦したが負け、石倉城に退きました
ですが一応松平康国は戦死、勝った理由は弟が1000騎馬で攻めまくり、
勝ったと言われている。そして負けた左馬助は城に火を放ち自害し
石倉は廃城となった
〔城情報〕
・築城年代 1485年
・形体 平城
・築城者 長尾憲景
・主要城主 長尾氏、内藤氏、寺井氏
・主な遺構 消滅

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新ろくべえ

蒼海城に行ってきました (2021/08/25 訪問)

蒼海城に行ってきました
総社神社に地図がある蒼海城。
地図を見ると本丸を中心にたくさんの郭があり
結構大きな城だったのかと思います。
豊後、讃岐、出雲、松本など地名のつく郭があり
たいへん面白いです。
〔城情報〕
・平城
・築城年代 永享元年(1429年 )
・築城者 総社長尾氏
・主な城主 総社長尾氏、諏訪氏、秋本氏
・主な遺構 土塁

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スプラNNNN

徳川の原点にして頂点

久しぶりに城行った。やはり遺構がよく残っていてさすがだなーと思った
特に野面積みの石垣は圧巻だった。そのあとにいった城下のスタバ、うまきもちぃぃぃぃぃぃぃぃぃ!!!!!!?????

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higekam

栄華を極めた遺跡だけでなく、詰めの山城も (2020/09/27 訪問)

一乗谷の東側に連なる山稜に広大な山城があった。
比高差のある山稜に土木工事を施した山城だが、広大な縄張り、畝状竪堀など一見の価値は十分ある。

朝倉義景が織田勢の追討に命からがら一乗谷の巨石城門にたどりついた時、従う家臣は100名にも満たなかったという。これだけの詰めの城がありながら一乗谷に立て籠ることもできず、さらに山深く落ち延びざるを得なかった義景の心境やいかに。

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にのまる

ありがとうございますm(__)m

お城川柳キャンペーンでは1ヶ月以上楽しませていただいた上、賞までいただきありがとうございます。
朝田さんのお声がけがなければ参戦していたかどうか…。

【お城川柳122】
城川柳続けてみようか1,000句まで

川柳だけに1,000柳。

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小城小次郎

今川方の進軍目的はどこにあり、織田方は何を狙ったのか (2021/05/29 訪問)

見つけにくいが案内看板もちゃんとある。大高・鳴海両城と周辺の五砦を見てみたが集積度が高くて今見ても緊迫感がある。今川は何よりもまずこの五砦を除いて二城を救うことが主目的だったのだろうと現地を見て思うようになった。

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