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赤い城

雷神社の背後に (2022/02/13 訪問)

雷神社の拝殿前にパンフレットが置いてあります。
駐車場も神社のものを利用し、案内板に従って進むとまずは大きな空堀があります。
この堀は未整備ですが大きく深いことはわかります。
そのすぐ先に鳥居があり、登ると主郭に。
土塁が囲んでいて土塁上に石碑が建っています。
主郭は細長くなっていてその先一段下がると二郭に。
二郭には物見台も設置されています。
二郭の先から下ると門のような感じの遺構が残ります。
さらに降りると民家の敷地っぽいので引き返しました。
島田氏の居城でしたが正木氏の攻撃により落城しました。
規模は大きくないのですが地元の方により整備されて歩きやすくなっていました。

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カズサン

黄金色下見板張天守が良いですね! (2010/09/20 訪問)

 昭和45年に古写真そっくりに鉄筋コンクリート造り復興天守閣が建てられました、諏訪に出張、社内旅行、プライベート旅行と良く訪ねて居る所ですがデジタルデーターでの写真は撮って無く12年前の平成22年9月、諏訪市高島城へ日帰り登城しました。行きは東名、東海環状、中央道。帰りはナビの指示で中央道、甲府から地道の身延街道、清水から東名のワンループ走行でした。

 車は天守閣東直下の無料駐車場を利用。諏訪市役所も西近ですので利用可能。

 先ずは写真撮り映えのする水堀側へ、天守閣、土塀、隅櫓、冠木門の下見板張りの色が黄金色と言うかブラウン系で遠目で見ると黄金色に見えて他の城郭に無い景観です、杉板の真新しい感じでしょうか?
 本丸周囲を廻り、内部に入り隅櫓、土塀の副柱側の支柱が入った部分を観察、天守台、小天守台、天守閣に登閣、立体模型を観察、最上階より周囲を俯瞰、諏訪湖も見渡せます、往時は湖が天守台近くまで来ていたそうで浮城とも呼ばれていた。
 降りて城下を散策、三の丸跡の看板、当時は三の丸全て家老屋敷だったそうです。

 近世城郭としては日根野高吉が築城貢献し、高吉が関ヶ原の年に病没、子の吉明が若年により転封、代わりに諏訪氏が故郷の諏訪に入封し高島藩として10代続き明治を迎える。

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トク

(謎) 福岡城には天守があった? (2022/02/20 訪問)

福岡城にはこれまで天守はなかったとされてきましたが、近年の資料で1620年に細川忠興が息子の忠利にあてた手紙に「長政公は天守を壊すと語った」と書いてありました。
もしこれが本当だとすれば、福岡城には天守が建っていたという事になります。気になってさっそく福岡城天守台を見に行ってきました。

これに関して、これまで有識者の方などから様々な意見があり、失礼とは思いますが私の意見想像を少し。
福岡城は1601年に築城開始、1607年にほぼ完成しました。1646年の正保の絵図には、大中小の天守台はありますが天守は描かれていません。(小中天守には矢蔵跡の記述あり)
もし大天守があったとしたら、天守台の大きさからして五重六階ほどのものが建つそうです(確かにデカイ天守台です)。

【ここからは私の想像ですが】
その頃、豊臣とその恩顧の大名に次々と悲劇が起こります。加藤清正は、名古屋城普請や家康と秀頼の会見を成功させた直後の1611年に謎の病死(徳川からの毒殺説あり)。1615年には大坂の陣で豊臣秀頼が滅ぼされます。1619年には福島正則は広島城の石垣修理を届け出たにもかかわらず、謀反の疑いをかけられ改易。 長政からすれば、次は間違えなく自分が狙われる番だと思ったでしょう。そこで、当時まだ大天守はなかったが、小中天守の矢蔵を取り壊し、その廃材を1620年から始まった徳川大坂城の普請に差し出し、天守は建てないと表明して徳川幕府に忠誠心を見せる事で、黒田家の安泰を図ったのではないかと思います。(そして安堵したのでしょうか、その直後の1623年長政はこの世を去ります)

しかし、私としては大天守があったという夢は持ち続けたいので、これからも密かにそうしたいと思います。(以上、大変失礼しました)

[福岡城へのアクセス]:JR博多駅より、市営地下鉄で赤坂門または大濠公園下車徒歩5分または西鉄バス3番系統福岡城鴻臚館前下車徒歩1分です。

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やなぎぶそん

ポテンシャルの高いお城 (2021/12/29 訪問)

石垣が結構崩れているので原型が分かりにくいですが、総石垣でさすが国史跡のお城。見応えのあるお城です。
また、麓にある瓜生羅漢石仏はとても良い雰囲気で、お城と共に周ることをおすすめします。

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イオ

安宅勝山城(和歌山県西牟婁郡白浜町塩野) (2022/02/06 訪問)

# 安宅勝山城(城びと未登録)は安宅本城の支城にあたるため、安宅本城で投稿します。

江戸期の軍記物「安宅一乱記」によれば、安宅勝山城は戦国中期の安宅氏の跡目争いにおいて安宅安次丸が籠った城とされますが、詳細は不明です。

安宅勝山城は安宅荘の南に聳える勝山の頂部に位置し、平地の居館である安宅本城の防衛のために築かれた支城群のひとつで、南北二段の曲輪を土塁で囲み、東西両斜面に帯曲輪を配し、南、西、東の尾根を堀切で遮断した縄張であり、国史跡「安宅氏城館跡」には含まれていませんが、現在、追加指定を目指して活動されているようです。

和歌山県にもまん延防止等重点措置が出されたため、県外への移動は控え、この日は昨年に安宅荘を訪れた際に時間切れで行けずにいた安宅勝山城(と古武之森城と大向出城)に行くことに。キンヤさんの投稿を拝見して以来、行きたい気持ちを募らせていましたが、一年越しでようやく叶えることができました。

塩野集落の日生神社(勝山城の説明板あり)の駐車場に車を駐めて登城開始。下調べでは登城道はなく急斜面を直登とのことでしたが、集落の入り口から随所に案内表示が設けられており、登城口とされる廃園となった梅園の麓までは迷うことなくたどり着けました。しかし……どこから登れと? 梅園は1mほどの高さの石垣の上にあり、すっかりシダの藪と化していて足を踏み入れられそうな隙間も見当たりません。それでも石垣をよじ登り梅園の南側に迂回して、防獣柵のセンサーから発せられる電子音(銃声やサイレン音)に追い立てられながら、直登すること30分あまりで南尾根の稜線に到着。ところどころにあるシダの藪を避けるため、ずいぶんと南に回り込んだ感覚はありましたが、尾根道を北に進んでもなかなか三重堀切に着かず、不安になりだした頃に麓で見たのと同じ勝山城の案内表示を見付けてほっと一息。そこから少し登って行くと南尾根の三重堀切に着きました。

南尾根の三重堀切は幅も深さもあり三日月状にカーブしながら竪堀として落ち込んでいて、南尾根を完全に遮断しています。三重堀切の北東上(副郭の南東下)には周囲を武者隠し状の土塁で囲んだ腰曲輪があり、三重堀切側の土塁の下には畝状空堀群が設けられています。副郭の北辺は主郭の切岸、残る三方は分厚い土塁で囲み、西部には平入虎口が、東部には土塁に上るための雁木状の石段が見られます。また、安宅氏の城の特徴として他の支城にも見られますが、安宅勝山城でも土塁内側には石積みが施されていました。西部の虎口を出ると西下には帯曲輪が広がり、北端で竪堀を西下に落としています。竪堀を越えると、主郭の西斜面に数段の腰曲輪があり、最下段は浅い土塁が取り巻いています。腰曲輪の下では浅くなった堀切が西尾根に続く尾根道を断ち切っていました。

さて、西尾根は堀切までで引き返して、いよいよ主郭に向かいます(続く)。
 

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ばばよ

東京駅からはバスが便利 (2021/10/07 訪問)

小湊鉄道にこだわらないのであれば、東京駅からは京成系のバスが速くて便利です。
東京湾アクアラインを経由して1時間半かかりません。
バス停からは電車より歩く必要がありますが。
自分は東京駅でJRバスと乗り場を間違え、一本やりすごしました。

天守は模擬と割切り、中の資料館を楽しみましょう。
遠くから眺める天守や城下の街並みは風情があります。
とんかつのお店、おいしかったです。

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ぎりょう

地震被害の復旧工事始まる (2022/02/20 訪問)

昨年2月の地震で被害のあった白石城の修復工事が始まったとのニュースを聞き白石市を訪問した。現在は大手一ノ門、ニノ門に足場が組まれ工事に取り掛かっている。工事は今後、三階櫓(天守閣)へと移り、今年9月まで休館となる予定だが、4月上旬以降は工事の無い土曜・日曜には見学会を実施の予定という。
城址訪問後は城下町歩き。旧白石城の門が移築されている延命寺、当信寺、片倉家中武家屋敷(旧小関家)、片倉家御廟所へ。
またその昔、紙問屋(白石和紙)、太物屋などを営んだ豪商の屋敷「壽丸屋敷」(すまるやしき)を訪問。ちょうど「ほっこりおひなさま展」が開催されており、幅8mの雛壇に飾られた明治・大正・昭和中期までのお雛様を見学することができた。開催期間は3月13日(日)までという。

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赤い城

坂東三十三観音の廿七番目、飯沼観音。 (2022/02/13 訪問)

飯沼観音の圓福寺が城跡です。
圓福寺の駐車場がありますが月極の駐車場も隣接していて注意が必要です。
訪問時、仁王門は改修中でした。
本堂の前に銚子大仏が鎮座し、五重塔も建っています。
千葉氏一族の海上氏の城ですが遺構は残っていません。

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ヒロケン

望楼型天守が恰好い~ (2014/08/15 訪問)

高知城は高知県高知市の標高約44mの大高坂山に築かれた梯郭式平山城で、長宗我部元親公が築いた河内山城の跡地に遠江掛川から土佐24万石を得た山内一豊公が築いた城です。
高知城の天守は四重・六階望楼型天守で現存天守12城の一つで、山内一豊公の前任地である掛川城天守を模して造られたといわれています。
現在の高知城は、天守・御殿・櫓・蔵・門・塀など15棟が重要文化財に指定され、天守をはじめ、本丸の建物がほぼ完全に残る城であり多くの遺構が残されており、お城ファンのみならず観光地として多くの方の目を楽しませています。

普通天守は、石垣等で造られた天守台の上に築かれるものであるが、この高知城は天守台の無い天守で、懐徳館とも呼ばれる小型の御殿と繋がっている珍しい天守です。

この高知城は、現存天守をはじめ多くの建物が残り、重要文化財に指定されるなど建物が有名ですが、穴太衆が積み上げたとされる石垣も見事なもので高知城へ行かれた際は、二の丸・三の丸の石垣を見られることをお勧めします。

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小城小次郎

「壊されなかった」ことの持つ意味 (2021/10/23 訪問)

史跡指定箇所だけでも9か所を数え、残っていないようで案外残る。「総構え」に留まらず洛中洛外の境界線、防火・防水堤防などいろんな目的と役割を担っていたようで、だからこそ秀吉の世が終わっても壊されなかったのだろう。

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やなぎぶそん

THE TAKEDA CASTLE (2022/01/22 訪問)

石垣を使わない土のお城で、丸馬出、三日月堀と武田氏らしいお城でした。お堀、土塁、枡形虎口など見所満載の素晴らしいお城です。大手門は工事中なのかショベルカーが居座っていました。駐車場から新府城へ行く際、県道を渡らないといけないのですが、県道を走る車は結構スピードが出ており、交通量も比較的多く、横断歩道もないので、渡るときは注意が必要です。

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チェブ

番外編 加藤塚・加藤神社の巻 (2022/02/11 訪問)

先日、投稿した「上野原城」を調べていると、城主の加藤 信景さんが主君の武田 勝頼さんを救援する為、駆けつけようとするが、武蔵国 箱根ケ崎で北条氏に討たれて滅亡。と、ありました。

???、何で?

勝頼さんが逃れようとしていた「岩殿山城」は「上野原城」から徒歩で5時間弱の距離。
一方、加藤氏が討たれた 箱根ケ崎から「岩殿山城」は徒歩で10時間ちょっとと、離れてます。

「上野原城」から助ければ、いいのに。主君の一大事に何でわざわざ北条領にいたの?と、疑問。

加藤氏が討たれた、東京都 西多摩郡 箱根ケ崎の「加藤塚」は我が家から徒歩で30分。
一見は百聞にしかず。
いざっ「加藤塚」!です。

「加藤塚」は新青梅街道から166号へ入れば、すぐ小さな お社が見えます。
説明板を発見。
『加藤 丹後守 景忠は妻子及び家臣を連れて当地まで逃れて来た』、、、!武田氏を見限ったのか。
ここで討たれてたのも納得です。
「加藤塚」には、お花が手向けてありました。当時、塚をお祀りしたのも箱根ケ崎の村民なんだとか。

この日の前日。東京は積雪予報に、あたふたしました。
それでも、加藤神社の梅は、健気に咲いてます。
村民たちは、敵国の武将に対しても健気です。

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T-Shionoya

緑色片岩石垣の徳島城 (2021/11/27 訪問)

昨年11月の旅行で寄った城の最後は徳島城。

徳島県吉野川の河口部は、河川が網化したデルタ地帯。
平時は水運の交通網、戦時は天然の水堀となったことでしょう。

そんな三角州の1つにポツンと小さな渭山があり、そこは元々中世の渭山城があった場所。
秀吉が四国を平定した戦国時代末期、蜂須賀小六正勝の嫡男家政がこの地形を活かして徳島城を築城。
以後、江戸の終わりまで蜂須賀氏の居城となりました。

現在は徳島中央公園となっており、南の寺島川は埋没したものの、北の助任川は残存。
訪問時はまず鷲の門など平地部をまわり、続いて東坂口から東二の丸と広々した本丸へ。味のある石垣は地元の緑色片岩が積まれており、江戸期の東二の丸には2代目天守の御三階櫓が建っていたとのこと。
そして本丸西側の虎口から下って行くと、右に左にカクカク曲がる石垣の通路が戦略的で魅力的。

家政が"徳島"と改名した三角州の城が、私の城巡りの116城目となりました。

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POYO58

本多忠勝の城! (2022/02/19 訪問)

桑名城は本多忠勝が築城しました。今は石垣と堀だけが残されています。桑名城の駐車場には本多忠勝の像があります。桑名城跡は今公園になっています。本丸にはかつて天守があったとされています。しかし今は石碑がそこにあります。桑名城の本丸から駐車場を横切って行くと、復元された蟠龍櫓があります。この櫓を支えている石垣はおそらく現存です。またその目の前には七里の渡跡があり、これは伊勢国一の鳥居です。蟠龍櫓の近くの川には船がたくさん止まっていて、そこにはなんと石垣が奥まで続いていました。見に行こうと思ったら親に時間がないと言われ引き返しました泣。おそらくその石垣がこの城の見どころだと思います。また公園の端には辰巳櫓がありましたが、明治維新の新政府軍によって焼かれました。今はそこに大砲が置かれています。復元をしてほしかったです。

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ばばよ

関東の石・岩の城 (2021/08/19 訪問)

関東にしては石、岩の存在感が強いです。
鏡石の存在感よいです。
いい石がとれるのでしょうか。
そして城としての特異点はやはり猫でしょうか。

さのラーメンは青竹打ちのちぢれ麺が特徴です。
さのまるはゆるキャラグランプリ2013年王者です。
ゆるキャラとしては完成度高いですね。
北関東は古くは群馬県のぐんまちゃん、埼玉県深谷市のふっかちゃんと充実しています。

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朝田 辰兵衛

伊能忠敬紀行(千葉県香取市) (2022/02/12 訪問)

伊能忠敬は,現在の千葉県由式郡九十九里町に生まれ,少年時代には「なぜ星はあるのか,なぜ日食や月食は起こるのか」という疑問を抱えていたそうです。
忠敬が18歳の時,土地改良事業の現場監督としての仕事ぶりが評価され,現在の千葉県香取市佐原の名家・伊能家の婿養子に迎えられました。50歳で隠居の身となり,江戸へ…。天文学の第一人者・高橋至時に弟子入りし,没する74歳まで精力的に測量を続けました。その3年後,弟子や友人たちの手によって日本地図「大日本沿海輿地全図」完成。

伊能忠敬記念館に,現在の日本地図と大日本沿海輿地全図を重ね合わせた比較図がありました。その正確な測量にただただ驚くばかりでした。記念館内の展示物はほとんどが国宝に指定されているため,撮影したものはありません。

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にのまる

36見附めぐり㉘~坂下門~

西の丸の出入口だった坂下門は、現在、宮内庁の正門となっています。
元々は左に折れる枡形門でしたが、明治時代に通行の利便性確保のため高麗門が撤去され櫓門の向きを変える移設が行われたため、枡形は消滅しています。
幕末の「坂下門外の変」でも知られる門ですが、「乾通り一般公開」や「一般参賀」の際の入退場門となっており、その期間は大混雑。今となってはあの頃の大行列も懐かしいです。
「一般参観」では近づくことができなかったので、宮殿への坂道をのぼりながらチラチラと横目の遠目で観察しました。通行人のいない坂下門を内側から見るという貴重な機会であり、坂の下にあるから坂下門なんだ!とわかったのもすごくうれしかったです。
この坂道から振り向きざまに目に飛び込んできた景色も衝撃的でした。富士見櫓の背景が高層ビル群に埋め尽くされているのです。
しかし、天下の江戸城で二百有余年もの間“天守代用”の地位を保ってきた富士見櫓、負けていません!存在感は群を抜いています。
それに、強固な要塞に守られていると思えば安心&安泰。このポジションなら外敵から攻撃の的にされることはなさそうです。

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外堀の散歩道 (2022/02/19 訪問)

またまたまたまた、、、駿府城へ行って来ました。静岡に所用で出かける機会があると立ち寄っています。復元された東御門、巽櫓、坤櫓等の他に天守台発掘現場などを観て回ります。今回は同じ所ばかり観てもおもしろくなかったので、外堀を観ることがてきることを想い出し散策して来ました。「外堀の散歩道」として整備されています。静岡市立静岡病院の所から静岡市文化会館付近まで、ぶらぶら歩いて来ました。県庁所在地にある城跡の定めで公共施設が写真を撮ると写ってしまいますが、それも城址の風景と悟ったふりをしています。今回は天守台発掘現場と堀の写真を投稿しました。石垣と堀を楽しみながら歩くことができました。

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赤い城

キャベツ畑 (2022/02/13 訪問)

キャベツの生産量第三位の千葉県。
中でも銚子市は有数のキャベツの産地です。
中島城も曲輪部分はキャベツ畑になっています。
駐車場は無く、琴平神社の前に路駐しました。
手作り感のある案内板があり、それに従って進むとキャベツ畑に出ます。
本丸跡には石碑も立っていました。
土塁や虎口とされる部分が残ります。
平安末期に千葉氏が海上氏の名前で築いたとされます。
海上氏の本城とされますが戦国期には東胤氏が居城としたものの小田原平定で落城しました。
キャベツ、美味しそうでした。

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ぴーかる

中道子山城 (2022/01/15 訪問)

【中道子山城】
<駐車場他>城山公園駐車場無料あり。
<交通手段>車

<見所>石垣・石垣虎口跡・2重堀切・曲輪
<感想>赤松氏の山城攻め。中道子山城は築城年代は定かではない。室町時代に赤松円心の四男赤松氏範(氏則)によって築城された。赤松氏はその後嘉吉の乱によって播磨国を追いやられているのでその際この城は落城か放棄しているようです。。赤松氏の再興後は一族の孝橋繁広から数代城主となりこの地を治めている。秀吉の播磨攻めの時には敵の進入を防ぐため山腹に竹の皮を敷きつめたが逆に火を付けられ落城したという伝説が残っています。
 駐車場から北に少し行き養鶏場の横にバリケードを乗り越えてアスファルト道路を進みます。少し行くと左手山中に石垣遺構があります。麓付近の城の遺構でしょうか。また少し進むと毘沙門岩という大岩があります。この地点から登山ルートが舗装道・旧山道・鎖ロープ直登ルートの3つに分かれます。鎖ロープ直登ルートは藪化しているのでやめたほうがいいでしょう。旧山道ルートは小毘沙門岩と毘沙門岩の上に登れるので巨石好きにはいい遺構なのでお勧めは毘沙門岩の上部まで行って舗装道に戻って登るのが良いかと思います。旧山道には木戸の礎石のようなそうでないような石があるだけで他に目立った遺構はなくどのルートも大手門跡前で合流します。
 大手門跡前にハンググライターの離陸場所となっている舌状の曲輪があり大手門跡を通って二の丸虎口に櫓門の石垣が見られます。二の丸にも石垣遺構が薄っすらとあります。ここらは笹薮が多くてもう少し刈込が欲しいところ。二の丸の上段からが城の主要部になり石垣造りのいい虎口があります。虎口を入り正面に空堀、左手南側に円形状の広い曲輪そこから北西方向に三の丸を含んだ段曲輪があり北西尾根先に大きい2重堀切があります。三の丸の北に搦手門跡がありここも石積み遺構があります。北と南に2か所石積み井戸があります。主郭は北東方向にあり石垣の城門跡を通ると土塁囲みの米蔵跡の曲輪、先に巨大な主郭があります。主郭南方向の眺望は抜群です。
 舗装道を行けば距離はあるが楽に行けていい遺構が沢山残る見応えある城跡でした。この日はこれにて終了。楯岩城にはじまり合計6城攻めました。赤松氏攻めも大詰めとなってきました。

<満足度>◆◆◆

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