二十一要害八か所目は平澤要害。この地は古くから交通の要衝として戦国時代から重要視され城館が築かれていたのだが、築城年代や築城者は不明とのこと。慶長7年(1602)、伊達家家臣高野光兼が平澤領主となり家中屋敷が整備され、高野家(永代着座二番座1,650石)の要害屋敷として続いた。明治維新後は役割を終え放置されたが、大正期に珪藻土の採種場となり、その遺構はすべて失われてしまったという。(現地説明板の解説による)
現在城址は平沢地区公民館とグランドとなっている。貞享4年の刈田郡平澤村要害屋敷惣絵図(宮城県図書館所蔵)には南北に並ぶ二つの曲輪、北側はL字型で 一 居所 の記載、南側から登る大手道を受けた虎口、門が見える。南側は東西に長い方形で南側中央には南に降りる虎口が見え、その先は広い水堀が描かれている。その先、南側には家中屋敷が続き館下町が続く。周辺には寺屋敷や百姓屋敷は見えるが町屋敷は見られない。
城址最高所の公民館駐車場まで車で登ることが可能で、途中の街並みにかつての家中屋敷の成り立ちがイメージできる。
+ 続きを読む