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青春の巨匠

模擬天守は見逃す!痛恨。 (2021/09/02 訪問)

市の博物館を観て(かつての商売敵の作品。良くできてます)、南部神社脇の階段を登って本丸、二の丸などを見学。郭の周辺の土塁や、建物の礎石など遺構も多数確認して降りてしまったが、展望台になっている模擬天守は見逃してしまう。痛恨。

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キンヤ

大きな空堀が見応えあり、城山全体に曲輪を多数配置した城 (2021/08/30 訪問)

9年ぶりに行きました。
田峯城の菅沼氏の支城として築かれ、美濃・信濃との国境に近い要衝の地で、道の駅「どんぐりの里いなぶ 」の直ぐ東側に城山があります。

武田勝頼が長篠の戦いで敗れた後、落ち延び、梅酢湯を飲み一泊したと伝わります。

本丸背後には土塁の櫓台があり、城山神社が祀られています。

本丸の南側は自然地形も活用しているかもしれませんが大きな空堀で分断されており見応えがありました。

城山全体に曲輪を多数配置した規模が大きな城でした。

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小城小次郎

水野が戸田で戸田が水野で (2021/05/29 訪問)

水野氏と戸田氏とが相争う中、水野出身の守信が戸田を名乗る一方で戸田出身の光康が水野を名乗っており、縁戚関係と利害関係の複雑さが垣間見える。結局富貴城主が誰なのかが(戸田法雲という伝承はあるが)よくわからなかった。

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チェブ

青ヶ台=阿王ヶ台。 (2021/05/02 訪問)

鎌倉幕府の執権で北条家一門の、金沢 貞顕さん貞冬さん親子の「青ヶ台城」です。
どちらかと言うと、貞冬さんの居城のようです。

住所検索して向かいましたが、『青ヶ台』の名がありません。
住所で到着した場所は住宅街と団地です。
近くに公園があり、気付きました。
『青ヶ台』=『あおうがだい?』=『阿王ヶ台!』
です。
阿王ヶ台公園には土塁のような物がありましたが、遺構かは分かりません。
サッカーの練習をしている阿王ヶ台キッズが元気にボールを追いかけてました。

『青ヶ台』の方が読みやすいのに、なぜ『阿王ヶ台』に改名したか気になる「青ヶ台城」攻めでした。

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higekam

織田信長の父、信秀が晩年拠点とした城、そして反信長派が集まった城 (2020/10/12 訪問)

名古屋地下鉄本山駅から歩いて数分と、広大な尾張平野に広がる名古屋市内の小高い丘に城跡はあるが、そこそこ遺構が残る。
当時しのぎを削っていた三河方面へも近く、深い空堀、土塁、切岸を駆使して守り堅固な城としたことがわかる。本丸周辺の空堀が見どころ。

信秀は北の斎藤道三と戦いながらも、拠点は勝幡城、那古野城、清洲城、古渡城、そして末森城と三河方面の領土確保、拡張に重点をおく。

信長は父に反してひたすら北上し上洛を目指す。今川義元を討ち果たしても松平元康と同盟して三河方面を任せたのはご承知の通り。信長は早くから天下布武を意識していたと思いたい。

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kazu

広島城112万石から萩城36万石で再スタートした毛利輝元 (2021/04/14 訪問)

■萩城は慶長9年(1604)に毛利輝元が指月山麓に築城したことから、別名指月城とも呼ばれ、
山麓の平城と山頂の山城とを合わせた平山城。
本丸には高さ14.4mの五層の天守がありましたが現在は石垣と堀の一部が昔の姿をとどめています。
*天守台の石垣と背後の指月山、天守台跡の背後には詰丸があった指月山がそびえています。
扇のように勾配をもつ高石垣が美しい天守台は一見の価値有り!
*指月山は、花こう岩でできた山で、萩城には白い石が石垣としてたくさん使われています。
*西郷隆盛を擁する薩摩藩(鹿児島県)とともに幕末の主人公に躍り出る長州藩(山口県)。
 周防(すおう)国と長門(ながと)国を合わせた二国の中心として栄えた萩城。
*穴太衆(あのうしゅう)の技術で築かれた天守台の石垣は「扇の勾配」と呼ばれています。
*城跡は世界遺産「明治日本の産業革命遺産」の構成資産「萩城下町」に含まれる。



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にのまる

涌谷要害 (2021/07/04 訪問)

 JR石巻線涌谷駅から数分。かつての外濠、江合川の向こうの小山、石垣の上に模擬天守(町立史料館)が見えてきました。よき眺めです。土塀風に設えられた堤防も静かな城下町の田園風景に溶け込んでいて、暖かな春に白壁に映える満開の桜が目に浮かびます。
 城址に向かう途中の側道に茅葺の門が見えたので行ってみると涌谷伊達氏宿老、千石家の薬医門でした。表札も掲げられたままで、木戸はなくてもがっちりした骨組みや大きさに風格を感じます。
 涌谷神社への参道が登城路のひとつでしたが、鳥居崩壊の危険があるため通行禁止。ここから石垣を間近に見ながら模擬天守と現存太鼓堂に向かいたかったのですが我慢です。ちなみに太鼓堂脇からの下り道も通行止めでした。
 現存の石垣はこれぞ城壁といった存在感と反り。史料館内のパネルで知ったのですが、この石垣は2003年の宮城県北部連続地震の被害を受けたあと、伝統工法により復旧工事を行い、復元したのだそうです。
 史料館の展示では涌谷伊達家の史料が大変興味深かったです。また、購入した「伊達騒動と伊達安芸宗重」「伊達安芸宗重書状~伊達騒動を中心にして~」のほかに、フォーラム資料など数冊分けていただきました。一般書店に流通していない書籍や、その土地に暮らし歴史を受け継ぐ人たちによって綴られたり編纂されたりした資料や史料を手にすることも史跡めぐりの楽しみのひとつです。
 天保4年(1833年)再建と伝わる太鼓堂は天守史料館に並んでいることもあってか遠慮がちに見えますが、屋根に頂いた鯱は仙台藩一門の象徴。参道下の鳥居のあたりから見上げるとシンプルにしてシンボリックな二の丸隅櫓としての存在感を十分に感じることができました。
 江戸末期には多くの建造物が建ち並んでいたという二の丸広場を抜け、現在涌谷神社があるのが本丸。宗重公胸像が見守っていました。そして太平洋戦争犠牲者慰霊碑とその傍らの小さな戊辰戦歿諸士招魂碑。この地にも幕末維新の波に翻弄されつつ戦った人たちがいたことを知りました。

【お城川柳123】
 石垣を見上げてワクワク涌谷城♪

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赤い城

模擬天守だけでは無かった (2021/08/29 訪問)

これまで何回か登城していましたが続100名城に選ばれてからは初の登城。
駐車場が有料になっていました。
模擬天守は博物館になっていてスタンプもここにあります。
二の丸に建つ大多喜高校敷地内に井戸と薬医門が残っています。
ただ、見どころはここではなく(個人の印象です)駐車場から野鳥観察用の遊歩道かと思います。
栗山城へ続く尾根道が遊歩道となっていて途中堀切や土橋状となっている部分が。
なかなか楽しめる城でした。
元々は真里谷氏が築いた小田喜城ですが、本多忠勝が入り整備した城として有名ですね。

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青春の巨匠

意外と地元に大切にされているお城 (2021/09/01 訪問)

九戸政実の乱で九戸に加担して族滅した久慈氏の城。解説看板もあり、リーフレットも登城口においてあり、誘導サインもあり、下草もろみ刈ってあり、地元に大切にされているのが好感持てる。遺構は郭と何故か1箇所竪堀、堀切が良く残る。

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とら38

城址情報のお礼

疎開している時に、本家(父親の実家)の墓に名和城座頭と刻された先祖の数代分の石碑があり、家には少々の文書の写もあって、城に関する物は上野の博物館に供出してあると聞いていた。名和城は近所にあるものと思い、いずれゆっくり調べるつもりでいたが70年も経ってしまい、最近になって当時の友人に聞いても知らないとのこと、石碑の年号を全く記憶していないのと故老の話では江戸時代ではなさそうな気がしていた。
ということで偶々「城びと」を開いたら那波城祉探訪寄稿(本家の墓は名和城名)が目に留まりました。場所も本家とは遠くはなく、現在では母方の従兄弟住居の近所でした。写真の背景の山は赤城山ということも一目でわかりました。
先ずは探訪、寄稿された方に御礼申し上げたく寄稿いたしました。

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小城小次郎

こつこつ、こつこつ (2021/05/29 訪問)

羽城の守備についた永井直勝はここからこつこつ功を重ねて大名になった。大名から旗本に転落した松本藩水野家の水野忠広もこつこつ功を重ねて大浜陣屋で大名に返り咲き、更に沼津藩3万石までこつこつ昇った。

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higekam

標高1,500m以上の御坂峠に巨大な山城 (2020/11/22 訪問)

北条氏が武田の南下をはばむために大がかりな横堀、竪堀、土塁を駆使した圧巻の城。
実際に足を運んでみると、北条氏がいかに武田氏を恐れていたか理解できる。
新御坂トンネルの河口湖側入口すぐ横をはしる鎌倉古道ぞいに登城した。登城日、および翌日と好天に恵まれ富士山も堪能。

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AJ

スタイル抜群 (2018/08/30 訪問)

尾張・犬山城。現存十二天守および国宝五天守のひとつにして、国内最古の天守建築。現在見られる一、二階部分は1602年に築かれたとする説が有力だそうです。

名鉄犬山駅から徒歩15分程度。華奢ながら秀麗の一言に尽きます。それでいて北側に木曽川を備えた後ろ堅固な平山城。全国の復興・模擬天守が犬山をモデルにするのもわかる気がします。

創建は信長の叔父、織田信康。三英傑の時代はまだまだ黎明期。廻縁からは斎藤道三の稲葉山が伺えます(直線距離にして20kほどでしょうか)。時代の焦点はこの後、西へとシフトします。さらに徳川の治世でも、その位置付けは御三家の支城ということで安泰。地政学から微妙に外れるというのは最古級の現存天守にとって必須条件のように思われます(越前丸岡もそんな感じですね)。当然ながら、昭和の戦災も免れました。運も兼ね備えた城のようです。

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todo94

鹿 (2021/07/23 訪問)

前日に立ち寄った時は、駐車場が満車で断念。結構人気のスポットのようですね。朝一でなんとか駐車することが出来ました。往復の渡船料金と駐車場代、あわせて520円でした。渡船の屋根には鹿が載っていましたが、島で鹿に会うことは出来ませんでした。説明板の近くに石積が残っています。山頂の石積が古いもののようですが、よくわかりませんでした。

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織田晃司

夏草や (2021/08/29 訪問)

藪化と化して
蜂も居り
二の成先は
前に進めず

雪が気になりますが冬のほうが散策しやすいかと…

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城好きのメガネ

「星崎城」 (2020/04/06 訪問)

<オススメ>★☆☆☆☆
星崎城は築城時期は不明だが、織田氏の岡田重善・重孝が城主を務めたとされる。岡田重善は織田信秀の家臣として今川氏との小豆坂の戦いで功をあげ信秀より「七本槍」の一人として賞賛された。織田信長にも仕え、本能寺の変後は織田信雄に属した。子の重孝は、1583年に豊臣秀吉に通じた容疑で織田信雄から誅殺される。現在、遺構は消滅している。

<アクセス>
名鉄名古屋本線 本星崎駅 徒歩15分

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城好きのメガネ

「大高城」 (2020/04/06 訪問)

<オススメ>★★☆☆☆
大高城は、織田信秀の死後、織田信長が家督を継いだが鳴海城主・山口教継は今川氏に城と共に寝返る。大高城は沓掛城とともに今川氏の支配下に入る。織田信長は鳴海城を包囲するために丹下砦、善照寺砦、中島砦を築き、大高城との連絡を絶つために、大高城側に丸根砦、鷲津砦を築いた。桶狭間の戦いでは、今川氏の鵜殿長照が守備を任される。大高城に松平元康(徳川家康)が兵糧を届け、長照に代わり元康が城の守備についたとされる。その後、今川義元が戦死したため、大高城は再び織田氏の支配下に入るが廃城となる。現在、土塁等が遺されている。

<アクセス>
Jr大高駅 徒歩15分

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三浦の晃ちゃん

出世城 (2021/08/29 訪問)

石垣が好きです。
ショックだったのが、続100名城のスタンプが、押せなかったことです。コロナで、閉館中なので、休止でした。
どこか、近くに場所を変更して、置いて欲しかったです。
遠出してきたので、次は、いつ来られるのか、分かりません。(涙)

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三浦の晃ちゃん

カッコいい (2021/08/29 訪問)

緊急事態宣言が、出ていることは、100も承知なのですが、ガマンの限界にきてしまいました。遠出しました。
豊川が天然の要害であることが、良く分かりました。
石垣が、崩れていましたが、400年の歴史を感じました。
受付の方、換気と消毒の作業をされながら、お城のことを、いろいろ教えてくれて、感激しました。地元の誇りなのだと、いうことを、知りました。

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小城小次郎

結城秀康双子説は知らなかった・・ (2021/05/29 訪問)

池・鯉・鮒で「ちりゅう」と読ませる東海道の宿場町にはヤマトタケル伝説を持つ知立神社があり、知立城の永見氏はここの神職だった。結城秀康の双子の弟が永見氏に預けられていたかもしれないという話を今回初めて知った。

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