みんなの投稿

検索結果・・・「」を含む投稿

カズサン

圧巻竹田城石垣番外編 (2010/11/02 訪問)

 先に投稿したつづきです。
 百枚近く撮影して先に拾枚に絞りましたが捨てがたい写真を拾枚選び投稿させて頂きます。

 竹田城は豊臣政権下赤松広秀が天正13年(1585年)城主となり今日の姿に豊臣政権と共に改修完成させたと言われて居り以来約400年石垣の美しい姿を現在の人々に知らしめています、しかし400年保全は大変厳しく昭和46年から55年に掛けて修復工事が穴太衆の手により往時の野面積石垣が復元しました。
 修復復元後映画天と地とのオープンセットで天守閣、櫓、門が出現、TV戦国物ドラマでも活用されています、私が訪ねた12年間の平成22年11月上旬は年間の訪問者は2万人程度、朝霧に包まれた竹田城が天空の城、日本のマチュピチュとはやされ有名になってからは年間60万人、80万人と登城者が増えました、良い事ですが人が増えると事故とか遺跡の破壊が進み、ガイドロープが出来たり指定路以外は入り込めず、駐車場の制限、登城料金の徴収、季節により登城時間制限、冬場の登城禁止とか制限が付き保全管理が成されて居ます。
 いつまでも守っていきたい圧巻の日本一美しい山城です。今日この姿を見れる事に感謝です❣

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

tsuchinari

一番好きなお城! (2022/02/13 訪問)

まだ寒さが厳しい2月に久しぶりの登城。
ふいご峠から徒歩で10分ほどで山頂の城郭にたどり着く。山城としては比較的楽に登れるお城である。
備中松山城にはたくさんの魅力があるが、一番は大手門跡の自然の岩盤とその上に作られた石垣群。自然と建造物のコラボがおりなす壮大な迫力と美しさは、他に類を見ない。
幾多の戦によって歴史の表舞台になった戦国時代。
山頂に城郭がたつ臥牛山の麓に政庁が作られた江戸時代。
そして明治の廃城令によって朽ち果てた天守は、地元の方達の尽力で復活し、現在に至る。
備中松山城は今も尚、歴史絵巻の中にある名城であることを体感できた。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

モト

見応えある石垣の出現に感動 (2019/10/01 訪問)

城跡はちょっとした小高い山の上にあります。
入り口から登っていきますとそこまで時間がかからずに主郭に到着します。
登って行く途中に岩の間に祠のような物があります。
どのくらいで遺構が出てくるのかな、なんて考えていた所で石垣が登場!
その見事な石垣を見た瞬間に思わず声がでてしまいました。
現れた石垣を色々な角度から眺めてしまいました。
平石小口積という石垣ですが近辺はこの石垣が多いように思います。
主郭にも所々石垣があり、もう大興奮でございました。

長野県の中ではかなりおすすめの城跡だと思います。
皆さま、ぜひぜひ行って見てください。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

えるどらど

伊賀鉄道忍者列車で行ってきました (2022/02/26 訪問)

高石垣は流石の藤堂高虎様。
そして1612年に倒壊した後再建されなかった天守閣を1935年に私財を投げ打ち再建された川崎克という方の業績を知ることができる興味深い場所でした。
松本零士さんの絵でラッピングされた忍者列車の車内は「みえのき」で装飾されていて、拘りを感じます。どうか廃線になりませんように。

+ 続きを読む

カズサン

圧巻竹田城を妻と訪ねました (2010/11/02 訪問)

 母の三回忌法要の前日、故郷鳥取へ帰省途中、舞鶴若狭道、北近畿道経由して12年前の平成22年11月上旬に竹田城を探訪しました。
 車は山腹の専用駐車場を利用.。(当時は駐車可能でした)

 専用駐車場から以前は車通行可能だった道を北千畳下の登城口まで歩き、登城階段を見付櫓台下を通って大手桝形虎口から北千畳へ、石垣の素晴らしさに興奮状態、写真を撮りまくり、北千畳、三の丸桝形虎口、三の丸、二の丸弐の門跡、二の丸、本丸天守台が目前に、本丸に入り、天守台へ天守台には質素な梯子を登って行くが梯子が不安定、(現在は手摺の付いた階段が設置されてる様です)、天守台からの眺望に感激、圧巻の絶景です。
 北千畳方向二ノ丸、三の丸、北千畳を俯瞰、南千畳方向南二の丸、南千畳を俯瞰、花屋敷方向を俯瞰、天守台の横階段を降りて天守台、本丸を眺める、南二の丸へ、振り返って本丸天守台の石垣群を眺める素晴らしい重量感です、南千畳、南千畳より眺望を楽しみ、振り返って南二の丸石塁越しに主郭石垣群を写真撮影、本丸下の花屋敷へ降りる、土塀、多聞櫓跡の石垣台が三方を囲ってる、本丸石垣の眺めも素晴らしい。
 当時はガードロープ、指定道も無く天端石垣まで踏み込み観察探訪が出来ました、懐かしい貴重な写真です。
 妻も良く付き合った呉れました。

 鳥取への往路は国道9号線、高速の無かった頃は京都より9号線を通って子供たちも一緒に帰省した道で懐かしい思い出も詰まってる山陰道9号線を走りました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

小城小次郎

かつては中世的景観が広がっていたことだろう (2021/10/30 訪問)

古河公方被官の野田氏のお城だったが後北条氏に席捲された後は兵站基地として使われたらしい。お城と軸線が揃い南北に神社を擁する道路が今も残り、かつて町屋が広がり中世的景観が広がっていたことを髣髴とさせる。

+ 続きを読む

赤い城

主郭だと思ってたら違った (2022/02/26 訪問)

国道122号線に小さな案内板があり、ここを登って行くと案内板があります。
3ヶ所の登り口までの距離も書いてあります。
ここの広くなったスペースに駐車し高橋口まで歩くことにしました。
高橋口から登って行くと結構急峻、倒木もあり消耗します。
リボンも付いているので迷うことは無いと思います。
かなり登ると開けたガードレールの付いた場所があり、説明板も立っています。
ここが駐車場のようですが車でここまで来るのには勇気が必要かと。
さらに登ると東屋がある曲輪に到達します。
石碑や祠もあるのでてっきり主郭かと思ってました。
眺めは良いです。
富士山もてっぺんだけですが望めます。
帰って調べると主郭ではないと。
さらに進むと尾根上に堀切があり、また登っていった先がどうやら主郭だったようです。
中山峠へ続く尾根の先には土塁がありました。
引き返し関守口へ伸びる尾根を探しましたが主郭を間違ってたのでたどり着けず。断念しました。
事前の下調べが重要と再認識しました。
北条氏が築いた城ですが上杉氏や由良氏との争奪戦もあった城です。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

小城小次郎

スケール感までは破壊されていない (2021/10/24 訪問)

宗教施設だが受付を通れば見学可能エリア内には快く通してくれる。いろいろあって爆破されたのは紛れもない事実だが、このお城がもともと持っていたスケール感までは破壊されていない。今でもいい城だと思う。

+ 続きを読む

朝田 辰兵衛

江戸東京博物館(東京都墨田区) (2022/02/13 訪問)

にのまるさんが紹介してくださった『徳川一門ー将軍家をささえたひとびとー』を鑑賞しに行ってきました。想像を超えるクオリティでした。江戸の町を再現しているとは…。しかも,フラッシュ撮影可能エリアが多いこと,多いこと。3月6日(日)までの会期なので,お見逃しなく!

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ぴーかる

御着城 (2022/02/11 訪問)

【御着城】
<駐車場他>市役所出張所駐車場
<交通手段>車

<感想>御着城は赤松氏一門の宇野氏の庶流小寺氏、1519年に小寺政隆が築城したといわれています。山陽道の街道や町を取り込んだ惣構えの平城だったようです。御着城が小寺氏の本城として姫路城は支城とし黒田氏を城代として守らせました。3代目の政職の代になり家老の小寺孝隆(黒田孝高)の進言を最後は無視して別所氏の謀反に同調して離反、逃亡する。城は接収され廃城となったようです。
 現在は本丸跡には市役所の出張所となり北側に天川橋という復元橋の下が堀跡、二の丸跡はグランドで北側に土塁が残っています。また本丸跡西側に黒田家廟所があります。

<満足度>◆◇◇

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

トク

「がばい藩主」鍋島直正 (2022/02/27 訪問)

佐賀城は、龍造寺氏の村中城が前身の輪郭悌郭複合式平城です。幾重にも巡らされた堀と土塁に松の木が植えられ。一見沈んだように見える城(沈み城)と呼ばれてきました。
戦国大名の龍造寺隆信が沖田畷の戦いで死去してから、家老の鍋島直茂が実質上実権を握り、江戸時代に入り直茂が藩主となる事を幕府より認められ、1602年村中城の改修を開始し1611年に完成、佐賀城と名を改めと同時に初代藩主を子の勝茂に譲ります。

江戸中期になり、2度による大火で天守・本丸御殿(1726年)、二の丸御殿(1835年)は焼失。1838年10代鍋島直正は本丸御殿を再建し、併せて鯱の門を造ります(この門が現存)。

明治に入り1874年、江藤新平を中心とする明治新政府に不満を持つ士族が反乱を起こし(佐賀の乱)、鯱の門にはこの時の弾痕跡が今でも生々しく残っています。

現在、直正期の本丸御殿が再現され、内部は佐賀城本丸歴史館になっています。無料で入館でき佐賀城と佐賀藩の歴史が実によくまとめられていますので見学される事をぜひオススメします。

[佐賀城へのアクセス]:JR佐賀駅から佐賀市営バス佐賀城行(鯱の門の前が終点)。


【ここからはまた余談ですが】
鍋島直正は、フェートン号事件による藩の失態に学び、海防の重要性を説き、長崎警固役の役職を通じて、諸外国の情報や技術を積極的に収集。一方で藩校弘道館を作り人材を育成、その人材を登用し財政が窮地に陥った藩の藩政改革と近代化を行いました(大隈重信、江藤新平はこの弘道館の出身)。そして、反射炉や海軍所を作り幕府に技術供用する事で信頼を得ていきました。特にこの反射炉で、日本で初めて国産の大砲50門が造られ、日本各地の台場に送られていきました。佐賀城を訪問して直正とその藩士の偉業を初めて知り、佐賀の人は、まっこと「がばい」と思いました。(ちなみに島田洋七は佐賀城内の小学校の卒業生だそうです(笑))。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ばばよ

ふつうの公園 (2022/02/23 訪問)

葛西城址公園はびっくりするほど普通の公園。
名前がこれでないと全くわからない。
環七向こうの御殿山公園に案内板があり、公園としてもまだ雰囲気はある(遺構はない)。

●アクセス
京成青砥駅から徒歩15分
または
常磐線亀有駅から徒歩25分
 または亀有駅からバス

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

todo94

2巡目の続日本100名城のスタンプラリー51城目 (2022/01/06 訪問)

青春18きっぷでアプローチしたので昼頃の到着となりました。あいにくの雨天の中、無事、続100名城のスタンプをゲット。天守門の写真はずいぶんと撮影しやすくなっていました。天守内の展示がリニューアルされており、本丸南広場も整備されていて新しい説明板が立ち並んでいました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

カズサン

整備修復が進み見易く成ってます (2022/02/24 訪問)

 県を越えての移動が自粛中の武漢コロナウイルスオミクロン株感染禍中で静岡県城びと登録未踏の庵原山城、間門城探訪終えて、帰路静岡市清水区に在る小島陣屋を十数年振り探訪しました。
 車は前回と同じく龍津禅寺の駐車場を利用、参拝も忘れなく。
 駐車場は小島陣屋北側の裏門跡辺りの道が広く成ってる山側に2~3台縦列駐車可能、ごみ収集場横。
 駐車場は小島町自治会館、JAしみずきょうみ店が可能(ここは小島陣屋御殿書院の資料館の近くです)。その手前のウエルシアドラッグストアも可能かも?

 南東の大手枡形虎口より入る、手前で檻に入った大型犬に吠えれれますがそのまま進み、案内板と資料箱、桝形虎口の手前に白梅が満開、虎口大手東側の登り石垣は素晴らしい、見所の一つ、順路板が有り南下より西に進み最上段の石垣石塁が素晴らしい、各曲輪は以前畑に成って居ましたが、今回見た所、畑の耕作は無くなり曲輪状態に草は枯れて又刈られ大変見学探訪し易い状態、上段の石垣は修復中ですがほぼ完成してる、工事看板は期限R4年3月18日と成って居ました。以前より良く整備保存されています。
 井戸跡、稲荷跡の多段石垣曲輪、裏門跡、大手門跡、最上段の郭跡より枡形虎口、南、西の渓流筋を眺める、東側の高い多段6段石垣を見下ろす、登城前に住宅街の隙間から見上げる、相当の高さが有ります。
 酒瓶神社の藩主寄進の鳥居を眺めて、国道52号線沿いの旧小島陣屋御殿書院、現資料館を表より撮影見学、ちょっと古いですがトイレも有ります。
 国道52号線身延街道(トラック、ダンプ走行の風で煽られますチョット危険)を南に龍津禅寺駐車場へ、龍津禅寺には藩主正信公の墓石が有るそうですが参拝して居ません。

 

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

イガちゃん

四ツ山城跡 (2022/02/22 訪問)

周囲から一際高くそそり立つ山頂に立地し、北は荒川、南は市ノ川流域を一望できる要害の地に築かれています。
鉢形城と松山城の間にあって、鎌倉街道上道を監視し、交通路を押さえる重要な役割をしていたと言われています。
高台だけあって階段を登りますが、周囲を一望でき、土塁や堀切もしっかりと残っています。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

やま

萌える山城⑦ (2022/02/27 訪問)

これほど遺構がはっきり残っている城跡が神戸にあったとは驚きました。登城ルートは2つあり、新神戸駅裏から直接城に向かうルート(東曲輪群経由ルート)と、布引の滝経由で猿のかずら橋を渡って行くルート。どちらも急坂です。 基本「登山」ですので、登山靴は必須です。お勧めのコースは後者で、猿のかずら橋を渡ると細い尾根伝いに城跡までの道があり、時々曲輪跡があります。中央曲輪群手前で新神戸駅裏ルートと合流します。中央曲輪の入口手前には竪堀が確認でき、また城門があったと思われる場所の両側に曲輪と、石垣跡が確認できます。そこから50Mほど進むと城跡の案内板があり、縄張り図がありましたが、それと同じ遺構が確認できるため迫力満点。但し城跡として見学用の整備はされていないので、ハイキングコースを外れての城跡の見学は骨が折れました。本丸跡には城跡碑が建てられていてインスタ映えする感じです。また本丸裏に進むと全国でも珍しいとされる二重堀切跡があり、西曲輪群へと続きます。帰りは新神戸ルート(東曲輪群経由ルート)を下りましたが、数多くの曲輪跡が確認でき、萌えます。堀切、土塁、曲輪群などは城跡としても全国屈指のレベルだと感じました。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

小荷駄

岩崎城 (2022/02/25 訪問)

歴史公園になっています。駐車場トイレに資料館が有ります。しかも無料です。主郭から二の郭の堀は立派です。遺構が少なめですが資料館の資料や展示物は充実しています。城郭ジオラマを見てから散策しましだ。

+ 続きを読む

赤い城

川と尾根が守る天然の要害にさらに。 (2022/02/20 訪問)

先月行ったばかりですが、その際に出会った方に案内頂けるとのことで再訪。
南側に展開する尾根を歩きました。
倒木も多く立入禁止の看板もあるので登城の際にはご注意とそれなりの装備を。
さらにこの日は朝は雨、関東ローム層が威力を発揮。
滑りやすい細尾根はスリリングでした。
主郭である倉の台から最初の尾根を進んで行きます。
結構な高さの細尾根です。
引き返し倉の台下の巨大な岩盤堀切へ。
房総の城の特徴ですがあまりにも凄い。
これだけ削る労力ってどれほどのものなのでしょう。
近くには石積状の遺構もありました。
で、尾根部分に進んで行きます。
本来は遊歩道になっている部分も倒木で大変。
土橋を見上げながらさらに進むと東屋があります。
ここの下に曲輪がありますがその切岸がまた凄い。
垂直に岩盤が切り立っています。
東屋からさらに尾根を進むと大きな堀切。
ここも岩盤を削ったものです。
堀切の上には三角点があり、少し進むと飯綱大権現。
武者溜となっていて土塁も残ります。
さらに先の南東側の尾根の先には少し開けたような曲輪が。
ここから攻めて北的に尾根上から集中砲火できるキルゾーンのようです。
すでに満腹でしたが引き返し遊具がある郭下に。
ここにももの凄い岩盤堀切がありました。
見学に5時間超。
まだ見れていない部分もあるので次の冬に再訪したいです。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

カズサン

日本武尊が滞在した別称蝦夷城 (2022/02/24 訪問)

 城びと登録城郭静岡県未踏の城廻り、庵原山城探訪の後国道1号線バイパスを富士市へ途中道の駅富士で昼食、愛鷹山の西麓に在る間門城を目指す、国道1号線バイパスから県道76号線を北上、富士山が大きく見えるが曇って裾野だけ、ナビは間門浅間神社南側に合わせ新東名真下を潜り赤淵川を渡って直ぐ、門前に在るごみ収集場の村道三角コーナーに1台ギリギリ駐める。

 情報とガイドは古城盛衰記さん、GoogleMapによる。

 石碑「史跡蝦夷城跡」(エビスと読みます)が浅間神社の東側の道沿いに在る、内容は日本武尊が東征(西暦110年)の折にしばらく滞在したと伝わると刻まれて居ました。1900年昔に神話で名高い日本武尊の立たれた地を踏み訪ねた事は感激です。
 浅間神社は木花之佐久夜毘売命を祀っています、日本武尊を助けた妃で有名です。
 
 浅間神社の奥段に五社神社三柱、奥山尾根道に祠が一柱有り奥は崖で赤淵川に落ちて居り、背後を護ってる状態、西は赤淵川、東も河川が守りそれなりに地形の利を取り込んでいる、西の赤淵川沿いに土塁が在る様に見えるが土塁かどうかは不明、チェブさん、とある煩悩の登城目録さんの投稿写真に在る土塁写真の跡が見つからず。(浅間神社の橋一つ南に在ったのですね!)
 帰ってから城びとの城跡位置と古城盛衰記さんの城跡位置のマークが違い、城びと位置は浅間神社の有る所から南に橋一つ南の畑に在り、当日スマホで詳しく確認すればと後悔。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

Yosihiko

天守閣無し (2022/02/27 訪問)

攻城址🏯9城、攻城址5

何も無くて残念。

+ 続きを読む

+ すべての写真を見る

ページ939