こんにちは。
躑躅ヶ崎歴史案内隊の甲冑案内人、Eこと上田絵馬之助です。
当隊は、山梨県甲府市にある躑躅ヶ崎館(史跡武田氏館/現・武田神社)の歴史案内活動を不定期に行う甲冑ボランティアガイド集団です。
自分で言うのは正直憚られますが、境内を普通に歩くだけでは見落としがちな史跡を、楽しくわかりやすく(しかも無料で)説明するので、案内した方々からは好評をいただいてます。
躑躅ヶ崎館のことや当隊のことを知ってもらいたく、オンラインで(もちろん無料で)ご紹介します。
躑躅ヶ崎館跡は武田信虎公・信玄公・勝頼公の三代にわたって武田氏の居館としてその興亡の歴史を見守ってきました。現在は敷地内に信玄公を祀る武田神社が創建され、神社を囲む土塁と堀に当時の面影を残しています。
境内の2箇所に設けられた案内板には、各曲輪配置平面想像図(縄張図)、東・中曲輪平面想像図(屋形図)の2つの平面想像図が解説文とともに描かれていて、戦国の頃の武田氏館の姿をしのばせてくれます。
ガイドにとってもこの案内板、境内の案内をする前に、何が残っていてどこを回るのかを説明するのにたいへん便利です。
…便利、なのですが…
ここで、2つの想像図をもう一度ご覧ください。
おわかりいただけたでしょうか。
これ、重なりません。
屋形図に「東・中曲輪」とわざわざ書いてあるのに、
縄張図に描かれる東・中曲輪には、天守とか石積みの仕切りとかが描いてあるので
肝心の屋形が収まるスペースがないんです。
実は…この縄張図と屋形図は、時代が違うのです。
屋形図は甲陽軍鑑を編んだ小幡景憲が描いたと伝えられる「信玄公屋形図」または「伝来の絵図」と称される古絵図をもとにしています。
信玄公がお住まいになっていた屋形として、描かれる施設は甲陽軍鑑など文献との一致も多く、また、永禄11年(1568)に建てられたといわれる毘沙門堂が描かれていることから、信玄公晩年の頃のものと考えられています。
ところが、信玄公逝去から時が流れた天正九年(1581)、勝頼公が本拠地を新府城(韮山市)に移した際に、躑躅ヶ崎の屋形は打ち壊されたと伝えられています。
一方の縄張図ですが、これは古絵図や発掘調査をもとに描かれています。
現在武田神社が所在する主郭部分が東曲輪と中曲輪に区切られてますが、この仕切りの石積みや天守台、西曲輪の南にある梅翁曲輪などは、天正10年(1582)の武田滅亡後に甲斐を支配した徳川、豊臣が作ったものと考えられています。
つまり、縄張図は武田家滅亡後の躑躅ヶ崎館の姿を描いたものです。
徳川、豊臣の両氏は甲斐に入国すると勝頼公が破壊した躑躅ヶ崎館跡に入り、改修・拡張を行って防御力を上げ、甲斐統治の拠点にふさわしく整備しました。
同時に、現在の甲府駅近くにより大規模な城郭として甲府城を築き、文禄3年(1596)頃に完成するとこれに移り、
以後、躑躅ヶ崎館は廃城として大正8年(1919)の武田神社の創建を待つことになります。
話を戻しますと、信玄公の屋形は東曲輪・中曲輪が仕切られる前の主郭部分にあったことになるので、
2つの図面を重ねるには、縄張図の東・中曲輪の天守やら仕切りやら灰色の部分を取っ払うのが正解です。
屋形図のとおり躑躅ヶ崎館は、甲斐国守護の屋形として主殿造の建物や渡り廊下、泉水を備えた庭があったと考えられています。
また、縄張図にある天守台や梅翁曲輪などは一部が現代にも残り、徳川・豊臣の当時の築城術が導入されたことがうかがえます。
平成の発掘調査で泉水や仕切りの石積みと思われる痕跡が発掘され、想像図の裏付けがされています。
ガイドを始めた頃、時代の違いに気づかないままうっかり案内板の説明を始め、途中で気がついて、
「重ならないっ! これ、重ならないよ! お客さんに指摘されたらどうしよう!?」
と内心アセりながらも平静を装ってなんとか説明したことも、今となってはいい思い出です。
当隊ガイドは日々研鑽し、最新の研究を織り込んだ案内をするよう心がけています。
活動は不定期ですがTwitter(https://twitter.com/KoufuSamurais)で告知しています。興味がありましたらご覧ください。(E)
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