小倉城は関門海峡を押さえる九州側の要衝の地にあり、紫川の河口にある輪郭式平城です。室町時代には、大友氏・大内氏。小弐氏による争奪戦が行われていましたが、大内政弘公が豊前国をほぼ掌握するに至りました。
その後も、大友氏と毛利氏との合戦が重ねられましたが、大友氏の高橋鑑種公が小倉城を居城としています。
天正15年豊臣秀吉公の九州征伐によって、高橋鑑種公は日向国へ移封となった後は、毛利勝信公が豊前の企救・田川両郡に6万石を与えられ小倉城に入城し改修、本丸、北の丸、松の丸を築いています。
その後、関ヶ原の合戦で毛利氏は改易、代わって細川忠興公が豊前国一国と豊後二郡合計39万9千石を与えられ入封しています。忠興公は最初、中津城に入りましたが、慶長7年から小倉城を大改修して居城としており、以後、小倉城は小倉藩の本城となっています。
この時に造られた天守は5層6階で屋根に破風を付けず、4階・5階を画す部分には屋根がない独特なもので、南蛮造りと呼ばれています。
その後、細川氏は肥後熊本に転封となり、播磨明石城主であった譜代大名の小笠原忠真公が15万石を領し、小倉城に入り明治維新まで10代2百数十年続いています。
現在の小倉城は勝山公園、八坂神社となっており、復興天守・模擬櫓が建てられ、曲輪、本丸・松の丸・北の丸・石垣・堀が残っています。当初の天守閣は、高さ23mで天守台の広さに至っては、熊本城より広かったとされています。
この城の見所は、復興天守とはいえ南蛮造りを模した天守閣がカッコイイ(#^.^#)のと、松の丸の石垣と堀(現存)です(*^▽^*)
また、八坂神社の建物も良いフインキを醸し出しています。
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