しがじょう

志賀城

長野県佐久市


旧国名 : 信濃

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岸壁
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昌官忠

(長野県&岐阜県方面城巡り)1日目:志賀城 (2023/04/18 訪問)

平賀城から転戦。雲興寺駐車場(36.249953、138.529219)に駐車し、登城口(36.250233、138.529656)に向かいました。

築城年代は定かではないようですが、笠原氏によって築かれたと云われています。
1540年(天文9年)頃から甲斐の武田氏が佐久へ侵攻し、1545年(天文14年)頃には郡内の諸城は武田氏によって陥落し、残すは志賀城の笠原新三郎清繁のみとなっていました。
1546年(天文15年)武田信玄自ら佐久へ侵攻すると、上野国菅原城主高田憲頼父子が援軍として志賀城に駆け付け守備を固めます。
さらに関東管領上杉憲政は金井秀景を大将として援軍を送ったが、小田井原で武田の家臣板垣信方や甘利虎泰などと合戦となり大敗を喫してしまいました。
この合戦の大敗によって籠城兵の士気も下がり、城は陥落、城主笠原清繁をはじめ高田憲頼父子などが討死しました。
落城後、城内に立て籠もっていた女・子供は捕虜として甲斐へ送られたそうです。

志賀集落にある雲興寺参道入口に志賀城への道標が出ています。
志賀城へはお寺の東側から墓地へと続く道を登っていけば山頂まで整備された道が付いていますが、倒木が多く途中で予定時間も過ぎた為、断念しました。
参道に石積の通路があり、曲輪にも所々石積が残されています。
攻城時間は70分くらいでした。次の攻城先=大井城に向かいました。

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姫街道

見所満載! (2022/05/05 訪問)

雲興寺の駐車場から登城。山頂を見上げるに、「恐ろし断崖絶壁の岩城」が現れました。山頂は、階層的な曲輪。曲輪間は堀切+土塁に石積が多く見られました。石積がいつの時代なのか不明ですが、もし戦国期の築造であれば、個人的には国指定級に感じます。虎口と想像される箇所に巨石が使用されている箇所もあり、「凄い!」を連呼。城も大切にされているようで、刈り込まれた細枝で逆茂木が所々組まれてました。必ずまた来ます!

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赤い城

断崖絶壁のその上に (2021/11/27 訪問)

雲興寺の駐車場に車を駐め、本堂右手の登城口から登っていきます。
すぐに石積も見られるなど期待十分で登っていきます。
登城路はわかりやすいです。
登って行くと巨岩の岩肌が聳え立っています。
この上が城、自然の要害でここが攻め落とされるなんて、と。
信玄はやはり強かったのですね。
城域は東西に伸びていて堀切や石積も施された曲輪が並んでいます。
主郭背後には堀切、二郭の先には断崖の堀切、というか崖になっていました。
テープも張ってあり、進むのは断念しましたが。
降りる道を間違えてしまい、反対側に降りてしまいました。

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生首3千 (2021/11/25 訪問)

 雲興寺より登城路が整備されています。崖っぷちの道を歩きますが、概ね迷うことなく城址に行くことができます。Todo94さんが述べておられたように落ち葉が積もっていて滑り落ちそうになるところもありますので要注意です。登って行くと岩壁が姿を現します。所々、石積みが残っていて楽しませてくれました。尾根の上に築かれた城址ですが南側は断崖となっています。東端は岩盤の堀切となっています。城址としては結構楽しむことができました。
新田次郎の「武田信玄」を読んだ時から行きたいと思っていた城址です。この攻城戦のエピソードは印象的で援軍に来た上杉勢の首級3千を並べて、戦意を喪失させ落城させたことや、落城後は籠城していた非戦闘員の男女を含め過酷な処置をしたことなど、中学生のころ読んだと思いますがずっと覚えていました。
昨年登城する予定でしたが新型コロナウィルスの影響で今年となりましたが行くことができたよかったです。

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城郭情報

分類・構造 山城
築城主 笠原氏
築城年 戦国時代
主な城主 笠原氏
廃城年 天文15年(1546)?
遺構 曲輪、土塁、堀切、石積
住所 長野県佐久市志賀
問い合わせ先 佐久市観光協会
問い合わせ先電話番号 0267-62-3285