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チェブ

ガードをくぐってタイムトラベル? (2021/05/02 訪問)

横浜市の金沢八景にある、六浦藩主 米倉さんの「六浦陣屋」で写真をパチッ。
疾きこと風の如く退陣しました。

もともと武田氏に仕えていた米倉氏。武田家滅亡後、徳川家に仕えます。

金沢八景駅近くのコインパーキングに車を駐車し出陣。写真③の高架下のガードをくぐると左手が「六浦陣屋」です。
遺構は石段が当時の物とあり、道路からパチッ。
今でも米倉氏の末裔の方がお住まいの御宅があるという情報に、それ以上は控えました。
引き返し、写真②の右側が「六浦陣屋」です。

帰って来て横浜・横須賀の海近くに「六浦陣屋」があった事を確認し、外国船に慌てたんだろうな、なんて、、、。

風の如く退陣した「六浦陣屋」の米倉氏は長い歴史を繋いでます。

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イオ

極楽橋復元 (2021/09/05 訪問)

平安末期に郡山衆が築いた城(雁陣之城)がはじまりで、織豊期には織田信長の大和一国破城令により筒井城から筒井順慶が入城し、天守を築くなど居城として改修しました。順慶の死後、筒井定次は伊賀上野に転封となり、代わって入った羽柴秀長が大和・和泉・紀伊100万石の居城に相応しく大規模に改修、現在見られる曲輪と城下町を築きました。秀長と豊臣秀保の死後は増田長盛が入城し、惣構の外堀を完成させましたが、関ケ原の戦いで西軍に与したことにより長盛は高野山に追放され、大和郡山城は奈良奉行所の管理下に置かれます。大坂夏の陣では、城主となっていた筒井定慶が豊臣方の誘いを拒んで大野治房らの攻撃を受け、福住中定城へ撤退しましたが、一戦もせずに城を捨てたことを恥じて自害し、大坂の陣終結後には水野勝成が入りました。その後、松平氏、本多氏を経て、江戸中期には柳沢吉里が入封し、柳沢氏のもとで明治を迎えました。廃城令により城内の建物は撤去(移築)されましたが、昭和に追手門、追手東隅櫓、多聞櫓、追手向櫓を復元、平成には天守台を修復、今年(令和3年)3月には極楽橋が復元されています。

西ノ京丘陵の南端に位置する平山城で、京街道、奈良街道、伊賀街道、高野街道に通じた交通の要衝であり、城郭部を内堀と中堀で区画し、城下町を5.5kmに及ぶ外堀と土塁で囲んだ惣構の巨大城郭です。発掘調査で発見された礎石により天守の存在が確認され、慶長期二条城を経て淀城に移築されたと考えられています。

大和郡山城は2年半ほど前に登城していますが、今回のお目当ては前回は復元工事中だった極楽橋と、周辺の曲輪と堀、そして外堀めぐりです。まずは復元された極楽橋へ。本丸と毘沙門郭を隔てる内堀に架かる橋で、構造の詳細は不明ながら、江戸期の史料や発掘調査の成果に基づき木造で復元されました。本丸へ至る大手道だけに高欄に擬宝珠を設けた立派な造りで、橋の上から内堀を見下ろすと、堀の深さと幅広さを実感させられます。橋を渡ったところの白沢門付近はまだ工事中で、引き続き整備されるようです。柳澤神社にお参りして天守台に登る前に、東側の月見櫓趾へ。ここからは内堀に架かる極楽橋がよく見えます。天守台はさかさ地蔵が有名ですが、それ以外にも転用石があちこちに見られます。付櫓台から天守台に登ると、展望台からは奈良盆地を一望する絶景! やっぱりいいですね。

本丸周辺は前回ひとめぐりしているのでこれくらいにして、竹林門を出て中仕切門の前を通って、今度は周辺の曲輪と堀をめぐります(続く)。
 

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肉球

戸神代代官屋敷・宮﨑家屋敷・埼玉県越生町 (2021/09/11 訪問)

案内板によりますと
太田道真と道灌親子によって再建された龍穏寺。
その寺領を江戸時代江戸詰めだった住職の代わりに差配していた宮﨑家の屋敷跡です。
このお寺は関三刹任命され全国の曹洞宗寺院15,000寺を統制していたようです。
のちに十万石の格式を与えられ永平寺の貫主は関三刹(下野大中寺・下総總寧寺)
から選ばれるようになったようです。 

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肉球

解体されてました (2021/09/11 訪問)

元は今川家家臣のち徳川家康に仕えた安部氏の陣屋跡。
跡地には僅かな案内板があるだけで遺構はありません。
市内の全昌寺に移築されていた門が解体されたようでガッカリ。
以前見学した時トタンで覆われていましたので老朽化のためかと思われます。
保全できないものですかね〜

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ひで

案内板のみが残る (2021/09/12 訪問)

仙川駅から徒歩20分程度、島屋敷通り沿いを歩いて
たどりつきました。団地の中の案内板のみが遺構ですが、
団地の敷地が広いので探すのに苦労しました。
団地の広場に青いフレームの案内板があります。
柴田勝重の屋敷跡という伝承が案内にありますが、
仙川駅くら島屋敷通りを歩いている途中にある春清寺
には柴田勝重の墓所も残っています。

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キンヤ

溝口秀勝の生誕の城 (2021/09/05 訪問)

城主は織田氏に仕えた溝口勝政で、長男の溝口秀勝の生誕地とされます。
秀勝は、丹羽長秀、織田信長、豊臣秀吉などに仕え、関ヶ原の戦いでは東軍に属して越後新発田藩の初代藩主になっています。

民家のようで寺には見えない成願寺に石碑があります。

実際の城跡は成願寺から南西へ150m位の辺りであったようで、今は空き地や田んぼになっていました。

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キンヤ

蜂須賀小六の生誕の城 (2021/09/05 訪問)

木曽川の川並衆であった蜂須賀氏の城で、蜂須賀小六(正勝)の生誕地と云われます。
小六は、織田信長や豊臣秀吉に仕え、最後は阿波徳島藩の藩祖になっています。

城跡には立派な蜂須賀小六公顕彰碑と城址碑があり、南西側の圓龍院には蜂須賀小六公旧宅跡碑があります。
北側にある蓮華寺は小六の菩提寺で、奥の院には小六と息子の家政の墓碑があり、水堀や土塁が見られ城のような雰囲気もありました。

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T-Shionoya

初めての古河城跡地巡り (2021/08/28 訪問)

先月は茨城県古河市にある古河城に寄ってきました。

古河城があったのは渡良瀬川の東岸で、沼地に囲まれた半島状の微高地。
下河辺荘の北部に位置し、2代足利義満の時代からは鎌倉公方領となった場所。
元々江戸湾に注いでいた渡良瀬川(太日川)は古くから流通があったでしょうし、陸路は鎌倉期に鎌倉街道中道、江戸期には日光街道が整備され、関東の中心地と東北を結ぶ中継地点でした。

主な城主は、まず鎌倉を奪われ1455年に古河公方を設立する足利氏。
足利成氏は城の整備終了後、古河鴻巣館から移転。
江戸期は小笠原氏らが城を拡張し、長く城主を務めたのは土井氏。
土井利勝により御三階櫓や本丸御殿が建てられました。

現在の古河城は、中核部が渡良瀬川の堤防と河川敷の下。
遺構は住宅地に点在する丸ノ内、観音寺曲輪、諏訪曲輪(古河歴史博物館)の土塁と、公園になっている古河公方鴻巣館跡ぐらい。

個人的に縁ある古河ですが、初めて城郭を巡ると、その広さと諏訪曲輪の立派な土塁に徳川将軍の宿泊地であったことを納得。
カメラトラブルや落し物のタイムロスがあり、クルマと徒歩で滞在時間は3時間。
古河のイメージが少し変わった、私のお城巡りの110城目でした。

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Nabeppu

ターニングポイントになった城

重要な城ではあるが、目立つ遺構は本丸の内堀くらい。

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Nabeppu

北条の拠点のはずなのに何故か真田推し

1つ1つの堀がとても深い、堆積物の関係で一見分からないが、角度が鋭いので、薬研堀の堀なのかも。

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Nabeppu

小振りながらも堅固な防御施設

本郭後ろのささ郭下は崖になっており、敵の侵入は不可能、反対側の本郭と二郭の間の屈折した空堀は広くそして深い。小さいながらも守りに固い城であることがわかる。

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Nabeppu

典型的な連郭式の山城

各郭ごとに横堀がキッチリ掘り込まれている。二郭の北と南の虎口はどちらも横矢掛しまくりという感じ。

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Nabeppu

勝頼を迎えるはずだった御殿

大河ドラマ真田丸のオープニングで、お馴染みの岩櫃山の麓にある潜龍院跡。短期間で建設されたと伝わっていますが、石垣は見事です。

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Nabeppu

シッカリとした石垣の城

群馬県内にあって、ここまでシッカリとした石垣の城も珍しい、見応え十分。

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カズサン

北馬出薬医門復元続板塀の板張り進捗確認と大手外馬出確認 (2021/09/11 訪問)

 静岡県も武漢コロナウイルス緊急事態宣言延長で9月12日から9月30日まで自粛対応、県境を越えての往来自粛が今月いっぱい続きます、県内で動ける所をと諏訪原城を訪ねました、山城探訪の慣らし、車の移動の慣らしバッテリー上がらない様に、諏訪原城の復元続板塀(二の曲輪北馬出薬医門復元板塀)の赤くさび止めが剝き出しのままの状態進捗確認の探訪です。
 
 今年の1月から3月6月と復元板塀の進捗確認をしてますが本日も鉄柱剥き出しのまま本年度末には何とか成るのでしょうか?
 
 そんな訳で探訪はビジターセンターから二の曲輪中馬出、北馬出、薬医門、復元途中の板塀間の往復、探訪時間も有るので今までの探訪して無かった大手外馬出跡、全て茶畑に成ってますが復元石畳の東海道菊川坂沿いに三日月型に周辺が段差をもって遺構が残ってますが案内板説明板は有りません、ビジターセンターで頂いたパンフレットの案内図を頼りに探訪。
 
 自宅から1時間程の移動で到着、10時の開館前でしたが既に車は2台駐車、10分前に開館していただいて資料ゲット、帰りにはビジターセンター前の駐車場は満車で全て県内車、広いので見学者と接触する事は有りません感染対応は問題有りません。

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ひで

渋谷駅からすぐ (2021/09/11 訪問)

井の頭線渋谷駅から徒歩10分程度の距離にありました。
金王八幡宮という神社で、渋谷のビル群の中に思ったより
広い敷地の立派な神社が遺構としてありました。
宝物殿には中世の城の模型や書物もあり、由緒書も沢山あって、想像以上に城址の雰囲気を感じれました。

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ふゆづき

早雲の見た風景 (2021/09/08 訪問)

北条早雲の旗揚げで有名な興国寺城を訪問。
東海道線原駅から、コミュニティバス(ジャンボタクシー)の時間が合えば、これに乗車して東根古屋で下車(予め運転手さんに興国寺城を訪問する旨をお伝えしておいた方が良いと思います)。徒歩の場合には、原駅前から続く「興国寺城通」を突き当たりまで一直線に歩くと、登城口に到着します(徒歩約25~30分)。

城の入り口には、 興国寺城跡を中心にした整備を行っている旨の看板が立っていますが、正直城内の整備状況が進んでいる訳ではありません。
遺構は本丸を囲むような土塁、天守台のための石垣の一部と本丸の後背を守る大空堀のように見受けられましたが、 城の規模としてはそれほど大きいものでは無く、今川時代には支城の一つという扱いであったことが理解できます。

しかしながら、本丸跡(または天守台跡)に立つと、目の前に駿河湾と伊豆半島が良く見えることに気づきました。
ここの城主になって以降、早雲は毎日伊豆半島を見ながら、伊豆を自分の手に入れる日のことを指折り数えていたと妄想するのは、それほどおかしなことでは無いように思います。今川家が早雲をここに配したことが、後北条家興隆のきっかけなのでしょうが、歴史のいたずらの一つであったことがわかるように感じました。

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sakappa

港から篠島城趾は歩いて10~15分ほど。 (2021/09/10 訪問)

知多半島の先っぽの師崎から、船に乗って行ってきました。
行きは5分ほどで篠島に着きます。
主郭みたいなところは、そこそこ広く平らになっています。
土塁もなさそうだったので、柵だけで囲んでいたのかなと。
いくつかの民家の敷地内みたいな道を登っていくのですが、それが、段郭だったところに家を建てたのか、家を建てるから平らにしてみたのかはよく分かりません。
東海道も伊勢湾は海の道ですし、篠島は、位置的に渥美半島の先っぽや志摩にも近く、戦略上にも交通上にも要衝だったことが行くとよく分かります。

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トベシュン

久しぶりの山城めぐり (2021/09/10 訪問)

天気が良さそうだったので久しぶりの山城巡りに行ってきました。

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ぴーかる

小浜城 (2021/07/17 訪問)

【小浜城】
<駐車場他>南門跡北側にコインPあり。
<交通手段>バイク

<見所>堀・堀切・資料館・町並
<感想>小浜(こはま)城は永禄年間(1558〜1570)に寺内町として亳摂寺を中心として発達しました。小浜の地は西宮街道・京伏見街道・有馬街道の合流地点街道の要で寺内町は台地状に北東側から流れ込む大堀川を利用し、東に堀溜池を造り、北~西側にかけて人口の堀川を廻らしている。信長の本願寺攻めの際には信長方に付きその難を逃れている。豊臣時代亳摂寺の娘が豊臣秀次の側室となっていたために秀次事件の後この小浜は焼き討ちにあっている。焼き討ち前後どちらかは分からないが、秀吉が秀次事件のあと有馬に湯治に行っているので間違いなくこの地を通っている。そこまでするか、すごい神経しているな、晩年の秀吉は。焼き討ち後江戸時代は小浜は宿場町として再発展し酒造り等も盛んになりました。

 まず資料館を見学し小浜の見所ビデオ、寺内町のジオラマと館員の方の説明はとてもいいです。資料館横に山中家(山中鹿之助の子孫宅)住宅庭に秀吉・千利休が茶の湯に利用した「玉の井」という井戸が残されています。資料館内からしか行けません。そのご資料館前にバイクを駐輪させてもらい散策、亳摂寺、南・東・北の木戸跡、首地蔵、大へんふるい道標(石柱)、江戸時代の高札、寺内町北の大堀切と大堀川等見所多いところ、2時間以上たっぷり楽しめます。

<満足度>◆◆◇

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