玄界灘に突き出るような満島山に築かれた唐津城は、1602年から7年の歳月をかけて寺沢広高が築城しました。築城にあたっては、名護屋城の解体資材を利用したと言われてきましたが、正保の絵図には、天守台はあるものの天守は描かれていません。つまり天守はなかったようです。現在の天守は、昭和41年に「肥前名護屋城図屏風」に描かれている天守をモデルに観光目的で造られただけなので、分類上「模擬天守」です。ならば、名護屋城の解体された天守はいったいどこに消えたのか🤔? という疑問もふと湧いてきましたが、まあ今回は桜を見にきたので、あまり深く考えずにまず登城する事にしました。(大手門は伊達政宗が仙台に持って行ったのはみなさん御存知と思います)。
天守の中は博物館になっていて、唐津城の歴史や歴代藩主の資料(寺沢→大久保→松平→水野→小笠原氏に関する物)が展示されています。また天守最上階から眺めは絶景です。天気のいい日に訪問される事をぜひオススメします(天気の悪い日は風が強いため最上階は閉鎖される事があります)。桜は満開に咲いていました(2022.03.27撮影)。ここは桜もですが5月上旬になると藤の花も綺麗に咲き乱れるそうです。その頃また来たいです😊。
【唐津城へのアクセス】JR筑肥線「唐津駅」から徒歩15分です。
【余談:初代藩主 寺沢広高】
寺沢広高は、元々長崎奉行役を通して、このあたりの地理に精通しており、名護屋の地に城を築く事を秀吉に進言したのも広高と言われています。そして自らは、唐津の港から武器兵糧や人を運ぶ役目を担いました。(それで唐津という地名は、唐(=朝鮮)へ物資を運ぶ津(=港)からきているのですね!)。そして、九州の関ケ原では黒田官兵衛の東軍についたため唐津の地を家康より安堵され、初代唐津藩主となり唐津城を築城しました。新田開発を奨励し、「虹の松原」に代表される防風林を作るなどして新田を保護し、凶作の時は減免するなどしたため、唐津の領民からは慕われていたようです。ここまでは順風満帆の人生でした。しかしこの後、新たに加増された領地にて起きた出来事で、寺沢家は断絶になる程の大事件が起きてしまいます😲!。この続きは、いずれ富岡城で 😱~。
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