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higekam

信長が武田対策で築こうとした城 (2020/03/01 訪問)

美濃国の東部で最大の敵、武田の岩村城に対抗しようとして築いた城。
脆くも武田家が弱体化しこの城の建設は中断するが、武田滅亡後数ヶ月で信長も逝く。
小規模だが、まるで信長の人生を象徴するかのようなこの奇抜な城跡が好きで、私は何度も訪れている。

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新ろくべえ

富戸の築城石採石場に行ってきました (2021/07/25 訪問)

富戸の築城石採石場に行ってきました
ここは城ではなく江戸城に運ばれる江戸城石垣に
使われる石を採石する所です
何個か割った後もあり刻印があるいしもありました
説明看板もあり分かりやすいです
ですがあぶないので身軽で動きやすいような服装をおすすめします
(3~4、5くらいのおこさんと70いこうの方はいくことをおすすめしません)

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新ろくべえ

八寸環濠遺構にいってきました (2021/08/18 訪問)

八寸環濠遺構にいってきました
ここは何もなくて遺構もない城ではないように感じる城です
説明も石碑も盛りあがる跡もないので当時がどんなのかはよく分からない
城に関する情報が無く城情報のせられないのでそこはご了承ください

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新ろくべえ

原之城遺跡に行ってきました (2021/08/18 訪問)

原之城遺跡に行ってきました
この城は城というよりかは古代の館跡です
ちかくは田んぼが広がっていて駐車場はなく跡は何もないです
あるのは原之城遺跡の説明看板だけです
〔城情報〕
・築城年代6世紀
・平城
・豪族居館
・主要城主?
・居館の長さと形 東西約100m×南北約170mの長方形
・堀幅20m
・面積30000㎡(全国最大級らしい)
・遺構 消滅

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イオ

和具城(三重県志摩市志摩町和具) (2021/08/01 訪問)

和具城(城びと未登録)は、詳細は不明ながら室町期に青山氏(和具氏とも)によって築かれた城で、青山豊前守は九鬼嘉隆の侵攻に対して越賀氏らとともに抵抗した後、和睦して九鬼水軍の一員となり、九鬼氏がお家騒動で転封された際には、青山氏も和具を離れて摂津国・三田に移りました。

和具城は和具漁港東側の丘陵地に築かれた城で、南に太平洋を見渡せる位置にあります。駐車場はないので丘陵西麓の道路脇に路駐して登城開始。西麓の登城口から民家に至る舗装道を上って行くと、ほどなく目前に主郭西辺の切岸が現れます。切岸をよじ登り、土塁の上から主郭内部を見ると、下調べでは畑とのことでしたが、時季的にもすっかり藪の中…。越賀城の笹藪よりは遥かにましですが、藪蚊が飛び交う中を突入する気力もなく、主郭西部の虎口とその脇の石積みを確認して退散しました。

藪や虫が(蛇も獣も)嫌なので、夏場の山城は避けていますが、丘城でも未整備だと同じことですね。鳥羽城や田城城、この後に行った波切城はよく整備されていて問題ありませんでしたが、越賀城と和具城は夏に訪れるのは無理がありました。…冬でも無理かもしれませんが。
 

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赤い城

別名は内城館 (2021/08/13 訪問)

上野原駅北口から徒歩で20分くらい。
鶴川の河岸段丘上にあります。
上野原駅は北口と南口の高低差がかなりあり、城の南側は崖で守られていたことが想像できます。
城跡には中央道が走っていて、稲荷神社に説明板が立っています。
これによると地下には遺構も眠っているかもしれません。
明確な遺構はありませんがカルビンさんの投稿にある畑は確かに堀跡と思われます。
城の知識はまだまだなので皆さんの投稿には大変お世話になっています。

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higekam

広大な縄張りが見渡せる (2021/03/23 訪問)

冬枯れの時期、手入れも良くされており縄張りが良く理解でき、堪能。往時は石垣も多用されていたことも分かるが、相当破却されているのが至極残念。豊臣政権時、大和三城のひとつだったというのも納得できた。
 帰路の途中、近くに又兵衛桜という立派な枝垂れ桜があると聞き寄り道。大坂の陣で戦死した後藤又兵衛が実は生き延びてこの地で余生を送ったという言い伝えがあり、その住まいにあった枝垂れ桜がこれだという。

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イオ

海に突き出た岬の城 (2021/08/01 訪問)

詳細は不明ながら、室町期に越賀氏によって築かれた城で、九鬼嘉隆の侵攻に対して、越賀隆俊は越賀城に籠城して抵抗した後、和睦して九鬼水軍の一員となり、隆政、隆春と三代にわたって九鬼氏に仕えました。

太平洋に突き出た小さな岬に位置し、三方を海に囲まれた単郭方形の城で、北側の集落との間を堀切で断ち切っています。堀切の西端に主郭に至る登城路が設けられていますが、時季的に藪に沈んでいて突入するのはためらわれます。それでも勇を鼓して、藪をかき分け蜘蛛の巣を払いながら進んで行くと…主郭もやっぱり藪の中でした。下調べでは中心部は畑とのことでしたが、もう何年も放置されているようで、笹藪が激しく茂っていてとても入り込めません。かろうじて北東隅の土塁に石組みの穴(井戸? 古墳跡?)が見られたくらいでした。

なお、越賀城から西に車で約3分の普門寺は、隆春が隆政のために建立したとされる越賀氏の菩提寺で、境内には越賀氏三代の墓所があります。普門寺の寺紋は越賀氏の家紋と同じ桧扇(七本骨扇)のようですが、門の脇には桧扇紋の瓦が並べられていました。
 

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じゅんじん

汗だく (2021/07/23 訪問)

箱根を越えて小田原城行く前に石垣山城へ。3回目ぐらいですがここからの海の眺めはいいですね。荒々しい石垣も見もの。小田原攻めのために築くとはよく考え付いたものだ。

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朝田 辰兵衛

しりとりロスもあった… (2019/07/16 訪問)

今回は,川柳ロス…。
それも「性(サガ)」ということで,佐賀城を。

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新ろくべえ

今村城石碑が民家に (2021/08/17 訪問)

たまたまネット検索で見つけた今村城に行ってきました
石碑があると聞いて車で登城しました
あるていど遺構があると思い調べようとしましたが
雨でいけず、さらに石碑が民家の前にあり行きにくかったので
あきらめました。
そのご城びとで今村城があり、赤い城さんやチェブさんが石碑を取っている人がいて
つぎは石碑の写真と遺構の状況を調べたいとおもいます
(城情報は情報が無かったのでまたのきかいに載せることにします
ご了承願います)

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あまり

竹田城 石垣 (2021/08/15 訪問)

竹田城ってすごいよね!
私は評価ニキみたいに批評できないけど、とにかくすごいよね!ね!(圧)

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higekam

真田氏の山城に石垣が (2020/10/03 訪問)

真田幸隆は真田本城を拠点としたとされるが、さらに山奥の松尾古城を根城という説もある。この城の本丸は石垣で囲まれていると知り、違和感を感じながらも訪問。

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higekam

小笠原流石垣 (2020/11/15 訪問)

小笠原家の拠点からさらに北方向に位置するこの城の石垣を見るために訪問。

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イオ

九鬼岩倉神社 (2021/08/01 訪問)

戦国後期に波切城主・九鬼泰隆が鳥羽進出のために築いた城で、その孫・浄隆の代に北畠氏の支援を受けた志摩七党と呼ばれる地頭たちに攻められ、戦の最中に浄隆が病死(討死とも)し、まだ幼い澄隆が家督を継いで叔父・嘉隆の補佐を受けるも落城。澄隆と嘉隆は朝熊山に落ち延びました。その後、織田信長に仕えた嘉隆が北畠氏を破ったことで、澄隆は田城城を回復しましたが、九鬼氏の実権を嘉隆に握られたまま病死(嘉隆による毒殺とも)し、嘉隆が本拠地を鳥羽城に移したことで廃城となりました。

加茂川と河内川に三方を囲まれた丘陵地に築かれた城で、かつては周囲は湿地帯だったようです。国道の九鬼岩倉神社前交差点近くに石鳥居があり、その脇に田城城跡の標柱と説明板があります。鳥居をくぐり階段を上って行くと神社の境内に至ります。ここが主郭のようです。東西に細長く広がる主郭の北辺と南辺には土塁(状の土盛り)が見られ、東奥に九鬼岩倉神社の社殿が建てられています。

九鬼岩倉神社は嘉隆の子・守隆が澄隆を祭神として祀ったとされますが、そうせずにいられないあたりが毒殺説を裏付けているようにも思えます。ともあれ、訪れた時も氏子の方々が境内の整備をしておられました。今なお大切にされているようです。
 

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小城小次郎

現地に立てばわかることもある (2021/05/29 訪問)

松平元康が兵糧入れに成功した舞台の城として有名だが現地は「もー」っとした緑の平原でしかない。堀底の木を伐採するだけでも景観が変わるのだが。ただ現地に立つと桶狭間前夜の緊張感だけは味わうことができる。行けばわかる。

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tshimojima

毛利の中国支配のための城 (2019/03/17 訪問)

毛利輝元の創建のお城だけあって、時代が騒乱から安定に向かう時代に建てられています。それゆえ防御よりも広島の水路を利用したつくりになっています。

現在も広島の都市の中心にあることから城下町の経済・物流の中心的な役割を果たしているのがよくわかります。

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higekam

備中高松城から南に数kmのところ (2021/03/16 訪問)

水掘で囲まれた小さな四方形の郭が残っている。現在さらに住宅が堀までせまっているため撮影に苦労した。
石垣は西面によく残っている。戦う城の石垣にしては優しい。

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higekam

宇喜多家の武威を誇示 (2021/03/16 訪問)

この地区に散在する国衆を臣従させるために作ったたといわれる本丸石垣。そうは言ってもと思いながら初めて目にした時は唖然とした。

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higekam

徳川御三家の城 (2021/03/29 訪問)

とはいえ戦国時代に藤堂高虎が築いてから幾度となく手が加えられており、折々の時代の石垣が楽しめる。

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