高柳館は,謙信家来の鬼小島弥太郎館と伝わっています。妙高市高柳1丁目,高柳集落の北端部。関川と渋江川に挟まれた河岸段丘上の先端部に位置。関川と渋江川の両方を水運として利用でき,拠点機能もあったのではと思われます。現在は,東側と南側に堀跡を遺し,その交差隅部に「鬼小島弥太郎館趾」の石碑があります。また,渋江川には「弥太郎橋」が架けられ,パネルもあり,地域から親しまれている印象です。
高柳陣屋は,高柳館の南側に位置する速念寺の東側一帯にあったとされます。館の内,馬場,外堀などの地名・通称を残すのみ。渋江川の氾濫などで,この地はたびたび被害に遭っていたようです。しかし,速念寺のシンボルとなっている鐘楼は,1829(文政12)年製。寺は火災もなく現在に至り,新潟県内最古の過去帳が残っているとのこと。
★鬼小島弥太郎伝承★
1561(永禄4)年9月10日の第4回川中島合戦の際,武田軍の山県昌景が4尺3寸の大太刀を振りかざし,上杉軍と戦いました。敵味方とも「あっぱれな勇士」と褒めたたえます。
そこに,「三国一」と書いた旗指物を風になびかせ,山県隊に突入してきた荒武者あり。これぞ,小島弥太郎一忠なり。互いに「相手にとって不足なし」と,大太刀で火花を散らすが,勝負つかず。
実はその時,武田義信が上杉軍に包囲され苦戦中。山県は「ご覧のとおり主人義信が危うし。武士の情け,この勝負を許したまえ」と請う。小島は「主人を思うは武士の習い。許し難いところであるが,貴殿の忠節に免じ,この勝負は後日にしよう」と引き揚げた。
山県は心中「小島は花も実もある武士だ。鬼とは,誰が名づけたのだろう」とつぶやき,一目散に主人のもとに駆けつけた。
ところが,上杉軍団の中に小島弥太郎の名前が出てこない。そのため,架空の人物という説もあるほど。しかし,小島弥太郎に関する伝承は多い。軽く6尺を超える背丈で,顔は醜いなど。
また,妙高市蔵々(ぞうぞう)に小島姓が多く,弥太郎の子孫と伝わります。小島家は景勝の会津移封には従わず,蔵々の地に土着したとの伝承です。蔵々は,トキ鉄妙高高原駅前の田口集落からさらに奥に入った集落となります。目ぼしいものはありません(たぶん)。
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