2度目です。古式な新しい大手門が美しい✨。城門もいくつか復元されており整備が進んでいます。次は御三階櫓希望。
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2022/02/11 21:18
2022/02/11 21:11
市民センター (2022/01/16 訪問)
昔は水戸城がある台地が伸びてその端部に築かれていたとのことです。干拓で切り取られ今では城址碑のみです。
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2022/02/11 21:06
2022/02/11 21:02
道路沿いに土塁が残る (2022/01/30 訪問)
この日は東上線を乗り鉄で廻りました。
青鳥城、武蔵松山城、高坂氏館、大堀山城と廻り締めがここ。再訪です。
霞ヶ関駅から徒歩で15分ですがこの日は大堀山城から歩きました。
館跡は史跡公園になっていて塚状遺構や井戸跡、堀跡が復元されています。
西側の道路沿いに土塁が残っていて脇に石碑が立っています。
河越氏衰退後に常楽寺が建てられました。
その後、上杉憲政が河越城攻めの際にここに陣を置き、北条氏の時代には大道寺氏が改修したとされます。
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2022/02/11 21:01
2022/02/11 19:33
[鎌倉殿の13人]関連史跡 源頼朝上陸地 (2016/11/12 訪問)
頼朝の後を追う様に史跡紹介しようとしたところ、千葉県に逃れる為に船出した地を訪問していない事にこれupする際に気付きました(涙)
しかも千葉県で活動したと思われる史跡が見当たらないんですな~・・・これは早くも企画倒れの予感が(すまんorz)
とりあえず更新するつもりだった[源頼朝上陸地]の記事を書きます。
ここは石垣山合戦で敗れた源頼朝が再起を誓って平家勢力から逃れた地・・・ですね。
自分が碑石と解説版を見つけたのは城びとにも登録されている勝山城を訪問した際で、ホント偶然見つけて立ち寄った訳で。。。
特出したものがある訳ではないので、この上陸地だけを見に行くのはちょっと勿体ないです・・・
景色が良かったのが何よりでしたが(^^;)
ちなみに源頼朝上陸地は南房総にも有る様で、どちらが正しいのかは定かではありません。。。こちらは公共交通機関では行けなさそうな場所だったので、今後も縁がなさそうですが。。。
他に頼朝関連のネタが手持ちでは鎌倉にある像と墓所くらいしか無いなぁ。。。もっとあると思ってたんですが・・・
コロナが落ち着いたらとりあえず発見した未訪問の数ヶ所行こうかと思います。
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2022/02/11 17:52
伊勢亀山城 (2022/02/10 訪問)
亀山駅から徒歩でゆっくり回って宿場町まで含めて三時間位でした。北帯曲輪、埋門、等北側が特によかったです。
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2022/02/11 17:14
くねくねドライブ。 (2021/12/26 訪問)
昨年末に城攻めした山梨県の「上野原城」です。
古都氏が築きました。
この古都氏、北条 義時さんVS和田 義盛さん=和田合戦で、滅亡します。
大河ドラマ『鎌倉殿の13人』に登場するかな?と、うっすら期待。
武田 信玄さんの時代には家臣の加藤氏が入城しました。
「上野原城」は武田氏と運命を共にします。
「上野原城」は皆さんが投稿されているように、住宅地にあります。車で来たので、長居できません。
私は、東京から山梨方面に向かって、国道20号を使いました。
大垂水峠を走り、相模湖を過ぎ、左手に『緑のラブレター』がみえたら「上野原城」はもう少しです。
この辺りの50代くらいでドライブ好きな方だったら分かると思います。
なんと「上野原城」の加藤 景忠さんの『加藤神社、加藤塚』が東京の端っこにあります。
それはまた、話しが長く脱線しそうなので後日にします (´∀`*)
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2022/02/11 17:10
寅年の信貴山詣 ~支尾根の曲輪群~ (2022/01/15 訪問)
(続き)
立入屋敷を抜けて西に進むと北側に堀切があり、その先に松永屋敷の西側を平行して北にのびる尾根(仮に北西尾根とします)の曲輪群が続いています。堀切は切通道になっていて、松永屋敷から直接来ることもできるようです(たぶん)。堀切を越えて北に少し行くと二条目の堀切があり、その先の曲輪の北下に三条目の堀切があります。堀切の東端は竪堀になって続いていますが、下の方は藪で見通せませんでした。堀切の北側は自然地形の緩斜面になっていて、その先に北西尾根で最大の曲輪が南北に広がり、西辺から北辺にかけてを低い土塁で囲んでいます。北辺の土塁の下は高さのある切岸になっていて、下りて行った先の北端の曲輪でビニールテープを目印に東下に向かうと斜面に石垣が遺っていました。
西尾根には多くの段曲輪が設けられていて、高安山からの登城道の虎口や土塁があるようですが、あまり整備されておらずよくわかりませんでした。
立入屋敷に戻って今度は北東尾根に向かいます。説明板の縄張図に「水の手」とある谷の向こうの尾根沿いに階段状に小曲輪が設けられており、何段か下りてみましたが、こちらは全くの未整備で特に目ぼしいものは見付けられませんでした。さらに帯曲輪を南に進んで東尾根へ。こちらも段曲輪が三段ほどあるだけだったので、戻ろうと切岸をよじ登っていると石積み(らしきもの)を発見。遺構かどうかはわかりませんが、灌木と藪をかき分け、切岸を登り降りまでして見つけたので遺構と思いたいところです。
…ということで、見落としはあるものの何とか全ての支尾根を探索できましたが、登城開始から3時間あまりが経過し、次第に日が傾いてきていたので少々焦りました。ただ、信貴山城を満喫した分、朝護孫子寺をじっくり見て回る時間がなくなったため、お参りはまた今度にしてそのまま帰途につく羽目に。…って、寅年だから朝護孫子寺にお参りに来たんとちゃうんかーい!(笑)
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2022/02/11 16:17
【山城・醍醐寺】京都府京都市 醍醐の花見 (2011/04/11 訪問)
11年前の平成23年4月中旬、親鸞聖人750年御遠忌大法要の行事を終えて故郷因幡門徒衆と季節は好、京都は桜で装って居り、秀吉公が最後の花見をしたと言われてる醍醐寺へ花見と洒落込み満開の桜に感動しっぱなし、人出も多く仁王門を通るまでは数珠つなぎ状態の人並、枝垂れ桜にも感動、初めての醍醐寺の花見と参拝でした。
三宝院の唐門は皇室の紋、豊臣の紋が並び金ぴか迫力ある門です。
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2022/02/11 15:49
御香宮神社に移築大手門在り (2011/04/11 訪問)
親鸞聖人750年御遠忌大法要を故郷因幡組門徒衆と西本願寺でご縁にお会いした翌日、五條坂の大谷本廟の納骨堂、仏堂をお参りし昼食を伏見区京町の魚三楼で豪華京料理ランチを因幡の門徒衆と一緒に美味しく頂く、食後の休憩時間を利用して近くの御香宮神社へ、表門が伏見城からの移築大手門との事でしたので寄って伏見城大手門の観察見学、「香」の良い水が湧き出たとの由緒が有る御香宮神社を併せて参拝見学。
御香宮神社住所:京都市伏見区御香宮門前町174 探訪日平成23年4月11日
伏見城は模擬天守閣小天守を中学校の修学旅行で見学が最初の登城、高校研修旅行、社会人に成って1,2度で新幹線で目を凝らして眺める事数知れず、数十年近くには行っていません、移築大手門を見学出来たのは大変ラッキーでした。
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2022/02/11 08:35
讃岐の海城 (2022/01/02 訪問)
入口は東入口と西入口の二つある。高松駅から近いのは西入口だが、大手から入りたければ東入口からが良いだろう。東入口には『玉藻公園駐車場(無料)』もある。
旭橋という橋を渡って、旭門を通り、巨石を積み重ねてつくられた枡形に入れば、高松城の防御性も体感出来る。
旭橋は斜めに掛かっており、横矢をかけられるように造られている。
枡形を抜ければ、桜の馬場という大きな曲輪に入る。
本丸までは、直線距離に直せば近いのだが、反時計回り周されて、距離を稼がせられる。
三の丸には披雲閣という御殿がある。昭和天皇、皇后両陛下が宿泊した部屋もある。しかし、披雲閣は普段は一般公開されてない。
狙い目は正月三が日である。高松城自体、無料開放であり、且つ、披雲閣も一般公開されている。更に、月見櫓、水手御門も一般公開されている。
正月は高松城も良いかもしれない。
三の丸から二の丸へ。特に遺構は残ってないが、往時、櫓があった石垣が残っている。
いよいよ本丸へ。鞘橋という屋根付き橋が二の丸と本丸をつないでいる。
鞘橋から天守台の石垣がよく見える。また、海水がとても澄んでいて魚が確認できる。
本丸の天守台は立派。天守は無いが、往時は南蛮造り(3重4階地下1階)の天守があったらしい。
今は礎石が残されており、勉強になる。
自販機、トイレは比較的に多い。高低差がないので気軽に登城できる。
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2022/02/11 06:58
2022/02/10 22:04
連投になってしまった! (2022/01/30 訪問)
前回の投稿以降どなたの投稿も無く結果的に連投に。
前回は藪でいまいちでしたがこの時季は歩けます。
三郭の方から入るとすぐに空堀があります。
残念ながらゴミも投棄されていますが遺構は良好。
その内側に二郭があり、主郭との間にも空堀があります。
主郭には祠がありました。
主郭に入るところに説明板もあり、主郭を囲む堀も綺麗に見ることができました。
詳しい築城者は不明ですが扇谷上杉氏が築いたとの説が有力だそうです。
前回は楽しめなかったけどこの時季ならなかなか良い。
整備されたら良いのに、と思う城です。
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2022/02/10 11:15
2022/02/10 10:42
石垣が良く残っている (2011/04/09 訪問)
瀬戸内海を見下ろす山稜に築かれて居る下津井城は慶長のはじめ宇喜多秀家によって築かれたが関ヶ原後小早川秀秋の治める所と成ったが3年で改易、慶長8年(1603年)池田輝政の息子忠継28万石が岡山藩に入封、支城の下津井城は輝政の弟池田長政3万2千石が城主として一大整備が成され、城は慶長11年に現在の遺構に見るような本格的な形態を整えるに至る。後、池田由之、荒尾但馬、池田由成の歴代城主を経て一国一城令のため寛永16年(1639年)廃城と成る。
雲を突き抜ける様な利神城を築城し、余りにも凄い城郭ゆえ幕府のお咎めを恐れた輝政より三層天守閣破却を受けた池田由之が下津井城城主でもあったのですね、息子の池田由成が最後の城主、廃城後由成は近くの倉敷市藤戸町に岡山藩家老とし天城陣屋を構え移った。(案内板抜粋、一部加筆)
廃城後の石垣も良く残って居ましたので探訪時の残存石垣を中心に、①本丸西前石垣塁、木々が多く全体写真が良く撮れませんでしたので南側部石垣、➁二の丸北側の石塁石垣、上に多聞櫓でも在ったのでは?と思わせる幅、③三の丸南下の石垣、④二の丸南下出隅石垣、⑤二の丸南下の西側石垣と桜、⑥三の丸二の丸南面石垣を土留止石垣、⑦三の丸東面石垣、黄色い花と、⑧中の丸跡内部と桜、前の投稿で抜けて居たので、⑨三の丸東面石垣と帯曲輪手前石段、➉西の丸虎口自然石の大岩活用。
まだまだ有るのですが10枚に絞って投稿します。
景観整備、石垣の修復が進んでより良く整備保全され多くの方に訪ねて頂きたい城跡です、景色眺望も素晴らしい。
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2022/02/10 10:28
初登城 (2022/01/08 訪問)
初めて訪れましたが、櫓も複数残っており、天守もよく復元されているなど想像以上に良いお城でした。また、最近話題の大洲城をバックにJR予讃線を撮影することができました。
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2022/02/10 08:15
寅年の信貴山詣 ~松永屋敷~ (2022/01/15 訪問)
(続き)
林道を北に下って行くと高安山方面への分岐があり、西に入ると信貴在城衆の立入勘介の屋敷跡とされる立入屋敷があります。立入屋敷は雄嶽の北に扇状に広がる支尾根の要の位置にあり、主郭と支尾根の曲輪群を結ぶ重要な曲輪だったようです。立入屋敷の見どころは北下の松永屋敷との間の切岸で、とんでもない高さと角度で聳え立っています。
松永屋敷は南北に階段状に削平された広大な曲輪群で、西辺に断続的に土塁が続き、最下段の曲輪の東部に両側に土塁を備えた虎口が開口しています。また北に一段上の曲輪との間には坂虎口が設けられていて、厳重な防御ぶりから松永久秀の屋敷跡とされるのも納得です。上段の曲輪の北下には腰曲輪があり、腰曲輪から東斜面に回り込むと、段々に設けられた小曲輪群の下に堀代わり(水の手?)の池が水をたたえていました。
松永屋敷にはあちこちに説明板が建てられ、木製武者(時節柄マスク姿)もあり、高低差のある曲輪間の移動用に仮設階段が設置されるなどよく整備されていて、これまで屋敷跡を面白いと思ったことはあまりなかったんですが、尾根を切り拓いてこれほどの規模の曲輪群と急峻な切岸を造成するには、一体どれほどの土木量が必要だったんだろうと考えると圧倒される思いでした。往時の松永久秀の絶大な権勢を感じます。
松永屋敷の東側の曲輪群は木沢期からの屋敷跡と考えられますが、中央を通る林道により改変されていて、土塁らしきものはあるものの、よくわかりません。また、説明板の縄張図によれば曲輪群の北端には切り通しがあるようですが、見付けられませんでした。
さて、松永屋敷に続いては時間の許す限り支尾根の曲輪群をめぐります(続く)。
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2022/02/10 07:38
限られた地形をうまく利用している (2021/07/11 訪問)
大佐倉駅からの徒歩でしたが、地図にある道が細かったり舗装があまりされていなかったりと不安になりました。
まずは東側の駐車場を目指しましょう。
案内所はきれいで、スタッフの方も親切。
いただけたパンフレットのクォリティが高い!
高さや広さがすごいわけではありませんが、上手にアクセントをつけている印象です。
限られた地形をうまくくふうしており、先に訪れた佐倉城よりも堅固な作りであることが容易に伝わります。
夏だからか台風の跡なのか、東光寺ビョウからセッテイ山にかけての道がいまいちわからず藪の中を歩くハメになりました。
※くふうを変換したら、不適切としてはねられました
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2022/02/09 23:41
城さんぽ (2022/01/29 訪問)
高槻しろあと歴史館へ。
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