人の頭というのは存外重いらしい。負傷後に自害した隊長の首だけ持って退却しようとしたが1人では運べない。仕方なく2人で髪を持ってぶら下げて逃げたーー。
12-17歳で編成された約60人の「二本松少年隊」は会津の白虎隊同様、戊辰戦争の悲劇として今なお語り継がれています。北上する新政府軍を白河で食い止めるため、増援要請に応じた二本松藩。その結果、自分達の城内は致命的な人員不足に。そこで自ら参戦の意志を告げたのが子供たちでした。
親はしんどかったに違いありません。二本松城入り口に置かれた少年たちの銅像は有名ですが、実はその脇にもうひとつ。大人の陣羽織を縫い上げて子供用に丈を合わせる母親の像があることはあまり知られていません。
さて、肝心の城はというと、さすが元祖「100名城」というべき平山城。見応え、歩き応え十分。攻めにくさという点では、歩きながらふと伊予松山を思い出しましたが、それもそのはず。小田原後、蒲生氏の次に二本松に入ったのが加藤家だったのです。城は室町期から改修と拡大が繰り返されたため、遺構はバラバラで年代特定できないものも含まれます。そんな中、最も古いとされるのが本丸周辺。
95年に復元された本丸石垣は、北に天守台を備えています。ただ、天守そのものが存在したという記録はありません。もともとこの石垣は、直木賞受賞作「塞王の盾」で知名度が増した近江の石工集団・穴太衆が積んだもの(一部職人が蒲生の国替えに帯同)。復元作業でもその技術が伝承されているのがわかります。
とにかく一番古い遺構をお望みとあらば、本丸下南面の大石垣がおすすめ。大形の野面石(未加工の自然石)と粗割石を使った壁はかなりの威圧感。近くには今も湧き出している井戸。と、ここまで見せられると当然「籠城」オプションが頭に浮かびますが、実際にはそうなりませんでした。歴史の綾というやつでしょうか。
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