細川藤孝が堅固な城に大改築した。細川藤孝の継子、細川忠興と明智光秀の娘、明智玉(細川ガラシャ)が結婚式を挙げた。また明智光秀が山崎合戦の時雨のため鉄砲が使えなかったためこの城に逃げ込み、最後に全力で鉄砲を撃って戦っていた。その後坂本城に敗走するところ小栗栖で農民に殺害されたと伝わっている。しかし、そんな資料は明智光秀の資料からは見つかっていない。豊臣秀吉が決めつけたとの説もある。他に考えるのは生存説である。代表的なものは天王山を通って大阪の本徳寺に逃れ出家し天海と名乗ったという説がある。定かではないが僕はこれを信じたいです。
勝竜寺城本丸には模擬櫓が建っています。石垣は模擬が多いですが、一部現存しています。枡形虎口も残ってます。城びとには石垣が現存とは書かれていません。また、少し離れたところに神足公園がありそこが勝竜寺城の入り口とされています。そこには立派な土塁が残っています。
御城印は長岡京駅の観光センターに売ってます。城には売ってません。
評価(1〜5)
遺構:3(思ったより残っていました)
建物の美:2(ちょっと城らしさがないのが残念)
行きやすさ:4
攻城時間
勝竜寺城全般だったら30分、山崎合戦関係のところも行くなら90分くらい
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