やながわじょう

梁川城

福島県伊達市

別名 : 鶴ヶ城、鶴岡城
旧国名 : 陸奥

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庭園側の土塁
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しんちゃん

芸術の街 (2024/09/16 訪問)

梁川城の一部は伊達氏梁川遺跡群として国の史跡に登録されています。古くは3代・義広か4代・政依のころより本城として使われてきたと考えられていますが、はっきりはしません。大手は北についていたようで、旧梁川小学校の正門のあるあたりは江戸時代には門として使用されていなかったようです。東と南に二の丸が配され、西に三の丸、さらに西側と北側には侍町が配されていたようです。
梁川町にはブロンズ像が多く据えられています。広瀬川にかかる広瀬橋には2体のブロンズ像があり「風呂上り橋」‥じゃなかった、「芸術の街」の雰囲気を感じさせてくれます。近くに梁川美術館があるので周辺にも設置されたようです。男性像もありますが、なんか後から「履かされた」感があります。倫理的な問題ですかね。

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しんちゃん

伊達政宗・千載一遇の好機を生かせず。 (2024/09/16 訪問)

伊達政宗「ここは将来、伊達市になるので梁川城を返してください」
上杉景勝「いやです!」
直江兼続「お断りします!」
‥慶長5年にそんなやり取りがあったかどうかは知りませんが、梁川城の投稿です。
古くは文治5年(1189)に伊達氏によって築城されたという説があるようですが、伊達氏3代・義広か4代・政依(1227~1301)のころの物と見られる遺物が発見されており、かなり昔から伊達氏の居城として機能していたようです。豊臣秀吉による奥州仕置によって伊達氏が岩出山城(宮城県大崎市)に移ると、梁川城は蒲生氏の持城となり、後に上杉景勝の持城となって城代として須田長義が置かれました。
慶長5年の関ヶ原の合戦の東軍勝利に際して旧領の復活を望んだ伊達政宗が梁川城を攻めましたが、結局落とすことが出来ず、引き上げたとのことです。かつて梁川小学校が有った場所が本丸の跡で、周囲より小高い位置にあります。南西にはうっすら、土塁が残っているようにも見えます。また東側には庭園が整備された状態で残り、背後に土塁らしきものが残されています。

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にのまる

3時代の大手口 (2023/09/09 訪問)

白石城見学後、白石駅から福島まわりで行ってきました。福島駅には6路線が乗り入れていますが、阿武隈急行は初乗車です。きょろきょろしながら目的の列車をさがすのも楽しかったです。
「政宗ブルーライナー」に揺られて梁川駅に向かったのですが、『政宗ダテニクル』のラッピング列車は先月、約7年間の運行を終えたのだそう。貴重な乗車経験となりました。

車窓からリンゴ畑など素敵な景色を楽しみ、梁川駅で下車。
広瀬川を渡り、江戸末期の楼門の残る本覚寺に寄ってから梁川城へ行きました。
城へのアプローチを実感しながら最後の坂を上がると、松前藩時代(江戸後期)の大手門跡の説明板がありました。この坂道が大手道だったようです。
左手に広がる広場が本丸跡(伊達氏館跡)で、見どころである「心字の池」は少し奥まったところに復元されていました。「ここをまっすぐ→」という大きな案内板を設置してくださっていたので堂々と突っ切って、広場の真ん中で主殿や会所を思い描き、庭園にかの時代の華やぎを感じと、想像の世界に浸ってきました。
明治期に本丸に移転した梁川小学校は震災で被災し再移転したようです。空間放射線量掲示板にはっとさせられました。

隣接する浅間神社で地元の方と少しお話しさせていただいてから本丸跡を反対側から見てみようと歩いていると「上杉氏時代の大手門」にぶつかりました。階段のあたりに櫓門を載せた石垣があったのだそうです。
周辺の鉤型も当時の名残かもしれず、初めての土地の住宅地散歩も何だかとっても楽しかったです。

この先に土塁が残っているようだったのでさがしに行くとそこは「伊達氏時代の大手口」。鉤型の大きな土塁が残っています。まだ夏の盛りで近づききれなかったですが、見ごたえ充分でした。

図らずもではありますが、伊達氏・上杉氏・松前藩領時代の大手口を確認することができて、記憶に残るうれしい城旅となりました。

帰りは「やながわ希望の森公園前駅」(駅名長い!)から。(梁川駅より本数が少ないので要注意です。)
無人駅で券売機もなかったのですが車掌さんがぱっちんぱっちんの補充券で作ってくださいました。





☆☆ブルボンも新潟だったのですね!
アルフォートは“水色派”です。んまい^m^

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徳川宗春 (2023/09/28 訪問)

 伊達氏11代持宗から14代稙宗まで伊達氏の本拠地であった城址です。ここは伊達氏に続いて蒲生氏、上杉氏の領地となっています。その後、尾張藩主徳川光友の3男松平義昌が梁川藩3万石を立藩しました。梁川藩は4代通春が尾張本家を継いだため廃藩となりました。この徳川通春は徳川宗春のことです。天領などを経て、幕末には松前藩領となり明治維新を迎えました。かなりおもしろい歴史を持った城だと思います。土塁や復元された本丸の庭園などを見ることができます。

 阿武隈急行のやながわ希望の森公園駅から徒歩5分くらいで行くことができます。梁川駅から歩いても約15分です。

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城郭情報

分類・構造 平山城
築城主 伊達朝宗
築城年 13世紀中期?
主な改修者 須田長義
主な城主 伊達氏、蒲生氏、上杉氏
廃城年 寛文4年(1664)
遺構 曲輪、石垣、土塁、横堀(水堀)
指定文化財 国史跡(伊達氏梁川遺跡群)、県史跡(梁川城跡及び庭園)
再建造物 復元庭園、碑、説明板
住所 福島県伊達市梁川町字鶴ヶ岡
問い合わせ先 伊達市教育委員会教育総務課
問い合わせ先電話番号 024-577-3245