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カズサン

富士山遠望と甲府・城旅 (2009/11/08 訪問)

 13年前平成21年11月上旬、富士山と甲府の城旅へ家内と出掛けました、夜明け前の富士山と富士に昇る太陽を見れたらいいなくらいの気持ち早朝浜松自宅を出発し、東名富士ICから国道139号線を甲府方向、精進湖湖畔で黎明の富士山を遠望、薄曇り状態で日の昇る姿は諦め甲府へ、女坂峠トンネルを抜けて国道358号線下って行く甲府盆地に抜ける辺りは私個人では三大桃源郷の一つと思ってる景勝です、桃の咲く頃は素晴らしい。(後は福島県伊達郡、長野県飯田盆地)
 山梨県考古博物館前を通って甲府城へ、車は以前山手渡櫓門が復元して直ぐに探訪した時に駐車した駐車場が穴場かなと思って居りましたので、山手渡櫓門の駐車場を利用。

 甲府城見学、家内と同伴ですのでサラッと稲荷櫓、稲荷曲輪西の高石垣、鍛冶曲輪内堀、遊亀橋辺り、山手渡櫓門桝形土塁に登って甲府城天守台、稲荷曲輪北面の城郭城塁を眺める、丁度中央線の列車入りツーショット写真、昼食は山手渡櫓門近くの中央線沿いに再開発整備されたレストラン、小店が揃い良い町並みを醸してる、イタリアンのレストランで頂く1時間の昼食タイム。
 甲府城をこの後少し訪ねる、日曜日ですが人では少ない。 この後平成25年には本丸鉄門が復元されてる。

 甲府城の後、2~3km程北の躑躅ヶ埼館、武田神社を訪ねる、車はやっとの事で武田神社専用駐車場へ駐める。

 躑躅ヶ埼館、武田神社は観光客、七五三始め参拝者で大勢の人で賑わって居ました、写真ポイントの武田神社神橋の入口石垣、石階段は人が多く次々の訪れ全体は撮れず左右の石垣を人を外して撮る、発掘調査整備された神社東門、躑躅ヶ埼館の大手門跡東に三日月堀跡、石塁の復元整備、更に東に土塁、堀の復元整備され史跡公園と成っている、人の居ない辺りを巡り西門虎口周辺の堀、土塁を見るが草木が茂り葉も茂り思うものが撮れない、天守閣台跡を探すが入れなかったか見つからなかったか確認していない。西門から西側の橋を渡って駐車場へ。

 帰路は来た道を戻り、朝霧高原道の駅で休憩、富士山が大きく見えますが靄っとしてハッキリした富士山写真に成りません、でも雄大に両側の稜線が分かり気持ち的にはままいいか❣
 日帰りのいい旅でした。
 いい写真が少なく、甲府城と躑躅ヶ埼館を纏めて甲府城で投稿させて頂きます。

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イオ

消化不良感… (2022/04/09 訪問)

鎌倉初期に佐々木定綱の六男・佐保時綱が佐和山の麓に館を構えたのが始まりとされ、江南の六角氏と江北の京極氏(後に浅井氏)の境目の城として争奪戦が繰り返されました。戦国後期には小谷城の支城として磯野員昌が城主となっていましたが、浅井氏が朝倉氏と結んで織田信長から離反したことにより丹羽長秀らの攻撃を受け、8か月間に及ぶ籠城戦の末に開城。その後、本能寺の変までは丹羽長秀が、清須会議後は堀秀政が城主となり、羽柴秀次が近江入りすると八幡山城の支城として宿老の堀尾吉晴が入城し、堀尾吉晴が浜松城に移ると豊臣直轄領として石田三成が城代を務めましたが、秀次切腹事件を機に城主となって大規模な改修を行いました。関ケ原の戦いで西軍が敗れた後、東軍の攻撃を受けて落城。佐和山城は井伊直政に与えられますが、井伊直継が彦根城に居城を移したことにより廃城となりました。

佐和山の頂部を中心に多数の曲輪群を配した山城で、東麓には東山道や北国街道が、西麓には松原内湖に面した港があり、陸上と湖上の両交通を押さえる要衝にあたります。「佐和山を制するものは近江を制する」と言われるとおり、信長が丹羽長秀を、秀吉が石田三成を、家康が井伊直政を城主としたことからもこの地の重要性が窺えますね。

西麓の無料駐車場に車を駐め、龍潭寺を抜けて登城開始。ハイキングコースを10分ほど登ると佐和山城北端の堀切(かもう坂通り往還の切通)に着きます。直進すれば東麓に至るはずですが、切通の看板には「私有地につき決められたルートをお通りください」とあり、右への矢印が示されているため本丸方向に進むしかなさそうです。また「個人的な調査はご遠慮下さい」ともあり、ルートを外れて探索するなってことでしょうか。

指示通りに進むと、南北三段の西の丸に至ります。下段曲輪の北辺と西辺には土塁がめぐり、北西部には用途不明の大きな土坑があります。東部には説明板が建てられ、東下の水の手まで竪土塁が続いているようですが、藪化していてよくわかりませんでした。中段から上段に続くルート沿いには西斜面に落ち込む三条の竪堀があり、そのひとつをたどれば西の丸から北西にのびる支尾根の曲輪群に至る…はずですが、堀底道は2本の倒竹を渡して封鎖されていて、やはり「ルートを外れるな」ということなんでしょうね。

西の丸から約5分で山頂の本丸に到着です。彦根築城の際に破却され部材も運び出されたため、往時の痕跡はほとんど見られませんが、折しも桜が満開で多くの花見客で賑わっていました。また、本丸からはほぼ全周に眺望が開け、西方向には彦根城天守が金亀山の桜の海に浮かんで見えました。本丸から大手方向に下りて行くと南東下にわずかに破却を免れた隅石垣があり、隅石垣の西には千貫井がある…にはあるんですが、倒木により祠も石碑も説明板も倒壊していました…。千貫井から関ケ原後の落城時に城内の女たちが身を投げたと伝わる女郎谷の脇を抜けて、太鼓丸と法華丸に行く…つもりが、太鼓丸に続く尾根道はトラロープで封鎖されていたので、やむなく太鼓丸手前の竪堀を確認して探索終了としました。

「三成に過ぎたるもの」とうたわれた天下の名城ですが、破城により遺構がほとんど見られない分、せめて二の丸や三の丸、太鼓丸に法華丸など隅々まで見て回ろうと思っていただけに、ルートを外れて探索できないのは何とも物足りなく消化不良感が残りました。私有地を見学させてもらえるだけでもありがたいことなのは重々わかってるんですけどね。
 

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小城小次郎

まさかの大汗 (2021/12/31 訪問)

どこかのクイズ番組で「岡崎城のしかみ家康像」を見事に言い当てたのだが現地で像が見つからないというまさかの展開に大慌てしたのは内緒。見つけた時にはほっとするやら脱力するやら。

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にのまる

【城と看板】

この小さな矢印↗がこれまでにどれだけたくさんの人を救ってきたことかと!!

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にのまる

鹿島神宮と。 (2022/03/21 訪問)

18きっぷ2回目1城目。
鹿島神宮駅至近でホームから全容を捉えることのできる鹿島城山公園。散策やお花見も楽しめる公園ですが大きな空堀や堀切があってびっくりでした。園路が整えられているので改変もありそうですが本丸を囲む土塁も明瞭で、見晴らしもよく、北浦湖畔の鹿島神宮一の鳥居まで望めました。
説明板の傍に根本寺と鎌足神社への案内があったので行ってみました。根本寺は聖徳太子の開基と伝わる日本最古の寺のひとつで、鎌足神社は中臣鎌足を祀っており、鹿嶋は鎌足の出生地の伝承地のひとつとのことでした。近くにあった「寸府井跡」(標柱)は「鹿島の七つ井戸」のひとつでこのあたりの人々の貴重な水場だったそうです。
その後二の丸跡と伝わる鹿島高校を通りつつ鹿島神宮へ行きました。湧水の御手洗池が幻想的でした。

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カルビン

【城と看板】 (2014/02/26 訪問)

戦前には行っておきましょう。。。

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ryu

大河ドラマ「真田丸」で盛り上がる上田城(2015年) (2015/03/22 訪問)

菅平高原で春スキー後、小諸城から上田市へ。上田市内に泊まり、2日かけて訪城。街中は翌平成28年の放映が決定した大河ドラマ「真田丸」に向けて幟が立ち、盛り上がっていた。

大手門公園~上田藩主居館跡、屋敷門、土塀、濠、土塁~二の丸堀跡~本丸土塁の隅欠~百間堀の石樋~北虎口~北櫓、東虎口櫓門、南櫓~真田石~真田神社~南櫓、東虎口櫓門、北櫓内部見学~本丸~西櫓~尼ヶ淵~二の丸堀跡~市立博物館の順路で見学。冬期は休業中と聞いていた櫓内部も公開されていた。

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ryu

春スキーと小諸城(2015年) (2015/03/21 訪問)

菅平高原に春スキーに行った後、訪城。
お城近くにある蕎麦屋「草笛」に15時の閉店間際に飛び込み、くるみ蕎麦をいただく。この時間に食べるには小盛りで十分。
この後、城内を見学。
三の門~二の門跡~二の丸跡~中仕切門跡~南丸跡~黒門橋~黒門跡~お駕籠台跡~本丸~懐古神社~鏡石~天守台~富士見台~馬場~武器庫~水の手展望台、水の手不明御門跡~藤村記念館〜徴古館~大手門と見て回る。

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ryu

岩門城と初御代桜(2015年) (2015/03/08 訪問)

那珂川市の城山山頂(195m)に築かれた山城。
博多と大宰府の中間にあたり戦略上の要所にある城で、元寇の際は、岩門城主少弐景資が、鎮西(九州)御家人の総司令官として元軍と戦っている。
城址は麓から登山道が整備され、山頂からは博多湾方面の眺望もよい。
高津神社~茶臼岩~堀切跡~三の曲輪~二の曲輪~堀切跡~主郭~北の曲輪と見て回り、麓の早咲きの初御代桜を見る。

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ryu

御所ヶ谷神籠石(2014年) (2014/12/07 訪問)

御所ヶ岳(ホトギ山)に築かれた日本の古代山城(神籠石系山城)である。

馬ヶ岳城より縦走してホトギ山より下りながら遺構を見学する。第二東門から景行神社にある礎石建物跡を経て中門を見学。中門の石塁は見事である。

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ryu

軍師官兵衛ブームで馬ヶ岳城に登る(2014年) (2014/12/07 訪問)

馬ヶ岳~ホトギ山まで縦走し、馬ヶ岳城と御所ヶ谷神籠石を探訪する。

10世紀、清和源氏の始祖である源経基によって築城と伝えられる。豊前北部の重要拠点として少弐氏や大友氏・秋月氏、中国地方の大内氏や毛利氏といった群雄たちによる激しい争奪戦が繰り広げられた。
秀吉の九州征伐の際には、長野氏が城主で、秀吉は馬ヶ岳城に二泊滞在している。その後、豊前国6郡(宇佐郡の一部除く)12万5000石を与えられた黒田官兵衛が馬ヶ岳城を拠点としたが、やがて中津城を築いて移っている。

この年は大河ドラマ「軍師官兵衛」のブームで登山者も多かった。大谷登山口から遺構(土塁・横堀・畝状竪堀群、二の丸、堀切、本丸)を見学しながら登り、御所ヶ谷神籠石があるホトギ山まで縦走する。

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朝田 辰兵衛

【城と生き物】城ふぉとコンテスト📷 (2021/08/08 訪問)

脚をケガしているようで,ゆっくりこの場所まで歩いてとどまりました。ここを死に場所に選んだのか…?
ずっと遠くを見つめたまま,動きませんでした。

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チェブ

卵形のお城の曲線美。 (2022/04/10 訪問)

「忍城」の成田氏の家臣のお城「山田城」です。
埼玉県比企郡の『武蔵丘陵森林公園』の中にあります。
皆さんの投稿にしたがって、南口から入城しました。
公園の案内パネルを確認して、これは、たくさん歩くぞっと気合いを入れましたが「山田城」は南口から右手に5分位で到着しました。

「山田城」の説明板があり、卵形にちかい長方形とあります。
きれいに土塁が残ってますが、こんもりドーナツのような曲線美(←すいません。ボキャブラリーが貧相で上手く現せません。)
堀や虎口も、やさしい形になってます。

『武蔵丘陵森林公園』の入口に写真⑧⑨がありました。
皆さん、大河ドラマ『鎌倉殿の13人』観てますか?
こちらは比企郡。
そう比企郡の豪族、比企 能員や源 頼朝さんの乳母の比企尼がいらっしゃいました。
頼朝さんが流罪になっても支援した比企家です。
幟には、おにぎりを持った頼朝さん。
、、、比企 能員さんじゃないの?

卵に、おにぎり。
「山田城」のある『武蔵丘陵森林公園』はお弁当を持ってピクニック気分で攻城できます。

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ほりーないと

本曲輪の土塁の秘密「城と生き物の館」 (2022/01/15 訪問)

土塁をよ~く見ると、いくつもの穴
キツネ城主様の巣穴です。
本曲輪の土塁にお住まいになってます。

保全活動をしている地元の方から教えていただきました。土塁が崩れてしまうと話されていました。
先日、キツネ城主様に会えましたが、記念撮影できませんでした。

土塁を崩したのは、キツネ城主様
う〰️ん、仕方がないです。

城ふぉとコンテスト投稿できず
【城と生き物の館】とさせていただきました。

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肉球

20年ぶりの登城 (2022/04/05 訪問)

桜は散り観光客も少なく天守閣内も密なしでした。
前回訪れた時より長門丸石垣付近や代右衛門石垣付近は木々が減り見学しやすくなっていました。
大雨による災害がこのお城にも出てきているようで本丸南角矢倉付近の石垣は補強されていますが
あまり見栄えの良いものではなく今後崩落も含め心配です。
本丸石垣を見学できるように腰曲輪に整備がされると見所が増えると思うのですが。 
城山部分以外は大手門跡を含め市街地と化し見どころが少なく残念ですが
北西に1キロくらいの所に石垣で作られた樺崎砲台が残されています。
この日は樺崎砲台と真反対の愛宕公園からの夕景を撮影しようかと思いましたが
当日は夕焼けがイマイチで残念。もう一度訪れることができるかどうか。

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イオ

鎌の刃 (2022/04/09 訪問)

(続き)

主郭南側の副郭は堀切で南北二つに区画され、南側の曲輪(南-Ⅱ)の南辺には南尾根に立ちふさがるように土塁が築かれています。土塁の上からは眼下の堀切の先に細尾根が続いており、堀切を越えて振り返ってみると、乗り越えてきた土塁の堀切側には石垣が施されていました。南尾根は岩盤むき出しの上に両側は鋭く切り立った断崖になっていて、鎌刃城の名の通り鎌の刃の上を歩いているかのようです。特に西斜面は急峻で、転落したらただでは済まないのはもちろん、カメラやスマホを落としても拾いに行けない(行ったら戻れない)ため、写真を撮るのもストラップを手に通してからでないと心配なほどで、そんな細尾根に岩盤を掘り込んだ堀切が八条も連続する光景はまさに圧巻でした。南尾根南端の堀切(切通)の崖下には水の手の水源となっている青龍の滝があるようですが、ルートがわからないので今回はパスして、鎌の刃の上を副郭まで戻り、今度は西尾根の曲輪群へ。

トラロープにしがみつくように急斜面を降りて行くと、西尾根沿いに階段状の曲輪群が続き、曲輪間には二条の堀切が設けられています。また、ずいぶん浅くなってはいるものの、曲輪群先端部の南斜面には近江の城では珍しい畝状空堀群が見られます。そして、西曲輪群西端の二条の堀切で鎌刃城をひとめぐり。当初は主郭に戻って来た道を帰るつもりでしたが、あの急斜面を登るのは避けたかったので、そのまま西尾根を進んで滝谷林道に合流し、42番ガードから駐車場に戻りました。所要時間約3時間半、堀切に石垣に虎口に鎌の刃に…と大満足の鎌刃城でした。

ところで、城びとの記事にもあるように、鎌刃城の保存整備に取り組んでおられる「番場の歴史を知り明日を考える会」が第1回日本城郭文化振興賞に選ばれたとのことで、登城時には受賞のことは知らなかったんですが、現地では案内表示や説明板、展望台やのぼり旗などあちこちで会の名前を目にし、登城道はよく整備され、険しい箇所にはトラロープが張られ、草木もきれいに刈られて、本当に大切にされている城だなぁ、と感じていましたので、栄えある第1回の受賞にも大いに納得させられました。受賞まことにおめでとうございます。おかげさまで楽しくめぐらせていただきました。
 

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todo94

県内の城めぐり2022⑭ (2022/04/09 訪問)

小谷村の山城を目指して出発しましたが、青木湖近辺の残雪の多さを見て断念。引き返して木崎湖畔の仁科城を攻城いたしました。このあたりには雪は残っていませんでした。仁科神社がその故地でそれなりに土塁や曲輪を視認できますが、湖の対岸からの遠望がなかなか良かったです。この後は、国宝の仁科神明宮へと向かいました。

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トク

北ノ庄城 (2022/02/12 訪問)

北ノ庄城は柴田勝家の居城、お市の方との悲運の城でも有名なので訪れました。今ではビルの谷間にひっそりと柴田公園・柴田神社・資料館があり、そこに城があった事を伝えています。秀吉が小早川隆景宛にあてた手紙には、九重の天守があったかとか・・・(でも絵図ではどう見ても五重🤔?)

勝家や北ノ庄城に関する資料があれば見たかったのですが、資料館は小さく発掘の様子もちょっとしかありませんでした。これだけ歴史的な場所なので、もう少し何とかしてほしいとは思いましたが・・・とても残念です。もうすでに回りにはビルが立ち並んでいるので、どうしようもないのでしょうか?

【余談:勝家とお市の方】
お市の方は、なぜ最後は勝家と共にここで死のうと思ったのか? 以前からずっと不思議に思っていました。幼い頃から嫌いだった無骨な勝家の事を最後は本当に好きになったからなのか? それとも兄信長の後継者になるために自分を道具として勝家に嫁がせたあげく、攻めてきたのが勝家以上に嫌いだった猿(秀吉)だったので、嫌がらせからそうしたのか? ならばなぜ自分の3人の娘(茶々・初・江)を最後は秀吉に託したのか? 私はこの心境がよくわからず今でも気になっています。でも勇猛果敢な勝家も、晩年は平穏な人生をお市の方とここで過ごしたかったのは間違えないようです😊。
 

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退会済み
ユーザー

【究極の1枚】刺客 神5(ファイブ)参上 (2022/04/24 訪問)

熊本城の天守閣に向かう闇がり通路(くらがりつうろ)の写真です。観光客5人の人影が、刀(傘ですけど)を持った忍者やくのいちたちのように見えました! 逃げろ!!

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肉球

見上げただけです (2022/04/05 訪問)

伊予吉田陣屋を訪れた際に吉田図書館前の橋から撮った一枚です。
まだ画像がないようなのでとりあえず。
西園寺氏の出城のようです。

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