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おっちゃん

墳丘復元図 (2017/09/02 訪問)

現地案内板より抜粋。

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おっちゃん

私部城要図 (2017/03/25 訪問)

現地案内板より抜粋。

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おっちゃん

明治18年頃の三津屋城伝承地付近 (2017/07/30 訪問)

現地案内板より抜粋。

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朝田 辰兵衛

朝日山古戦場(新潟県小千谷市) (2022/06/04 訪問)

1868(慶応4)年5月11日14:00,にわかに激しい雨となる。それを機に,長岡藩槍隊,会津および桑名藩兵は榎峠を駆け降り,朝日山へ登りました。麓にいた長州藩奇兵隊を中心とした新政府軍も登攀を開始。ここに「朝日山の戦い」がスタート。朝日山は,標高:341m。
朝日山に先に到着し大砲をあげ,陣地を構築したのは長岡藩勢力。登山も含め,その指導にあたったのは河井継之助。朝日山古戦場には,この時に構築された「フランス兵法による塹壕跡」が遺っています。
新政府軍は麓に陣地を構築。よって,砲弾が降り注ぐ結果に…。
5月13日,苦戦する新政府軍は山頂へ奇襲作戦に出ます。しかし,失敗して多数の死者を出しました。その中には,参謀代理であった長州藩の時山直八も含まれています。なお,参謀は山縣狂介(後の内閣総理大臣,山縣有朋)です。その山縣は「仇守るとりでのかがり影ふけて,夏の身に沁む越の山風」と,苦戦状況を詠みました。
映画では,まさしくこの朝日山でロケが行われました。ロケ車が入れず,麓の浦柄集落の有志が軽トラックを出したというエピソードも残っています。

その後,苦戦する新政府軍は作戦を変更し,信濃川対岸(西側・左岸)から長岡城へ進攻する奇襲に出ました。この作戦は的中。5月19日,長岡城を占拠。
映画では,長岡城の城感が欲しいシーンは,新発田城でロケが行われましたョ!

戦後,明治政府の命により,長岡藩同盟軍(東軍)の遺体は朝日山の各所に放置されました。登る途中,いたるところにあるのは東軍の墓所ばかりです。1953(昭和28)年になり,福生寺の住職が地元の有志とともに放置された遺骨を集め,朝日山の麓の浦柄神社境内に21基の墓碑を建て,手厚く葬りました。新政府軍(西軍)の遺体は近隣寺院に埋葬されていましたが,小千谷市船岡公園の一角(船岡山西軍墓地)に集められ眠っています。

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小城小次郎

主郭に方形館の面影を宿す (2022/01/09 訪問)

赤松氏一族で西播磨守護代も務めた宇野氏の本拠とされ、畝状竪堀と横堀が見どころのお城だが、個人的には方形居館をそのまま山上に持って行ったような主郭の風情に守護代館らしい格式を見出してしまったのだが気のせいか。

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ぴーかる

小泉城(片桐城) (2022/05/08 訪問)

【小泉城】
<駐車場他>小泉神社駐車場
<交通手段>JR大和小泉駅から徒歩

<見所>移築門・池堀
<感想>日帰り列車で奈良盆地1周ちょこ城巡りの旅1城目。小泉城の築城年代は室町時代で築城主の小泉氏は興福寺衆徒であった。小泉氏は長らく筒井氏と反目していたが天文年間に血縁関係となり1万4千石が与えられる。小泉氏は筒井定次の伊賀移封に伴ってこの地を離れたそうです。関ヶ原後は片桐且元の弟片桐貞隆が小泉城に1万5千石で入城し小泉藩を立藩する。大坂の陣後は1万6400石に加増され、片桐氏は江戸時代途中分地等で少し領地を減らすが明治維新まで小泉藩主として続きました。
 JR大和小泉駅から徒歩で富雄川を見て片桐城跡碑と小泉城跡碑のあるポイント→復興櫓・薙刀池・お庭池→小泉神社と移築門の順で巡った。西門見落とした。小泉神社の移築門は細くて高い高麗門です。西側の池堀や城跡碑のある所から少し高くなっている段や移築門など色々巡って楽しめる城跡です。

<満足度>◆◆◇

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びーこ

おもてなしの心 (2022/06/05 訪問)

梅雨の走りということで残念な天気であったが、雨情にはお似合いね、ということで登城を開始すると、いきなり急で長い坂道が現れた。舗装はされているが、これはかなりキツイ。登り口には杖が準備されていたが、借りて来なかったことを後悔・・

坂を上りきると、二ノ丸跡に建てられた資料館がある。館内には甲冑や刀、上総掘りの模型などが展示されていて、なかなか興味深い。掃除が行き届いた館内の床はピカピカで、とても気持ちが良い。ぜひ立ち寄って頂きたい。

二ノ丸跡から更に登っていくと、再建天守閣が現れる。横には実際の天守台が残されている。建物の入り口にはスリッパではなく、様々なサイズのクロックスが準備されていた。これなら安全に登ることができる。掃除が行き届いた資料館や杖の準備などもそうだが、登城者に対するおもてなしの気持ちが伝わってくる。
安全に最上階まで登ると、外側をぐるっと回って展望することができる。眺めは良いが、通路が狭く手摺しかないので、十分ご注意を。

この時期の千葉といえば、やはりビワでしょう!ということで、今回のグルメはビワを使ったパフェ。上品な甘さが美味しい!

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イオ

交通の要衝 (2022/05/21 訪問)

築城者・築城時期など詳細は不明ながら、応仁・文明の乱では東軍の拠点として野田泰忠が入り、戦国末期には波多野氏に仕えた福井貞政が城主となっていましたが、明智光秀の丹波攻めで降伏を拒んで攻撃を受け落城。亀山城築城までの間、光秀の丹波での拠点となりました。

曽我谷川の段丘上に築かれた城で、山陰道と篠山街道が分岐する交通の要衝に位置し、段丘東端の西岸寺が本丸、西岸寺南脇の坂道あたりに大手門、小字「古城」と「古城浦」の間、「古城浦」の西に堀切があったようですが、宅地開発により遺構は消滅しており、西岸寺に石碑と説明板が建てられているくらいです。

なお、西岸寺から西に約600mの長興寺には余部城主・福井貞政の墓所があります。
 

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todo94

県内の城めぐり2022㉖ (2022/05/28 訪問)

既に山城オフシーズンに突入かなと云うことで市街地の城をターゲットとしました。この城の場合、非常に駐車場所には難渋しました。篠ノ井総合病院に用事があればそのついでに攻城出来ますけれども。僅かではありますが土塁が残っています。城址碑と説明板もあります。

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トク

明智光秀「最期の30日」を辿る 【第7回】光秀の最期(小栗栖・醍醐) (2022/05/09 訪問)

(第6回「山崎の戦い」からの続きです)

山崎の戦いから同じ日の天正10年(1582年)6月13日の深夜、光秀は密かに勝龍寺城の北門(勝龍寺城での写真⑩)から脱出し、秀満が待つ坂本城へ向かう事にしました。しかし、途中の「小栗栖(おぐりす)」の竹藪で落ち武者狩りの農民にまさかの竹槍で刺され致命傷を負ってしまいます。そしてそのままもう1km先の「醍醐(だいご)」の地まで進むもそこで力尽き、もはやこれまでと自分の首は知恩院に届けるよう家臣に託して自刃し、その家臣に介錯させ果てたそうです。胴は地元の人々によりそこに埋められ今は胴塚が立っています。その2日後、首を持った家臣は知恩院の手前で捕らえられ、光秀の首は秀吉の元に届けられた後、京の粟田口にさらされたそうです。今でも東山には「首塚」と呼ばれている所があり、さらされた首がその後そこに埋められたとの事です。(「吉田兼見」日記より)😩

今回、まず竹槍で刺された場所とされる小栗栖の竹藪を訪れてみました(写真①②)。地下鉄東西線「石田駅」から、徒歩10分程の少し住宅地の裏手(写真③)に入った所です。竹藪の横にある本経寺には、光秀供養塔もありました(写真④)。

小栗栖の竹藪から、光秀が傷を負いながらここを進んだのではないかと思われる約1kmの道を、私も歩いてみました。光秀は人目につかぬよう小栗栖街道の脇道を通ったようなので、私も車が多く通る表街道は避け、できるだけ脇道や竹藪の中を歩いてみました(写真⑤⑥は私が歩いた途中の場所)。そして醍醐にある胴塚にたどり着きました(写真⑦)。この間、生死をさまよいながらさぞかし苦しかったであろうと私も歩きながらそんな光秀の気持ちを察しました。どんな思いで坂本を目指していたのでしょうか? おそらく、坂本に着けば最も頼りとしている秀満とそのわずかな軍勢がまだ残っている、そこで何とか再起を図ろうと思っていたのでしょう。しかし、それも叶う事はありませんでした。胴塚に着き、ここで明智光秀が亡くなったのかと思うと、思わず感無量になり手を合わせました。

そしてその後、東山にある首がさらされたという粟田口(写真⑧⑨)とその首が埋められたという首塚(写真⑩)も訪れてきました。胴塚・首塚とも地元の方々によってきれいに手入れがなされているのが見てわかったので、今でも人々からは愛されているのだなと感じました。

明智光秀は、信長を討った後いったいどのような世の中を作ろうとしていたのでしょうか? 謀反以外にその道はなかったのでしょうか? 

もし信長の遺体が見つかっていれば光秀の与力衆たちも裏切る事はなかったかもしれません。山崎の戦いでは秀吉軍4万のうち2万は与力衆(池田恒興、中川清秀、高山右近など)の軍勢です。そして、先頭になって戦ったのもその与力衆です。秀吉本隊の軍勢は長距離の大返しの移動で疲れ切っており、ほとんどが後方にいてあまり積極的に前に出ようとはしなかったようです。そうなれば戦力は逆転し、かつ相手は疲れ切っているため勝つ可能性は十分すぎるほどあったのかもしれません。さすれば細川藤孝もきっと動いたに違いありません(筒井順慶も同じ)。もしそうなった時、歴史はどう変わっていったのでしょうか? 有能であった光秀に不運が次々と重なり、謀反人・逆賊の汚名を着せられたまま、あまりにもみじめな最期を迎えてしまった事に、私は言葉も出なくなってしまいました。😩

(第8回(最終回)「西教寺」へ続きます)
 

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にのまる

その1 (2022/05/20 訪問)

3年ぶり4度目の名古屋城。
東門から入城し、1時間ほど城内を見てまわりました。
最初に名勝・二之丸庭園、東庭園へ。お城川柳なごやじょう5部作の5、那古野城跡の説明板と南蛮練塀をチェックしました。
続いて二之丸庭園西側にある埋御門跡へ。いざという時の藩主脱出用の門があったところです。
二之丸広場から東南隅櫓を眺め、清正公石曳きの像をチェックして本丸へ。鉄板貼りの門柱の表二之門をくぐると枡形で、鏡石の埋め込まれた石垣が現れます。石垣だけの一之門跡を見て、空襲で失われたのは天守や本丸御殿だけではないということに今まで思いを致さなかったことを反省しました。
本丸御殿は行列もなくすぐに入れそうでしたがこれまで二度見ているのでパスし、本丸東門へ。枡形内の清正石は焼失した一之門のすぐ脇にあり、鏡石としての存在感が伝わってきます。二之門は旧二之丸東の二之門の移築。解体修理の跡がたくさん見られました。
本丸内に戻り、大天守・小天守・御殿の眺めを堪能。せっかくなので記念撮影してもらって1,200円でお買い上げしました。名古屋嬢です(違います)。
<続く>

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おっちゃん

16世紀後半の原田城北城推定復元図 (2017/07/30 訪問)

現地案内板より抜粋。

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おっちゃん

狭山藩上・下屋敷家中配置略図 (2016/11/23 訪問)

現地案内板より抜粋。

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おっちゃん

久宝寺寺内町案内図 (2016/12/28 訪問)

現地案内板より抜粋。

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刑部

大好きな城址 (2022/05/02 訪問)

本当にここは素晴らしいの一言!私の中でベスト10に入る城です!何がいいか細かい説明は除きます。来たことのある人は納得されると思います、まだの人は絶対訪れてください! 私の訪問1度目は積雪の岡城今回2度目はとても暖かい良い天気の岡城、また機会が有れば行きたいと思います。

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赤い城

烏山神社 (2022/05/28 訪問)

小田急の千歳烏山駅から徒歩で5分くらいで烏山神社に着きます。
ここが推定地の一つ。
遺構はありません。
町の小さな神社です。
推定地はもう一つ。
世田谷文学館付近で高級老人ホームが建つあたりとなります。
当然こちらにも遺構はありません。
北条氏家臣の高橋氏が扇谷上杉氏の深大寺城に対して築いたとされます。
規模的には砦くらいだったと思いますがロマンを感じるのも難しい感じ、もっと心眼を鍛えないと。

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朝田 辰兵衛

榎峠古戦場(新潟県長岡市) (2022/06/04 訪問)

1868(慶応4)年5月2日,小千谷の慈眼寺にて。新政府軍の岩村精一郎に対し河井継之助は嘆願書を差し出し,その趣旨を説こうとしましたが,聞き入れてもらえず…。一説には,慈眼寺の門前で払われたとも。これが「小千谷談判」で,長岡戊辰戦争の引き金です。映画のロケでは,『天地人』でゆかりの雲洞庵(南魚沼市)で撮影されています。

この小千谷談判後,新政府軍は三国街道で2番目の難所である榎峠を制圧(1番目は三国峠です)。さらに朝日山も。当時は,高地や難所を制圧することで,敵方に威圧を与える目的があったといいます。新政府軍は,上田藩兵によってやすやすと制圧しました。
長岡藩的には「新政府軍はさらに攻めてくるだろう」と応戦体制を取っていたようですが,全然攻めてこない…。
軍議の末,5月10日,長岡藩は榎峠の奪還に動きます。信濃川対岸からの砲撃に苦戦したようですが,別働隊が側面と背後から包囲して攻め,榎峠の奪還に成功します。これが「榎峠の戦い」です。
映画では,オオクラ見晴台(小千谷市)にてロケが行われました。

榎峠古戦場パークは,榎峠の麓に造営されています。石碑には長岡藩主牧野家の家紋(三ツ柏)も彫られており,長岡藩のプライドが感じられます。長岡城からは南側へ約16㎞。数100m先は小千谷市。2004年の新潟県中越地震で車が埋もれ,その車の中から奇跡的に子どもが助かった現場の近くです。

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織田晃司

文春砲に (2022/06/04 訪問)

出てきそうな城名です。
浮気城は「うわき」ではなく「ふけ」と読みます。
どちらの読み方も良いイメージではありませんが…

土塁と空堀が残る。
城跡に住吉神社が建つ。

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零汰

思いのほか広い (2022/05/28 訪問)

「島津義弘を大河に」そんな幟を横目に「維新ものに鹿児島は必ず出るのに欲張りだな」そういえば飯盛山城にも「三好〇〇を大河に」ってあったな。「島津か~、三好か~」そんな事を考えながら改めて100城の選定基準を考えてみる。良く考え抜かれた選定だと妙に納得。あの選定なら多くの人々が城に馴染みやすく身近に感じる。

終活2から帰ってきて中3日、体中が痛いのだが物足りなさにソワソワしていた。その日は起きると晴れていたので思い付きでこんな時に取っておいた加久藤城に車で行ってきた。とてもバイクでは出掛ける気にはならなかった。当然下調べは無しで出かけた。

諸先輩方の投稿がある事なので今回は補足も兼ねて、写真の無い範囲を中心に投稿します。案内写真は先輩方の写真をご覧ください。

車を大手門裏に停めて本丸・二の丸を過ぎ新城と呼ばれる曲輪に向かった。二の丸から一旦降りるとそこは堀切道だった。二の丸と新城の境には目隠しを兼ねたような削り残しの櫓台?土塁?がありお互いの場所を直接見ることはできない。堀切道を上がると土塁の残る曲輪がある。が、困った事にそに先に土橋を施して曲輪らしき場所がある。渡ってみて眺めてみたがやっぱり曲輪のように思える。現地で撮ったスマホで案内図を見返すがやはり載っていない。その時は後年の開墾と言い聞かせて搦手・西側の物見郭方向へ向かった。

搦手周辺は見つかったが桝形・物見郭の入り口が見当たらない、物見郭は迂回して土塁上を歩いて確認できた。不明な理由は伐採整備の際に曲輪端部に寄せていて目に付きにくいからだった。同じく南側の物見郭の土橋を伐採樹木で隠れていた。そこを渡ると物見郭に行き着き削り残しの土塁が端部にある。水源地が2か所あるとの事だったがどうにも見つける気にはならなかった。

滞在時間1時間15分:1.7km:累計高低差151m

復習
城郭放浪記さんのサイトで自分の写真と見比べた、そこには新城より先の土橋が載っている。どうやら新城と思っていた場所は中城でその先が新城と呼ばれる曲輪らしい。案内図の枠外が新城のようだ。宮崎県の調査報告書を見てみるとたしかに曲輪が2つに分断されている。なるほど、やはり山城奥が深い。

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まぁちゃん

久しぶりに訪問 (2022/06/02 訪問)

6/2と6/4に久しぶりに訪問。6/2は平日の15時過ぎなのですいていてゆっくりできました。6/2には、内堀をめぐる船で変わったアングルで写真が取れました。

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