織田信長の命で一色氏を滅ぼした功により丹後国を与えられた細川藤孝が築いた城で、本能寺の変の後、藤孝が出家して田辺城に移ったことにより細川忠興の居城となりました。関ケ原の戦いの後は京極高知氏が入り、京極高広が近世城郭として完成させ、京極氏が改易されると譜代大名が再三入れ替わって、本庄松平氏が七代続き明治を迎えました。
大手川東岸に位置し、本丸、二の丸、三の丸からなる平城(海城)で、市街化により地表面に遺構はほとんど見られませんが、発掘調査では石垣や礎石建物などが確認されています。
大手川ふれあい広場の駐車場に車を駐めて登城開始。広場から見ると、外堀代わりの大手川沿いに復元された石垣と土塀が続いており、なかなか風情があります。広場には、カトリック宮津教会を背景に、細川忠興と共に宮津城で暮らしていた細川玉(後のガラシャ)の像が建てられており、柳縄手の武家屋敷の長屋門(大村邸跡)が遺っています。時季的に葉桜でしたが、細川藤孝にちなんだ「宮津の幽斎桜」も植えられていました。
中橋を渡って宮津小学校へ。小学校の敷地はかつての藩校の跡地にあたり、宮津城の太鼓門が正門として移築されています。大手川沿いの東岸には白壁の土塀が続き、「しらかべのみち」として整備されています。駅前通りを東に進むと南側に一色稲荷社があり、一色義清自刃之処の石碑が建てられていました。細川忠興に謀殺された一色氏の怨念を恐れる思いが、城内に社を存続させたと考えられるんだとか。宮津武田病院北西隅の国道沿いには、宮津城の説明板と本丸くろがね門の袖石垣、大手橋の橋脚礎石、波止場の船つなぎ石が設置されています。国道を東に進むとたもの木が立っています。二の丸の北東隅に位置する樹齢300年超の古木で、国道整備や下水道整備の際にも、関係者の尽力により歩道や水路を迂回させて存続し、往時の姿を今に伝えています。
周辺では、宮津城から西南西に約11kmの後野愛宕神社には、本丸御殿の玄関が拝殿として移築されています。200段を超える石段を登った先に、古びてはいるものの立派な唐破風と京極氏の平四 つ目結紋を備えた拝殿が建っていました。また、宮津城から南南西に約3.5kmの盛林寺には、細川玉のもとに届けられた明智光秀の首級を葬ったと伝わる光秀の首塚があり、その隣には一色氏累代の供養塔も建てられていました(近年に建て替えられたのか新しい感じでしたが)。
宮津城の次は細川幽斎の隠居城、田辺城に行くつもりでしたが、瑞林寺に大きく寄り道したり、味土野への往復が思いのほか大変だったりで時間がなくなり、この日はここまでにしました。
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