「ふるさと公園」を目指す。
駐車場手前に堀切らしきもの、公園の先端を少々と下ったところに木戸跡らしきものを見学。
天気に恵まれ富士山を見ながら、甲斐武田氏の原点、信玄が信濃攻略の起点としたところ、そして家康が甲斐、信濃を見据えたところと思いをはせた。
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2022/06/03 10:47
狼煙台もなくただの公園に (2022/05/30 訪問)
「ふるさと公園」を目指す。
駐車場手前に堀切らしきもの、公園の先端を少々と下ったところに木戸跡らしきものを見学。
天気に恵まれ富士山を見ながら、甲斐武田氏の原点、信玄が信濃攻略の起点としたところ、そして家康が甲斐、信濃を見据えたところと思いをはせた。
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2022/06/03 08:08
城下町と麒麟がくる紀行(亀岡編) (2022/05/21 訪問)
(続き)
惣構めぐりと併せて自転車で城下町をめぐり、その後は車で亀山城周辺の明智光秀ゆかりの地をめぐってみました。
南郷公園
外堀(南郷池)の畔に整備された公園で、入口に一対の亀山城鯱瓦と明智光秀公像、明智光秀公築城亀山城阯の石碑、説明板が建てられています。説明板には、亀山城の南側が内堀、外堀、惣堀の三重の堀で守られているのに対して、北側(搦手)が外堀のみになっているのは、保津川をせき止めれば北側の水田を堀代わりにできるから、とありましたが、現在も保津川と亀山城の間には広大な水田が広がっており、JRの跨線橋から眺めると、なるほどなぁと納得させられました。
水車跡
三の丸東端の雷門跡(説明板あり)の近くには外堀から惣堀への落水を利用した水車(と小屋)があったようで、水車跡の説明板が建てられています。説明板があるだけなんだろうと思いきや往時の石垣もしっかり遺っており、予想外に見応えがありました。
亀岡市文化資料館
通常は有料ですが、訪問時はロビー展「明智光秀」開催中(6月5日まで)のため無料でした。ロビーには亀山城の天守模型と城下町模型が展示され、中でも亀岡高校の生徒が製作したという城下町模型は素晴らしい出来で、城下町をひとめぐりした後だったため、「あの辺りはこんな感じだったんだなぁ」としばらく見入ってしまいました。
明智戻り岩
摂丹街道の法貴峠にある屏風岩と呼ばれる大岩には光秀にちなんだ二つの伝承があります。①丹波攻めの際、この大岩に行く手を阻まれて(又はこの先に敵はいないと報告を受けて)引き返した。②本能寺の変の際、羽柴秀吉の援軍として摂津に向かうと見せかけて、この地で引き返して本能寺に向かった。②は戻り岩の名から派生した後世の創作っぽいので、仮にどちらかが事実だとするなら①でしょうか。
谷性寺
光秀寺とも呼ばれる光秀ゆかりの寺で、光秀が崇敬したという不動明王を本尊とし、境内には光秀の首塚があり、光秀の木像も安置されています。なお、門前での「ききょうの里」開園中(今年は6月25日から7月24日まで)は谷性寺のみの拝観はできず入園料600円が必要ですが、どうせならききょうの見ごろに訪れるのもいいかもしれませんね。
愛宕神社(元愛宕)
京都市ではなく亀岡市にある愛宕神社で、この地から京都の愛宕山頂に遷座したと伝わることから元愛宕とも呼ばれています。一説には本能寺の変の前に光秀が参詣したのは京都でなく、こちらの愛宕神社だったとも云われるようですが…。トクさんと同じく、京都の愛宕神社にも行ってみたいものですが、ほぼ一日がかりになりそうなので、今回はすぐ近くまで車で行けるこちらに。
その他、あちこちにある亀山城の移築建物も見に行ってみたんですが、見落としやめぐり切れなかった箇所もあるので、またの機会に。
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2022/06/02 22:43
石垣を見落としたのだ・・ (2022/01/02 訪問)
黒田官兵衛築城説も根強いものの木下勝俊が実質的な築城者で、池田輝澄(輝政の子)が完成させたお城なのだそう。市街地に埋もれたお城の中ではお城の面影を残している方だと思うが、石垣を見落としてしまったのは痛恨の極み。
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2022/06/02 22:39
城址公園だが遺構も良好 (2022/05/21 訪問)
東武アーバンパークラインの増尾駅から徒歩で20分くらい。
芝浦工大柏高校の向かいに城址公園入口があります。
左手を登ると主郭、土塁が囲んでいます。
主郭と二郭の間に虎口があり、二郭は広さもあります。
説明板は二郭の土塁前に立っていました。
土塁の外側には空堀が廻り、堀底道は遊歩道となっています。
二郭南側には櫓台があり、ここが大手口とのことです。
千葉氏一族の相馬氏が築き、戦国時代には高城氏家臣の平川氏が居城としました。
コンパクトながらも遺構が良く残り、整備された行きやすい城です。
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2022/06/02 22:36
2022/06/02 22:25
迷路の先には…… (2022/06/02 訪問)
カーナビに名前で出てこないので、画面上の三神社で設定しました。驚くぐらいの細い道をクネクネとホントにここか?と思いながら進んだ先に、立派な城跡がありました。近所の方々は、毎日石垣を眺め、太鼓橋を渡っているのを羨ましく思いながら帰路につきました。くしくも本能寺の変の日に、高松城水攻め関連のお城に行けて、よかったです。庭瀬城にも寄りましたよ。
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2022/06/02 22:16
ギョーザ、かぶと揚げ、吊り天井 (2022/05/04 訪問)
どうやら事件らしい。「餃子の町」として散々PRしてきた宇都宮は昨年、一世帯あたりの購入額が全国3位にまで後退したとのこと(1位宮崎、2位浜松。総務省家計調査)。某テレビ番組はさっそく、ギョーザ以外の地元ソウルフードとして「かぶと揚げ」(鳥の半身揚げ)を推し始めていた。
が、ちょっと待て。私の中では宇都宮といえばギョーザ以前から「吊り天井」、、。うん、賛同ないね。
驚天動地の大事件が起きたのは1622年。幕府最高幹部のひとり、本多正純(父は徳川家康の参謀・本多正信)が宇都宮城内に吊り天井を仕掛けて、2代将軍・秀忠殺害を目論んだという疑惑が浮上したのだ。「罪」に問われた正純はその後、改易されてしまう。
そもそも城に吊り天井などなかったというのが今日の結論。疑惑は権力闘争の果ての陰謀で、ねつ造と考えられている。しかしながら、当時はかなり巷の話題をさらったようで、口談や歌舞伎の演目として頻繁に取り上げられた。ただしここでは将軍は秀忠ではなく3代家光だとされ、単純に正純の悪事として処理されることが多い。
父同様、家康の懐刀と目された正純。それほどの人物に付け入る隙なんて本当にあったのだろうか、というのが素朴な疑問。ひとつ推測するとすれば、それは大規模な城の改修と関係しているのではなかろうか。
15万石超で宇都宮入りした正純は城域を拡張。水堀を巡らし、土塁を高く積んで近世城郭化した。本丸に天守はなく、御殿のほかは空白地が多い。おそらく将軍の日光社参に不可欠な設備を整えるためのもので、吏僚派トップとしてはしごく当然な働きだったように思える。ところが、もともと秀忠周辺との折り合いが悪いところにこの大改修が加わり、「宇都宮に不審あり」との疑惑に発展した可能性は考えられないだろうか。
さて、そんな正純を偲びながら縄張りを綿密にトレースしたいところだが、全くの平城だったためか、城跡はかなり市街地化が進んでいる。こうなるともう絵図片手に歩き倒すしかない。もし挫けそうになったら、ひとまず本丸に戻るのもよい。2007年に復元された土塁や土塀、二基の櫓(清明台と富士見櫓)を眺めていれば、おのずと体力も想像力も回復するだろう。
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2022/06/02 20:59
2022/06/02 20:52
龍野古城 (2022/06/02 訪問)
龍野城から上がっていくルートもありますが、紅葉谷ルートで行ってみました。紅葉谷から徒歩にて上がっていくと途中、鳥ヶ撓番所跡や侍屋敷の蹲いなどを見ることができます。道は舗装されて歩きやすい道です。鶏籠山と的場山方面と分岐する場所があり、鶏籠山(龍野古城)へ行く道を選択すると主郭等には上がっていきますが、主に下って城址を散策することができます。曲輪や石垣、土塁、竪堀などを見ることができます。よく整備されていて歩きやすく、この日も落ち葉を風で飛ばす機器(すいません 名前を知りません)で落ち葉を除去して道を確保されている方がいました。藪もなく、この時期でも遺構を確認することができます。縄張り図を見ると少し離れたところに竪堀があるようですが、よくわかりませんでした。
下まで降りて行くと龍野城となります。
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2022/06/02 20:28
古代山城基肄城探訪と丸幸ラーメン (2022/05/28 訪問)
JR基山駅から10分ちょっと歩いて続100名城スタンプが置いてある基山町民会館着。ここでスタンプを押して、さらに登山口の水門跡まではダラダラ登りのロード歩きで30分くらい。
水門跡を見学し、階段状に整備された急な登山道を山頂まで登る。山頂から戦国時代の山城に付随する4本の連続する堀切「いものがんぎ」~北峰~東北門跡~つつみ跡~米倉礎石群と基肄城の遺構を見ながら時計回りに周回し、水門跡に戻る。
帰りは、丸幸ラーメンセンターに立ち寄ってラーメンを食べ、JRけやき台駅まで歩く。
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2022/06/02 20:27
2022/06/02 18:32
終活2:100城・続100、城郭巡りの記録:近畿・東海・四国 6日目
城郭巡りの人間は、100城・続100城を巡る事は義務なのか?そんな疑問を求めて巡る終活シリーズ2。
この日は朝から曇天、今にも振り出しそうだった。本来はパールラインを走りたかったが致し方無い、本日も終日城郭巡り。北畠氏館の裏側に霧山城があるとは知らなかった、時間を短縮出来たので100城・続100城の縛りを中断して登城。自分の好みの城郭だった、登城してよかった。
5月21日(6日目)
1.津城(三重)・・・・・・・計測無し
2.松坂城(三重)・・・・・・45分:1.5km
3.田丸城(三重)・・・・・・1時間:1.6km:累計高低差112m
4.北畠氏館・霧山城(三重)・2時間10分:3.1km:累計高低差327m
5.赤木城(三重)・・・・・・40分:0.7km:累計高低差73m
6.新宮城(和歌山)・・・・・30分:0.8km:累計高低差66m
霧山城以外は100城・続100城です。詳細は諸先輩方のレポートをご覧ください。
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2022/06/02 17:26
2022/06/02 10:28
明智光秀「最期の30日」を辿る 【第5回】勝龍寺城 (2022/05/08 訪問)
(第4回「本能寺」からの続きです)
天正10年(1582年)6月2日、本能寺で信長を討った光秀は、同日いったん坂本城に入り瀬田唐橋の修理を待つ2日間に近江を平定、そして5日に安土城に入ります。7日には朝廷よりの勅使(吉田兼見)を迎え京の治安維持を要請されます。9日には京に入り朝廷と面会(返礼として銀500枚を渡す)。しかし翌10日には秀吉が毛利と和睦してこちらに向かって来ている(中国大返し)すでに尼崎付近まで到達しているとういう報が受け、その予想外の早さに戸惑いますが、山崎の地で秀吉を迎え討つ事に決めた光秀は6月12日に京を立ち勝龍寺城へ入りました。
勝龍寺城は、以前は細川藤孝が城主の時に信長の命で軍事的に改修された城で、藤孝の嫡男「忠興」と光秀の三女「玉(珠)」(後のガラシャ)が婚礼を上げた場所としても有名です。そして二人は丹後宮津へ移るまでの2年の間、仲良くここで新婚生活を送りました😊。城内には二人の銅像も立っていました(写真⑤⑥)。細川の旗(藤色に九曜紋)と明智の旗(青に桔梗紋)を背景に無数の鉄砲狭間が並ぶ光景は、何か身が引き締まるような緊張感を誘う城ですね(写真③④)。
信長の遺体が見つかっていない事を逆手にとり、大坂で織田信孝と合流した秀吉は「まだ信長様は生きておられる」とデマを流し「信孝様とともに謀反者光秀を討つべし」と味方を募ります。これを信じた光秀与力の諸将(高山右近、中川清秀、池田恒興、(筒井順慶))が寝返り秀吉につくという誤算が起きてしまいます(順慶は動かず籠城)。また、北陸の柴田勝家のもしもの南下に備え、明智秀満の軍勢を安土に残さざるを得ないなどの状況も重なります。さらに最大の誤算は、最も頼りとしていた細川藤孝が剃髪して幽斎と名乗って仏門に入ってしまい、忠興とともに丹後から一歩も動かなかった事です(玉は幽閉される)。もう秀吉軍はすぐそこまで迫ってきています。光秀はこれらの報告をこの勝龍寺城で聞き、圧倒的な兵力差となってしまった事を悟り、もはや最期の戦になるかもしれぬ覚悟を決めざるを得なくなってしまいました。
私は勝龍寺城の天主があった場所に上がり、秀吉がやってくる天王山の方向を、眺めてみました(写真⑦)。 光秀はどんな思いでここにあった天主に立ち、同じようにここから天王山を眺め、明日には始まるであろう秀吉との戦(いくさ)に、どのようにして臨む決意を抱いていたのでしょうか?
(第6回「山崎の戦い」へ続きます)
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2022/06/02 08:17
惣構めぐり (2022/05/21 訪問)
(続き)
城内を出て南に進み、外堀に設けられていた古世門跡(説明板あり)で東に折れると、かつての外堀沿いに古世親水公園が設けられ、外堀の痕跡を今に伝えています。さらに東に進んで亀山城惣構東端の京口へ。昌寿院(古世城跡)の裏手で年谷川から西に惣堀(の名残の水路)が分岐しているので、惣堀跡をたどってみました。
分岐からしばらくは住宅地が続きますが、坂部公園の奥に惣構の御土居がありベンチが設けられています。御土居の奥は惣堀です。坂部公園の西の聖隣寺には亀山城主・羽柴秀勝(織田信長の四男)が建てた信長の供養塔があるようですが、通常は非公開です。聖隣寺の西側から裏手に回ると惣堀に架かる小さな橋があり、橋の南詰に惣堀の説明板が建てられています。
聖隣寺の西の宗堅寺から嶺樹院にかけての墓地の奥に惣構の御土居が大規模に遺っています。高さも厚みもかなりのもので、おそらく往時の姿に一番近いんじゃないでしょうか。嶺樹院の御土居と惣堀は、西側に回ってスーパーマツモト裏手の駐車場からが見やすいと思います。また、スーパーマツモト西側の駐車場の奥にもブロック塀越しに御土居が見られます。
京町天満宮の児童公園の奥にも御土居が遺っています。正誓寺付近の惣堀に架かる小さな橋にも惣堀の説明板が建てられています。正誓寺西隣の宗福寺の裏手にはL字に折れのある御土居がある…はずですが、正誓寺方向から眺めただけで折れの箇所は見られませんでした
(グーグルマップの航空写真ではL字状の御土居がはっきりとわかります)。
下矢田交差点のあたりで惣堀は北に折れ、住宅地を抜けて穴太口からさらに北に続いています。穴太口の内側では秋葉神社の裏手に惣構の御土居が遺っていました。
…と、この辺で惣構をほぼひとめぐり。惣堀は埋められて名残の水路がある程度ですが、御土居はあちこちにしっかりと遺っていて、なかなか見応えがありました(続く)。
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2022/06/02 07:21
大胡城想像図 (2017/02/18 訪問)
現地案内板より抜粋。
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2022/06/02 07:19
大垣城絵図・大垣城本丸城郭図 (2014/03/29 訪問)
現地案内板より抜粋。
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2022/06/02 07:16
太尾山城跡概要図 (2017/12/29 訪問)
現地案内板より抜粋。
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2022/06/01 23:57
2022/06/01 23:05
山口城址通り (2022/05/04 訪問)
西武狭山線・下山口駅近くの衣料品店サンキ横に土塁が保存・展示されていました。交差点の一隅、線路や道路、建物が迫るなかで踏ん張る小さな土塁、健気です。
城の推定範囲はかなり広かったようで、山口小へ向かう上り坂は柳瀬川を背にした平山城の記憶を留めているようです。説明板の写真や図がたいへん頼りになりました。
サンキの斜向かいのマクドナルドも城域で、店舗建設時の発掘調査で堀跡や井戸跡の遺構確認、また遺物の発見があったそうです。入口に説明板がありました。
近くにある山口民俗資料館は開館日がひと月のうち4日間で、この日は開いておらず見学は叶いませんでした。
最後の写真、大きなコインランドリーの看板の下にすっぽり収まっている説明板と城址碑もまた、健気です。
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