鎌倉中期に土肥氏を城主とする史料がありますが、応仁の乱の頃には国人領主・堀氏の居城となっており、江北と江南の境目の城らしく六角氏、京極氏、浅井氏、織田氏と渡り歩くも、織田信長に追放されたことで廃城となったようです。
東山道の間道を眼下に見下ろす鈴鹿山脈の支尾根に築かれた城で、頂部の主郭から北と西にのびる尾根に曲輪群を設け、主郭よりも高所へと続く南の細尾根は連続堀切で断ち切っています。
番場宿にある無料駐車場に車を駐め、源右衛門で続100名城スタンプを押して、名神高速の彦根43番ガードをくぐって大手口から登城開始。鎌刃城は熊とヤマビル注意の山城なので、肌の露出は顔だけにして首筋はマフラータオルでカバーし、ところどころにある熊よけベルを鳴らしながら、登ること20分あまりで北端の大堀切に到着。大堀切は幅も深さもかなりのもので、大堀切を含む四条の堀切で北尾根を断ち切っています。大堀切から西側に回り込むと、北曲輪群の西斜面には大石垣と呼ばれる石垣が一面に広がっています。大石垣から斜面を登ったところには水の手が復元整備され、南端の堀切の崖下にある青龍の滝から水を引き込んでいるようです。水の手の反対側(東側)には石段と石垣造りの枡形虎口が開口し、発掘調査で礎石が確認されていることから四脚門による大手門があったと考えられます。大堀切を見下ろす北曲輪群北端の曲輪(北-Ⅵ)は周囲を土塁がめぐり、半地下の大櫓が大手口からの侵攻に備えて建てられていたと思われます。現在は大櫓の代わりに丸太組みの簡易な物見櫓が建てられていて、おっかなびっくり登ってみると伊吹山(京極氏城館)から小谷城までを一望することができました。少し南の北-Ⅳ-2曲輪にも物見やぐらがあり(こちらは大櫓跡のものよりしっかりした作り)、佐和山城など西方向の眺望が開けています。
階段状に続く北曲輪群を抜けて主郭へ。主郭の北部には北-Ⅴ曲輪以上の規模の石段と石垣を備えた枡形虎口が開口し、門の礎石も確認されています。かつては主郭の周囲は石垣で固められていたようで、西辺はほとんど崩落していますが、東辺は状態良く遺っています。さらに主郭の南辺には石塁がめぐり、織豊期以前の山城でありながら総石垣の一歩手前とも言うべき見事な石の城ぶりです。
続いては石塁を越えて南の副郭、そして南尾根と西曲輪群に向かいます(続く)。
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