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イオ

交通の要衝 (2022/05/21 訪問)

築城者・築城時期など詳細は不明ながら、応仁・文明の乱では東軍の拠点として野田泰忠が入り、戦国末期には波多野氏に仕えた福井貞政が城主となっていましたが、明智光秀の丹波攻めで降伏を拒んで攻撃を受け落城。亀山城築城までの間、光秀の丹波での拠点となりました。

曽我谷川の段丘上に築かれた城で、山陰道と篠山街道が分岐する交通の要衝に位置し、段丘東端の西岸寺が本丸、西岸寺南脇の坂道あたりに大手門、小字「古城」と「古城浦」の間、「古城浦」の西に堀切があったようですが、宅地開発により遺構は消滅しており、西岸寺に石碑と説明板が建てられているくらいです。

なお、西岸寺から西に約600mの長興寺には余部城主・福井貞政の墓所があります。
 

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todo94

県内の城めぐり2022㉖ (2022/05/28 訪問)

既に山城オフシーズンに突入かなと云うことで市街地の城をターゲットとしました。この城の場合、非常に駐車場所には難渋しました。篠ノ井総合病院に用事があればそのついでに攻城出来ますけれども。僅かではありますが土塁が残っています。城址碑と説明板もあります。

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トク

明智光秀「最期の30日」を辿る 【第7回】光秀の最期(小栗栖・醍醐) (2022/05/09 訪問)

(第6回「山崎の戦い」からの続きです)

山崎の戦いから同じ日の天正10年(1582年)6月13日の深夜、光秀は密かに勝龍寺城の北門(勝龍寺城での写真⑩)から脱出し、秀満が待つ坂本城へ向かう事にしました。しかし、途中の「小栗栖(おぐりす)」の竹藪で落ち武者狩りの農民にまさかの竹槍で刺され致命傷を負ってしまいます。そしてそのままもう1km先の「醍醐(だいご)」の地まで進むもそこで力尽き、もはやこれまでと自分の首は知恩院に届けるよう家臣に託して自刃し、その家臣に介錯させ果てたそうです。胴は地元の人々によりそこに埋められ今は胴塚が立っています。その2日後、首を持った家臣は知恩院の手前で捕らえられ、光秀の首は秀吉の元に届けられた後、京の粟田口にさらされたそうです。今でも東山には「首塚」と呼ばれている所があり、さらされた首がその後そこに埋められたとの事です。(「吉田兼見」日記より)😩

今回、まず竹槍で刺された場所とされる小栗栖の竹藪を訪れてみました(写真①②)。地下鉄東西線「石田駅」から、徒歩10分程の少し住宅地の裏手(写真③)に入った所です。竹藪の横にある本経寺には、光秀供養塔もありました(写真④)。

小栗栖の竹藪から、光秀が傷を負いながらここを進んだのではないかと思われる約1kmの道を、私も歩いてみました。光秀は人目につかぬよう小栗栖街道の脇道を通ったようなので、私も車が多く通る表街道は避け、できるだけ脇道や竹藪の中を歩いてみました(写真⑤⑥は私が歩いた途中の場所)。そして醍醐にある胴塚にたどり着きました(写真⑦)。この間、生死をさまよいながらさぞかし苦しかったであろうと私も歩きながらそんな光秀の気持ちを察しました。どんな思いで坂本を目指していたのでしょうか? おそらく、坂本に着けば最も頼りとしている秀満とそのわずかな軍勢がまだ残っている、そこで何とか再起を図ろうと思っていたのでしょう。しかし、それも叶う事はありませんでした。胴塚に着き、ここで明智光秀が亡くなったのかと思うと、思わず感無量になり手を合わせました。

そしてその後、東山にある首がさらされたという粟田口(写真⑧⑨)とその首が埋められたという首塚(写真⑩)も訪れてきました。胴塚・首塚とも地元の方々によってきれいに手入れがなされているのが見てわかったので、今でも人々からは愛されているのだなと感じました。

明智光秀は、信長を討った後いったいどのような世の中を作ろうとしていたのでしょうか? 謀反以外にその道はなかったのでしょうか? 

もし信長の遺体が見つかっていれば光秀の与力衆たちも裏切る事はなかったかもしれません。山崎の戦いでは秀吉軍4万のうち2万は与力衆(池田恒興、中川清秀、高山右近など)の軍勢です。そして、先頭になって戦ったのもその与力衆です。秀吉本隊の軍勢は長距離の大返しの移動で疲れ切っており、ほとんどが後方にいてあまり積極的に前に出ようとはしなかったようです。そうなれば戦力は逆転し、かつ相手は疲れ切っているため勝つ可能性は十分すぎるほどあったのかもしれません。さすれば細川藤孝もきっと動いたに違いありません(筒井順慶も同じ)。もしそうなった時、歴史はどう変わっていったのでしょうか? 有能であった光秀に不運が次々と重なり、謀反人・逆賊の汚名を着せられたまま、あまりにもみじめな最期を迎えてしまった事に、私は言葉も出なくなってしまいました。😩

(第8回(最終回)「西教寺」へ続きます)
 

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にのまる

その1 (2022/05/20 訪問)

3年ぶり4度目の名古屋城。
東門から入城し、1時間ほど城内を見てまわりました。
最初に名勝・二之丸庭園、東庭園へ。お城川柳なごやじょう5部作の5、那古野城跡の説明板と南蛮練塀をチェックしました。
続いて二之丸庭園西側にある埋御門跡へ。いざという時の藩主脱出用の門があったところです。
二之丸広場から東南隅櫓を眺め、清正公石曳きの像をチェックして本丸へ。鉄板貼りの門柱の表二之門をくぐると枡形で、鏡石の埋め込まれた石垣が現れます。石垣だけの一之門跡を見て、空襲で失われたのは天守や本丸御殿だけではないということに今まで思いを致さなかったことを反省しました。
本丸御殿は行列もなくすぐに入れそうでしたがこれまで二度見ているのでパスし、本丸東門へ。枡形内の清正石は焼失した一之門のすぐ脇にあり、鏡石としての存在感が伝わってきます。二之門は旧二之丸東の二之門の移築。解体修理の跡がたくさん見られました。
本丸内に戻り、大天守・小天守・御殿の眺めを堪能。せっかくなので記念撮影してもらって1,200円でお買い上げしました。名古屋嬢です(違います)。
<続く>

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おっちゃん

16世紀後半の原田城北城推定復元図 (2017/07/30 訪問)

現地案内板より抜粋。

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おっちゃん

狭山藩上・下屋敷家中配置略図 (2016/11/23 訪問)

現地案内板より抜粋。

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おっちゃん

久宝寺寺内町案内図 (2016/12/28 訪問)

現地案内板より抜粋。

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刑部

大好きな城址 (2022/05/02 訪問)

本当にここは素晴らしいの一言!私の中でベスト10に入る城です!何がいいか細かい説明は除きます。来たことのある人は納得されると思います、まだの人は絶対訪れてください! 私の訪問1度目は積雪の岡城今回2度目はとても暖かい良い天気の岡城、また機会が有れば行きたいと思います。

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赤い城

烏山神社 (2022/05/28 訪問)

小田急の千歳烏山駅から徒歩で5分くらいで烏山神社に着きます。
ここが推定地の一つ。
遺構はありません。
町の小さな神社です。
推定地はもう一つ。
世田谷文学館付近で高級老人ホームが建つあたりとなります。
当然こちらにも遺構はありません。
北条氏家臣の高橋氏が扇谷上杉氏の深大寺城に対して築いたとされます。
規模的には砦くらいだったと思いますがロマンを感じるのも難しい感じ、もっと心眼を鍛えないと。

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朝田 辰兵衛

榎峠古戦場(新潟県長岡市) (2022/06/04 訪問)

1868(慶応4)年5月2日,小千谷の慈眼寺にて。新政府軍の岩村精一郎に対し河井継之助は嘆願書を差し出し,その趣旨を説こうとしましたが,聞き入れてもらえず…。一説には,慈眼寺の門前で払われたとも。これが「小千谷談判」で,長岡戊辰戦争の引き金です。映画のロケでは,『天地人』でゆかりの雲洞庵(南魚沼市)で撮影されています。

この小千谷談判後,新政府軍は三国街道で2番目の難所である榎峠を制圧(1番目は三国峠です)。さらに朝日山も。当時は,高地や難所を制圧することで,敵方に威圧を与える目的があったといいます。新政府軍は,上田藩兵によってやすやすと制圧しました。
長岡藩的には「新政府軍はさらに攻めてくるだろう」と応戦体制を取っていたようですが,全然攻めてこない…。
軍議の末,5月10日,長岡藩は榎峠の奪還に動きます。信濃川対岸からの砲撃に苦戦したようですが,別働隊が側面と背後から包囲して攻め,榎峠の奪還に成功します。これが「榎峠の戦い」です。
映画では,オオクラ見晴台(小千谷市)にてロケが行われました。

榎峠古戦場パークは,榎峠の麓に造営されています。石碑には長岡藩主牧野家の家紋(三ツ柏)も彫られており,長岡藩のプライドが感じられます。長岡城からは南側へ約16㎞。数100m先は小千谷市。2004年の新潟県中越地震で車が埋もれ,その車の中から奇跡的に子どもが助かった現場の近くです。

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織田晃司

文春砲に (2022/06/04 訪問)

出てきそうな城名です。
浮気城は「うわき」ではなく「ふけ」と読みます。
どちらの読み方も良いイメージではありませんが…

土塁と空堀が残る。
城跡に住吉神社が建つ。

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零汰

思いのほか広い (2022/05/28 訪問)

「島津義弘を大河に」そんな幟を横目に「維新ものに鹿児島は必ず出るのに欲張りだな」そういえば飯盛山城にも「三好〇〇を大河に」ってあったな。「島津か~、三好か~」そんな事を考えながら改めて100城の選定基準を考えてみる。良く考え抜かれた選定だと妙に納得。あの選定なら多くの人々が城に馴染みやすく身近に感じる。

終活2から帰ってきて中3日、体中が痛いのだが物足りなさにソワソワしていた。その日は起きると晴れていたので思い付きでこんな時に取っておいた加久藤城に車で行ってきた。とてもバイクでは出掛ける気にはならなかった。当然下調べは無しで出かけた。

諸先輩方の投稿がある事なので今回は補足も兼ねて、写真の無い範囲を中心に投稿します。案内写真は先輩方の写真をご覧ください。

車を大手門裏に停めて本丸・二の丸を過ぎ新城と呼ばれる曲輪に向かった。二の丸から一旦降りるとそこは堀切道だった。二の丸と新城の境には目隠しを兼ねたような削り残しの櫓台?土塁?がありお互いの場所を直接見ることはできない。堀切道を上がると土塁の残る曲輪がある。が、困った事にそに先に土橋を施して曲輪らしき場所がある。渡ってみて眺めてみたがやっぱり曲輪のように思える。現地で撮ったスマホで案内図を見返すがやはり載っていない。その時は後年の開墾と言い聞かせて搦手・西側の物見郭方向へ向かった。

搦手周辺は見つかったが桝形・物見郭の入り口が見当たらない、物見郭は迂回して土塁上を歩いて確認できた。不明な理由は伐採整備の際に曲輪端部に寄せていて目に付きにくいからだった。同じく南側の物見郭の土橋を伐採樹木で隠れていた。そこを渡ると物見郭に行き着き削り残しの土塁が端部にある。水源地が2か所あるとの事だったがどうにも見つける気にはならなかった。

滞在時間1時間15分:1.7km:累計高低差151m

復習
城郭放浪記さんのサイトで自分の写真と見比べた、そこには新城より先の土橋が載っている。どうやら新城と思っていた場所は中城でその先が新城と呼ばれる曲輪らしい。案内図の枠外が新城のようだ。宮崎県の調査報告書を見てみるとたしかに曲輪が2つに分断されている。なるほど、やはり山城奥が深い。

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まぁちゃん

久しぶりに訪問 (2022/06/02 訪問)

6/2と6/4に久しぶりに訪問。6/2は平日の15時過ぎなのですいていてゆっくりできました。6/2には、内堀をめぐる船で変わったアングルで写真が取れました。

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城好きのメガネ

「石神井城」 (2020/04/06 訪問)

<オススメ>★★★☆☆
石神井城は秩父平氏の一族であった豊島氏の居城とされる。戦国時代には、長尾景春の乱の際に当時の城主・豊島泰経は長尾景春側に与したため太田道灌に攻められる。奮戦するも落城、廃城となる。豊島泰経は白馬に跨り、三宝寺池に深く沈み、長女・照姫も入水した伝説がある。現在、土塁等が遺されている。

<アクセス>
西武鉄道池袋線 石神井公園駅 徒歩20分

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城好きのメガネ

「愛宕山砦」 (2020/04/06 訪問)

<オススメ>★☆☆☆☆
愛宕山砦は、太田道灌が石神井城に籠城する豊島氏を攻める際に築いた陣城とされる。現在、遺構は消滅している。

<アクセス>
西武鉄道新宿線 上石神井駅 徒歩10分

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カズサン

【陸奥・大窪城】宮城県大郷町 本丸の高切岸が見所 (2022/05/28 訪問)

 大衡城を終えて東方向へ直線で約10km程の所に大窪城が在る。
 住所:宮城県黒川郡大郷町大松沢真坂26 県道16号線から集落に入った直ぐに「大窪城跡入口」の石碑がある。

 大衡城を終えた後の城廻りを古城盛衰記さんで調べたところ近くに大窪城がBランクで評価されて居ましたので、古城盛衰記さん余湖図コレクションさんの情報の元、初探訪しました。

 車は、古城盛衰記さん案内で県道16号線から集落に入った直ぐの三角コーナーがPと成って居ましたが駐車するに狭く草深く、路肩に停めて駐車出来そうなところを探し眺めて居ましたが、地元の方に大窪城に来た旨を話し相談した処、車で登れる事と駐車場も有りUターン出来ると、急坂で歩くと大変だよと言われ、離合厳しき道を車で登城する。昇り降りローのギヤーでゆっくり走行、コンクリートと砂利道、砂利がタイヤに入り滑りやすく緊張の走行、車が来たらアウトでした。

 車を大窪城近くの配水所に駐車エリア数台は可能に駐める。
 駐車エリアから南に行くと堀切空堀、土橋が有り二の丸に入る左手土塁に八坂神社が祀って有る、東向きに本丸周囲を草深い高切岸の城塁が素晴らしい見所、西に下がって三の丸、二の丸三の丸は草が刈って有りました、本丸には新しくコンクリート製の登城階段スロープ、を登り本丸虎口に入るが草が深く腰まで在る、虎口で全体を眺めて降りる、本丸北側の帯曲輪は草が刈って有り進み探訪、北東に通用門跡と石柱、本丸通用門側東側も草が刈って有り踏査、本丸登城口に縄張図、大窪城跡解説石碑が設置されてる。
 草が刈って有る所まで探訪、保存会の方々に感謝です、タイミングが良かったら本丸も踏査出来たのですが残念です。

 案内板には、明応4年(1495年)伊達尚宗(政宗の4代前)の領地と成り宮沢時実はじめ伊達一族大松沢氏の居城と成る、幕末維新では最後の領主大松沢衛実は伊達藩士300人を率いて戊辰戦争会津の戦い、各地の戦いに功を立てた、戊辰戦争後剃髪して菩提寺眞観寺の住職と成り、戊辰戦争で亡くなった方々の冥福を祈り、僧侶として大往生された。(縄張図解説石碑一部抜粋)

 

 

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イオ

古世城(京都府亀岡市三宅町) (2022/05/21 訪問)

※ 後に惣構の一部に組み込まれているため、亀山城で投稿します。

古世城(城びと未登録)は、築城時期は不明ながら楠木正時の子孫が代々居住していたことから楠屋敷とも呼ばれます。明智光秀の丹波攻めにより焼失し、亀山城の築城により惣構の南東端に組み込まれました。

二の郭址には楠木氏ゆかりの昌寿院が建ち、山門に設けられた昌寿院の説明板に古世城の記述があるくらいで、明瞭な遺構は見られませんが、昌寿院は東側より一段高い立地になっているあたりに城の痕跡が感じられます。

亀山城の惣構としては、昌寿院から東に徒歩1分行くと江戸中期に設けられた京口番所跡(の説明板)があり、京口の東側を流れる年谷川はかつて両岸に松並木が続いていて千本松と呼ばれていたんだとか。一説には亀山城の築城時に年谷川を防衛線として明智光秀が植えたとも云われているようです。
 

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とっくん

特別公開の多聞櫓を見てきました。 (2022/06/05 訪問)

・朝から雨が降っていましたが、特別公開の多聞櫓を見てきました。ガイドさんに詳しく説明をしていただきました。
・赤坂駅から天守台経由で30分以上かかります。
・御城印とスタンプは、福岡城むかし探訪館にあります。

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朝田 辰兵衛

長岡市河井継之助記念館(新潟県長岡市) (2022/06/04 訪問)

長岡市長町1丁目,墓所からは約600m南西にあります。もともと邸宅があった場所です。入館料【200円】ですが,無料でガイドをしていただけます。館内の撮影エリアは限定されていますのでご注意を。
私は長岡市内在住の方2組と一緒にガイドしていただきました。けっこう長く会話が膨らみ,予定していた時間を軽くオーバーしてしまいました。時間に余裕をもって来館されると宜しいかと思います。

この後は,古戦場跡をレポートします。

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ぎりょう

陸奥国守護伊達稙宗の山城に登る (2022/06/05 訪問)

自身が所属する古文書を読む会の移動研修会で桑折西山城を訪問した。4月に研修予定地の事前調査で訪問した日は雨だったが今日は天気に恵まれ、参加会員35名と桑折町のボランテイアガイドさん4名の同行で登城でき、陸奥国守護伊達稙宗が築いた戦国大名伊達氏本拠地の山城を楽しむことができた。
今日は桑折町教育委員会作成の「国指定史跡桑折西山城散策map」モデルコース【本丸往復コース】(約1時間)。大手口登城口⇒大手門跡⇒本丸⇒大手口登城口のコース。登城口近くの「大かや園」に併設されている桑折西山城跡ガイダンス施設を見学後、約20分をかけて本丸に。
比高約80mの本丸からは福島盆地や東北新幹線、東北本線・国道4号線、桑折の街並みが一望できる。古くから奥州街道と羽州街道の分岐点で、交通の要衝であったこの地に本拠地を移した稙宗の考えがよく理解できた。
城は本丸・二ノ丸と中館・西館で構成されており、発掘調査による出土品からいずれも稙宗築城時から存在していたことが判っている。
しかし中館・西館は戦国末期に改修されていることも判っているのだが、政宗(17代・仙台藩祖)によるものか、蒲生氏や上杉氏によるものかは確認できていないと云う。
次回こそは堀切・桝形状虎口など戦国末期の遺構が残る中館・西館を時間をかけて巡りたいと思う。城址は時節柄か草が伸びていたが、ガイドさんのお話では、翌週から草刈りを実施予定とのこと。

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