鎌倉初期に佐々木定綱の六男・佐保時綱が佐和山の麓に館を構えたのが始まりとされ、江南の六角氏と江北の京極氏(後に浅井氏)の境目の城として争奪戦が繰り返されました。戦国後期には小谷城の支城として磯野員昌が城主となっていましたが、浅井氏が朝倉氏と結んで織田信長から離反したことにより丹羽長秀らの攻撃を受け、8か月間に及ぶ籠城戦の末に開城。その後、本能寺の変までは丹羽長秀が、清須会議後は堀秀政が城主となり、羽柴秀次が近江入りすると八幡山城の支城として宿老の堀尾吉晴が入城し、堀尾吉晴が浜松城に移ると豊臣直轄領として石田三成が城代を務めましたが、秀次切腹事件を機に城主となって大規模な改修を行いました。関ケ原の戦いで西軍が敗れた後、東軍の攻撃を受けて落城。佐和山城は井伊直政に与えられますが、井伊直継が彦根城に居城を移したことにより廃城となりました。
佐和山の頂部を中心に多数の曲輪群を配した山城で、東麓には東山道や北国街道が、西麓には松原内湖に面した港があり、陸上と湖上の両交通を押さえる要衝にあたります。「佐和山を制するものは近江を制する」と言われるとおり、信長が丹羽長秀を、秀吉が石田三成を、家康が井伊直政を城主としたことからもこの地の重要性が窺えますね。
西麓の無料駐車場に車を駐め、龍潭寺を抜けて登城開始。ハイキングコースを10分ほど登ると佐和山城北端の堀切(かもう坂通り往還の切通)に着きます。直進すれば東麓に至るはずですが、切通の看板には「私有地につき決められたルートをお通りください」とあり、右への矢印が示されているため本丸方向に進むしかなさそうです。また「個人的な調査はご遠慮下さい」ともあり、ルートを外れて探索するなってことでしょうか。
指示通りに進むと、南北三段の西の丸に至ります。下段曲輪の北辺と西辺には土塁がめぐり、北西部には用途不明の大きな土坑があります。東部には説明板が建てられ、東下の水の手まで竪土塁が続いているようですが、藪化していてよくわかりませんでした。中段から上段に続くルート沿いには西斜面に落ち込む三条の竪堀があり、そのひとつをたどれば西の丸から北西にのびる支尾根の曲輪群に至る…はずですが、堀底道は2本の倒竹を渡して封鎖されていて、やはり「ルートを外れるな」ということなんでしょうね。
西の丸から約5分で山頂の本丸に到着です。彦根築城の際に破却され部材も運び出されたため、往時の痕跡はほとんど見られませんが、折しも桜が満開で多くの花見客で賑わっていました。また、本丸からはほぼ全周に眺望が開け、西方向には彦根城天守が金亀山の桜の海に浮かんで見えました。本丸から大手方向に下りて行くと南東下にわずかに破却を免れた隅石垣があり、隅石垣の西には千貫井がある…にはあるんですが、倒木により祠も石碑も説明板も倒壊していました…。千貫井から関ケ原後の落城時に城内の女たちが身を投げたと伝わる女郎谷の脇を抜けて、太鼓丸と法華丸に行く…つもりが、太鼓丸に続く尾根道はトラロープで封鎖されていたので、やむなく太鼓丸手前の竪堀を確認して探索終了としました。
「三成に過ぎたるもの」とうたわれた天下の名城ですが、破城により遺構がほとんど見られない分、せめて二の丸や三の丸、太鼓丸に法華丸など隅々まで見て回ろうと思っていただけに、ルートを外れて探索できないのは何とも物足りなく消化不良感が残りました。私有地を見学させてもらえるだけでもありがたいことなのは重々わかってるんですけどね。
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