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イオ

総石垣一歩手前 (2022/04/09 訪問)

鎌倉中期に土肥氏を城主とする史料がありますが、応仁の乱の頃には国人領主・堀氏の居城となっており、江北と江南の境目の城らしく六角氏、京極氏、浅井氏、織田氏と渡り歩くも、織田信長に追放されたことで廃城となったようです。

東山道の間道を眼下に見下ろす鈴鹿山脈の支尾根に築かれた城で、頂部の主郭から北と西にのびる尾根に曲輪群を設け、主郭よりも高所へと続く南の細尾根は連続堀切で断ち切っています。

番場宿にある無料駐車場に車を駐め、源右衛門で続100名城スタンプを押して、名神高速の彦根43番ガードをくぐって大手口から登城開始。鎌刃城は熊とヤマビル注意の山城なので、肌の露出は顔だけにして首筋はマフラータオルでカバーし、ところどころにある熊よけベルを鳴らしながら、登ること20分あまりで北端の大堀切に到着。大堀切は幅も深さもかなりのもので、大堀切を含む四条の堀切で北尾根を断ち切っています。大堀切から西側に回り込むと、北曲輪群の西斜面には大石垣と呼ばれる石垣が一面に広がっています。大石垣から斜面を登ったところには水の手が復元整備され、南端の堀切の崖下にある青龍の滝から水を引き込んでいるようです。水の手の反対側(東側)には石段と石垣造りの枡形虎口が開口し、発掘調査で礎石が確認されていることから四脚門による大手門があったと考えられます。大堀切を見下ろす北曲輪群北端の曲輪(北-Ⅵ)は周囲を土塁がめぐり、半地下の大櫓が大手口からの侵攻に備えて建てられていたと思われます。現在は大櫓の代わりに丸太組みの簡易な物見櫓が建てられていて、おっかなびっくり登ってみると伊吹山(京極氏城館)から小谷城までを一望することができました。少し南の北-Ⅳ-2曲輪にも物見やぐらがあり(こちらは大櫓跡のものよりしっかりした作り)、佐和山城など西方向の眺望が開けています。

階段状に続く北曲輪群を抜けて主郭へ。主郭の北部には北-Ⅴ曲輪以上の規模の石段と石垣を備えた枡形虎口が開口し、門の礎石も確認されています。かつては主郭の周囲は石垣で固められていたようで、西辺はほとんど崩落していますが、東辺は状態良く遺っています。さらに主郭の南辺には石塁がめぐり、織豊期以前の山城でありながら総石垣の一歩手前とも言うべき見事な石の城ぶりです。

続いては石塁を越えて南の副郭、そして南尾根と西曲輪群に向かいます(続く)。
 

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トク

(雪が解けてしまった)丸岡城 (2022/02/12 訪問)

雪の丸岡城を見たかったのですが、この日は朝から気温がぐんぐん上がり、丸岡城に着く昼までには昨日まであった雪が一気に解けてしまいました(😩~)。石瓦が雪に耐えている姿を見たかったのですが・・・残念です。(でも3日後には大雪が降って再び真っ白になったそうなのでなおさらショック!😱~)。

丸岡城は、戦国時代の面影を残す唯一の現存天守なので大変貴重です。柴田勝家が北ノ庄を一向一揆から守る要として甥の柴田勝豊に建てさせた城で、急な階段や狭間など戦(いくさ)の備えは見る者も緊張させます。しかし400年以上が経ち、だいぶ老朽化している箇所が多数あったので気になりました。重い石瓦も載っているので、もし地震がきたら大丈夫か? と心配になりました(昭和23年にも一度地震で倒壊したらしいですが・・)。 熊本城の宇土櫓に大きさや形が何となく似ているので、なおさらそう思ったのかもしれません(宇土櫓は今でも半壊中)。1日でも長く現存保存される事を祈ります。


【余談:日本一短い手紙と本多成重】
丸岡城には「日本一短い手紙の館」があります。家康の家臣「本多作左衛門(重次)」が長篠の陣中から妻に宛てた手紙で、「一筆啓上 火の用心 お仙泣かすな 馬肥やせ」 はあまりにも有名です。でも長篠での話がなぜ丸岡に🤔? と思ったら、このお仙こと「仙千代」は出世して丸岡藩の初代藩主になったとの事です(知りませんでした)。
成人した仙千代は「本多成重」と名乗り、福井藩2代藩主「松平忠直」の付家老として入ります。しかし忠直は大坂の陣後、参勤交代への拒否や家臣などへの乱行をとがめられ豊後へ配流。その後成重は4万石を与えられ丸岡藩を立藩し、譜代大名の仲間入りをしました。
泣き虫のお仙が大名にまで出世し「鬼作左」もさぞかし喜んで泣いた事でしょう(鬼の目にも涙かな?😊)。

【丸岡城へのアクセス】
福井駅前から京福バス「丸岡城」行で60分(お城の中が終点です)。
 

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にのまる

木橋完成 (2022/04/10 訪問)

本丸と蔵屋敷を結ぶ木橋が完成し3月29日から通行可能になったとの情報を得て、18きっぷ最終日に駆け込んできました。
マスク越しにも新しい木の香りが感じられる出来たてまっさらの橋は長さ29メートル、高さ6メートル。詳細な史料がないため復元ではなく散策を楽しむ園路として高崎城の絵図を参考にして架橋されたそうですが、橋の真ん中に立って大堀切を見下ろす快感はどこででも味わえるものではなく、三の丸との行き来もしやすくなっていいことづくめでした。
御前曲輪との間から堀に降り、下からの眺めも楽しみました。郭馬出西虎口門とともに箕輪城の定番写真となりそうな良き姿です。
この秋に周辺工事が再開されるため木橋を渡れるのは10月末までだそうです。以前見た完成予想図には土塀が描かれていた記憶があります。どのように変わっていくのか、またときどき見に行こうと思います。

箕輪城でいちばん好きなのは三の丸の石垣です。時が止まったままのような雰囲気がよいのです。暫し想像の世界に浸ったあと、鍛冶曲輪、大手虎韜門、白川口埋門を見て大堀切口から登って再び城内に戻り、大手尾根筋経由で大手尾根口へ向かいました。現地の案内図に載っているのに過去3回の訪問時に行っていなかった井伊氏時代の大手門を確認するためです。道路沿いに標柱と説明板があり、説明板には門の前には丸戸張という郭馬出が備えられていたとありました。郭馬出とは箕輪城特有の呼び方なのかもしれませんが、大きな馬出という意味のようです。標柱の奥は人家のようでしたので行きませんでしたが、位置を確認できてすっきりしました。

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朝田 辰兵衛

【城と看板】城ふぉとコンテスト📷 (2020/11/15 訪問)

読み出したら止まらない…。

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にのまる

【城と標柱】

慰霊碑に桜が映り込んできれいでした。

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にのまる

畠山重忠公園

馬を背負って下りてみせ……末代までの語り草になった銅像がこちらです。

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赤い城

小俣城 栃木県足利市 (2022/04/10 訪問)

県道218号線沿い、叶花集会所に登山者用の駐車場があります。
駐車場からカタクリ群生地方面に向かい、獣よけの柵から入ります。
カタクリ群生地に登城路が付いているので進んでいくと途中からかなり急な坂道となり、トラロープも設置されています。
ようやく尾根に辿り着くと城山方面に。
尾根道を進んでいく感じです。
尾根上には3つ堀切が施されていました。
主郭虎口は枡形となり、石積みも残っていました。
山頂の主郭には小さな祠、見晴らしもよかったです。
南側にも尾根が伸びていた感じですがゴルフ場造成により消失しています。
かなり急峻で小規模な城ですがハイキングコースとなっていて歩きやすい感じでした。

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小城小次郎

真壁氏のお城なのだ (2021/12/05 訪問)

真壁城の最終形は浅野氏だとばかり思っていたが発掘成果ではそれが証明できないらしい。在地勢力の範疇に入る真壁氏がこれだけ壮大で技巧に富んだ縄張を構築できるということをまずは素直に受け止め、驚きたいと思う。

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キンヤ

かつては繁栄していた美濃守護土岐氏の居城 (2022/04/17 訪問)

美濃守護土岐氏の第3代 土岐頼康が1353年に築き、第11代 土岐頼芸までの居城となり、当時は都文化が広まり繁栄していたようです。

遺構は消滅して残っていません。
済美高校の一角に石碑があります。
その少し南西には、土岐氏の菩提寺でもあった市史跡の正法寺跡があります。
その更に南に川手城の推定地があり、どうも石碑がある場所は城跡から外れているようです。
推定地の北側には水路があり、その水路を境に高低差があって推定地側が高くなっている事が分かりました。

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おっちゃん

根本城跡の縄張り図 (2018/10/29 訪問)

現地案内板より抜粋。

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おっちゃん

今城案内板 (2018/10/29 訪問)

現地案内板より抜粋。

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おっちゃん

高島公園案内図 (2015/06/18 訪問)

現地案内板より抜粋。

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おっちゃん

高田城案内板、高田城図間尺、高田城復元鳥観図 (2016/12/04 訪問)

現地案内板より抜粋。

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おっちゃん

高山陣屋順路案内図 (2020/08/22 訪問)

現地案内板より抜粋。

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おっちゃん

高崎城復元図、高崎城址周辺案内図 (2015/09/04 訪問)

現地案内板より抜粋。

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じゅんじん

平日の田口藩陣屋 (2022/04/05 訪問)

小学校なのでおとなしくちょっとだけ敷地をお邪魔しました。火曜だったので案内所もお休みでした。台所櫓って以前は入れたよね。
何度か来てますが桝形は初でした。

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ほりーないと

【城と標柱】 (2022/04/10 訪問)

畑の中(Ⅱ郭)にある「船山城 本丸趾」標柱

史料がほとんど存在しないため、確かなことはわからないそうです。山城と丘城の二つの構造を持ち、大きく二時期にわたって築城されたと考えられています。

標柱があるⅡ郭は、第二期の本丸だと考えられています。

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じゅんじん

土塁 (2022/04/02 訪問)

土塁がはげ山に(;'∀')
崩落が心配です。

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ヒロケン

陣城でしょ (2022/04/05 訪問)

松尾山城は、築城年代は定かではありませんが、応永年間に富島氏によって築かれたとされています。戦国期に入ってからは、織田氏との関係が悪化した浅井氏が、樋口氏に命じ松尾山を占拠させ砦を築きましたが、樋口氏は織田方の竹中半兵衛の調略により、織田氏に降り織田氏家臣の不破氏が守備したとされています。
関ヶ原の合戦で、廃城となっていた、松尾山城を石田三成公の要請を受けて伊藤氏が修築し布陣しましたが、小早川秀秋公によって追い払われ、小早川勢が松尾山に陣を布陣したのは周知のとおりです。

松尾山城は、松尾山の山頂にあり関ヶ原を一望でき、関ヶ原の合戦の折、若干19歳の小早川秀秋公が布陣した城として有名ですが、「所詮、急ごしらえの陣城でしょ」とあまり乗り気ではありませんでしたが、登城してびっくり(@_@)単純な陣城ではなく、しっかりと曲輪・土塁・堀切・竪堀などが残り、本格的な山城だといえます(*^▽^*)
なだらかな、登山道を40分程登れば、山頂に辿り着きます。山麓に駐車場も有り、そして何とトイレも山頂に完備されています。何より、関ヶ原が一望でき、関ヶ原の合戦の陣形図があり、西軍の優位性がはっきりと分かります。西軍は鶴翼の陣形で、東軍は車懸の陣形。この西軍の優位性を徳川家康公が分からないはずはなく、やはり、合戦の前から小早川公は調略されていたものと思われます。(想像です)

ただ、登城して思ったのですが、確かに良い山城ですが、小早川勢1万5千の兵が駐屯できるほどの規模ではなく、小早川公の側近1千程が山頂で待機し、残りの兵は山麓、山腹に配置されていたと思われます(想像です)煮え切らない小早川公の陣に家康公は鉄砲を撃ちたてたとありますが、絶対火縄銃では小早川公の陣まで届きません。

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じゅんじん

18年ぶり (2022/04/02 訪問)

写真を見比べると
・看板が更新されてる
・トイレが設置されてる
でした。
知立神社は変わらず良い雰囲気です。

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